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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/22 神の家を思う熱心  ヨハネ:2:13〜17 
☆聖書箇所  ヨハネ2:13〜17

 13さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
14そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
15細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
16鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」
17弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

☆説教   神の家を思う熱心

今日はヨハネの福音書の2章を開いていただきました。
説教のタイトルは「神の家を思う熱心」であります。それは17節から取りました。
「弟子たちは、『あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い起こした」というのは、詩篇69篇9節の引用です。

弟子たちは思わずイエスさまの姿を見て、詩篇69篇の9節を思い起こしたということですね。
ちょっと69篇の9節を見てみましょうか?
ダビデの詩篇でありますけれども、ご一緒に9節を読んでみたいと思います。

<詩篇69:9>
9それは あなたの家を思う熱心が 
  私を食い尽くし 
  あなたを嘲る者たちの嘲りが 
  私に降りかかったからです。

ダビデは必死になってこの長い詩篇を詠んでいますが、1節を見てください。
(※読み進める藤本牧師)

<詩篇69:1〜2>
1神よ 私をお救いください。
 水が喉にまで入って来ました。
2私は深い泥沼に沈み
 足がかりもありません。
 私は大水の底に陥り
 奔流が私を押し流しています。

という苦悩の中で、彼は熱心に万軍の神を慕い求める。
そして、その熱心さのゆえに、
「あなたの家を思う熱心が 私を食い尽くす」(9節)程に、
この心・魂・身体いっぱいに神に対する熱心が湧き上がっている、
という、そういう思いです。

私たちは神さまに、どういう時に熱心になるのでしょうか?
様々な場面があるんだろうと思います。
代表的な場面が、ここ(教会)ですね。
それは自分の人生があまりにも難しく、自分を囲む様々な問題に圧倒されるがあまりに、もう日常のことを考えることができない。
唯一考えられるのは、この奔流から――私を押し流す流れから――救い出してくださる神さまを熱心に祈り求める。
その熱心があまりにも強いがために、自分が食い尽くされているかのように、全身を神に対する熱心が覆っていくという。
ダビデはこういうことができる人でした。
私たちは、なかなか実際はできないんですね。
自分を押し流すような流れが来ますと、本当に押し流されて行く(笑)というのが、ま、大体現実です。
誰でもそういうところがある。

そういう中で――先ほど申しました――たとえ涙の谷を行くときにも、神さまは必ず泉を設けてくださるんだ(詩篇84:6)という信仰だけは、私たちも捨てないです。
そして、その神が設けてくださった泉から飲むことができるならば、私たちは絶対に生き返ることができる(***ヨハネ4:14)という希望も私たちは捨てません。
そしてそれをもし一口飲んだならば、きっと私たちの内側で「神の家を思う熱心」、神さまを思う熱心というものが湧き上がって、自分の身体を充満していくに違いないという期待感をもって、今日のところを幾つか見てみたいと思います。

ヨハネの福音書に戻っていただいて、ヨハネの福音書ではこの場面は「宮きよめ」と呼ばれています。
他の三つの福音書で、この「宮きよめ」は、福音書のずっと後半、十字架の一歩手前で出て来ます。
ま、ヨハネの福音書ではそれが2章という、非常に前に出て来ます。
真面目な人は、イエスさまは「宮きよめ」を二回なさったんだろう(笑)と想像しますが、私(藤本牧師)はそれほど真面目ではないので(笑)、イエスさまは一回だろうと思います。
「宮きよめ」みたいなことをしたら、必ず十字架です。
それ程イエスさまは激しいことをなさいました。
ヨハネは訳あって、後半の出来事を2章に組み入れたんだろうと思いますけれども、
どちらにしろ、この「宮きよめ」によってユダヤ教の祭司や律法学者の反感は最大限に引き上げられます。
それが私(藤本牧師)は、(彼らが)イエスを十字架に追いやった一番大きな理由であろうと思っています。

(ヨハネの福音書2章)13節からちょっと読んでいきますね。

<ヨハネ2:13〜16>
 13さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
14そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、
15細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、
16鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け(***持って出て行けですね、と説明)。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」

