☆聖書箇所 ピリピ4:15〜20
15ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、ものをやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。 16テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。 17私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。 18私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって神が喜んで受けてくださるささげ物です。 19また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。 20私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
☆説教 ピリピ(20)やりとりされる贈り物とは?
ずっとピリピの手紙を学んで来ました。私はいつもこの時期、終戦に合わせて平和や戦争に絡めて話をしますが、今日はごめんなさい。 ピリピの手紙をやり通して、今日で最後にしたいと思います。 来週、その戦争のことで考えさせられたことがありますので、お話をしたいと思います。 (※予定では来週は戸塚伝道師の説教ですので、25日のことでしょうか?) 前回4章の12節で、パウロはこう言いました。
12私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
そう言っておきながら、最後に14節で――
14それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。
とまとめています。 つまり、パウロは自分が習得した秘訣だけで、信仰生涯を乗り越えて来たのではないです。
やっぱり何と言っても、励ましてくれる、慰めてくれる信仰の友がいて、ここまで来れたわけですね。 いま牢獄に入っているパウロでありますけれども、そのパウロを贈り物をもって励ましてくれたということは、 この14節の最後、「それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました」――ああ、励ましや慰めを分け合ってくれただけではない。苦難をも分け合ってくれて、私の耐えている苦難の重さの何分の一かをピリピの教会の人々が荷ってくれた、という実感を持っているわけです。
パウロはいつも厳しい宣教の旅、妨害、迫害、牢獄の体験(を味わってきました)。 試練の中にあって、そして逆に順調に祝されている中にあっても、彼はへこたれず、おごらず、共にいてくださる神、また試練と共に脱出の道を備えてくださる神を信じてここまでやって来た。 それがあるからこそ、秘訣があるという風に言うんですけれども、 しかし彼は何と言っても――繰り返しますが――「慰めの共同体」・ピリピの教会に助けられて、兄弟姉妹の祈りに支えられてここまで来ることができました。
それが実質的に、15節から「贈り物」という風になってきます。 15節もう一回読んでいきます。
15ピリピの人たち。あなたがたも知っている通り、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。 16テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。 17私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。
という風に、今日の聖書の箇所を一緒に見ていただきたいと思います。
1)贈り物によって結ばれているパウロとピリピの教会です。
15節の頭に「ピリピの人たち」とありますよね。 「私がマケドニアを出たとき、物をやり取りして私の働きに関わってくれる教会はあなたがただけでした」と。 すると、ピリピの教会はささげる教会だったということがわかります。 そしてパウロを積極的に支援する教会でありました。 16節に、「テサロニケにいた時には、一度ならず二度までも物を送ってくれた」。
物のやり取り、贈り物を送る教会。
皆さん、覚えていらっしゃいます? 10年ぐらい前に、私たちはインマヌエルの宣教ビデオを見ました。 そしてインマヌエルが宣教師を送っている場所、台湾,香港、フィリピン、ザンビア、ケニアと、あの年のビデオはそういう風に繋がれていたのですが、 そして最後に私(藤本牧師)は皆さんにお尋ねしました。 「この宣教地の中で、私たちが一つの宣教地を重荷に持ちたいと思います。どこにしますか?」と言った時に、Nさんが手を挙げられて、 「やっぱり一番貧しそうなのはザンビアだったね」(笑)ということを仰いました。 それが乾燥地帯で、緑もなく、そして割とみすぼらしい宣教師館が建てられていました。 私たちは最後に決めました。一番日本の食糧が手に入らない宣教地に、一番日本から離れた所に日本食を送ろう、と。 それがザンビアだったんですね。
そしてアピールしたことは、皆さん日本食を一人一つ持って来てください。 一人一個、そして重くないもの、味噌は辞めてくださいと、味噌は乾燥ものにしてくださいと。 で、その日の午後の献金は、これらの物資の送料に使いますと。
