※根廻宣教師は来会できず、ビデオレターと宣教ビデオによる報告となりました。ご覧になりたい方は、聖日説教に掲載しております。
☆聖書箇所 ゼカリヤ6:1〜15
1私が再び目を上げて見ると、なんと、四台の戦車が二つの山の間から出て来た。山は青銅の山であった。 2第一の戦車には赤い馬が、第二の戦車には黒い馬が、 3第三の戦車には白い馬が、第四の戦車には斑毛(まだらげ)の強い馬が、数頭ずつつながれていた。 4私は、私と話していた御使いに尋ねた。「主よ、これらは何ですか。」 5御使いは答えた。「これらは天の四方の風だ。全地の主の前に立った後に、出て行くことになる。 6そのうちの黒い馬は北の地へ出て行き、白い馬は西へ出て行き、斑毛の馬は南の地へ出て行く。」 7強い馬たちが出て来た。それらは地を駆け巡ろうとしていたので、彼が「行って、地を駆け巡れ」と言うと、それらは地を駆け巡った。 8そのとき、彼は私に叫んで、次のように告げた。「見よ、北の地へ出て行った馬を。これらは北の地で、わたしの霊を鎮めた。」 9また、私に次のような【主】のことばがあった。 10「捕囚の民であったヘルダイ、トビヤ、エダヤからささげ物を受け取れ。その日あなたは行って、バビロンから帰って来た、ゼパニヤの子ヨシヤの家に入れ。 11銀と金を取って冠を作って、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせ、 12彼にこう言え。 『万軍の【主】はこう言われる。 見よ、一人の人を。その名は若枝。 彼は自分のいるところから芽を出し、 【主】の神殿を建てる。 13 彼が【主】の神殿を建て、 彼が威光を帯び、 王座に就いて支配する。 その王座の傍らに一人の祭司がいて、 二人の間には、平和の計画がある。』 14その冠は、ヘルダイ、トビヤ、エダヤ、ゼパニヤの子ヨシヤの記念として、【主】の神殿の中に残る。 15また、遠く離れていた者たちも来て、【主】の神殿を建てる。このときあなたがたは、万軍の【主】が私をあなたがたに遣わしたことを知る。もしあなたがたが自分たちの神、【主】の声に確かに聞き従うなら、そのようになる。」
☆藤本牧師の説教 ゼカリヤ(6)若枝に王冠を
元旦礼拝でハガイ書から始まり、初聖日でハガイ書の2章。 それから第三の聖日からゼカリヤ書で、今日はゼカリヤ書の6章であります。 前回、総括として、大体のことをお話ししました。 今日はその短いバージョンで、もう一回総括をいたします。
というのは、毎回毎回、幻が変わります。幻だけに目を集中していると、全体像を見失います。 今年ハガイ書、ゼカリヤ書を私たちが読んでいる目的は一体どこにあるのか?という意識を持たないと、私たちは旧約聖書の難しい幻で心揺らされ、訳が分かんなくなってしまいます。 そのためにお話ししますので、もう一回聞いてください。
ハガイもゼカリヤも同じ時代の預言者でありました。 それはバビロン捕囚から帰還して神殿再建に取り掛かりますけれども、 土台を据えた所で18年間も中断してしまった、エルサレムの民に神さまが語りかけている、二人の預言者なんです。 民は神殿のこと以上に自分の生活に追い回されました。周囲からの妨害も入りました。 私たちも同じで、一言で「神を第一にする」と言いますけれども、それはそんなに簡単なことではないです。
しかしここで神さまは、行政の指導者ゼルバベル、信仰の指導者ヨシュア、そして民全員の霊を奮い立たせてくださり、再び神殿再建に取り掛かるようにさせられます(***ハガイ1:14)。 ヨシュアは焼け焦げた服を脱がせていただき、礼服を着せてもらいました(***ゼカリヤ3章)。 ゼルバベルは主のみことばをいただきました。 「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(***ゼカリヤ4:6)と。 そして先週、5章で見ていただきました。 神さまは民全体の罪を取り除くと。 罪はエパ升の中に入れられ、鉛の蓋をされ、エパ升ごと持ち上げて、バビロンに持って行かれました。
歴史的には神殿の再建です。でも霊的には、つまり私たちにとっては、これは霊的な信仰の再建です。 信仰生涯の土台だけ据えただけではない。本格的にキリスト者としての人格形成、また社会における貢献も含めて、自分の信仰生活を建て上げて行くために、神さまは私たちの霊を奮い立たせてくださる。 罪赦され、キリストの義の衣を着せていただき、 「自分の能力だけではなく、才能ではなく、主の霊によって」、 さらに罪を取り除いていただき、神の宮である私たちというこの神殿は再建されていくんだ。