読めば、淡々と読めます。
でもこの15節の様子――「細縄でむちを作って、牛も羊もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒す」というのは、恐らくイエスさまの感情の爆発です。
このイエスさまの恐ろしいまでの剣幕に、一番圧倒されたのは多分弟子だろうと思います。
当時祭りで宮に集っていた人々は、「なんかこの人、ちょっとおかしいんじゃないかなぁ?」(大笑)と、それ位で済んだんだろうと思いますけれども、
いつも心優しい柔和なイエス・キリストを、真近に見ていた弟子たちにとりましては、
これはもう圧倒する出来事でありました。

1世紀のユダヤ教の歴史家で有名なヨセーフスという人がいます。ヨセフスとか言われていますが、彼の書物は現代日本語に訳されています。
彼は一世紀の人なんですよね。
「ユダヤ戦記」【※フラウィウス・ヨセフス著、ローマ帝国と戦ったユダヤ戦争(紀元66〜70)の記録】【※筑摩書房、秦 剛平(はた・ごうへい)著】という、
ローマ帝国によってエルサレムの神殿が滅ぼされる出来事を詳しく記しています。

その中で、ヨセフスが、紀元62年の仮庵の祭りの時に、こんな事件があったと記しています。
同じ神殿の境内の中で、アナニアスの子イエスと言うお百姓さんが、農家の方が叫び声を上げた。
「東から声がする。西からも声がする。四方から声がする。エルサレムと聖所に敵する声。花婿と花嫁に敵する声。この民全体に敵する声が聞こえる。」
すぐに神殿の当局の人々は、駆け付けて、捕らえて、むち打ちの刑にします。
そのむち打ちの刑があまりにも酷かったということを、ヨセフスは記しています。
背中の骨がむき出しになっていたと。
それでも、このお百姓さんは「ああ、災いなるかな、エルサレム」と叫ぶことを止めませんでした。
で、当局の人々は、彼が気がふれていると判断して、処刑を中断したという記事になっています。
ただ叫ぶだけでもこの有り様ですね。

だとしたら、イエスさまがここで14節〜16節でなさっている、この「宮をきよめる」と言いますけれども、宮の中で一つの暴動的な行為に出て、そこら中のものを倒して、両替人の台をひっくり返して、追い出していくというのは、これは沸騰するような熱心さです。

この言葉は、実は十戒の中に出て来ます。
十戒にこうありますよね(出エジプト記20章4〜6節)。
「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。……あなたはそれらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神……だからである」とあります。
この「ねたむ神」、「妬む」という言葉が、「熱心」と新約で訳されている言葉と同じです。
私たちが周囲の人を妬むという時に、非常に人間的にあくどい、しつこい思いを感じます。

神さまに使われているこの「ねたむ」という言葉は、旧約聖書に実は何回も出て来るんですけれども、それはやっぱり男女間で出て来ます。
どういうことかと言うと、神さまのイスラエルに対する愛があまりにも激しいがゆえに、他を一切寄せ付けないということです。
他を一切寄せ付けない。だからもしあなたが他の神に行くなら、わたしは激情するという。
これが「愛」という言葉の本来の意味であろうと思います。
そういう意味で、神は「妬む神」であり、私たちも「愛」ということを考える時に、そういうことを考えざるを得ないですね。

ヨハネの福音書の場面で、「父の家を思う熱心」――礼拝堂を思う熱心――というのは、恐ろしいばかりの熱情でありました。
他を唖然とさせるような、弟子たちがポカ〜ンと口を開くような、むきになるような熱心でありました。

教会はいつもこの他を圧倒するような、「神の家を思う熱心」によって、支えられて来ました。
高津教会もそうです。
一番最初の教会堂の写真が、この準備室の中に掲げてありますけれども、木造の、何と1947年、戦後二年して建てられています。
周りはまだ焼け野原。木材がない。調達できない中、建てられたのが高津教会です。
日本橋から疎開して来た、木工所を営んで来た勝間田忠という熱心なクリスチャンが、この地で家庭集会を始めます。
多摩川の川を使って木材を運ぶ、だからこの地に住んだわけですよね。
やがて彼は「自分の家庭集会から教会を作ろう」という思いに至り、自分の木工所の木材すべてを使って、つまり資材を投げ打って教会堂を建ててしまいます。

