☆聖書箇所 マルコ15:16〜22
16兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。 17そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 18それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。 19また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。 20彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。 21そこへ、アレクサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。 22そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。
☆説教 キリストに出会ったからには
広島・長崎の平和記念の行事を、私(藤本牧師)は今年はニュースで見るだけに留まってしまいました。テレビの特番がどれくらいあったのかわかりません。 高津教会では、私たちの教会出身の(沼津教会の)小島聡先生が、いつも原爆と平和にいつも心を留めていてくださることは感謝なことだなぁという風に思います。
平和記念の式典のニュースを見ながら、圭子(先生)がぼそっと言っていました。 「あぁやっぱり唯一の被爆国っていうのはすごいね。日本だけが唯一なんだよね」と。
人類の歴史は戦争の歴史と言ってもいいくらいだと思います。聖書の中にもいくらでも戦争は出て来ます。人間の罪は争いに現れます。それが故に人と人、民族と民族、国と国が争う。 それほど歴史の中に戦争が刻まれているわけでありまして、ま、私は戦争を知りませんが、できれば戦争を知らないでいたいと思いますけれども、しかし、国の歴史の中で戦争や争いのない、それを知らない国というのは、存在していないでしょう。
それほど戦争は、人類の歴史の中に深〜く刻まれています。 でもその中で、核爆弾の恐ろしさを体験したことがあるのは日本人だけ、日本人が唯一であると言う時に、私たち日本人が発する核爆弾に対するメッセージは、それなりのものを持っていなければならない。 それは世界の他の国々の人々とは違うメッセージでなくてはならない、というのは当たり前のことです。
ずっと旧約聖書のモーセから学んで来ていましたけれども、やはり平和を覚える意味で、今日は少し違う観点から、お話したいと思います。
今年4月に、ジュネーブで開催されました核拡散防止条約の再検討の委員会でスイスなどが起草し、約80カ国の賛意を得た共同声明がありました。 それは、「核兵器の非人道性に関する共同声明」――核兵器は非人道的である。 そして、核使用の非人道的側面を指摘した上で、その共同声明は、「いかなる状況下でも核が再び使用されないことが人類の生存の利益となる」という文章です。――いかなる状況下でも、核が再び使用されることは、人類にとって、生存の危機的状況となる。 しかし、安倍首相の日本は、この賛同の声明に署名することを拒みました。 安倍首相の日本が、この共同声明に反対した理由は、この声明の文章にある、「いかなる状況下」という表現です。 北朝鮮の核実験を含めて、核兵器の脅威にさらされている時、日本はアメリカの核兵器に頼らなければいけない、そういう状況が生まれるかもしれない。 だから、ある意味で、核兵器というものは、いわば「必要悪」として認めなければならない、というのがその理由です。
私(藤本牧師)は、「他の国の人々」なら、核兵器を必要悪として認めざるを得ないという考え方も通用するだろうと思います。 でもそれはあくまで「他の国の人々」であって、その「他の国の人々」はその恐ろしさを知らないからです。
しかし、唯一の被爆国として21万人が原爆で悲惨な死を遂げた国として、「いかなる状況下でも」、核兵器は使ってはならない、と言わなければいけないのは、その共同声明に賛同した80カ国ではない。実は日本が言わなければならない。
長崎の田上(たうえ)市長が、平和宣言で首相の姿勢を批判しました。 「これは二度と、世界の誰にも被爆を体験させないという、被爆国としての原点に反する」と日本の姿勢を批判しました。 私(藤本牧師)は、これはすごくキリスト者としても考えなければいけないものの考え方だと思います。
申し上げましたように、人間の歴史に、これからも戦争はついて回るに違いないと思います。 私たち(クリスチャン)は平和を作り出す者として、いかなる争いにも戦争にも警戒しなければいけないと思います。 しかし、日本人キリスト者であるならば、あるいは日本人であるならば、核兵器だけは、人類の存在そのものを消し去るような壮絶な悪である、という認識を持っていなければいけない。 その認識が与えられる国民があるとしたならば、第一に、それは日本人であると言わなければいけないと考えています。
