☆聖書箇所 Uコリント4:16〜18 16ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。 17私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。 18私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
☆説教 敬老の聖日:外なる人は衰えても
ずっとピリピの手紙を学んで来まして、次どこへ行くのか、なかなか私(藤本牧師)としてはまだ決められないような状況の中で、敬老の聖日がやって来ましたので、 私(藤本牧師)は、今年の敬老の聖日は、この第二コリントの4章の16節で行くということを、夏に決めました。 その決めたという理由を後に話します。 16節だけもう一度、ご一緒に読んでみたいと思います。(Uコリント)4章の16節です。
16ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
確か第3版では――「ですから、私たちは勇気を出します」だったんじゃないかなと思います。(※勇気を失いません、が第3版の言葉) それが新しい訳で、「落胆しません」(新改訳2017版)。 「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」――これはとっても有名な聖書の箇所ですので、しっかりと線を引っ張っておいていただきたいと思います。
昨年、「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」という映画が有名になりました。 【※2017年イギリス・アメリカ合作映画、日本上映は2018年3月末から】 ま、特に日本でも有名になりました。 有名になった一つの理由は、アカデミー賞のメイクアップ&ヘアスタイル部門で、日本人の辻一弘(つじ・かずひろ)さんが受賞された、チャーチルの特殊メイクですね。 ま、それもあったんだろうと思いますが、 しかし、ウィンストン・チャーチルという人間は20世紀最大の政治家として、長い間尊敬を集めて来ました。
彼の有名なスピーチに”Never give in”というのがあります。 give inというのは、諦めるとか、むしろ屈するという意味ですね。 「絶対に屈してはならない」。 1941年に、とある高校に招かれた時のことであります。 彼は3分ぐらいの話の後で、迫り来る戦争を意識しながら、演説をこう締めくくりました。 “Never give in” 決して屈してはならない。 “Never give in. Never,never,never” 絶対に、絶対に、絶対に屈してはいけない。 いかなることにも、それが大事であっても、小事であっても、重要なことでも、些細なことでも、崇高な確信と良識ある意見は例外として、他のいかなることにも屈してはならない。 これはもうチャーチルの生き方そのものです。 崇高な確信と良識ある意見は例外としても、他のいかなることにも屈しない勇気を持ったらどうだろうかと、そういうような演説でありました、高校生に向かって。
敬老の聖日に恐らく全国一番開かれているみことばは、このUコリントの4章の16節です。 「決して落胆するな」ということは、「決して屈するな」ということですが、 3つのポイントで短くお話をします。
1)パウロは外なる人の衰えを感じていた、ということです。
コリント(の手紙)が書かれた時期を考えれば、恐らくパウロは50代だろうと思うんです。 まだ年齢的な限界を感じてはいなかったのかもしれない。 でも、彼はこの肉体の持っている様々な制約、不自由さ、疲れ、脆さ、病を体験していないはずはありません。 それを彼は――ちょっと4章の7節を見ていただけます?
<Uコリント4:7> 7私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
自分自身のことを「土の器」と呼ぶことによって、彼は「外なる人」の衰えとか、外なる人の欠け・脆さというものを表現しています。 「土の器」と言った時に、それは私たち日本人がイメージするような、分厚いしっかりとした器ではない。