それからしばらくして、1974年に、今の教会堂の基本ができました。
この基本というのがこの講壇分部がそうです。あるいは脇の壁の部分もそうです。
その時まだ、礼拝人数は40名50名ぐらいだったと思います。
それらの方々が古い会堂を壊し、牧師館も一緒に作ったこの勢いというものは物凄かったと思うんです。
そしていま皆さんが使っておられるこの教会堂、二階のロビーに50席ありますね。
それから玄関のロビーが広くなり、トイレも前に出し、ここの書斎も作り、グレースルームも作りという、この大掛かりなデザイン、監督をなさったのはK・Tさんでいらっしゃいました。
床暖房にしました。そして空調をこういう風にしました。全部中身を変えました。

あの時も礼拝を守りながら、礼拝堂を改築するので、大工さんがよく仰ってました。
「こんなことするぐらいだったら、全部壊して建てた方がいいのに」と。
でも最初の会堂を建てた皆さんがいらっしゃるのに、全部いきなり壊すわけにはいかないわけですよ。
ですから無理を言って色々考えていただき、最善の形で今の状態になったわけです。
毎週土曜日に、大工さんと一緒に教会の方々が入れ替わり立ち替わり来て、きれいに片づけ木くずを掃き、そして日曜日には鉄骨が組まれたまま、ここで礼拝をしました。
当時まだ加わったばかりの姉妹が土曜日にいらっしゃって、
「無理しなくていいんですよ」ってお声をかけましたら、
「いや、他にすることはあまりないので、こうやって教会堂の掃除をさせていただけることがどんなに幸せか」と仰っておられました。

「神の家を思う情熱」と言いますか、そして今、Oさんが耐震のためにアルミの梁をこう渡してくださるんですね。
なぜOさんがなさっているのかと言うと、Oさんは、特許を実用新案を100ぐらい持っておられる、ものすごい、福島第二原発の原子炉の専門家なんですけれども、
耐震構造の専門家をお呼びしたんですね。そして見てもらったら、
「いや私たちには何ともしようがありません」ということだったんです。
つまりさらから全部計算して設計しないと、こういう特殊な建物を耐震することはできませんという結論だった。
そしてOさんが立ち上がって、ありとあらゆる力学の計算をしながら、ようやく設計の方は60%・70%。
でもこれから実験をして、本当に大丈夫なのかを確認し、そして施工をするのはもう来年に入っていくわけです。
Oさんは今の自分の人生のすべてをそれに掛けておられる(笑)。
この前設計図を見せていただきましたけれども、こんな量の(※両手を上下に、高さのある書類を持つ仕草)計算書です。
様々な意味で奇特な方が出て来る。
特殊な信仰と言ったらあれですけれども、「神の家を思う熱心がその人を食い尽くす」(詩篇69:9)かのように、教会のことを思ってくださる方々が様々に出て来る。

それで、今のこの耐震構造のプロジェクトはS記念プロジェクトと言いますけれども、Sさんが召された時に教会に1千万円の献金をしてくださった。
Sさんは一番最初の教会堂の頃から、建設には関わってないですけれども、
二番目の教会堂の建設、それからその改築にも、財的にも祈りの面でも関わってくださった方でありますので、
その教会の耐震のために1千万円用いるということは、Sさんが私(藤本牧師)は一番喜んでおられると思います。

「神の家を思う熱心」というのは、一体どんな熱心なのか?
何に対する熱心なのか、ちょっと具体的に見ていただきたいと思いますけれども、
先ず一番目に――

1)神の家は、神がおられる所です。神聖な所です。

エルサレムの神殿は、シオンの山の頂にありまして、大体300メートル四方ぐらいの面積でありました。
神殿の外に大きな庭があって、異邦人の庭と呼ばれていました。
  *異邦人は――ユダヤ人でなければ――神殿に入ることができません。
  *異邦人たちはそこで祈っていたんですけれども、
   【ユダヤ人もそこを通って神殿に入りますから、そこは祈りと供えの庭だったのです。】
  *段々ユダヤ人たちは俗化して、祭りの際に、ちょうど日本の神社の祭りのように、その異邦人の祈りの場にざ〜っと店が並ぶようになりました。

