☆聖書箇所 ヨハネ15:16
16あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。
☆説教 聖餐式:神の視点
特別に今日はヨハネの福音書の1か節だけを読んでいただきました。後に13節、14節にも目を留めたいと思いますが、16節――
16あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。……
というこの言葉で、洗礼を受けた方は決して少なくはないと思います。
私たちが教会と接点を持つ、あるいはイエス・キリストと出会う、という時に、この今読みましたキリストの言葉の中に、大きく二つの見方が記されています。 一つは、自分の「人間的な視点」から信仰を考えるということです。 もう一つは、「神さまの視点」から信仰を考えるということです。
この二つは一見して区別できるものではありません。 でも私たちの言葉の端々、私たちの生活の態度、自分の今、それがどちらの立場で、どちらの視点で人生を見ているのかわかります。
●「人間的な立場、視点」で、神を信じるというのは、 「私が神を見出し、私が見出したキリスト教を信じるようになった」というものの考え方です。 普通に考えれば、とても常識的です。 そこから入るのでなければ、キリスト教になかなか入れません。 日本のように、沢山の宗教がある国では、どれを信じたらいいのかわからない。どれが本当の信仰であるのかわからない。 結局、自分で読んだり、調べたり、聞いたり、考えたり、そして最終的に自分が選んで、自分がキリスト教を信じる。 クリスチャンの家庭で育ったのでなければ、普通この視点は当然のものの見方だろうと思います。
この人間的な立場、人間的な視点というのは、教会を考える時に一番顕著に例えば現れて来ます。 自分が属する教会を選ぶ、自分が洗礼を受けるようになった教会、自分がどうしてそこに行くようになったのか? 自分の家が近かったからなのか? 偶然そこに行ったからなのか? 友だちに誘われたからなのか? 私が行く教会、それが高津教会。 教会というものは、キリストを信じ、神を真じるという信仰を共にする人々の集まり。 ここにいる私たちは皆、高津教会で礼拝を捧げることに決めた私たちであります。 ある意味で、誰もがこういう所から始まると言ってもいいと思います。
●しかし長い間、イエスさまの恵みに生かされていると、「神さまの視点」に立って、自分の人生を見るように改めて考えさせられます。 それがこの16節――「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」
この一節の前半と後半は明確なコントラストを描いています。 「あなたがわたしを選んだ」というのは、人間的な視点です。 そうではなくて、「わたしがあなたを選んだ」と、ものの見方を、イエスさまはここで逆転されます。 私たちの日常で起こる小さな出来事から、大きな決断に至るまで、自分の判断で動いているように思いますけれども、実はそうではない。 神さまの壮大なご計画の中で、私は呼び出された。
教会というのは、ギリシャ語でエクレシアと言いますが、エクレシアというのは、呼び出された者たちの集まりという意味です。 呼び出された――私が神を呼んだ以上に、神によって導き出され、召し出され、呼び出されて、私たちは今この場にいる、ということです。
そして、この神さまの視点で、自分を見つめ直していくと、本当に深い所に達します。 詩篇139篇を見てください。ちょうど(聖書の)真ん中位ですね。 詩篇139篇の13節〜16節までを交替に読んでみたいと思います。
<詩篇139:13〜16> 13あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です。 14私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって 恐ろしいほどです。私のたましいは それをよく知っています。 15私が隠れた所で造られ 地の深い所で織り上げられたとき 私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。 16あなたの目は胎児の私を見られ あなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々が しかも その一日もないうちに。