《神の宮、神殿》というテーマは、実は聖書の中では非常に大きな一貫したテーマです。 天におられる神が地上に降りて来られる必要は別にないです。 天におられる神が地上に降りて来られたのは、私たちと共にいてくださるために降りて来られたんですね。 世界を支配するために、神は地上に降りて来る必要はないです。 この世界を創られた時に、神さまは地上に降りて来られた、とは書いてないです。 天からの一声で天地万物を創造されました。
でも《神が地上に降りて来る》という概念は、 あの出エジプトの出来事で、民の叫びが神の所に届き、 モーセが遣わされて行くんですけれども、 「わたしは下って行き」という表現を神さまは使っています(***出エジプト3:8)。 神さまは地上に降りて行き、雲の柱、火の柱となって民を導き、守り通して行かれる(同13:21〜22)と。 「わたしはあなたがたと共にいるんだ」と(***同3:12)。 モーセは神さまに向かって、「あなたの名前は何ですか?」と聞いた時に、「わたしの名前は在りて在る者だ。ヤーウェ」と仰ったんですね(***同3:13〜14)。 「わたしは在りて在る者だ」というのは、在るんだかないんだか、いるんだかいないんだかわからない、という存在ではない。《わたしはあなたと共にいる》という意味です。
その象徴がやがて幕屋になり、それが神殿になり、その《共にいる》という現実が聖霊となって私たちの内に住み、私たちの身体、そして教会が神殿となり、やがてこの神殿がこの世界を治めていく、という聖書の全体の幻。 ですから《神殿》というテーマは小さなテーマではないんですね。 それは建物というテーマではなく、《神の臨在》というテーマです。
《神が私たちと共におられ、私たちの日常におられる》というテーマがこの《神殿》という言葉の中心にあるということを覚えながら、2つの幻を見ていただきたいと思います。 ポイントは3つありますが、第一番目に――
1)最初の幻は、1節、「二つの山の間から四台の戦車が出て来る」
二つの山というのは、シナイ山とオリーブ山ですね。 その山が1節「青銅の山である」というのは、圧倒的に揺るがない力強さです。 四台の戦車は、2節から始まりますけれども、それぞれ違う毛の色をした馬に引かれて、派遣されて行きます。 「四台の戦車」は、5節にありますように、「四方の風」――東西南北ですね。全地を行き巡る。 6節で「黒い馬は北の地」――バビロンやペルシャですね。「白い馬は西へ」――地中海まで。「斑毛の馬は南の地へ」――エジプトへ。
7節に「地を駆け巡る」という表現が3回出て来ます。 つまり圧倒的な力をもって、この世界を制圧していく。 そして最終的に8節で、一番このイスラエルを悩ました「北の地」というのは、「見よ、北の地へ出て行った馬を。これらは北の地で、わたしの霊を鎮めた」というのは、完全に制圧したという。 《あなたがたを散々悩まして来た力は完全に制圧し、そこに主の霊はとどまる》という意味であります。 (※神の支配と統治が世界に及んでいくという約束です。)
私たちはこの世界で色んな問題がありますね。 新型コロナウィルスが制圧されるんだろうか?時間がかかると思います。 でも「神の霊が吹いていく時に、それは鎮圧されるんだ」という信仰をもって、世界の医療従事者たちは今の全力を生きているんですね。 これは所詮鎮圧されないものであるならば、途中で諦めてしまっても仕方がないです。 でもありとあらゆる手立てをもって鎮圧するというのは、単純に人のいのちが大切だからだけではない。 私たち(クリスチャン)にとりまして、「神さまの力は必ずこうした悪を鎮圧させてくださる」という信仰に基づいて、私たちは労している。 そのために、私たちもその努力を全力を尽くす。 そして信仰を持っていようが持っていまいが、そのために労しておられる方々のために真実に祈るということが大切です。
2)次の幻を見てみましょう――(「ヨシュアの戴冠式を行いなさい」と命じる神)
捕囚の民であり、そこから帰って来た四人の人物の名前が出てまいりますね。 敢えて深く入りません。いいですか? 11節で、彼らから「銀と金を取って冠を作り、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせ」なさい。 「かぶらせなさい」――つまり「ヨシュアの戴冠式を行いなさい」とゼカリヤに神さまはに命じられました。 いいですか?今日はこれが中心です、メッセージの。