両替商がいます。
ユダヤ人は散らされて行きましたので、一年で半シェケル(今のお金でいいますと1万2千円ぐらい)の宮の納入金、神殿税を納める義務がありました。
  *外国からの巡礼者はみな両替しなければいけません。
  *多額な手数料を取ります。
  *牛や羊や鳩は奉げる犠牲として、その庭で売られていました。
  *通常の10倍〜15倍の値段で。
  *外から自前で持って来ますと、神殿の検査の人が、「この牛の面構えが悪い」とか、「この鳩の翼が曲がっている」とか、全然受け入れてくれないのです。
    ――結果その神殿の庭で買わざるを得ない。
   *なんとつがいの鳩が、金貨一枚です。つまり5万円ぐらいで売られていました。

<マルコの福音書11章16節>では、
16また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。

神殿の庭は、都の東側からオリーブ山に行く近道となった。
それをいいことに、神殿の庭なのに、異邦人の祈りの場所なのに、ただの道路のように神殿の道を行き来します。
慣れてしまって、そこが神がおられるところだという意識がなくなってしまいました。

私(藤本牧師)はね、教会は緊張する所であってほしくないと思っています。
特に初めて来た人が、気軽な気持ちで入ってほしい。肩の張る所ではない。
ただ礼拝に行くと妙に疲れるよね、という。それはみんな疲れると思います。
それは人が集まるからですね。椅子も堅いですしね(笑)。
で、牧師の説教を聞かなきゃいけませんしね(大笑)。
それなりに疲れを覚えて当然なんですよ。
ですから日曜日のお昼は、必ずお昼寝をなさるといいと思います。
でもね、私はなるべく方の張らない場所であってほしいと思っています。
ゆったりとした泉のような場所であってほしいと思います。

でも、人から来る緊張は仕方がないとしても、神から来る緊張はこれはほぐしてはいけない。
神から来る緊張ってのは何か?
それは奏楽が始まったら、私たちは心を鎮めて、ここが神が臨在される所だということを意識することです。
礼拝が終わったら後奏がありますけれども、後奏の途中で立ち上がらないことです。
後奏っていったい何か?と言うと、
礼拝を自分の内側に咀嚼し、ここから離れる前に神さまの臨在の力を、私たちは魂の底で吸収しようとする思いですよね?
この緊張感を私たち崩してしまいますと、礼拝に来ている意味はほとんどないです。

イエスさまは「神の宮は神のものだ」と仰いました。
(ヨハネ2章)16節の真ん中に出て来ます。「わたしの父の家」。
つまりこの教会は祭司のものではない、神さまのものだ。
イエスさまの表現では、「すべての人の祈りの家」(マルコ11:17)と書いてあります。
神さまは祈る人をここに招いてくださる。
だから祈り心を持たずに教会に来る、というのは果たしてどうなんだろうか?と思います。
異邦人であっても、ユダヤ人であっても、誰であっても遠慮することはない。
しかし、祈る者を神さまは教会に招いてくださる。
なぜなら、この場は私たちの場ではない。
この場は神さまが所有しておられる空間であって、神さまの臨在に満ちておられる場であって、神さまに賛美を歌う時には心から歌い、祈る時には真実に祈る。

2)その熱心は、従って、礼拝に対する熱心です。

よく言われるように、キリスト教は別に会堂にこだわる必要はないです。
「二人でも三人でも、わたしの名において祈るとき、わたしもそこにいる」(***マタイ18:19〜20)と、イエスさまは仰いました。
教会は建物ではなく、人の集まりです。
しかし、旧約聖書においても、キリスト教の二千年の歴史においても、教会はいつも教会堂・礼拝堂にこだわって来ました。

明らかに二つの理由がありました。
@建物をもって神を礼拝するのにふさわしい雰囲気を作る。
装飾豊かな場合もある。何にもない場合もある。
正面に十字架さえも掲げない教会もある。
それはそれなりのフィロソフィー(哲学)をもって、
どのようにして神を礼拝する雰囲気を作り出すかということを、建築家の方は考える。