皆さんが持って来てくださったものは、金額的には安いけれども、いかにも日本的なものばかりでありました。 中型ぐらいの少し大きめの段ボール二つ、私(藤本牧師)と家内が郵便局に持って行きました。 で、言われた送料が4万5千円(笑)。ねぇ。 私と家内は、「えっ?箱の中身は7千円行ってないと思うよ」と。 「これで?」と言って、船便はいくらかと聞いたんです。 「船便だったらどれくらいかかりますか?」と聞いたら、やっぱり4万円かかると。 ザンビアは港に着いていない。ザンビアには所謂航空便でも、EMSはありません。 そうすると、正規の航空便の料金で行きますのでと言われて……
ところが、皆さん、あの日の午後、皆さんが捧げてくださった献金額が4万円を超えていたんですよ。 ですから、それにほんの少し教会からのお金を足して、見事に送ることができたんですね。
これって、祈られているだけではない。献金をもって支えられているだけでもない。 実質的に一番ザンビアで手に入らない日本食を送ったことが、富澤宣教師にも根廻(ねまわり)宣教師にも大きな励ましになりました。
一度ならず二度、その後ザンビアのクリスマスのために、私たちは洋服を送りましたよね? で、ザンビアから教会のクリスマスで、古着が配られてる様子が出ていましたでしょう。
そして、ザンビアのあのみすぼらしい宣教師館を建て直して新しくするという時に、高津教会の二名の方々が大きな額を献金をしてくださり、実質的にそのお二人の献金をもって建設が可能になりました。
パウロはこの手紙の中で、「ピリピの人たち」と、こう始めているでしょう。 そうしますと、富澤宣教師や根廻宣教師たちは、「高津教会の人たち」と、こう始めますよね。 そして、「一度ならず二度も物を送ってくださいました」と。
物を送る、贈り物を贈る、というのは、別にそれだけではありません。 先日I君の家族が、姫路教会を訪ねて、竹内神学生と食事をし、竹内神学生に会ってくださいました。 高津教会から行った応援の第一便だったわけですよね。
皆さん、姫路は悪いところじゃないですよ。 ご飯も美味しいし、白鷺城(しらさぎじょう)があるし。 どうぞ、どしどし姫路にいらっしゃって(笑)、もしかしたら若い方々は、姫路教会に泊めてもらえるかもしれませんし。
彼は高津教会でず〜っと育ちましたので、洗礼を受けてから。で、姫路に行く時に、 「僕は、もう二度と高津に戻って来れないのかもしれない。 だったら盛大な見送りのパーティーの一つでもしてくれないのか?」と。 で、実際しなかったわけですよね(大笑)。 で、彼は物凄くがっかりしたんですね。私(藤本牧師)は言いました。 「神学校の実習で行く人に、盛大なパーティーはしません。 もしかしたら、来年、関東に戻って来るかも知れないでしょう? 別に高津教会と縁が切れたわけではない。 これからずっと私たちは竹内さんのためにサポートするから、 あえてそんなお別れパーティーみたいなことはしませんよ」。 彼にとっては、パウロが受け取ったような贈り物を、伊豫部さんのところからもらったわけですよね。
戸塚先生は、小松教会の福田先生ご家族を訪ねて、教会で奉仕をしてくださいました。 その費用は、高津教会の夏の皆さんの献金から賄われました。 先生がいらっしゃったということに関して、小松教会は何も出してません。 私たちが、先生を小松教会のために送ったんですね。
その福田先生ご家族は、以前釧路教会におられました。 その時北海道を旅行されたNさんの訪問を受けています。 いいですか、こういうものはみんな贈り物ですよ。
それだけではないですね。 車で教会にいらっしゃる時に誰かをそのついでに迎えに行く、あるいは送りに行く、それも贈り物です。
先日ある方が教会で入院されました。 私は玄関におりましたら、封書を手渡されて、手術を受ける前にその方のところに届けてくださいと。 あ、教会名簿、まだ作ってないなあと。あの元旦の時にお約束した教会名簿、まだ作ってないんですよ。ああいうことも贈り物ですね。 その方は、手術を受ける前に、ベッドの上でその手紙を読んで何度励まされたか。
「私たちがマケドニアにいたときも、テサロニケでも」(ピリピ4:15〜16)とあるように、 どこにあっても覚えてもらっている、訪ねてくれる、というその確信がパウロを支え、また私たちを支える。 パウロとピリピの教会の繋がりは、私たちと高津教会の繋がりですね。
2)17節を見てください。ここにとても興味深い表現が出てまいります。
17私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。
「贈り物を贈る」という愛のわざは、霊的な実として、天国の口座に加えられていく。 これ、新改訳聖書の第3版では、 「あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです」と(なっていました)。 訳は変わりました。 ギリシャ語は、2017版のこのまんまなのです。 英語では、fruits added to your account となります。 accountというのは、銀行口座ですね。