日本は、中国から伝わって来た陶磁器の技術を持っていましたから、しっかりと土を煉り込んで、空気を出して堅くしていく。 それを乾燥して、高熱で焼いて、そして元の器になる。素焼きですけれども、 そういう技術をもっていましたが、古代中近東において、「土の器」というのは本当に脆いですね。 簡単に液体が器に染み込み、簡単に欠けてしまい、そしていとも簡単に捨てられていくような器であります。
「外なる人」が破れるとは、どういうことか? それは悩み一つで寝られなくなる私たち、食欲が落ちる。 そうなると、正直、生きる気力さえも失せていく――それが私たちであります。 ということは誰一人として強い人はいない。 「外なる人」はみな弱い。「外なる人」は、みな衰える。 なぜなら、誰でもそういう環境に陥れば、同じように弱さを感じるということは明らかだからですね。 健康な人には、病気の人の様々な痛み・苦しみというのはなかなか解らないと思いますが、でも自分も同じ状況になってみれば、やっぱり同じように「衰える」ということがよく解ると思います。
ひと言で言えば、弱さを持っていない人など一人もいない。 私たち皆、「土の器」です。 でもパウロは16節で「落胆しません」と言います。 この落胆というものは、土の器にいとも簡単に浸透していきますね。 いとも簡単に浸透していく。 まるで――最近、珪藻土(けいそうど)というのがありますね。水をすっと染みて行くような、お風呂のバスマットに使うような――それ位染み込んでいきますけれども、 失望と落胆、痛みと弱さ、不自由と衰えは、珪藻土のように私たちの人生にす〜っと吸い込んでいきますよ。 外から来る問題もあるでしょう。 しかし自分が「土の器」であり、「外なる人」に衰えを感じるとしたら、それはなおのことですね。
私(藤本牧師)は62歳ですけれども、何か自分が今日(敬老の)お菓子もらってもおかしくない(大笑)というような気持ちで立っています。 逆に自己申告で「75です」と、こう。 私(藤本牧師)きょう家内と話しをしていまして、 「秋の一つの課題として、運動をする」 「あなた、それ春にも言っていたじゃない」(大笑) 秋こそは、という気持ちですね。段々体力が衰えて来るのを、ものすごく実感するんですね。 春には両親の引っ越しがありましたし、夏は暑かったし、湿気はひどかったし、ということで、秋は頑張るって言って、毎年それがこう先送りになるようになりました。 これが振り返ってみますと、やっぱり50代では、一念発起で「じゃジムに行こう」とか色々あったんです。
(※突然、思い出したようにKS君に話しかける藤本牧師) 「S君、よく来たね。いま目が合ったんですけれども(笑)。夏休み、君はあれでしょう?富士山の8合目の山小屋でアルバイトをしたんですよね?(はい)。よくそんな無謀なことをしましたね(大笑)。関東の人でそんなことをする人いないと思うんですよね。そんなことないですか? 空気薄かった?(薄かったです)。薄かったですよねぇ。でも、何か新宿・原宿の一番混雑している場所かのように、夏山の富士山はすごいでしょう?(ああ、そうですね)。特に夜がすごいですよね。」
その場所でアルバイトをするっていうのは、考えられないですよね(大笑)。 私たちはもう考えられない。 それ程自分の弱さというのは、年齢と共に衰えていく。 なおかつ様々な不具合が生じる。 先生に「持病何ですか?」って言った時に、「それは幾つかあります」。 「持病一つもありません」という人は、大体その内癌で亡くなったりします(大笑)。 だから、持病の一つや二つ持っておいた方が、むしろいいと私(藤本牧師は)思うんですね。
でも気がつくと、だらだらゴロゴロしている自分。 一旦横になってゴロっとなりますと、立ち上がれないんです。立ち上がるのに時間がかかる。 それでその時に、「ヨッコラショ」って、どうしても自分を励まさないと上がって来ることができない。 それから諦めが早くなりましたね。「もういいや」という諦め。それから「また明日にしよう」という諦めがものすごく早くなりました。 頑張っていたら、ぶっ倒れそうになる自分というのを考えさせられます。
さて、ここからですね。
2)パウロは「落胆しない」と言いますけれども、一体なぜか?