Aそして何よりも、本来建物にこだわらないはずのキリスト教が建物にこだわるのは、
皆一時に一遍に集まって礼拝をしたいからです。
ひとり奉げる礼拝もすばらしい礼拝です。
でもなぜ、皆で捧げる礼拝なのか?
私たちは神の民です。私たちは神の家族だからですね。
神さまは一人の人を祝福してくださいます。
でも神さまは契約をされた時に、神さまはご自身の民と契約されました。
一人と契約したのではない。
神の民全体と契約し、私たちが洗礼を受ける時に、神の民に加わる洗礼を受けているわけです。

「皆が一遍に集まる」という時のために、そして「その場所が神さまの臨在にふさわしい空間とする」ために、キリスト教会は教会堂にもこだわって来ました。

イエスさまの信念をちょっと見ていただきたいと思うんですが、(ヨハネ2章の)19節から読んでいきます。
神殿のほんとの意味ですね。

<ヨハネ2:19〜20>
19イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」
20そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」

四十六年かかったというのは、ソロモンの神殿が(※バビロン王、ネブカデネザル2世によって)壊された(※BC586)後、バビロン捕囚の民が(※ゼルバべルによって)神殿を建て直します(※BC515)。
それから約五百年後に、ヘロデ大王がもう一回神殿改修をします。
それがこの四十六年前です。(※実際には神殿建設はAD60年代前半まで続き、完成後AD70年には再度ローマによって破壊される)。

「四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか?」
しかしイエスは、「ご自分の身体」という神殿について語られたのである。
本当の神殿は「復活されたイエスの身体」ですね。
ですからこの教会堂は、私たちはイエスの身体の中に入っている。

私たち一人ひとりがイエスの身体を構成している。
一人一人が一同集まった時に、指一本欠けることはない。
一同起立して讃美する時に、声を合わせて使徒信条を唱える時に、キリストの身体の枝々がもれなく整列して、
そこで一週間の間姿が見えなかったキリストの身体が、指一本失われずにもう一度ここで復元されている。
それが礼拝です。
(※つまり、外側の容れ物も、内側の人々も、両方とも神の宮なのです。)

私たちは礼拝をもって、世に証しをする。
キリストの身体は今も生きて、私たちのこの教会の中で実現している。
だから私たちはキリストの身体にふさわしくないことはしないんですね。

私(藤本牧師)がこの礼拝説教をする、ちょっときっかけになりましたのは、
それは今年は令和で、元号が変わり、新しい天皇の即位があり、
皆さん、昭和天皇の体調が悪くなった1988年、覚えていらっしゃいます?
まだ生まれていない方もいらっしゃいますね。昭和63年ですね。

10月ぐらいから朝のテレビに、時間と天気と、それと一緒に天皇の血圧が出るようになりましたね(笑)。
そして、10月の秋に始まった華やかな宣伝は全部姿を消しました。
日産はセフィーロという車を出したのを、私(藤本牧師)は覚えているんですね。
セフィーロの車のキャッチフレーズが、「くうねるあそぶ」だったんです。
最初はその意味が解らないんですけれども、それは食って寝て遊ぶという(笑)。
そのテレビの宣伝は一瞬にして姿を消しました。
天皇が人生の最後苦しんでいるのに、食って寝て遊ぶとはどういうことなのか?
テレビからありとあらゆる歌番組が消え、カラオケはネオンを消し、そしてNHKは果たしてその年紅白歌合戦をするか、ず〜っと議論するわけですよ。
そして11月7日に、「今年も変わらずやりましょう。しかし昭和の歌が全部揃うような紅白歌合戦にしましょう」ですよね。
まるで戦争中のように、日本全体が「天皇」「天皇」と言って右に傾いて行きました。

この日本の右傾化を懸念する声明を、日本のミッションスクールの学長四人が連名で出します。
その一人にフェリス女学院の弓削 達(ゆげ・とおる)先生(1924〜2006)がいらっしゃいました。
で、弓削先生の学長室に銃弾が撃ち込まれます。