先ず第一番目に、「大祭司を王とする」という習慣は旧約聖書にはないです。 幾つか考えておきたいんですね。 先ず第一番目に、ペルシャのキュロス王から「エルサレムに帰っていいよ」という許しをいただきましたけれども、事実上イスラエルはまだペルシャ帝国の植民地です。 植民地にあって、自分たちの王を立てる、戴冠式を行うということは許されないことですね。 でも神さまは、「あなたがたは植民地に住んでいるけれども、あなたがたの王はキュロスではない。あなたがたの王は大祭司ヨシュアだ」と、戴冠式を命じておられる。
しかもですよ、「この人物を王としなさい」と言うんですけれども、王とするなら普通は、行政の長ゼルバベルですよ。 でも神さまは、大祭司ヨシュアを王とするんですね。
聖書の中で、歴史的に王であり、そして祭司であった人物は一人しかいません。 歴史的と申し上げましたけれども、伝説の人物で、それがメルキゼデクです。 ちょっとヘブル書の7章の1節を見ていただきます? 創世記(***14:17〜20)ではなく、こっちを見てみましょう。 ここにメルキゼデクがイエス・キリストと並べられて出て来ます。 へブル人への手紙7章の1節です、444ページですね。 創世記の出来事を思い出して、へブル人への手紙の記者は書いているんですが――
<へブル7:1〜3> 1このメルキゼデクはサレムの王で、(***サレムというのはエルサレムの前身サレムです、と説明)いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。 2アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、(***メルキゼデク、と説明)先ず「義の王」次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。 3父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。
メルキゼデクというのは歴史的に出て来るわけですけれども、しかし伝説の人物だったというのはこういうことなんです。 で、へブル人への手紙の記者はこのメルキゼデクとキリストをかけているんですよね。
(へブル7章)24節を見てください。 <へブル7:24〜25> 24イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。 25したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。
というのは、イエス・キリストもメルキゼデクと同じ大祭司だと、永遠から永遠に至るところの大祭司だと。でもキリストもまた王ですよね? で、キリストが王となるのは、やがて再臨の時に王となるんです。この世界を治める者となるんです。 でも戴冠式は今の内にしておきなさい――それが今日のメッセージです。
もう一度ゼカリヤ書に戻ってみたいと思いますが、6章の12節ちょっと見ていただきますでしょうか?
<ゼカリヤ6:12> 12彼にこう言え。 『万軍の【主】はこう言われる。 見よ、一人の人を。その名は若枝。 彼は自分のいるところから芽を出し、 【主】の神殿を建てる。 13 彼が【主】の神殿を建て、 彼が威光を帯び、 王座に就いて支配する。 その王座の傍らに一人の祭司がいて、 二人の間には、平和の計画がある。』
「その名は若枝」(12節)と呼ばれる一人の人というのは、(※少し間があって)イエス・キリストですよね?ね。 だって、13節の4行目に、「その王座の傍らに一人の祭司がいて、二人の間には、平和の計画がある。」 この辺りは、「え、どれがゼルバベルで、どれがヨシュアで、どれがイエスさまなの?」って (笑)わからないですよ。 だけど言えることは、イエスさまってお方は「王」であり「祭司」である方であり、 《神殿》というのは単なる持ち物ではなく、「やがて来るべきイエス・キリストのからだ」であり、「キリストの教会」であり、また「神の臨在である私たち」であり、またこの世界が最終的に制圧される時に、イエス・キリストは「すべてを統治される」お方になる。 でも「最初は若枝」なんですね。若枝。
先程言いました――異教の地にあって戴冠式を行いなさい。 これは私たちに対する主の、神さまの挑戦であって、それは「あなたは誰を王としているのか?」と言う。 私たちはイエス・キリストを王とするんです。でもそれをどこでしているのか? それは異教の地であるこの世界にあって、キリストの戴冠式をしなさい、という意味です。
