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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/18 戸塚伝道師:『ヨナ書』に自分を問う@ 「神さま いやです」ヨナ1:1〜3
☆聖書箇所    ヨナ書1章1〜3節

1アミタイの子ヨナに、次のような【主】のことばがあった。
2「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
3しかし、ヨナは立って、【主】の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、【主】の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。

☆戸塚伝道師の説教   『ヨナ書』に自分を問う@ 「神さま いやです」

すいません。大切な説教原稿をこっちに(大笑)……(牧師席を指して取りに戻り)、失礼しました。これがなければ大変なんです(大笑)。これがなければ、何を話していいか分からない(笑)。
【※戸塚伝道師も多くの先生方と同様、ご自身のメモを見て話され、こちらには何も戴いておりませんが、毎回T・Yのまとめを容認してくださり感謝です】。

月に一度の説教のご奉仕をさせていただくことになって、8月今月からシリーズものでお話ししたいと考えています。
シリーズもの――藤本満先生から
「シリーズものは良いですよ。聞いてくださる方も語るほうもよい学びとまとまった恵みが与えられますから。どうかシリーズものに挑戦してはいかがですか?」
と、以前アドバイスをいただきまして、
「あ、シリーズものねぇ。何をしたらいいんだろうか?」

先週の礼拝で、藤本満先生の「ピリピ人への手紙」の連続講解説教が終わりました。
あ、ちょうどよいタイミングだなぁと思って、じゃ今日からシリーズもの、旧約聖書のヨナ書。
ヨナ書は教会学校でもお話しさせていただいているので、ここならばいいのではないだろうかと。
何回かに分けて,皆さんと一緒に、みことばにこだわりながら、書いてある叙述にこだわりながら、じっくり読んで行こうと、そういう風に計画いたしました。

と申しましても、私(戸塚伝道師)には講解説教はできないです(笑)。講解説教なんかできない。私の力量はもう無理です、講解説教は。遥かに超えている。
本に書いてあることを、そのままご紹介することはできるかもしれない。
単なる自分なりの解釈は、言うことはできるかもしれない。
しかし、みことばをきちっと研究して、そしてギリシャ語とかヘブライ語とかそういうところまで突き詰めて、そしてこの言葉の意味から神さまのみこころはこうなんだというような、所謂聖書釈義のレベルは私はもう無理です。それは無理。
申し訳ないですけれど、無理です(笑)。

そこで私(戸塚伝道師)といたしましては、みことばの学びではなく、説教の題にもありますけれども、「ヨナ書に自分を問う」という、みことばに自分を問うというスタンスでお話しする――あ、これならできるのではないだろうか?
みことばに自分を問う――聖宣神学院の授業、今までの授業を私振り返りますと、どの先生も一方的な講義をなさる先生はいませんでした。
そうではなくて、「あなたはどう考えますか?」「あなたの意見は、どうですか?」――そういうことを求められる授業がすべてでした。
それ程、自分の考えというものを大切に持っていなければいけないんだ、ということを教えていただいたような気がいたします。

そこでみことばを読んだ時に、色々な解説とか、また学問的な様々な知識とか、そういうようなものは、ま、本を読めばわかるわけですけれども、
自分はこのみことばから何を問われているんだろうか?
神さまは私に何を問いかけておられるのだろうか?
何に気づかせてくださっているんだろうか?
そういうようなものを考えながら読んでいくということ、これはとても大切なことなのかなということを思わせられたことでございます。

そして読んでいく内に、様々な事を気づかせていただき、視点を転換させていただき、同じみことばでも、今までとは違う新しい風景がそこから見えて来る。
それは唯一の正解ではないかもしれない。でも、そのような新しい気づきや風景が恵みとして捉えられるとするならば、それを皆さんにお分かちするというのもいいのかなぁという風に、私(戸塚伝道師)は判断いたしました。
そこで説教というよりも、ま、証しに近いのかもしれませんけれども、ま、個人の感想です、というレベルかもしれませんけれども、でも私なりの気づきに基づいて、恵みを分かち合うひとときとさせていただきたい――それがこのヨナ書のシリーズであります。
そういう意味で、このヨナ書に月一回でも親しむ、そういう半年間とさせていただきたいと思うんですけれども――