これを記したダビデは、後にこのことを悟るわけですね。 どういう風にして悟ったのか分かりません。 しかしまだお母さんのお腹にいる時から――
16あなたの目は胎児の私を見られ あなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々が しかも その一日もないうちに。
何も決定論的なものの見方で、わたしはあなたの運命を、宿命を決めたと、神さまは仰っておられるわけではないでしょう。 でも1節を見てください。(※読み進める藤本牧師)
<詩篇139:1〜3> 1【主】よ あなたは私を探り 知っておられます。 2あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます。 3あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知りぬいておられます。
と仰る神さまは、私たちが生まれる前から、私の人生の一日がまだ始まっていない時点から、私のことを知り、私の人生の歩みをご自身のいのちの書物の中に書き記された。 ――ということは、全部考えてみると、「神さまの視点」というものがあるんだ、ということをダビデは気がついたということです こうして私たちは自分を見つめ直し、自分の人生を見つめ直して、きょう聖餐にあずかりたいと思います 3つのポイントでお話しします。
1)過去を見つめ直す。
旧約聖書にヨセフという人がいます。 聖書は開きませんので、ちょっとこう話を聞いてください。 彼はまさに波乱万丈の人生を過ごしました。
パレスチナに住んでいて、ヤコブの(息子たち)当時まだ11人の兄弟、その11番目、父親が特に可愛がったのがヨセフでありました。(***創世記37章) でも兄さんたち10人は腹違いの兄さんたち。 その妬みを買い、彼は殺されかけエジプトに売られて行ったのが17歳であります。 エジプトで一生懸命働いて、ポティファルという役人の家を任されるようになります。 しかしその奥さんの誘惑に遭い、その手を払い除けたヨセフは、逆に「乱暴された」と奥さんに訴えられ、牢獄に入れられ、そこから二年かけて出ることができ、やがて総理大臣になり、長〜い年月が経過していきます。
彼はエジプトの女性と結婚して、子どもが与えられた時に、自分の子どもにマナセという名前を付けます。(***創世記41:50〜51) マナセとは、忘れるという意味です。自分がこれまで受けて来たところの様々ないじめ、裏切り、悪意、自分が受けた所の傷を、神さまは祝福によって忘れさせてくださったという意味で長男にマナセという名前を付けます。 神さまは多くの祝福を与えてくださり、ようやく父の家を、そして自分の故郷を忘れることができる。
ところが、しばらくしてパレスチナの地に飢饉が起こります。 兄弟10人が、そして自分の下に生まれたベニヤミンの11人が、食料を買いにエジプトに出て来ます。 そして十数年前に別れた兄さんたちと劇的な再会をエジプトで果たした時に、 彼は「神さまの視点」から、自分の過去を見つめ直すということをいたします。
ちょっとこれは開いていただきたいと思うのですが、創世記の45章ですね。 神さまの視点で、自分の過去を見つめ直すということをヨセフはするんです。 私が7節を読みますので、皆さんが8節を読んでみてください。
<創世記45:7〜8> 7神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。 8ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。
8節に、「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです」というのは、興味深いですね。 別にヨセフはお兄さんたちによって、エジプトに遣わされたわけではないです。 (事実は――)エジプトに売り飛ばされた。 殺すよりはいいだろうということで、生涯一度も目を合わすことがないように。 そして(10人の兄弟は)お父さんには、「獣によって咬み殺された」と言って、ヨセフの着物に血をつけて、そしてお父さんに殺されたヨセフのことを報告します。
でもここで、ヨセフはものの言い方を全部逆転して、 「私は神によって、あなたがたよりも先にエジプトに遣わされ、エジプトの統治者となり、それによって、私の家族、お父さん・ヤコブを含めたこの家族が、飢饉から救われるように、神さまは計ってくださったんだ」 「神は私を造られ、私と共におられ、私の日が一日も始まらない内に、いのちの書に私の日々を記された」(詩篇139:16)ということは、 ある日ダビデが、ある日ヨセフが自分の人生を振り返った時に、ふっと気がついた所の「神さまの視点」ですね。