広島に原爆が投下された直後、当時のフランスの(実存主義)哲学者のサルトル(1905〜1980)は――サルトルは無神論者でありますけれども――こんな言葉を残しています。
「今日以降、人間は、毎朝、今日も自分の責任で生きていかねばならないという自覚を持つべきだ。 今後、人類が生き続けるとしたら、それは、今まで人類が生きて来たから、その惰性で生き続けることができる、という安易な思いを捨てるべきだ。 このような兵器が存在する限り、私たちが今後も生き続けようという意志を強力に持つ時にのみ、生き続けることができる。」 もう惰性は通用しない。彼は日本から遠く離れたフランスで、しかも原子爆弾という脅威を直に体験したわけではないにもかかわらず、もう惰性は通用しないと、強烈に自覚しました。
戦争の惰性など、通用しない。 これほどひどい悪が人間の中にあるということが分かった以上、平和は、自分の責任と意志で貫かなければ、存在しない。
私たちは原爆の唯一の被爆国であるばかりでなく、原子力(発電)の事故という観点から考えても、ま、ソビエトのチェルノブイリ以来、アメリカのスリーマイル島のあの出来事以上の事故を体験し、そして被害者の方々は、今も苦しみの中にいると考えた時に、私たちはいったい物事をどういう風に考えたらいいのだろうか。
原爆という被害の後、あるいは原子力発電の事故の後、それはその前と後では大きく違うだろうというのが、サルトルでしたら、今でも言うのだろうと思います。
実存主義というのは、個人の意志の決定を非常に重んじます。ですからサルトルが一番嫌うことが、惰性です。 実存主義の哲学者の多くは、無神論者ですけれども、そのメッセージはとっても聖書に通じるものがある。 それは聖書も同じように、惰性というものを嫌うからですね。
聖書に描かれている生き方も、惰性を許さない。 それは、聖書に描かれている生き方は、人間の持つ罪の巨大さに触れる。その罪の奥深さ、その罪が巨大なブラックホールのように、私たちを吸い込んでいくというその現実を、聖書は鋭く指摘しています。
そればかりでなく、そのブラックホールのように、私たちのいかなるものも吸い込む罪の大きさ、それよりもさらに大きな神の愛のすばらしさ、というものに触れているのが聖書です。 ですから、ただ、のんべんだらりと、何も考えないで、流されて生きていくことは(聖書を読んでいる者は)できないのです。
エルサレムの道を歩いていた、クレネ人のシモンに目を留めるために、あえてこの場所(マルコ15:16〜22)を開きました。 20節にこうあります。
20彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。 21そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所へ連れて行き(22節)、24節「それから、彼らは、イエスを十字架につけた」。
イエス・キリストが十字架にかかる前に、鞭打ちの刑に遭っています。 背中の肉が剥ぎ取られるような刑で、多くの血をすでに流してしまったイエスさまは、自分の十字架を担いで、エルサレムの市内を引き回されて、町の外にあるゴルゴタと呼ばれるその丘にたどり着くことができませんでした。
自分がかかる十字架を担ぐことができない。それを見たローマの兵士は、たまたまそこに通りかかった、クレネ人シモンに無理やりイエスの十字架を背負わせます。 そしてシモンはゴルゴタの丘まで付き添い、そしてキリストの十字架をその目で見ることになります。
それはまさにたまたまのことであって、過ぎ越しの祭りのために、北アフリカのリビアの都市クレネからわざわざこのシモンは出て来ていたわけです。エルサレムの状況も知りません。 そこへ、十字架をかついで、よたよたしながら、ののしられながら、歩いていく男を見た。 回りの見物人と一緒にその姿を見ていた時に、ローマの兵士は彼を捕まえて、代わりに十字架を背負うように(命令された)。
突然のことでした。 私たちはこのようにして、突然の出来事に巻き込まれていくのです。 それが事故かも知れない。それが自然災害かもしれない。それが戦争という出来事なのかもしれない。 そして私たちは、何と巡り合わせの悪い、運の悪い出来事だろうと思いながら、黙って背負うしかない。 そして背負いながら、私たちはさまざまなことを考えるのです。 シモンは十字架を担いで、ゴルゴダの丘へ向かい、そしてその残虐な処刑の現場を、その目で見ることになります。 道行く人々がののしる姿、その声も、一緒に十字架に架けられながらも、苦しみながらもののしる醜い犯罪人の一人。彼はそれを見ることになります。 いったい十字架って何なのだろう。どこまで人間は残酷になれるのだろうかということを、このシモンは肌で感じ取った。 その衝撃というものは、私たちには味わうことがないくらい(強烈なものであった)。
同時に彼は不思議なことを見聞きします。 十字架の上からイエスさまが発せられたその言葉――「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」(***ルカ23:34) そのイエスの言葉を聞きながら、いったいこの方はどういう方なのだろう、(との思いに包まれる。) 神を父と呼び、そして自分を十字架に架けた彼らに向かって、「父よ、彼らをお赦しください」と請う、イエスさまの愛する、権威ある姿、それを直にシモンは体験してしまった。