「贈り物を贈る時に、あなたがたの天国の銀行口座に霊的な実が加えられていく」 と説明しているこの箇所は、実は神学的にとっても厄介なのです。 ですから「口座」という言葉は今まで使わなかったわけですね。 それは、プロテスタント教会は「恵みのゆえに、信仰によって救われる」と、こう私たちは馴染んでいますよね? それが何だか、天国に一人ひとりの銀行口座があって――ま、イエスさまが仰いましたよね――「天に宝を積む」と。 そのようにして、「地上で一生懸命献金し、奉仕し、あるいは愛のわざを行う時に、いつしか天国の口座が一杯になって救われる」という、 そういうものの考え方が、何となく匂ってしまう。 それで多くの教会の訳は、この「口座」という言葉は使わないですね。
しかもここに出て来る「加えられる」(17節)という言葉がありますでしょう? 口座に加えられる。 これはギリシャ語でプレオナゾーという言葉です。プレイオンというのは、「溢れるほどに」という意味なんですよ。 ですから新改訳聖書の第3版では、「収支を償わせて余りある」という言葉が、その「溢れるほどに」加えられるから、「余りがある」という表現になっていくわけですね。
さてこの聖句から、今日も私たち告白しました「使徒信条」の「聖徒の交わり」という言葉の中世カトリックの解釈が出て来ます。
以前もこの話を何度かしていますが、この聖書の箇所と結びつけるのは初めてですので、よく聞いていてください。こういう風なんですね。
「聖徒の交わり」と言う時に、教会家族の交わりだけではない、高津教会は。 今日のように、国境を超えて世界のキリスト者との交わりがある。 のみならず、「聖徒の交わり」と言う時に――私たちもそう信じていますが――死んで天国に行った方々との交わりもあるんです。 で、私たちの信仰の先輩、あるいは自分たちの家族と共に、今日も主の前に礼拝を守っていると考えるのが、「聖徒の交わり」というものの考え方ですね。
でもそれが中世のカトリックは、少し歪んで考えるようになりました。 つまり「聖徒」というのは、普通のクリスチャンではないというものの考え方です。 聖徒というのは、天国の口座に余りある功績を蓄えた人たちです。余りがある。 どんな余りなのか? それは自分のたましいを救う功績以上の功績が溢れているような人物が聖徒で、 その聖徒というのは、殉教した人、あるいは特別な奇跡を行う人ですよね。 で、一番最近で「列聖」(れっせい)と言いますが、聖徒の一人に加えられたのが、マザーテレサ、これが一番最近ですね。
一方、私たちの天国の口座はいつも赤字ですよ(大笑)。大体赤字じゃないですか? 地上の口座も赤字(笑)。だけど天国の口座も赤字ですよね(笑)。 ですから、中世のカトリックの方々は、聖徒を拝むことによって、聖徒の口座で溢れている所の償い、功績というものを分けてもらう。 ですから「聖徒の交わり」は、昔の日本語訳では「諸聖人の通功」という風になっていました。 「通功」の通は、融通の通です。 聖徒の方々が蓄えた功績を融通してもらうのが、「聖徒の交わり」だと。
こう言う考え方を、プロテスタント教会は退けたわけです。 私たちにとっては、功績も償いもただキリストのみです。 私たちは何も神さまに差し出すものはありません。 空っぽの手、つまり信仰を差し出して、憐れみを受けるわけですね。
その時に、私(藤本牧師)はいつもこう加えて来ました。 「そうは言うけれども、私(藤本牧師)は以前の日本のカトリックの『諸聖人の通功』という訳は好きです」と。 なぜなら、その言葉の中には、「融通する」という概念がある。
何も功績が融通されるわけではない。何も償いが融通されるわけではない。 私たちが一つの交わりの中にいる時に、愛が融通され、必要な助けが融通され、時に経済的なことも融通され、知恵が融通され、慰めも励ましも、信仰も祈りも、やり取りする。 この「やり取り」という言葉が15節に出て来るでしょう。物をやり取りする。 別に「聖徒の交わり」の中でやり取りしているのは、物だけではない。 祈りも、知恵も、特殊な技術も、私たちはやり取りするわけです。
中には、14節にもう一回戻りますけれども、「それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました」とありますように、苦難さえもやり取りされるんです。 どういうことかと言えば、苦難に遭っている人は、人の痛みが分かるようになりますね。 その人を助けている内に、自分は、自分そのものは苦難に遭ってないんですけれども、人の痛みというのが分かるようになる。 そしてその方を助けている内に、その方の痛みを何分の一か引き受けることによって、その方の痛みを軽くしてあげることができるわけです。
つまり、ここで描かれているのは、教会の中にある、私たちが味わっている「聖徒の交わり」です。 贈り物という時に、それが献金であれば、私たちの地上の蓄えから少し引かれることになるでしょう。 しかしそれは天国の口座に蓄えられる――天国は銀行ではないです――これはものの言い方ですね。
皆さんね、銀行にお金を預ける時に、銀行は必ずそのお金を守ってくれるという概念で、私たちは預けますよね? 勿論、それを増やしてくれれば、それに越したことはないんですけれども(笑)。 世界経済が緩むと、一番通過が安定する日本に投資のお金が全部回って来て、日本円が強くなり円高になってしまう。 結果的に日本経済に負担がかかることになるでしょう? 日本の通貨が一番安心だから、世界中の人々がお金を日本に持って来るとはどういうことなのか? それはそれだけ日本の銀行が安定しているからです。 アメリカの銀行というのは投資するためにあるんですよ。誰も蓄える人はいないんです。 でも日本の銀行というのは――基本的に私たち堅実な日本人ですからね(笑)、私たち貯金というものを考えるわけですね――すると、預けたものは、必ず奪われない。必ず守られている、という概念があるでしょう。