先ずこのヨナ書なんですけれども、聖書の目次を見ますと、39冊の本が集まっていることは分かります。
その旧約聖書の39冊の本の中に、歴史の本が17冊――創世記からエステル記。
詩の本が5冊――ヨブ記から雅歌。
そして預言の本が17冊――イザヤ書からマラキ書。
この預言の本も二つに分かれまして、大預言書と小預言書という二つの書物に分けることができます。
大預言書というのは、比較的長い預言書で――イザヤ書からダニエル書の5冊。
小預言書というのは――ホセア書からマラキ書までの12冊。

で、このヨナ書というのはどこに位置づけられるかと言いますと、この小預言書の5冊目。
これがヨナ書です。
僅か4章しかない。開く時、ちょっと大変だったかしれません。もう、すぐヨナ書どっかへ行っちゃう。そんな感じですね。

このヨナ書、どういう書なのか?何のためにヨナ書が書かれたのか?
それは、神さまの恵みの大きさを示すために書かれました。
書いた人は誰か?――それは(ヨナ書1章の)1節に書かれていますけれども――アミタイの子ヨナ――この人がこのヨナ書を書きました。
ヨナというこの名前の意味は鳩という意味だそうです。
書かれた年代はおよそ紀元前785年〜760年頃だと言われています。

全部で4章ありますけれども、各章の題名をつけてみます。
ま、これは聖宣神学院の河村【従彦(よりひこ)院長】先生の「聖書読解法」の授業で教えていただいたことなんですけれども――
1章――逃げるヨナ 2章――祈るヨナ 3章――語るヨナ 4章――すねるヨナ

今日は「1章――逃げるヨナ」の場面から、1節〜3節のこの場所だけから、
「神さま いやです」と題して、3つの視点から恵みを分かち合いたいと思います。

1)逃げるヨナの姿

1節から3節まで、もう一度お読みしたいと思います。
(※第三版ではニネベは町、2017版では都)

1アミタイの子ヨナに、次のような【主】のことばがあった。
2「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
3しかし、ヨナは立って、【主】の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、【主】の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。

神さまのみことばが2節に書かれていますね。ヨナにあった主のみことば――
「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。」
「立って」――立ちなさい。神さまは仰った。行動しなさいということでしょうね。
「あの大きな都ニネベに行きなさい」――そして「ニネベに向かって叫びなさい」
「彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」

何と叫ぶのか?それが3章の4節に書かれています。
こう書いてありますね。

<ヨナ3:4>
4ヨナはその都に入って、先ず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」

「あと四十日すると、ニネベは滅びる」――そう叫びなさい、と神さまから言われたわけですね。

しかし、ヨナは(1章)3節――

3しかし、ヨナは立って、(***立ってまでは従ったんでしょうね、と説明・笑)【主】の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。……

「【主】の御顔を避けて」という言葉があります。
「【主】の御顔を避けて」――3節に二回も出て来ていますね。

3……彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、【主】の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。

「【主】の御顔を避ける」「御顔を避ける」
神さまがヨナのことをじっと見ているその神さまの顔、それをまともに見ることができないような状況だったのでしょう。
神さまの前に出られない心の状態。恐らく罪意識はあったかもしれない。

でもそれ以上に、自分の思いが強かった。で、このヨナは主の御顔を避けたわけですね。
この神さまから逃げたわけです。神さまから託された使命から逃げました。
神さまのお言葉に従わなかったんです。
つまり、神さまに「いやです」と言ったも同然です。
「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ」(2節)
「神さま いやです」「NO」

「神さま いやです」と言っただけでなく、実際に行動に移しました。
ニネベとは全く正反対のタルシシュ行きの船に乗り込みました。
ニネベというのは、現在のイラクの北部辺りにあった町らしいです。
タルシシュというのは、現在のスペインの南の端らしいです。
全然方向が違う。全く正反対の方向へ行こうとしたわけですね。実際に行動に移すわけですね。

「神さま いやです」
ヨナはなぜニネベに行きたくなかったのでしょうか?
二つの理由が考えられます。
●一つ目は、ニネベの町が邪悪な町だったから。
神さまに対して悪をたくらむ町だった。それが当時のニネベです。
さらには、無力な者を虐げている町だった、という記録もあります。
あるいは戦争において、残虐なことを行った、そういう町でもあった。
さらには、偶像礼拝とか、まじないとか、性的な乱れとか、淫行がはびこっている、そういう町であった。