「私のことをどうか覚えていてください」と懇願するもうひとりの犯罪人に、主は静かに仰います。 「まことにまことにあなたに告げます。今日、あなたはわたしとともにパラダイスにいます」(***ルカ23:42〜43)
一日の出来事でありますけれども、彼が体験したその強烈な、インパクトのある一日は、シモンの人生を変えてしまいました。 彼はそこで、人間の罪深さを魂の底から味わい、同時に、神の愛の深さを魂の底から味わったのです。 旅をしているだけの巡礼者だった彼は、この日を境に人生が変わるのです。そして彼はクリスチャンになった。 私たちが変わっていく時に、このように一瞬の出来事(ではないかもしれない)。 もちろんクレネ人シモンにとっても、別にこれは一瞬の出来事ではなかった。
彼はこの日を境に、何か強烈なことを考えるようになる。 そして、イエス・キリストというこの方に関して、彼は学ぶようになる。 キリストの弟子と呼ばれる人々から――いったいなぜこういう死に方をして、この方はなぜ黙々とこの十字架に耐え、そして十字架の上で赦しの言葉を述べ、なぜこの方は隣りに同じように十字架に架かっていた人物を、「きょう、あなたは私とともにパラダイスにいる」と約束できるのか――それらすべてを学んでいって、彼はクリスチャンになるのです。
21節に、「そこへ、アレクサンデルとルポスとの父で」とあるように、息子たち二人もクリスチャンになる。 このようにして、聖書に名前が残っている人たちは、みんな当時の人々が知っていた有名なクリスチャンです。
あることを体験した後で、自分はもう同じであってはならない。 それを知っているのが、私たちです。 私たちはキリストの十字架の福音に触れ、そして触れて洗礼を受けて、そして教会の礼拝に来続けているというのは、最早自分は同じではない。
教会に来て、「あ、教会って賛美歌を歌う所なんだ。いいところなんだな。聖書の話は難しいなぁ」と思いながら、1回、2回、3回で去って行く人々もいます。 それは福音に耳を傾けはしますけれども、心には届かなかったということでしょう。そうなると、その方の人生はたぶん変わっては行かない。
私たちはさまざまな局面で、自分自身の愚かさ、弱さ、罪深さ、小ささ、自分の限界、自分自身だけでなく、人の罪深さ、この世界の罪の恐ろしさ、それを強烈に体験します。 同時に愚かさを覆い、罪を赦し、限界を越えて力を与えてくださる神さまの恵み、慈しみというものも、できたら体験したい。
広島や長崎の方々は、あの悲惨な出来事を越えて、平和を求める、平和を作り出す人々になりたいという、独特な恵みを彼らは持っているのですね。 キリスト者でないかもしれない。洗礼を受けていないかもしれない。 しかし広島や長崎の方々は何か発言しますと、それがものすごく聖書的というと申し訳ないのですが、それがものすごく神の御心にかなっている発言であると、私たちは実感します。
ある出来事を深〜く味わった時に、私たちは最早、以前と同じであってはならない。 以前と同じ、惰性的な自分を超えていかなければいけない。
聖書で、私たちが、「イエス・キリストの十字架によって、新たに神より生まれ変わる」――そういう表現をしますが――「キリストにあって、私たちは新しく神より生まれる」と言った時に、それは単純に、私たち個人の罪が赦されて、私たちが新しく神の子どもとなる、というこの「救いの出来事」を指しているのではないです。
その「救いの出来事」から始まって、私たちの人生そのもの、私たちの存在のあり方そのもの、私たちの考え方、そのすべてが、今までの自分という「惰性」を突き破って、「新しい神さまの可能性」に、神さまの恵みによって変えられていくのですね。
このことを表した最も有名な聖書の箇所を一緒に読んで、少し短めの説教を考えましたけれども、終わりにしたいと考えます。 Uコリント5章です。Uコリントの5章の14節から17節までを交替に読んでいきたいと思います。
14というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。 15また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。 16ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。 17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
14節に「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました」――考え方です。 16節の「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません」というのは、自分自身、ものをどう見るのか、どう考えるのか――考え方というのは、人生にとっても、また信仰生涯にとってもものすごく大切です。