一つの理由は、7節にありますように、ちょっと見ていただけます?もう一回。
<Uコリント4:7> 7私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
とありますように、この「土の器」の中に「宝」も入っている。 その「宝」というのは、「測り知れない力が神のものであって」という、出て来るのは「力」ですね。 「宝」だから、愛だとか平安だとかが含まれるわけですけれど、パウロがむしろ強調したのは、「力」だ。 「測り知れない力」がこの「宝」から発揮させられて、
そして14節に飛んでいただけます? 14節を私(藤本牧師)が読みますので、皆さんで15節を読んでみてください。
<Uコリント4:14〜15> 14主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。 15すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。
14節、15節にありますように――その前はイエスの十字架ですね。11節――
<Uコリント4:11> 11私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。……
という「十字架」。 しかし、同時に14節――「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ」、 で、15節の最後に――「神の栄光が私たちから現れるようにしてくださる」。 これが、「土の器」の私たちの内に入れられた「神の宝」ですね。宝です。 (※神の力は、私たちの信仰に、私たちのたましいに、私たちの内なる人に働きかける。)
「外なる人が衰える」(16節)とありますように、「外なる人」つまり「土の器」は非常にもろい。 頑張って鍛えることもできれば、ま、頑張らなければいけないことも多いのだろうと思いますが、それでも「外なる人」には限界がある。 そういう時に、内なる宝が、神の力が、私たちを振るい立たせると言うんですが、 それもまた、私(藤本牧師)は限界があると思います。
《欠けだらけの外なる人に、働きかける信仰》というものを、ちょっと今日は話したいと思うんです。
8月の終わりに(日本イエス・キリスト教団)香登(かがと)修養会に行きました。 集会が12回ありました。3泊4日で、4回話して8回聞く。 それで、香登修養会というのは有名な集会ですから、ま、呼ばれたら栄誉と思って、私(藤本牧師)は全部の集会、一番前で全部聞きました。 一番前で全部聞いていたのは委員長の工藤(弘雄)先生(***香登教会牧師)と私だけです。 早天から、午前の聖会から、午後の聖会から、夜の聖会に至るまで、全部出てやろうと思って、ものすごく疲れました。
香登というのは、私(藤本牧師)はどこにあるのか知りませんでした。岡山の備前焼の町ですね。 礼拝堂に洗礼盤がありました。それが非常に大きな、渋〜い備前焼の大きな陶器でありました。 なるほどなぁと思いました。
修養会の二日目の早天祈祷会で、近隣の先生が聖書を開いてくださいました。 聖書を開いて、讃美歌を歌って、お祈りをする、というパターンの一時間の聖会なんですけれども、彼らは早天礼拝と呼びます。 早天からガツンと気持ちは入っているんですね。
その先生は陶芸を趣味としておられ、ま、備前で育ちましたので、色々教えてくださいました。 陶器を作る時には、先ず土を作る。土を選ぶ。 土を作ると言った時に、土を選んで、煉って煉って、これがなかなかの作業らしいんですけれども、 要するに、中の空気を抜くために煉るんだ――これが丈夫な陶器を作るためのコツだそうです。 それを乾燥させて、一旦1300度で焼くというのですね。
陶器にとって、これが不純物となる空気を徹底して外に出していくという作業です。 それでも、土の器だ。 でも、これが基本中の基本で、この1300度で焼いた時に、中に少し空気が残っていて割れてしまったら、もうそれでおしまい。 ですから、最低限の土の器でも、きちっと煉って、空気を出すという作業をする。
ま、聖書は「神さまは陶器師で、私たちは器」という表現が旧約聖書に出て来ますね(***イザヤ64:8,29:16、エレミヤ18:1〜6)。 私たちは煉られて煉られて、その様々な不純物を外に出してもらう。 それからようやく火に入れられる。 ああ、なるほどなぁと思いました。
陶芸は、そこから釉薬(ゆうやく・うわぐすり)を塗って、絵付けをして、さらに焼くわけですね。 そうして芸術性の問われる作品になって行く。 それでも、また割れる。 なぜなら、さらに大きな試練がやって来るわけです。 どんなに頑丈な陶器でも、地震が来て揺れて落ちたら割れるわけですよ。
