☆聖書箇所 民数記17:1〜13
1【主】はモーセに告げて仰せられた。 2「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖におのおのの名を書きしるさなければならない。 3レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。 4あなたはそれらを、会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。 5わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」 6モーセがイスラエル人にこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。 7モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中の【主】の前に置いた。 8その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。 9モーセがその杖をみな、【主】の前から、すべてのイスラエル人のところに持って来たので、彼らは見分けて、おのおの自分の杖を取った。 10【主】はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」 11モーセはそうした。【主】が命じられたとおりにした。 12しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。 13【主】の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは。ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」
☆説教 神の人モーセ(44)アロンの杖
今朝は民数記の17章を開いていただきました。 前回、私たちは民数記の16章を学んでいました。 ちょっと簡単に振り返りますので、思い出していただきたいと思います。
レビ族のコラとその仲間たちが、モーセとアロンだけ、この二人が指導者であることに不満を感じて、二人を引きずり下ろそうとしたのが16章です。 表向きにコラの発言は正当性がありました。コラは言います。 (私たち)み〜んなが主の民であり、聖なる者たちである。だとすれば、なにも祭司職、指導的な職は、モーセとアロンにだに独占させる必要はない、という平等論を掲げるわけです。
でも、実際にコラの心の中にあったのは、高慢な思いでした。 自分が祭司になる、今の立場では不満だ、もっと上へと野心丸出しにして、モーセとアロンを引きずり下ろそうと、コラの企みに乗った者たちは、悲劇的な神罰を受けたことを学びました。 私たちの結論は、神の民にとって、教会にとって、不信仰は悲劇的です。しかし、高慢・傲慢は、致命的だということを一緒に学びました。
そして今日はその続きです。 悲劇的な裁きを受け、人々の不平不満は収まったかに見えました。 しかし、ここ17章で神さまは、ご自身がだれを祭司として選んでおられるかを明確にされます。
コラが高ぶって挑戦を仕掛けてきた時、モーセは彼を諭しました。 「だったら、そんなに祭司になりたければ、あなたがたが祭司のように振舞うと良い。火皿を取り、主の前に香を焚いて近づいたら良いのに。」 16章の7節をちょっと見てください。モーセはコラにこう言います。 16:7あす、【主】の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。【主】がお選びになるその人が聖なるものである。
そんなに言うのなら、祭司の仕事をしてみたらどうかと。果たして主がお選びになるかどうか、判断してみたらいいではないか。
神さまは、モーセがこの時提案したそのとおりのことを、別の形で実践されます。それが17章に戻っていただいて、2節から展開されています。
17:2「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖におのおのの名を書きしるさなければならない。 3レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。 4あなたはそれらを、会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。 5わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」
・十二部族それぞれが、一本の杖を取れ。(ヘブル語で、杖と訳されている言葉は、部族と訳すこともできます。ですから、この杖は、部族を代表しているわけです。) ・その杖には、それぞれの部族の名前を書き記せ。
その十二本の杖を、4節「会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け」というのは、十戒の板の入った(契約の)箱の前に置けです。
5節に「わたしが選ぶ人の杖は、芽を出す。」――それが神さまの選びの証しになります。 その証しを見た時、5節の後半「こうしてイスラエル人があなたがた(モーセとアロン)に向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」