日本のキリスト者にとって、この挑戦は歴史的に古いことではないです。 80年少し前、天皇を王とする国体を作り上げ、日本国民すべてが天皇に王冠を授けました。 そうした中で、当時のキリスト者は問題にしました。 私たちはいったい誰を王とするのか?と。 同じことですね。
たとえ支配はペルシャの植民地であっても、あなたがたはキリストに王冠を授けなさい。この方を王としなさい。 たとえそれが、日本のほとんどが神の教えを退ける日本であったとしても、 あなたがたの信仰は若枝のように小さく、あなたがたの生涯、日本において、キリストの存在というのは若枝のように小さかった者であったとしても、 あなたはこの若枝に王冠を授けなさい。 なぜなら、やがてこの若枝がこの世界を治めることになる、というメッセージがここに含まれているんですね。
3)もう一度この「若枝」で有名なイザヤ書を見ていただきたいと思います。
これを見て終わりにしましょう。興味深いと思います。 イザヤ書はハガイよりもかなり前ですね。詩篇の後。イザヤ書の11章です。 クリスマスの時に必ず読む所ですね。11章の1節と2節をお読みいたします。
<イザヤ11:1〜2> 1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。 2 その上に【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、 思慮と力の霊、【主】を恐れる、知識の霊である。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」 死んでしまったような根株から、若枝が芽生える。 ですからゼカリヤとイザヤ書を重ねると、非常に興味深い。
つまり根株というのは、今のエルサレムですね。 生い茂った緑なんかないです。焼け野原になってしまったエルサレム。 殺伐とした世界で、そこには実は豊かさもない。力も繁栄もない。
しかし、そこで十字架にかかり、復活(の初穂)となられた悲しみの人、憐れみの人、主イエス・キリストに、あなたは王冠を授けなさい。 (王冠を)戴かせなさい。被せなさいと。
私たちの人生は、あるいはこの世界というのは、エッサイの根株のような、荒れ果てた死んだ世界なのかもしれない。 私たちの人生の問題というのも、何の緑も期待できない、死んだ切株なのかもしれない。 でも神さまは、そこから若枝を芽生えさせる。 もしあなたがこの若枝に戴冠式を行うなら、あなたの人生に神の祝福、神の臨在が注がれ、あなたは生涯神と共に生きる人生となる。 なぜなら、その上に主の霊がとどまる。――「とどまる」というのは神殿用語です。 主の栄光がとどまる。主の臨在がとどまる。
その恵みを私たちは一生涯受けて、地上生涯を終えるんですね。 地上に於ける限り、この弱き器である私たちは常に、どこか切株的な部分を持っているんですよ。 最終的に神がすべてを支配するのは、やがての時です。 でもそのやがての時が来た時に王冠を戴かせなさい、ではないんです。 まだエルサレムが焼け野原になっているような状況で、まだ私たちの人生がこの世にある間に、あなたはキリストの戴冠式を行いなさい。 行うなら、主の霊があなたの上にとどまると。
これは物凄く大きな挑戦であり、私たちは自分の人生で誰を王としているのか?ということをやっぱり考えるべきだろうと思います。 お祈りをして終わりにいたします。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、私たちの信仰が若枝なのか?しかし私たちの信仰はこの地上の荒れ果てた世界の中にあって、しっかりと芽生え始めました。この世界全体が若枝なのか?また、イエスさま、あなたご自身がまだ若枝のような存在なのか?でも必ず四方を行き巡り、すべてを制圧し、そこにとどまるとそういう記述がありましたように、あなたがこの世界のありとあらゆる問題を解決されて、あなたの霊がとどまる世界が実現することを目指して私たちは進んでいます。
ですからその時が来てから戴冠式を行うのでなくて、試練のただ中で、苦しい状況下にあって、このコロナウィルスで様々に揉まれている時に、「王なるお方はあなたであり、あなたこそがこのすべてを治めて行かれる」という幻をきちっと抱きながら、信仰を確かなものとすることができるように助けてください。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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