☆聖書箇所 民数記20:14〜21
14さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。 15私たちの先祖たちはエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖たちを、虐待しました。 16そこで、私たちが【主】に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにおります。 17どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。」 18しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。」 19イスラエル人は彼に言った。「私たちは公道を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」 20しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。 21こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせようとしなかったので、イスラエルは彼の所から方向を変えて去った。
☆説教 負の歴史を乗り越える
「神の人モーセ」と題して、出エジプト記と民数記から今日で45回目、よく踏ん張ったなぁと、よく踏ん張っているなぁと思いますが、少し折りに触れて神さまは、その週にふさわしいみことばを与えてくださいますので、今日は少しじっくり聖書を見ていただきますが、お付き合いいただきたいと思います。
出来事は、モーセに率いられた民が荒野を旅する間の出来事であります。そして旅の経路を考えたモーセはエドムの王に手紙を出します。 (民数記20章の)14節(から読まれる)――
14さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに、使者たちを送った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。 15私たちの先祖たちはエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖たちを、虐待しました。 16そこで、私たちが【主】に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにおります。 17どうか、あなたの国を通らせてください。……
これだけです。――どうかあなたの国を通らせてください。
エドムというのは、イスラエル民族の先祖ヤコブの双子の兄にあたるエサウの子孫です。(***創世記25:30、36章) ですからモーセが「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します」(民数記20:14)と言っているのは、まさにその通りで本当に兄弟民族で、エドムもイスラエルも、両方ともアブラハム、そしてイサクの子孫として存在して来ました。
モーセは手紙の中で嘆願しているのですね。 いま読みました15節と16節に、なぜ自分たちが荒野を旅することを強いられているのか、また自分たちは長い間エジプトで、奴隷として仕えて来た。 それが故に自分たちは何の戦力も持っていない、自分たちはきわめて無力な存在、ということを強調しながら、16節の最後に、「今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにいます」。
人数は多いけれどもが烏合の衆と同じだ。どうか憐れんで、17節の頭にある「あなたの国を通らせてください」と。 しかもモーセは、きちんと付け加えますね。17節(の続き)――「私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行きます。」
「王の道」というのは、中近東を南北に走るいわゆる公道ですね。 その際に、エドムの国をただ通過するだけですと(言っているのです)。 そして、17節の最後「あなたの領土を通過するまでは――最後行き渡るまでは――右にも左にも曲がりません」ということは、国に侵入することはありません、(という意味ですね)。
でもとっても冷たい返事が返って来ました。18節―― 18しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。」
19節でモーセは再び説得します。
19(イスラエル人は彼に言った。)「私たちは公道を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」
この「王の道」というのは、国際的に中立な道路です。 万が一、水が必要になった時には、きちっとお金を払います。「ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」(19節)
しかし、エドムの予想もしない厳しい回答は変わりませんでした。20節――
20しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。
21節にモーセはあきらめて、方向転換をします。
さて、この記録からいくつか考えてみたいと思います。
1)歴史に刻まれた敵対関係の事実
私たちは8月に終戦記念日を迎えました。それは、ま、基本的に日本とアメリカの戦争が終結したという感覚なのですが、しかし中国や韓国の人々にしたら、違う意味で、日本の侵略戦争が終わったと言う。
敵対関係はどこかに原因があり、しかし、歴史の中に刻まれてしまった敵対関係というのはそう簡単に消すことはできないです。 エドムとイスラエルというのは、今で言う、イスラエルとヨルダンです。イスラエルとヨルダンというのは、今に至るまで敵国関係です。
ですから何千年も昔にそもそもの先祖、そのヤコブとエサウがすれ違った、傷つけ合ったというところから始まって、今のイスラエルとヨルダンの対立がず~っと続いている。それが聖書にしっかりと記録されています。
双子の兄弟ヤコブとエサウは、――ま、エサウとヤコブですね――それはわずかな差で、エサウが先に生まれてきました。 ヤコブは(***リベカのおなかの中にいるときからぶつかり合い、出産の時に)先を越されてなるものかと、エサウのかかとをつかんだ。 ヤコブというのは「かかと(ヘブル語でアケブ)」という意味(の言葉から名づけられたの)です。 兄のかかとをつかんで、先を越されてなるものかと、ず〜っと生まれてこの方ライバル意識の中、育っていくのですね。(***創世記25:19〜34)
最後に父イサクの死ぬ間際に、長男の相続の権利をいったい誰が取るか? ヤコブは目が見えなくなった父に対して、声色を使い、エサウになりすまして、ものの見事に長男の相続の権利を奪い取ってしまいます。(***同27章)
エサウが猟から帰って来た時に、この事態を知り、弟ヤコブに殺意を抱き(***同27:41)、弟ヤコブは遠い国へ逃亡していく(***同28:5)。 やがて、弟ヤコブは故郷に帰り、あのぺヌエルという場所で和解はしますけれども、共に住むことはありませんでした。(***同32,33章) それはこの民数記20章から考えますと、何百年も前のことです。でも記録はしっかり残っています。歴史の中に語り継がれてきました。そして文書にも残っていたに違いありません。 エサウとヤコブが何とか和解をしても、そのように傷つけ合った記録というのは歴史に刻まれていて、子孫たちは延々とそれを聞かされてきました。 互いを傷つけ合った歴史は、聖書に記されていることしか私たちは知りません。しかし、当時のエドムの人々は、もっと多くの怨念を込めた、イスラエル蔑視の思いがあったに違いない。 だからモーセが、「私たちはあくまでも公道を通ります。右にも左にもそれることはありません」と言っても、エドムは絶対にイスラエルを通さない。 これは歴史何百年をさかのぼる所の対立関係です。
そして、対立関係はこれをもって繰り返されていきます。いわば負の連鎖ですね。 やられればやり返す、という構図は延々と続きます。
ちょっとUサムエルの8章を見ていただきたいと思います。Uサムエル8:13です。ちょっと私の方で読んで行きます。12節から――
12それらは、アラム、モアブ、アモン人、ペリシテ人、アマレクから取った物、およびツォバの王レホブの子ハダデエゼルからの分捕り物であった。 13ダビデが塩の谷でエドム人一万八千を打ち殺して帰って来たとき、彼は名をあげた。 ダビデはイスラエルの王として、イスラエルの第二代目の王は、エドムが兄弟民族であるということを知りながら、一万八千を打ち殺します。そしてその最後に彼は名を上げたと記されています。 この8章全体は、ダビデがエルサレムに都を構えて後、隣国を次々と制圧していったという様子が記されています。いわゆる戦勝記録です。5節――
5ダマスコのアラムがツォバの王ハダデエゼルを助けに来たが、ダビデはアラムの二万二千人を打った。
と記されています。アラムは、イスラエルの今の敵国であるシリヤ―― この戦勝記録を考えますと、この負の連鎖は今に至るまで続いているということがよく解ります。 このあたりのダビデは何万を打った、何万を打ち殺したというのは、とっても複雑な記事です。
ダビデという人物は神さまに祝され、王国を拡大しました。 しかしやがてこのダビデが神さまのために神殿を建てたいと申し出た時に、神さまはこう仰った。 「おまえはあまりにも多くの血を流し過ぎた軍人だ。よって神殿を建てることは許可しない」(***T歴代誌28:3、22:8、T列王記5:3)と神さまがダビデに仰った気持ちがわかるような気がします。
なぜそこまで王国を拡大したかったのか、私にはわかりません。 また、アラムを討ったついでに、エドム人一万八千人を打ち殺した、その状況も詳しく聖書には記されていません。 しかしダビデがイスラエル人であったのなら、あのモーセの日の出来事はダビデの頭にあったはずです。
エジプトから出て来たばかり、荒野をさまよいながら、水も食糧もない。そしてこの烏合の衆の民を連れて、ま、百万の民ですよ。 何とかその公道を行きたいと願い出た時に、エドムの王ははっきりと、意地でも通らせない。 通らせない理由は書いてない。一言で言えば、意地でも通らせるつもりはないと、大軍勢を率いてそれを阻止しようとする、歴史的な事実をダビデは聞かされて来たし、読んで来たし、頭の中にしっかりとあるのです。 だから(Uサムエル8:13で)エドムの一万八千を彼は打つのです。