そして、翌日、モーセが会見の天幕に入って、確かめてみると、8節「見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。」 これで明々白々となりました。神さまは、アロンを祭司に選んだのです。だれが何と言おうとアロンを祭司に選んだ。
今日はこの出来事から3つ、一緒に学んでみたいと思います。
1)アロンは、自分で自分を弁護しませんでした。 かつて神さまがモーセを指導者に推された時に、モーセは「私はことばの人ではない」(***出エジプト記4:10)と抵抗します。すると神さまは、「わかった。だったらあなたの兄、アロンを一緒に行くことにしよう」(と配慮を示されました)。アロンはことばの人です。
しかしこのことばの人アロンは、自分が責められるこの場面で、実は一言も発していません。
17:1【主】はモーセに告げて仰せられた。――こう始まりますね。 18:1そこで、【主】はアロンに言われた。 18:8【主】はそれから、アロンに仰せられた。
つぶやいて高慢な態度を取っているコラに対して、モーセは厳しい言葉を発しています。 でもその時でさえ、16章でもアロンはひと言も発していない。 責められているのはアロンです。 モーセはアロンの弁護をします。しかしそれとても、数多い言葉ではない。
私(藤本牧師)は、珍しく世間の流行に乗っかって、日曜日の夜のドラマ「半沢直樹」にはまっています。私ね、自分の人生でドラマにはまったのは初めてです。録画して、今のところ3話すべて見ました。 番(組)宣(伝)をしているわけではありませんが(笑)、なかば番宣に等しい。
大阪の支店で働く銀行マン、その彼がはめられて、多くの融資が回収できなくなってしまう。 そして彼が、自らの潔白を証明するために、あきらめない。 ああいう漫画チックなドラマには決めぜりふがないとだめなのですね。 毎回毎回番組の最後に、その決め台詞が出て来るのです。 今では子どもの間でも流行している決め台詞だそうですが、半沢直樹の決めぜりふは、「倍返し」です。 「このまま泣き寝入りするとは思わないでください。今に見ていてください。必ず、取り戻します。いや、倍返しです。倍返しだ」で終わるのです。 なんと、今晩の第4話では、倍返しではないのです。半沢直樹が言うには、十倍返しです(大笑)。 私はね、あのドラマを見ていて、共感しない男性はいないだろうと思います。 それは、おおよそ倍返しなんてうまくはいかないです。 私たちはこの社会にあって、つぶされる時は、つぶされるのです。 はめられるときは、はめられるだけですよ。 だから、だれもがリベンジしたいのです。 仮に徹底的なリベンジなら、倍返しです。 でもそんなこと、できるわけがない。ですから私たちはあの半沢直樹が、「倍返しだ」などと言っている姿が、すかっとするのです。 同じ直樹でも、我が家の直樹はとてもおとなしい(大笑)。 直樹に一つ弱点があるとすると、言い返せないタイプです。私がなぜこのドラマにはまっているのか、(と言うと)私も言い返せない“立場”だから(笑)。 昔はもっと言い返しましたけれども、今は絶対に言い返さない。
私も、息子の直樹も、アロンも、じ〜っと我慢している。そこには意味がある。 それは、神さまが倍返しをしてくださるからですね。 ものすごく単純です。 アロンが口を開かなければ開かないほど、神さまが開かれる。
これまでの出エジプト記、民数記の中で、これほど神さまの言葉数が多い箇所はないです。16章と17章、神さましゃべりっぱなしです(笑)と言わんばかりに、神さまはず〜っと話されるのです。 アロンは、それを知っていました。
そして、先週見ましたコラの事件の時は、実は倍返しではない、十倍返しでもない、千倍返し、万倍返しで、神さまはこれまでイスラエルの民の体験することのなかった神罰を、イスラエルに下されるのです。 こんな厳しい神さま、こんなに厳しい神罰はイスラエルの民の歴史で初めてでありました。 神さまは、御自身を愛し、ご自身を信頼する者がおとしめられて、黙っておられる方ではないのです。
ですから、私たちは自分たちが抵抗できないような状況に陥り、見事はめられた時に、いかにして形勢を逆転するかよりも、いかにして神さまを信頼するか、この方は私の代わりに倍返しをしてくださるということを、いかにして心から信じるかに、気持ちを集中しなければいけない
この17章で、神さまはだれひとり犠牲になることなく、アロンが正しい、ご自分がアロンをお選びになったということをみんなの前で、証明してくださいました。 5節のことばをもう一回見てください。
5わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。
神さまは、わたし自身が、彼らの不平を一喝すると(仰る)。
私たちは自分を責める者たちの声を静めようと奔走します。 自分の潔白、自分の正当性を証明しようと、私たちは躍起になります。まぁそれも必要なのでしょう。 でもその果てに、ほんとにそれでもうまくいかない現実に、私たちはいやというほど直面します。 改めて、沈黙しているアロンを見ます。 そしてモーセとアロンに対して、神さまが仰った言葉、「わたし自身が、世の中を決着つける」と仰ったことに心を寄せたいと思います。