日本のメソジストの有名な聖書学者に渡辺善太(※わたなべ・ぜんだ1885〜1978)という人がいます。 酒に酔って神田の道を歩いていた時に、当時中田重治【※なかだ・じゅうじ1870〜1939、聖歌の編纂で有名な中田羽後(うご)は日本イエス荻窪栄光教会を創立したが、その父】という人が伝道を始めて、そしてそこに迷い込み、中田重治先生に渡辺善太は言われるんですね。 「おまえは酔っ払いだから、毎日教会に来なさい」 彼は毎日教会に来るんでね。 救いにあずかり、やがて献身し、そしてアメリカとドイツに留学し、戦後日本を引っ張っていく所の聖書学者になって行きます。 彼は80歳を超えても、現役の講壇に立っていた程の説教者でありました。 ちょっと彼の証しを引用いたしますね。
――ここから―― 私は数え歳で81歳になりますが、本当に私は生涯ありがたいなあと感じています。私の書いた本は売れません(今は売れていますけれども、と藤本牧師、大笑)。尤も、今度全集を出してくれるという話ですが、社会では尊敬されていません。学校で教えたって、神学校ですから月給は少ないんです。
青山学院に23年務めました。戦時中に神学校が合同するというので、その一つの学校の責任を持たされたこともあります。
あの学校で、私はボーナスを一度だけもらったことがあります。それは今、本部になっている立派な建物ができた時のことです。(本部になっているというのは、青山学院を入って左側にある古めかしい建物のことですね、と説明)。
それができ上がった時、部長のぺリー先生が、私と同僚二人を呼んで言いました。 「これが君たちのボーナスだ。受け取ってくれ」 「ありがとうございます」 「あ、ちょっと待ってくれ。実はね、その封筒の中は空っぽなんだ。それは君たちの言う目録だよ。中身はあの建物を建てるのに必要だったから、もう事後承諾で寄付してもらったんだ(大笑)」
これが青山学院に23年務めて、たった一度だけもらったボーナスです。たった一度だけ。その他は、全部マイナスでした。けれどもすべてが、これはねぇ、負け惜しみで言うんではないんです。本当に私は今ありがたいと思います。ああいうこともこういうことも、一切がイエスさまの導きだったんです。その当時は悔しくて涙の出たようなこともありました。でもいま考えてみると、恵みだったんです。 ――ここまで引用終わり――
その時には、そんなことは思えないですよね。 でもある時振り返った時に、それが神さまの導きであり、恵みであったということを実感したと言うんですよ。 負け惜しみじゃない。 私たちにしてみると、負け惜しみを言いたくなるような出来事っていうのは、沢山ありますよね。 でもふっと振り返った時に、イエスさまは私たちの唇に手を押さえて、 「それは言うもんじゃないよ。言わなくても、わたしは存分にあなたを祝福するんだよ」 という風に、イエスさまは仰ってくださいます。 完全に敗北だな、失敗したなぁと思うような出来事からも、きっとにじみ出て来る神さまの憐れみがある、というのが、それが私たちの信仰ですよ。 今はそう思えないかもしれないけれども、神さまは必ずそういう風に私たちを思わさせてくださる。
2)自分の将来を見つめる。
自分の過去を見つめるだけでなく、「神の視点」で自分の将来を見つめる。 それがヨハネの福音書の15章の16節。
16……それはあなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、……
あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。 イエスさまは、私たちの将来を見て仰います。 「行って実を結べ。で、わたしは、その実が残るようにする。 だから、何でもわたしの名によって、父なる神に求めなさい。 あなたの将来、実を結び、その実が残るように、わたしはあなたの人生を用いる」 とイエスさまは仰いました。
聖書で召命という時に、伝道者になることだけではないです。 私たちクリスチャンは皆召されて、神の国へと召され、キリストを証しするために自分の人生を主が用いてくださる、という、 それぞれの場所で、自分の人生を、主が用いてくださるということを考えます。