神さまは、イエスさまが仰ったように(***マタイ10:42、マルコ9:41)、 「もしあなたがわたしのために、水一杯でも私の弟子に差し出すなら、その行為は天において忘れられない」とありますよね? つまり、私たちが互いに為す贈り物の行為、それが言葉であれ、手紙であれ、訪問であれ、献金であれ、それを神さまは決して忘れないと仰るのです。 それは銀行が私たちのお金をきちっと管理し守っているように、神さまは私たちの為す小さな小さなわざを決して忘れることはない。覚えておられるという意味ですね。
だから躊躇なく差し出しなさい。だから躊躇なく受け取りなさい。 互いの愛を、互いの親切を、互いの祈りを差し出す者になりなさい。
3)その時、神さまは溢れる恵みを注いでくださるんですね。
(ピリピ4章)18節と19節、私(藤本牧師)が18節を読みますので、皆さんで19節を読んでください。
18私は全ての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。 19また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
そうしますとね、贈り物を受けてパウロは、もちろん経済的に助かったでしょうね。 でもパウロが豊かにされただけではない。 それは、神が喜んでくださる芳ばしいささげ物だという風に書いてあります、18節の最後に。 贈り物は、喜んでパウロが受け取っただけではない。 喜んで神さまが受け取られた。
旧約聖書で、礼拝の時に香がたかれます。 出エジプト記の30章の1節で、あなたは「香をたくための祭壇を作れ」と。 香をたくための祭壇があります。
キリスト教会でも、今でも、ロシア正教、ハリストスという教会ですね。 ハリストスというのは、キリストという意味ですけれども、 ハリストスの教会では、お香をたくということが守られています。 黙示録にも、「聖徒の祈りが香と共に天に昇る」とあります(***黙示録5:8、8:3〜4)。 つまり、「香の煙」、いいですか、「香の香り」というのは、それにくっつく動詞というのは 「立ち上る」(たちのぼる)と表現されています。 香がたかれる時に、その煙も香りも神さまのもとに届く。 神さまのところへ届き、それが神さまを喜ばせ、それが神さまへのささげ物になる。
つまり、互いが互いを励ますだけでない。 私たちの祈りや賛美と同じように、その交わりの行為は天に上り、神を喜ばせ、神への礼拝に当たる――それが贈り物だと言うのですね。
で、19節は、その喜ばれた神は、「ご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要を全部満たしてくださる」 私たちの必要というのは、贈り物を差し出した人の必要、それからそれを受け取った人の必要です。 差し出す物は、わずかかもしれない。でも神さまはそれを喜んで――私たちもお祈りしますよね、献金の時に――神さまは喜んで「それを幾倍にもして」用いてくださる。 その「幾倍にもして」というのが、この(19節)真ん中にあります「ご自分の豊かさに従って」という意味です。 ご自分の豊かさに従って、つまり神の力によって、私たちのささげ物はみな増し加えられて、私たちのすべての必要を満たすことになる。
互いに助ける、ということは、神へのささげ物になり、 神はそれを喜んでくださり、ささげた者、ささげ物を受けた者の必要を溢れるほどに満たすまで祝福してくださる。 これがパウロの手紙の、実は最大のメッセージだったんですね。 これを言いたいがために、パウロは1章から始まる、延々とこのみことばを説いて来たわけです。 1章の6節を一緒に読んで、そしてお祈りをいたします。 元旦の時に開いた聖書の箇所ですね。(ピリピ)1章の6節、これを一緒に読んで終わりにいたします。よろしいですか。
<ピリピ1:6> 6あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。
☆お祈りをいたします。――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、私たちは小さな小さな群れ、小さな働きでありますが、何かにつけて互いのことを思いやり、時に世界のキリスト者を思いやり、小さな贈り物を贈ってまいりました。このような愛のわざをあなたは喜んでくださり、私たちの必要も、また世界の必要も豊かに満たしてくださる、と私たちは信じています。
そのようにして、「良き働きがこの教会に始められ、キリスト・イエスの日が来るまでに完成されていく」(ピリピ1:6)というこの旅路の中を、教会に加えられた私たち一人ひとりが実感して、生き抜いていくことができますように助けてください。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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