そしてこの先生が 「いま陶器を趣味として、一番凝っているのがうるし継ぎ、金継ぎです。これが私が今一番はまっている所です」 と仰った瞬間、その先生が後ろの方を見て、口をつぐんで、あ、私も後ろを見ました。 そしたら(大きく両手を挙げて交差して)大きなバッテンが出ていました。 「先生、時間超過でおしまいです」という意味です(大笑)。 その先生は、すっごく素朴で素直で、いい先生で、もうお話を止められました。 「今、私が一番凝っているのがうるし継ぎで、金継ぎで」 という所でバッテンが入って、 「わかりました。では賛美歌を歌って」(大笑)ということで―― 私(藤本牧師)はえ〜!と思って、讃美歌歌わなくていいから、「じゃ、一番言いたかったことを聞かせてよ」と思って、 終わってからスマホで「金継ぎ」で調べました。 それが、皆さんの週報に挟んである金継ぎの技術ですね。 (※この記事の頭の方のPDFをクリックして、金継ぎの説明の写真をご覧ください。)
先生は、最後に「時間配分を間違えてしまいました」と言って、謝っておられましたけれども、私は大体その先生のお話の方向性を考えると、 「ああ、今年の敬老の聖日には、この金継ぎの話を使わせてもらおう」(笑) と思って、その場の収穫といたしました。
調べてみますとね、東日本大震災、それから熊本の地震がありましたよね? そのあたりから、古い建物や貴重な品々が壊れるということが頻繁に起こるようになりました。 それが機会になって、各地で伝統芸能の保存と同時に、壊れたものを修復する古来の方法も見直されるようになったというんですね。 その一つが、陶器やガラスが割れた時に、それをうるしで継ぐ、あるいは銀や金で継ぐという技法が、もう一度見直され始めた。 それは昔からある技法なんだけれども、しばらくそういう方法に目が行くことがなかった。
サンプルを見ていただいて解りますように、破片がなければ金で破片を造って、上手にその陶器に合わせていくという、要は単に接着剤ではない。 この金継ぎそのものが芸術で、これがきれいにでき上がっていく時に、器の価値は以前よりも上がるって言うんですね。 ああ、なるほど、器の価値は以前より上がる。 ですから金継ぎを専門としている陶芸師もいる、という風にインターネットでは書いてありました。
私たちの人生がどんなに煉られても、どんなに焼かれても、不純物を外に出してしまったと考えたとしても、そこにどんなにすばらしい絵柄を絵付けしたとしても、少々の衝突なら(割れずに済む、)耐えられるかもしれません。 でもいずれ人生を根底から揺らされるような大きな試練がやって来ます。 すると、どんなに鍛えられた信仰、どんなにきよめられた信仰生涯も欠けていく。 真っ二つに、三つに、四つに破片となって割れていく。
欠けは戻らないのか? いや、きっと内なる人が、信仰というものが、聖霊の実(***ガラテヤ5:22〜23)――つまり、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制――あるいは感謝、喜び、賛美が、金継ぎをしてくれる。 金継ぎをしてくれるというのは、私たちの「内なる人」が「破れた人」を継いでくれる、というのですね。
認知症だって進むかもしれません。 でも多くの認知症の方々は、「ありがとう」の言葉を最後まで忘れないですよね。 教会では横田さんがそうでした。 「ありがとう」っていう言葉は、横田さんは忘れなかったですね。 病気があって苦しむでしょう。 それでも、その壊れた器は依然として家族のために祈る。 病んでいる時間、なおのこと祈りにその時間を用いる。 「内なる人」の輝きが、外側にも出て来る。 それは神の栄光が、割れてなかった時にはよく見えなかった神の栄光が、 割れたがゆえに、私たちの人生の欠けを埋めるかのように、内側から染み出して来て、 私たちを一層味わいのある信仰者にしてくれる。 それは神さまの目から見れば、欠けなき時よりもその価値は一層上がって、神さまの目には映る。周囲の目にも映る。
3)パウロの内なる人が衰えないのは、【それは、この世の人生の先を見据える希望があったからです。】
17節に戻っていただきたいと思います。 (Uコリント)4章の17を読みますので、皆さんで18を読んでください。
<Uコリント4:17〜18> 17私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。 18私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
一時的の軽い苦難と言っても、決してそうは思えないですね。 何年も続く重苦しい苦難に見えますね。 でも永遠と比べたら、ま、30年苦しんだとしても、やっぱりそれは一時的なものなんでしょう。 パウロは、決して《今の人生で私たちが体験する苦難》を軽いものとは思ってないです。 でもそれをもし《永遠の栄光》と比べるならば、 たとえどんなに辛い出来事であっても、やっぱり一時的と言わざるを得ない。 勿論、私たちの人生で、言いますよね――明けない夜はない。抜けないトンネルはない。 随分長い間トンネルを走ってるなぁと思っても、やがて抜けていく。 でもそのトンネルは実に長かったなぁ、というトンネルありますよね。 一体いつまで続くんだ、というトンネル。でも抜けていく。 それがどんなに長かったとしても、いや振り返ってみると、なんか自分の人生ほとんどトンネルの中だったなぁ、と思ったとしても、 それでも永遠の栄光、永遠というものに比べたら――パウロが言うんですね――それは一時に過ぎない。