2)アロンの杖が実をつけることによって、神さまは「レビの家」、レビ族が祭司として選ばれたことを証明されました。(8節) 8その翌日、モーセは証しの天幕に入って行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。
レビの家です――これは、ある意味で、奇妙なことなのです。 なぜかと言いますと、創世記の49章をちょっと見てください。 ここにレビの父親、(イスラエルの父)ヤコブが、子どもたちに残した最後の遺言が記されています。まぁ、1節を読みます。
1ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集りなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。 と言って、3節でルベンです。そして5節にシメオンとレビ。ちょっと読んでいきます。
49:5 シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。 49:6 わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。 49:7 のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。
レビの家は、ある意味、災いにあふれた家です。 この節を見る限り、レビ族が祭司に選ばれることはないでしょう。 後のダビデはユダ族です。祭司にはもっとふさわしい部族があったに違いない。 でも神さまは、必ずしも、ふさわしさで選ばないということがよくわかります。
それは、私たちにとってもそうです。 私たちは、クリスチャンになるのにふさわしいからなったのではない。 いや、むしろふさわしくないからなったのかもしれません。
パウロは、自分が選ばれたわけを記しています。それを見ていただきたいと思いますね。 新約聖書のTテモテの1章、ずっと後ろの方になります。Tテモテ1章の15節を私が読みますので、16節を読んでください。
15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 16しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。 パウロは、15節の最後に「私はその罪人のかしらです」と書いてありますが、それは、13節に「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした」、そんな自分が憐れみを受けたのは、16節「イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと」、罪人のかしらである自分をあえてお選びになった(と証しする)。 ふさわしいから選ばれたのではない。むしろふさわしくないから選ばれたと。 ふさわしくない者が選ばれることによって、神さまの憐れみの大きさがわかるように。
私たちは必ずしもクリスチャン・ホームではない。クリスチャン・ホームでなくて、家族の中で、自分自身がクリスチャンでない。そして成人して洗礼を受けたと親に言いますと、大体ほとんどの親は笑いますでしょう。お前みたいな者がクリスチャンになったのかと。 日本の世界におけるクリスチャンのイメージは割りと高潔なのです。 それは私たちの先輩たちの故です。私たちの先輩のクリスチャンが本当に尽くして、世のため、人のために、活躍してくださった。その名を残してくださった。そのイメージはとっても清らかです。 そのクリスチャンに、お前のような者がなったのかと、一笑に付されてしまう事が往々にしてあるでしょう。 でも私たちはそれにしょげる必要はない。なぜなら、神さまはおおよそクリスチャンにふさわしくない者を選ばれるのです。 それの代表がパウロです。あるいは旧約聖書で言えば、その代表はこのレビです。
レビ族の起源をさかのぼって言えば、彼らと交わらない方がいいと言われているほど、彼らは残虐なのです。言葉には剣が出て来ます。後ろ足の腱を切るというとんでもない行動が出てまいります(創世記49:6)。 でも神さまはレビを選ばれた。レビを選ばれた理由はわかりません。
しかし、レビという名前の意味はとっても興味深い。 レビというのは何かに結ばれる、何かにくっつけられるという意味です。 民数記の18章に、レビという言葉に掛け合わせて、ある聖句が出て来ます。 民数記の18章2節――
2しかし、あなたの父祖の部族であるレビ族のあなたの身内の者たちも、あなたに近づけよ。彼らがあなたに配属され、あかしの天幕の前で、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちに仕えるためである。
配属されるということ、これがレビです。 あるいは4節に――
4彼らがあなたに配属され、天幕の奉仕のすべてにかかわる会見の天幕の任務を果たす。
つまりレビ族というのは、モーセに配属され、モーセにくっついて、そして、神さまの天幕の任務、天幕全体の任務を果たすというように、結ばれていくのです。
レビ族は、そして私たちは、ふさわしくないにもかかわらず、神さまに配属するようになる。神さまと結び合わされている者たちです。 その理由はあえて記されていない。だが、あえて記されているとしたならば、神さまがそのように選ばれたからです。 神さまの方で私たちを選んで、イエス・キリストの十字架に結び合わせてくださいました。 ですから私たちはクリスチャンであり、ですから私たちは神さまの御国を相続する者とされているのです。