私(藤本牧師)、先日8年ぶりに名刺を作りました。 インターネットで、デザインを選んで、名前を放り込むと立派な名刺が100枚3千円ぐらいでできて来る。 すごくいい名刺で、ふと気がつきましたね。配る所がない(大笑)。まだ一枚も使っていないんですよね。 週報に挟もうか(大笑)と思う位、配る人がいない。 100枚どうしようかと思って、まだずっと積み上げたままなんですけれども。
名刺に初めて「インマヌエル高津キリスト教会牧師」という、もうその単純なタイトルだけで行きました。 私は名刺をまじまじ見て、「あ、自分は牧師なんだ」(笑)と思いましたね。 ほんとにそうなんだろうか?(笑)ともう一回見るぐらい、肩書なんていうのはそんなものにしか過ぎないと申しますか。
そしてその肩書というのは、世の中でほとんど通じないですよね? その名刺を出しますと、先ず皆さん訊きますよ。 「インマヌエルって何ですか?」って、訊きますよね。 その次に訊くのは、「牧師ってのはどうやって食べてるんですか?」(大笑)みたいな、 その嫌〜な質問を、名刺を出すと言われてしまうわけです。
素敵な名刺だなと思いながら、その肩書を見ながら、こんな肩書で生きている自分、 こんな肩書の名刺がなくても、イエス・キリストの栄光を放つような人物に、果たして自分はなっているんだろうか? この人の言葉を聴いただけで、何とも言えない慰めと力が宿るような人物に、自分はなっているんだろうか?と思ったら、 依然として肩書だけの自分に絶望する時がありますね。
でも今年、私たちの教会に与えられたみことばは―― 「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」(ピリピ1:6) イエスさま、もうかなり後ろの方に来ています(笑)。一体いつになったら完成してくださるんですか?なんですが、 でもそれはあくまでも「人間的な視点」ですよね?
イエスさまの視点から言うと、「わたしはあなたを遣わす」と。 そしてあなたは実を結ぶ。しかもその実は残る。実を結んで、その実が残ることができるように、いつでもあなたは祈りなさい。 わたしの名によって、父なる神に祈りなさい。 父なる神は、あなたが必要なものを、それが忍耐であろうが謙遜であろうが、それが勇気であろうが慰めであろうが、父なる神はあなたにくださいます。 それが「神の視点」で見た私たちの将来ですね。
まだ小学校の低学年の頃に、馬渕ひかりさんはお父さんの仕事でイギリスに住み、イギリスの小学校に行きました。 後にビデオを見せていただいて、ああ、勇気ある子だなぁと思います。 運動会もあれば、社会科見学もあったと思いますけれども、イギリスの小学校に行くんですね。
帰って来てしばらくして、 「先生、英語の名前がほしい」と(言われました)。 「あ、それはいいね。洗礼名というのもあるし、これから国際人として分かり易いように考えてあげるね」 で、私が考えたのは、クリスティーでした。 「男の子だったら、クリストファーだよ。 この名前はね、一世紀の昔からあって、キリストを運ぶっていう意味なんだよ。 これからの人生、イエスさまに運んでいただいて、 同時に、イエスさまを運ぶ。 イエスさまの福音、イエスさまの愛と平和を、どこにあっても運んでいく。 イエスさまは君を用いる。だからこの名前は大切にしてね」と伝えました。
私たちは皆小さな小さな存在ですよ。 何をしたら神さまの栄光が現れるのかなんて、全然わからない。 でもそれは「人間的な視点」で、「神の視点」から言うと、 イエスさまは用いてくださる。何をしても用いてくださる。 その代わり、何をしても、わたしの名によって父なる神に求めるならば、父なる神は必要なものをすべてあなたに与えてくださる。
3)過去を見つめ直し、将来を見つめ、そして「今の自分」を見つめる。
今の自分というのは、沢山の課題を持っているわけですが―― 15章の13節、私(藤本牧師)が読みますので、皆さんが14節を読んでください。 これがヨハネが記した「イエスさまの視点」による、今の私たちです。 13と14を交替に読みます。
<ヨハネ15:13〜14> 13人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 14わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。