●ニネベに行きたくなかった二つ目の理由――それはニネベの町が、ヨナにとって敵の国の主都だったからです。
ニネベの町というのは、当時のアッシリア帝国の主都でした。
このアッシリア帝国というのは、300年間世界を支配しました。
紀元前900年〜605年まで。そのアッシリア帝国の主都だった。それがニネベの町。
ヨナの生まれた国、イスラエルもこのアッシリア帝国によって当時滅ぼされつつあったという、そういう状況の中で、敵の国に行きたくなかったという思いが強かったのでしょう。

ニネベは邪悪な町であり、敵国の主都である。その町に行って、
「あと四十日すると、ニネベは滅ぼされる。この四十日の間に悔い改めて、まことの神さまに立ち返れ」なんて、ヨナは言いたくなかったんです。言いたくなかった。
これがヨナの心からの思いでしょうね。

そんな罪深い、ひどい国の、あんな悪い町なんか滅んでしまえばいいんだ。自業自得だ。自己責任だ。俺の知ったことか!
だから、ヨナは神さまから「立ってあの大きな都ニネベに行って、これに向かって叫べ」(ヨナ1:2)という、その神さまのおことばに、「いやです」と、【主】の御顔、【主】のみこころを避けたくなってしまった。

この「神さま いやです」というのが、今日の説教題です。
説教題に「神さま いやです」っていう説教題って(笑)、あんまりないかもしれないんですが、ヨナの心からの思いでしょう――「神さま いやです」
ヨナは神さまに逆らう不服従の罪を犯しました。
しかし、私(戸塚伝道師)は「【主】の御顔を避けた」というこのみことばに、問われました。
果たしてヨナは、一面的に、不服従の罪を犯した、と捉えてしまってよいのだろうか?

そこで二つ目に考えてみたいことは、

2)神さまが私たち人間を造られた時に、備えてくださったものについて考えてみたいと思います。

私たち人間は、神さまのかたちに似せて作られました。創世記1章の26節に書いてあります。
神さまのかたちに似せて、神さまのかたちとして、私たちが造られた、ということの中に、4つの意味がある――そういうことを学びましたね。

@人間は霊である存在として造られた、ということです。
霊である存在ということは、神さまと心の交流ができる。
そして霊である神さまを礼拝することができる。動物にはできない。

A人間は人格的な存在として造られた。
神さまはご人格をお持ちのお方ですね。
私たち人間も人格を持っているので、神さまは人格を持った者同士で関係を作ろうとされるお方です。

B人間には自然を管理する権利が認められています。
創世記1章28節に「すべての生き物を支配せよ」って書いてありますが、「管理せよ」とも訳すことができる言葉だそうです。
すべての生き物を管理する――そういう権利を神さまは人間に与えられました。

C人間は自由意志が与えられている。
今日はこの「自由意志」について考えてみたいと思いますが――
人間が自由意志を与えられているということは、神さまに対して「イエス」「ノー」を言う権利が認められている、ということです。
人間としての尊厳が、神さまによってちゃんと保証されていて、神さまに対しても「イエス」「ノー」を言う権利が認められている。
そのように、神さまは人間をお造りになりました。

神さまは仰るでしょうね。「あなたが自分で決めていいんだよ」
この自由意志を用いて、ヨナは「神さま いやです」と言って、タルシシュへ逃げようとしました。
アダムもエバも、自由意志で、神さまが「食べてはならない」と禁止された実を食べました。
なぜ神さまは、食べさせないようにされなかったんでしょうか?