ああいう中で、日本の教会全部が、1988年危機感を持ちました。
一体どういう国なんだろう?
天皇が病んで、苦しんで、もうすぐ人生終わりか?と言うだけで、歌番組も全部止めるんだ。
あの年のクリスマス、私たちも少し悩みました。
もしクリスマス、元旦礼拝、讃美歌を歌ったら、近所の人たちはどういう風に思うんだろうか?
ミッションスクールの礼拝も含めて、全部悩みましたよ。
でもそういう懸念、全部後にして、私たちは高らかに主の生誕を賛美し、堂々と元旦礼拝を捧げ、天皇は1月7日に崩御されましたよね。

でもこれが戦時中だったら、どれほどの苦労があったと思います?
特高が会衆に混じり、牧師の説教を監視しているんですよ。
礼拝の前に「君が代」が歌われるかどうか、宮城遥拝(きゅうじょうようはい)が為されるかどうか、教会の玄関に天皇の御真影が飾ってあるかどうか、全部チェックして特高は教会を回っていくわけです。

そういう中で礼拝を捧げるか、どれほどの苦労があったか、想像を絶します。
それでも、みんなで一つになって礼拝を守って来ました。

それは私たちは神の民で、神の民は一つとなって、神の臨在のあるこの教会に来て礼拝を捧げるということを尊ぶ。
全員でキリストの身体で、一人欠けてもそれは欠けです。それは欠けになるんです。
キリスト教会はいつもそういう気持ちで、礼拝を守って来ました。
ですから、私たちはインターネットでも礼拝をしています。

Kさんたちが四万十川にいらっしゃった時に、「こんな山の中で、こんな所で、礼拝を普通に守れるのか!」と親子で感動したという話を聞きました。
夏の聖餐式で、私はどういうわけか、いきなりI・Yさんの名前を呼びまして、これから聖餐式が始まるから、すぐに何でもいいから用意してくださいと。
Iさんは仰ったそうですね、(奥さまの)Kさんと一緒に。
「え、Iって言っているけど、あれはぼくらのことなの?」って(大笑)。
もう一人のI(※Yさんご一家のこと)がこちらにいますので、
「ぼくらのことなの?」と(お兄さんのYさんは)急いで冷蔵庫の中を捜して、パンと――ぶどう液がなかったですから――水で聖餐式をなさった。

一つなんですよ。一つ。
私たちは別に、うちの教会員がよそでインターネットでしている礼拝は、よその礼拝だなんて意識は全くないです。
どこにあっても一つで、礼拝。で、礼拝のことを思うだけで礼拝。
ですから、私たちは今日病院に入院している方のためにも祈るんですね。
「神の民」として一つじゃないですか?
私たちは、時折り、こういう熱心さを忘れるんですね。
礼拝がいかにもつまらないものであるかのように感じ、
そしてこんなもの、あってもなくてもどうでもよいもののように思えてしまった時に、
私たちはもはや「神の民」としての自覚を失った者たちだ。

広島から来られて、「日曜日、礼拝に出たい」
日曜日、その時間に礼拝が守れなかった時には、ネットを検索して、そして高津教会の音声の礼拝が保存してありますので、それを聞いてみたい。
あるいはTさんが(※正確に言うと、文字起こしを)してくださいましたメッセージを、全部読んでみようとか。
それは私たちは変わらずに、「神の民」。
時代がどう変遷しようが、年号がどう変わっていこうが、私たちは「天国人」。
日本人である以上に「天国人」である。
それがゆえに、「天国人に一番ふさわしい所作が礼拝だ」ということを、ぜひ覚えておいていただきたいと思います。

☆お祈りをいたします――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、時に「ここにあなたがおられる場である」ということを忘れて、日常の悩みや疲れに心を囚われ座っています。でも輝いて賛美しておられる方々を見て、私たちも刺激され、真実な祈りに心動かされ、みことばに心動かされて、
「ああ、もう一週間頑張ろう。また力をいただこう。荒野と思えたこの大路に、泉の場を発見した。あ、そうか、この泉は私のために設けられているんだ。ここから飲ませていただこう」(と感謝いたします)。

三歩進んで二歩後退するような私たちでありますけれども、みことば(***イザヤ35:3、8)にある通りに、「弱った手と衰えた足を再び強くして、シオンへの大路をそれにふさわしく歩む者とさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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