冒頭に引用しましたチャーチルの演説を聴いて、私(藤本牧師)はなかなか良いと思いましたのは、 彼は「決して屈してはならない」と3回述べた後で、例外を言ってるんですね。 「崇高な確信のためには、むしろ自分を捨てて屈服しなさい」と。 あ、なるほどなぁと。 チャーチルもパウロも、そして私たちも、病に屈せず、現実の問題課題に屈せず、 しかし素直に遜って神のみこころに屈し、キリストの愛に屈する、というところは、 私たちは屈するべきなんですね。 素直に遜って、やがて来る天国の希望には、心奪われるまで屈するんですよ。
私の両親(藤本栄造・幸子牧師)は、今、人生の最後の辺りを走っているんだろうと思いますが、あんまり両親の話はしないようにしようと思うんです。 あまりしますとですね、やっぱり人間に目が行く教会になってしまう。 人間に目が行ったら教会はおしまいです。 私たちの信仰も、私たちの信仰的な繋がりも、やっぱりイエスさまに目が行くっていう態度を貫き通さなければいけない。
両親の口からよく出る言葉は、「生き過ぎた」(笑)。90越えるというのは「生き過ぎた」。 ま、必ずしも私(藤本牧師)はそうは思いません。 96でも100でも主が生かしてくださるならば。 でも90越えたら、自分のたましいは「早く天国に行きたい」ってなるんだなぁと。 それは信仰が強いからではない。 様々な不自由を抱えて90を越えますと、 《たましいの願望は、自然と地上の出来事から解き放たれて、天国の憧れの方がはるかに強くなっていく》 というのが、きっと私たち皆に言えるんだろうと思います。 皆さんも90まで生きたら、そうなるんだろうと思います。
問題は、私で言ったら62という段階でそうなるかと言うと、これはそう簡単にならないですよ。 「もっとパフェを山ほど食べたい」(大笑)とか、そんなくっだらないところに執着していくよね?いかない? くだらないところに執着して、「もうちょっと行ってみたい所がある」とかですね。 それでも若い人に比べれば、もう十分生きたと思います。ま、やることはやったと思いますし、 もし自分の終わりが来るなら、私たち少なくとも60越えていたら、もうそれで良しとするのがキリスト者じゃないですか? 少なくとも言えることは、「あまり痛みがないように」位のことで、 「後は、主よ、あなたにお委ねします」って、普通に言えるのが(キリスト者だから)、 私(藤本牧師)はもう50、60越えたら、言ってくださいよ(と言いたい)。 周囲の人はどんなに残念に思っても、その葬儀の時にお祈りの中で、 「道半ばで思い残すことが沢山ありつつも、信仰をもって天に挙げられました」 なんて言わないで(大笑)、本来道半ばなんて大したことないんだからさ(大笑)、それほど大したことやってないんだから、 「いつでもどうぞ天国へ」っていう、そういうお祈りをできるような教会であればいいと思いますね。
私(藤本牧師)は――ここに出て来る「新たにされる」という、16節ですね。 「内なる人は日々新たにされる」というのは、受動態です。 イエス・キリストは新しくしてくださる。 自分で自分が新しくなるんじゃない。 「内なる人」に力を注いで、私たちを新しくしてくださる。 ――だから改めて、敬老の日に祈りたいと思います。「内なる人」を大切にしましょう、と。
私にも金継ぎの技術を教えてください。 弱くて欠けだらけになった時に、欠けた部分を信仰で補い、信仰で継ぎ合わせる技術を、私にも教えてください。 外なる試練には屈しません。でもあなたの愛、あなたの平和、あなたの希望には、完全に屈することができますように、私たちの「内なる人」をお守りください。
私たちの祈りは、「私の外なる人をお守りください」っていうのが多いですね。 勿論健康のために祈りますけれども、本当に守っていただかなければいけないのは、私たちの「内なる人」なんだなぁということを思います。
☆お祈りをいたします。――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、私たちの教会にこれだけの健康なご高齢の方々を与えていただいているというのは、あなたの祝福以外の何ものでもありません。心から感謝いたします。
若くして天に召された兄弟姉妹もいらっしゃいます。その顔を見ますと残念だなぁと思いますが、しかし同時にあなたはそのお一人お一人の死でさえも、光り輝く栄光の中に取り入れてくださり、私たちよりもほんの少し一足先に、天の御国に辿り着く者としてくださいましたことを感謝いたします。
だとしたら、少し遅かったとしても、御国に無事に辿り着くことができるように。「外なる人」に気を使う以上に、私たちが「内なる人」に気を使うことができるように。そして試練が来て、しっかりとした器のつもりが、脆くも欠けてしまった時に、その「内なる人」をもって欠けを補い、欠けを修復することができるような人物とさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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