もし神さまが、造られた人間に「イエス」「ノー」を言う権利をお認めにならなかったら、
人間は神さまのロボットです。
100%神さまにお従いするロボット。1%も神さまに逆らわない、完璧に神さまに服従するロボット。神さまの言いなり。
果たして100%神さまに服従する人間、ロボットのように服従する人間を、神さまはお喜びになるでしょうか?
神さまは、でも恐らく人格的な交わりを求めておられた。
自由意志を与えて、「自分で考えて決めていいんだよ」と仰る。

しかし神さまがこの自由意志を人間に与えられたことは、大きなリスクも伴っていました。
ま、神さまにしてみれば想定内だとは思うんですけれども、この自由意志は、人間が必ず善を選ぶことは考えられない。善を選ぶことを可能にはしない。
自由意志で悪を選ぶことは大いにあり得たわけですね。
なぜ人は罪を犯してしまうのか?
それは自由意志があるからです。自由意志と、感情と、アダムとエバから引き継いだ罪の性質、この図式で人は罪を犯してしまう。

ところで私たちは、神さまに対して「イエス」「ノー」を言う自由意志が与えられるからと言って、
嫌ならばいつでも「ノー」と言えばいい、好き勝手なことをしたい放題――というわけではありません。
神さまが「自分で考えて自由に決めていいんだよ」と仰るということは、そういうことを決める権利には、必ず責任が伴うわけです。
神さまが造られたこの世界には、ちゃんとしたモラルの原則というものが組み込められていて、それと共に、
私たちがそのモラルに従って、神さまとどのような関係を作っていくのか?が問われているというのが、この世界なんです。

3)この朝、「神さまの御顔を避けた」というヨナの決断を思い巡らしながら、みことばに自分を問うてみたいと思うんですね。

神さまに対して、「いやです」とヨナは言った。
神さまに対して、自分の思いをぶつけた。
そして結果的に、神さまの御顔を避けるようになって、神さまに従わなかった。

私たちは、神さまに対して「いやです」とさえ言えるような、神さまとの人格的な交流が持てているかどうか?ということを問うてみたいと思います。

だいぶ前の教会学校の分級で、ヨナさんは神さまに「いやです」と言った。
「神さまに『いやです』って言っていいことなの?」って聞いてみました。

そしたらば、A君はダメ。
「神さまに、そんな逆らっちゃダメ。神さまのお言葉に従わなきゃダメ」
「じゃあ、なんで『いやです』って言っちゃいけないの?」
「神さまが怒るから(笑)。罰が当たるかもしれない。神さまが怒る」

ところがB君は「神さまに『いやです』って言ったっていい」
「なぜ?」
「だって、自分が思ったことを正直に神さまに言うのはいいでしょう?」

同じ神さまを信じているのに、A君とB君、神さまに対するイメージが違うんです。
A君の神さまは、怒ると怖い、厳しい神さま。
B君の神さまは優しい神さま。
もちろん、こんなスッキリ二元論で割り切ることはできないかもしれませんが、たまたまその時はそうだった。
B君の神さまは優しい神さま。
優しい神さまということは、甘い神さまというのではなくて、思ったことを何でもお話しできる神さま。

そのベースとなると思われるみことば、B君が神さまとどのような関係を結んでおられたか?ということが推測できるようなみことばが、詩篇にあります。
ちょっとお開きいただきたいと思うんですけれども、詩篇の103篇。
旧約聖書、詩篇の103篇の8節からお読みします。

<詩篇103:8〜13>
8【主】は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである。
9主は いつまでも争ってはおられない。とこしえに 怒ってはおられない。
10私たちの罪にしたがって 私たちを扱うことをせず 私たちの咎にしたがって 私たちに報いをされることもない。
11天が地上はるかに高いように 御恵みは 主を恐れる者の上に大きい。
12東が西から遠く離れているように 主は 私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。
13父がその子をあわれむように 【主】は ご自分を恐れる者をあわれまれる。

こう書いてあります。

私たちは問われている――私たちが信じている神さま、私の信じている、愛している、祈っている、礼拝している神さま――その神さまって、どういうようなお方ですか?
どのようなお方ですか?
みことばにこう書いてあるからとか、神学的・教理的にこういう神さまだとか、それをベースにして考えるのも大切なのかもしれませけれども、それ以上に、
私の神さまって、肌身にどう感じられる神さまなんだろうか?
厳しい神さまなのか?憐れみ深い、優しい神さまなのか?