やがて中近東一帯にバビロニア帝国が拡大していきます。 そのとき、このエドムは(イスラエルとどういう関係だったかと言うと)、当時イスラエルという国は南北に分かれて、もう北は存在しておりませんでした。南の国ユダだけが残っていたのですね。 バビロニア帝国が中近東一帯を制圧し始めた時に、なんとイスラエルの南のユダの国は、バビロニア帝国に対抗するために、エドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンと共に、反バビロン同盟というものを作るのです。 これは開きませんがエレミヤ書の27:1〜7に出て来ます。
ところがです。最後に、このエドムは反バビロン同盟を裏切ってバビロンに寝返る。そして、バビロンの略奪隊としてユダに攻め込むのです。 同盟を作っておきながら、最後の最後バビロンが攻めて来た時に、なんとこのエドムはユダの王国を裏切って、バビロンに寝返って、そしてユダを攻め込むのです。 この出来事はU列王記24:1〜2に記されています。
ユダの国は、バビロンを憎みます。 しかしそれ以上に、裏切ったエドムを憎むのです。 詩篇の137篇をちょっと見ていただけますか。今日はごめんなさい、いくつか聖書を見ていただくのですが、137篇の7節にイスラエルの(復讐の)祈りが記されていますので、ちょっとご一緒に読んでみたいと思います。 詩篇137:7【主】よ。エルサレムの日に、「破壊せよ、破壊せよ、その基までも」と言ったエドムの子らを思い出してください。
エルサレムが滅亡する日に――バビロンによって滅ぼされるのです――でも、「破壊せよ、破壊せよ、その基までも」と言ったエドムの子らのこの出来事を、彼らのさまを絶対に忘れないでくださいと、ユダはバビロンを憎みます。 それは(詩篇137篇の)8節に出て来ますでしょう。 でもそれ以上に、エドムを憎んだということが、7節に明確に出ています。
お話ししたポイントの第一番目は、このようにして歴史に敵対関係が刻まれていくのです。2番目は――
2)さて、このようにして歴史に塗り込める負の連鎖の中で、モーセは非常に興味深いことを言います。
それが申命記の23章の7節、こんなに聖書を開く日曜日はないのですが、これをご一緒に読んでみたいと思います。 申命記23:7エドム人を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである。エジプト人を忌みきらってはならない。あなたはその国で、在留異国人であったからである。
これはモーセのことばです。民数記を記してから、四十年後のモーセのことばと考えていいんじゃないでしょうか。 エドムの王の対応によって、一番傷つき、それを一番深い怨念として歴史に刻みたいとしたら、モーセです。 仮に民数記20章の記事をモーセが記したとしたなら、このエドムによって拒まれたこの屈辱を忘れてなるものか、という意識が働いていたに違いない。
しかしモーセは、それから四十年後、申命記を記しています。そして、その申命記において、負の連鎖を自ら断ち切る努力をする。 そして「エドムを憎んではいけない。エドムはあなたの兄弟民族、あなたの親族なのだ」と民を諭している。
申命記は、これから約束の地に入るのですけれども、「四十年前のあのエジプトも憎んではいけないよ。あのエジプトで確かにあなたがたは奴隷であった。でもあなたがたは殺されずに生かされ、在留異国人としてそこに住んでいたのだから、エジプトを憎んではいけない」と。
歴史に刻まれたことは忘れられません。ある意味で、忘れてはいけないのでしょう。 しかしそれをもって復讐とするな。 どこかで、仲直りするように、それはエジプトに対しても同じだと、モーセは諭しているのですね。
さて、3番目のポイントは一番難しいです。 少し、考えながら聞いていただきたいのですが、そして私(藤本牧師)の言っていることが解らなければ、私もよく解らないかもしれない(笑)。 でも、解らなければ田中姉がちゃんとまとめてくださっているので(思わずえっ、そんな!!とひっくり返ったT・Y、大笑)、火曜日ぐらいに(HPを)見ていただければと思いますが……。
3)私たちキリスト者は、この民数記20章から、もっと深く考えなければならないでしょう。
民数記20章というのは、自分がされたことを記しているのです。そうでしょう? 通りたかったんだけれども、エドムの王によって、阻まれてしまった。何度お願いしてもかたくなに断られてしまったという、自分が受けた被害を記しているのです。
先ほど見ましたUサムエル(8:13)のダビデがエドム人一万八千人を打ったというのは、イスラエルの戦勝記録として記している。しかもそれはわずか一文ですよ。しかも誇らしげに記しているのです。