それは考え方というのは、必ずしも現実とは違います。 たとえば私たちは現実として、原発の電力を使っています。いま快適にここで礼拝を守ることができるのは、原子力発電の電力があってのことです。 つまり原発の電力を使っている人間が――ごめんなさい、講壇から私(藤本牧師)がこういう話をするのは珍しいです――原発の電力を使っている人間が原発に対してNOと言うことはできない?そんなことはない。 その電力を使っているという現実と、こういう考え方をしようではありませんかというのは、別のものです。
実際に日本がアメリカの核に守られる日が来るのかもしれない。それがこの世界の、戦争多きこの世界の現実であるといえばそうです。 その現実と、「この世界から核は廃絶されるべきだ」という私たちの考え方は違っていていいのです。 私たちはその現実をどう改善していくのか。その現実をどう覆していくのか。一番最初の起点になるのは、考え方です。
この世界から核を廃絶していく、平和な国を、世界を作り出そうと思うならば、先ず、あの「いかなる状況下でも、核兵器を使用しない」という共同声明に署名しない限りは、その方向に一歩踏み出すことはできない。
17節は、私たちがイエス・キリストを信じて新しくされたという、その個人の救いの体験で有名です。 「だれでもキリストのうちにあるなら」というのは、私自身もそうです。 「その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」というのは、なかなか現実として捕らえにくい。
神により生まれた後も、藤本満は藤本満ですし、私の厄介な性格はそのままですし、私の過去の記憶も全部拭い去られるわけではないですし……。 でもね、「古いものは過ぎ去って」というのは、古い自分が惰性でこれから先は続いてはいかないと(私たちはこれからは、自分のためにでなく、イエス・キリストのために生きる生き方に変えられたいと心に定めたのですから、という確認のことばでしょうか?T・Y)。
(→藤本先生曰く――聖書の前後の文脈としてはそれでよいけれども、すべてが新しくなりました、とあるように、もっと大きく変わるのだろうと思います。人生の目的、存在意義、価値観、ありとあらゆることへ新しい変化が及んでいくのだろうと思います。)
「見よ。すべてが新しくなりました」という、この霊的な現実をどのように把握するか? 霊的な現実を生きようと思うならば、神さまの助けを日々必要としているでしょう。 私はこんな人間ですから、この通りでございます――それもそうなんです。でもそれを言い訳に進むことは最早許されないよというのは、聖書がサルトルのように語っている言葉です。
罪の奥深さを知ってしまった以上、そしてその罪を洗いきよめ、新しくしてくださる神の力を知ってしまった以上、もう以前のように、惰性で自分自身を捕らえ、惰性でこの世界に流されるということは、キリスト者はしない。 キリスト者は、ものの考え方を変える。人間的な標準で、人を、この世界を、自分自身を知ろうとはしない。
私のような小さな者でも、神の可能性に生かされていく時、もし神の愛が私たちを取り囲むなら、人間の限界を超えて、私も人を許すことができるかもしれない。 私も自分のあり方を変えることができるかもしれない。 人間の罪深さに絶望するのではなく、私もまた上を見上げ、神の可能性に期待することができるかもしれない、と祈らなければいけない。 そして、この世界の平和を力強く求めなければいけない。
そのために少し、今週、さまざまなニュースを通して、戦争の悲惨さというものに触れる機会があるといい。 それは神の恵みだと思って、世界の平和のために祈り、考え、自分なりに少し掘り下げていく時を持ちたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、 キリストの愛に取り囲まれて生きている(Uコリント5:14)のなら、世界の平和をその視点から考え、自分自身を、その生き方を、その視点から考え、「人間の罪深さ」というありきたりのものの考え方を超えて、「キリストのうちにある新しい可能性」はいったい何か、自分自身の信仰を傾けて考えていきたいと心から思います。
主よ、私たちは惰性で古い自分を引きずったまま、キリスト者として往々にして生きています。 でもそんな私たちでも、時に人の罪深さを自覚し、そのためにいのちを捨ててくださったあなたの愛を実感し、その愛に取り囲まれていることを知っています。 主よ、その時、あなたが新しく与えてくださる考え方、あなたが直に下さる可能性、あなたが教えてくださる御心に沿って生きていきたいと心から願う者とさせてください。
そしてこの世界から、争い、憎しみ、戦争という、罪の惰性を断ち切って、平和を作り出す者とならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りをします。アーメン。
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