ヨナの生き様を見ると、神さまとの関わりの中で見えて来るのは、
何でも神さまに言える関係。
神さまに何でも言える関係。お互いを尊重し合う関係。
誤解を恐れずに言うならば、ある意味では、神さまと対等な関係。
主人とロボットの関係ではない。主人と奴隷の関係でもない。
主人とお客さんの関係とも違う。
だから気を使ったり、遠慮することもない。

神さまと人間の関係について、福音が目指すのは、「神さまと、愛と信頼に基づく大人の関係を結ぶ」というのが福音が目指す関係ではないかと思います。
愛と信頼に基づく大人の関係――どちらかと言うと、親子の関係に近いのかもしれない。
ルールでものが決まるのではない。
双方思いやり、その時々の状況に応じて、相手の感じ方や考え方が尊重される中で、判断が行われる関係。
この関係に深められていくというのが、クリスチャンの成長ではないかと思うんですね。

私たちは、「神さまにお従いする」という言い方をします。
でもお従いするという時、奴隷のように、自分の自由を捨てて、神さまの言いなりになるということではない。
神さまはそれを望んでおられない。神さまが望んでおられるのは、愛と信頼に基づく大人の関係なのです。
私たちが自分なりの主体性をもって、感じ、考え、判断することを、神さまは喜ばれる。

だからヨナは「神さま いやです。行きたくありません」
神さまの御顔を避けて、その神さまの言葉に「ノー」と申し上げました。
それは単に神さまに逆らったのとは違います。
人間は神さまに「ノー」と言っていい、と私(戸塚伝道師)は思います。
何が何だか分からないで、ただ「イエス」と言っているのよりはましでしょう。
また、その「ノー。 神さま いやです」が自分なりの十分考えた結果として、心からの真実をもって言われるのだとしたら、神さまはそれをないがしろにされないお方です。
イエスさまの十字架のゆえに。
神さまは私たちの「ノー」に対して「そうか、どうしてそう思うのか?」と尋ねてくださるかもしれない。
「そう言われてみたら、そうかもしれないなぁ」と、心を通わせてくださるかもしれない。
「そうか、じゃもう少し一緒に考えてみるか」って言ってくださるかもしれない。

ヨナはもっとじっくり、神さまのおことばが来た時に、神さまと一対一で語り合うことができたらもっと良かったのかもしれません。
神さまの方でも、ヨナとお話がしたかったのも知れない。
ヨナに色々知ってもらいたいことがあったのかもしれない。
私たちの神さまは、どういう神さまなのでしょうか?

「神さま いやです」――ま、神さまからのお言葉だけではありません。
この一週間の明日からの歩みを思い出すと、
「ああ、神さま、いやです。明日からまたあれですか?あの人ですか?またあの仕事ですか?あの面倒なことですか?ああ、あの病気ですか?あの辛いことですか?」
色々な「神さま いやです」って言いたくなるようなことが沢山あるかもしれない。

でも神さまは、私たちの信じている神さまは、そういう愚痴や不満やつぶやきに対して、どのように受け留めてくださる神さまでしょうか?
この朝、問われているような気がします。
私たちが、ある意味本音の所で、生き生きと悩み、生き生きと迷い、生き生きと神さまに語り、生き生きと自分で考え判断し、生き生きと生きることを神さまは喜ばれているのではないだろうか?
そのような神さまとの、愛と信頼に基づく大人の関係に、自分は生きているかどうか?――それを問いたいと思うんですね。
神さまはそのような関係を望んでおられます。後は、私次第です。
お祈りいたします。

☆お祈り――戸塚伝道師

神さま、あなたを神さまと呼ばせていただいております。この朝、私たちの信じている神さまが自分にとってどのようなお方かを、ヨナの取った行動からもう一度問いかけてくださいました。感謝いたします。あなたは私たち人間を、あなたのかたちに似せて造ってくださいました(創世記1:26)。罪を犯す可能性という大きなリスクを充分ご承知の上で、私たちに自由意志を与えてくださいました。ありがとうございます。

どうかあなたと、愛と信頼に基づく大人の関係に生きる者とさせてください。そしてあなたと本音で交流し合える、そのような信仰を与えてください。さらには、そのような信仰に基づいて与えられた自由意志を、用いることができますようによろしくお願いいたします。

新しい一週間も、神さま、あなたと共に歩ませてくださいますように。聖霊のとりなしの内に、愛するイエスさまのお名前によって、「憐れみ深く、情け深い、恵み豊かな父なる神さま」(詩篇103:8〜13)にお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2019.08.19 - 16:39

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