もちろん聖書です。しかし、こういうところに、私(藤本牧師)はまことに人間くさい何かを感じるのですね。 自分がされたことは延々と記します。 だけど、自分たちがエドム人を打ったということは、あくまでも戦勝記録として、もうほんのわずかしか記さずに、しかもそれによってダビデは名を上げたとしか書いてないじゃないですか。
民数記の20章の時のモーセにしてみたら、あるいはイスラエルの人たちにしてみたら、エドムにされたこの屈辱的な出来事は絶対に忘れまいと、延々と記そうとします。 そして往々にして古代の文書ですから、自分たちがしたことは、短くしか触れないのです。
そのようにして、憎しみが憎しみを生んでいくというのが歴史なのです。 歴史の負の連鎖は止まるところを知らないのです。 覚えておくべきは、自分たちがされたことだけではない。 記録しておくべきことは、そしてその記録に基づいて反省し、悔い改めていくべきことは、自分たちがしたことです。
自分たちが、韓国に対して、中国に対して、そして東南アジアの諸国に対してしたことを、きちっと記録して、そして反省して、悔い改めない限り、負の連鎖は止まらない。
私たちクリスチャンが深く心に留めるべきみことばがあります。それを見て終わりにします。 今度は聖書の一番後ろ、Tヨハネの手紙1章の8節と9節です。これを一緒に読んで終わりにしたいと思います。 8節を私が読んで9節を皆さんが読んでください。 Tヨハネ1:8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 同1:9もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
何が言いたいのか? まず、自分のした悪を認めなさい。 そうしてはじめて、赦され、きよめられ、明日が与えられますよ、と。 自分のした悪を認めない限り、明日はない。
日本の侵略戦争はだれもが意識して来た事実ではないでしょうか? でもここに来て、そうではない歴史観が台頭して来ます。 先週の終戦記念日の安倍首相の言葉にも、アジア諸国に対する日本の侵略行為の反省は、言葉としては表に出て来ませんでした。
細川首相以来、ず〜っと終戦記念日の言葉の中には、日本の侵略戦争を反省する文章があったにもかかわらず、安倍さんの言葉にはない。 南京大虐殺は、発掘されたさまざまな遺骨、日本兵の証言、また中国の人々の証言と共に、否定できない歴史的な事実です。 南京大虐殺記念館に行けば、そこで亡くなった方々の名前が全部記され、8月15日にはそこに遺族が集って涙を流している。 しかしここに来て、いや、南京大虐殺なんか無かった、という人が出て来ています。
従軍慰安婦問題も同じです。 他国にもそのような慰安婦はあった、戦争があるところには、必ずそういう問題はついて回るのでしょう。 でもそれで、日本が朝鮮にして来たことが正当化されるはずがない。
日本の戦争の歴史を反省する、そういうことを嫌う人もいます。 日本の侵略戦争を反省するような歴史観を、「自虐的歴史観」と呼んで否定する日本人が多いことを、私たちはよく知っています。 日本が侵略戦争を認め、謝罪をすることは、自虐的だと。 戦争の歴史は、この世界から消えてなくならない。別に太平洋戦争だけではない。戦争の歴史というものは、ずら〜っと並んでいる。 それを自虐的に、自分で自分を必要以上に責めて、お詫びし続けるというのは、日本人としての誇りを失い、自虐的だと、そう言う人々が最近多いのです。
しかし、聖書はそうは教えていない。 自分たちがされたことを記録するだけでなく、自分たちが何をしたのかということもしっかりと記録すべきです。 そのようにして、自分の罪深さを言い表すことは、自分を卑しめることではない。 神によって新しいチャンスを、明日に向かって一歩踏み出すチャンスを与えられるには、まず自分が犯した罪を認め、それを言い表して、赦されて初めて私たちは明日に向かう。 平和を希求する、平和を追い求めるなら、まず自分たちが何をしたのかということをできるだけ克明に記述することでしょう。 そこから学ぶことでしょう。 されたことだけでなく、自分たちがしたことを大きく反省しない限り、明日には進めない。
どうか私たちは――この安倍首相になって、どちらかというと右寄りの政権が誕生したという意識が強いのですけれども――聖書の歴史観に立ちながら、見つめていきたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、暑い一週間でありました。お盆の一週間でありましたけれども、しかし同時に、さまざまな形で、太平洋戦争、日本の侵略、あるいは日本に落とされた爆弾の数、原子爆弾、戦争のおぞましさ、されたこと、したこと、いろんな場面を見ていきました。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」 (Tヨハネ1:8〜9)
イエス・キリストの十字架を中心とした歴史観を明確に捉えることができるように、私たちに知恵を与えてください。この日本をお守りください。憐れんでください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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