今の自分というのは、イエスの愛で包まれている自分です。 13節というのは、こんな感じですね。 イエスさまは弟子を見つめて仰いました。 「わかるだろう、人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。こういうことって分かるだろう?」 弟子は言います。 「はい、わかります。確かに一般論として、そんなに大きな愛は誰も持っていません」 すると、イエスさまは、私たち(弟子たち)の目をじっと見て仰います。 ギリシャ語ですと、順番が14節は逆です。 「あなたがたは、わたしの友です。もしわたしの命じたことをあなたがたが行うなら」 そうしますとね、「あなたがたはわたしの友です」という言葉の方が14節、先に出て来るんです。 すると、13節から読んでいくとわかります。
13人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 (※と、イエスさまは一般論を仰る。それからすぐにイエスさまが仰ったのは、と説明) 14あなたがたはわたしの友です。
と仰った。 つまり「わたしはあなたがたを愛するがあまりに、あなたがたのためにいのちを捨てる」と。 そして、「その十字架を――わたしがあなたがたを愛するがあまりにいのちを捨てているのを――見たら、真実な意味でわたしがあなたがたの友だということが解ってほしい」と。
ですから15節、こうなっていますね。
15わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。……
というのは、いま既に、あなたがたはわたしの友です。 そしてわたしは愛する友のためにいのちを捨てることによって、わたしがあなたがたをどれほど愛しているかということを、あなたがたに明らかにします、と仰ったんですね。
私たちはイエスさまのことを「友」とはなかなか呼べません。 やっぱ、主イエス・キリストと呼びます。 でもイエスさまは時々私たちに仰るでしょうね。 「その『主』というのも止めてくれないか?」と。 「わたしはあなたがたの上に立っているかもしれないけれども、わたしにとってあなたがたは、わたしの友なんだよ。 それほどわたしはあなたがたを愛している。あなたがたと共にいる。あなたがたを抱き寄せる。 十字架を見たら、その神々しい神の御子イエス・キリストが十字架にかかられたということ以上に、わたしの愛を思い出してほしい。 あなたの罪のために、その罪が赦され贖われるために。あなたのためにいのちを捨てたわたしの愛を思い出してほしい」
私たちはこれから聖餐にあずかります。 聖餐はまさにキリストの愛そのものです。 それはいま様々に苦労している私たちを友と呼んでくださり、私たちを愛してくださるキリストの愛にあずかる聖餐です。 この聖餐にあずかった時に、私たちは改めてその過去の様々な出来事を「神の視点」から見直すことができる。 こんな試練、こんな課題、ない方がいいなぁと思うことは沢山あります。 でもダビデはある時思い直した。 私の日が一日も始まる前に、既に私の人生をいのちの書に書き記された神よ。 その神は、すべての事を働かせて益としてくださる(***ローマ8:28)に違いない。 自分なんか、一体神さまのために何ができるんだろう? いやもしあなたが祈るなら、わたしの名によって祈るなら、 あなたが実を結び、その実が残るように、わたしはあなたがたを遣わす。 あなたの将来は、何か偉大な人物に、偉業を成し遂げることではない。 わたしの愛と平安をこの世界に運ぶことが、あなたの一番の使命だということを忘れないでほしい。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、今あなたの聖餐にあずかろうとしているのは、インターネットを通して礼拝を守っておられる、私たちの教会家族皆に共通していることです。私たちは皆一つのパンに、一つの杯にあずかることによって、この教会が一つであるということを証しします。
同時に、私たち皆があなたの愛を必要としています。聖餐にあずかる時に、その愛をもって私たちを包み、そしてダビデのように、ヨセフのように、自分の視点ではなく、あなたの視点から、自分の過去も、自分の将来も、見つめ直すことができるように助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖餐式――藤本牧師司式
※説教より前と、 聖餐式以降は聖日説教でお読みいただけます。
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