いつも思った方がいいです。――理由があるとしたら、恵みにおおよそふさわしくない者であり、その理由の故に、神はあえて私たちをお選びになり、ご自身に結び合わせてくださったと。
3番目にこれで最後ですね。民数記に戻っていただいて、(17章)8節を見ますと――
3)アロンの杖は、芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいました。 なんとも麗しい証しです。もちろんアロンの杖だけが輝いていたというのもありがたいことですが、そうではなかった。 アロンの杖にいのちが吹き込まれ、芽を出し、花を咲かせ、実をつけていたのです。
アロンの杖というのは、モーセの杖です。モーセが荒野で羊を飼っていた頃に持っていた杖です。 モーセがその杖を上に掲げて、敵が押し迫る中、行く道を遮っていた大海原が二つに分かれていきました。 その杖でモーセが荒野で岩を打つと、水が噴き出して、人々の渇きを癒やしました。 アマレクがイスラエルと戦いを交えた時に、モーセがその杖を取り、祈りの手を天に向かって差し伸ばしている時に、イスラエルは優勢になった、その杖です。 それはモーセが持っていた、ただの羊飼いの杖です。
しかし、神さまは、私たちが持っているつまらない杖を用いてくださいます。 そしてこの杖は、ある意味、旅路と放浪の杖です。 しかし、神さまは、一本の杖のような人生から、歩みから、芽を出させ、花を咲かせ、実を結ばせてくださるということの象徴としてここに描かれている。 イスラエルの民は、これから先待ち受けている荒野の四十年、しかしその四十年の中に期待できる、豊かな恵みをこの杖は象徴していたのです。
木の幹から切り離され、太い枯れ枝から作られた杖ですが、そしてそこにいのちはありませんが――それがイスラエルの、また私たちの人生であり、日常です――でも、それを神さまが選んでくださり、またそれを神さまの会見の天幕に置かれると、その杖から芽が出て、花が咲き、実をつける。
私たちはこの信仰に倣って、礼拝しています。 一本の杖のような私たちの人生を神さまは選んでくださり、ご自身のそばに置いてくださる。いのちのない杖です。 でもそんな私たちの人生が、神さまの礼拝の場に置かれると、そんな人生からでも、芽が出て、花が咲き、実をつけると。
「アロンの杖」と言いますと、もしかしたら一般の方々は、D.H.ロレンス(***英国人作家D. H. Lawrence1885−1930)の長編の小説「アロンの杖」を思い出すかもしれない。
1917年、第一世界大戦が終わる1年前に、ロレンス夫妻は、ドイツのスパイという容疑をかけられて、イギリスのコーンウオール地方から強制退去を命じられます。 その頃に彼は、この「アロンの杖」という長編の小説を書きます。 追い出されるというのは、ある意味で、Exodus出エジプトでありました。 大戦前後の動乱期に、不安や孤独や不安や憤りを抱きながら、主人公のアロンは、放浪の旅へ、いわば出エジプトに出発していきます。 しかし、そうした不安や孤独感や憤りに翻弄されながらも、その青年は無意識に花のような、純粋に豊かないのちを求めているという物語です。 この高潔で複雑な作品を、私(藤本牧師)のような者が説明することはできません。もちろん、この本はキリスト教の本ではない。 しかし思うに、出エジプトを強いられ、四十年の荒野の人生、不安や憤りに揉まれながら、荒野をさまようというのは、私たち人間の普遍的な姿ではないかと私は思います。
でもその中で、一本の杖のような私たちが、神さまのもとに置かれた時に、豊かないのちを与えられ、芽が出て、花を咲かせ、実をつけた杖に変えられていく。 その杖は、紛れもなく旅路の厳しさを象徴していますが、紛れもなく私たちを生かす神さまのいのちを象徴しているのが、礼拝に来ている私たち、一本の杖、荒野の杖です。 でも世に翻弄されながらも、主は私たちの正当性を必ず証明してくださる。 「わたし自身が彼らのつぶやく不平を静めよう」(民数記17:5)と仰ってくださるから。
私は元は呪われるようなレビ族だったかもしれない。 でも、神さまは救われる者たちの模範にしようと、あえてふさわしくない私たちをお選びになり、そしてご自身に配属する者、ご自身に所属する者、ご自身と結び合わせている者に変えてくださった。 そして結び合っている限り、こんな杖のような私からも、芽が吹き出て、花が咲き、そして実がなることを心から信じて生きたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、荒野の旅路で、アロンの杖が神さまのみ前に置かれた時に、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んだ。 どうか私たちの人生も、時に微妙だと思いますし、また不平不満で、出口が見えないほど落ち込んでしまうこともありますが、でも、あなたこそが私たちの正しさを証明してくださるお方であり、あなたこそが私たちの杖を取り上げて、あなたご自身に結び合わせて、実を付けさせてくださるお方であることを心から信じます。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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