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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/19 戸塚伝道師:「一緒にお泊まりください」 ルカ24:25〜29
☆聖書箇所   ルカ24:25〜29

25そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
26キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
27それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
 28彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
29彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。

☆戸塚伝道師の説教   「一緒にお泊まりください」 

皆さん、おはようございます。とは言っても、目の前にいらっしゃるのは、3名の方だけです(笑)。
神学院で説教学で、「説教とは語る者と聞く者の共同作業であります」ということを勉強させていただきました。
「語る者だけではなくて、聞いてくださる方々が説教者を助けてくださる、教えてくださる――その雰囲気をしっかりと掴んで説教するようにしてくださいね」ということを学ばせていただきましたけれども、
目の前に誰もほとんどいない状況で、(※右側のカメラに向いて話す戸塚伝道師)だけれども、インターネットでこの時間共に礼拝を捧げておられる方々が180人以上おられるということで、何かスタジオで何かこう収録しているような感じで、今ここに立たせていただいております。 

今日はイースターにちなみまして、「一緒にお泊まりください」と題して「エマオの途上」から共に恵みを分かち合いたいと思います。
本当はヨナ書の最後のお話をさせていただこうかな、と思っていたんですけれども、
「ああ、イースターの1週間後だからここだなぁ!」っていう風に思って準備をしていたんですけれども、
先週はからずも藤本満先生の説教題がちょうどここで、私(戸塚伝道師)どうしようかなぁと思ったんですけれども、
「でも何か特別な意味があるに違いない」と思いまして、今日敢えて同じ場所を開かせていただくことになりました。
「一緒にお泊まりください」

エマオへの道のこの物語というのは、「エマオの途上」と言われている有名な場所ですけれども、絵にもなっています。
ご覧になったことがあるでしょうか?「エマオの途上」の絵を。ルカの福音書24章の13節から描かれていることが分かりますし、
先週もここから朗読されたことであります。(ルカ)24章の13節にこのようにあります。

<ルカ24:13〜14>
  13ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。

「ちょうどこの日」――というのは、どんな日だったか?
それが、1節〜12節まで書かれている日なんですけれども、イエスさまが復活された日だ、ということが分かります。

「エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた」
エマオという村への道――この六十スタディオンというのは、下の*を見ますと、約11キロメートルとあります。
エルサレムからエマオまで約11キロメートル、これは溝口から渋谷ぐらいまでが大体11キロメートル。
そうしますと、溝口から渋谷ぐらいまでの道を、エマオの道、その中で展開されている物語だった、歩きながら。

以前ユースの聖地旅行で、エマオの途上で、エマオの道を歩いておられる方々の映像を見たことがあるんですけれども、
その道っていうのは、ごく平坦な、ほんとに、なんかこう代わり映えのしない普通の雑木林が生えているような、そんな道でありました。
恐らく二千年前も、同じような感じの道であったんじゃないかと思います。

そこで二人の弟子たちが、その11キロメートル余りの道をずっとこう歩いている。
何のためにエマオの村に行くのか分かりません。でも話し合いながら、語り合いながら。
14節に「これらの出来事すべてについて話し合っていた」とありますが、話し合いながらこの道を歩いていた二人の弟子たちでした。

今日はここから、3つの視点でみことばを追っていきたいと思います。

1)二人の弟子たちは、深い悲しみ、喪失感の中にあった。

二人は何を失って、心を傷ついていたのでしょうか?
17節を見ますと、「すると、二人は暗い顔をして立ち止まった」とありますが、暗い顔つきをせざるを得ないようなことがあった。
この聖書の記事から分かること、その喪失感の内容、それが2つあります。

@一つ目が、《イエスさまが死んでしまった》ということです。
十字架刑による死。あんな無残な死。
「神さまとすべての民の前で、行いにもことばにも力ある預言者だ」と19節に書いてあります。
21節を見ると、「この方こそ、イスラエルを贖って(※第3版。2017版は解放して)くださる方だ」と書いてあります。
弟子たちはイエスさまに期待をしていた。それなのに、20節――

20それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。

この深い喪失感。これが一つ。

A二つ目は、《イエスさまのご遺体がなかった》ということです。

22節〜24節にそのことが書かれています。
23節――「イエスさまのからだが見当たらず、帰って来ました」――この状況ですね。

24それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

この状況、これを聞いた時に、二人は疑いで一杯だったと思いますね。
イエスさまは2〜3日前に十字架につけられていたのではなかったのか?
全ては終わってしまったのではないだろうか? 
そしてそのお方は、墓に収められていたはずではなかったのか?
そのお方がいないということは、いったいどういうことなんだろうか?
深い喪失感でありました。

しかしそのような喪失感というのは、私たちにも与えられることがあります。
そしてその喪失というのは、しばしば想定外の状況の中でやって来ます。
愛する者の喪失――私たちは経験することです。
使命感の喪失――定年退職というような人生の曲がり角を曲がった時、私も体験させていただきました。
健康の喪失、さらに言うならば、日常生活の喪失――これが今の状況ではないかと思います。
予定通り物事が進むという、そのことの喪失。仕事の喪失。学びの喪失。
(※カメラを見て)今インターネットでこのお話を聞いている教会学校の皆さんがいたとするならば、毎日本当に退屈ですよね。
学校で課題が出されて、それも終わっちゃって、そして毎日どのように過ごしたらいいか分からない、そういう子どもたちも沢山いるのではないかと思います。
運動の喪失――私はこの期間、体重が三キロも増えてしまいました(笑)。あ、運動不足だなぁ、そのように思います。
そして共に集まって礼拝することの喪失。

そして私たちがやがては、長い人生というのは、このような喪失の連続に囲まれながら、恐らくこれからも続いていくのではないだろうか?
喪失という経験からは、誰も逃れられない私たちであります。
そして死ぬ時は、地上においてはすべてを喪失し、置いていくことになる。
この体験というのは、しばしば深〜い悲しみを伴うものであります。

二つ目の視点――
2)そのような二人に、見知らぬ人が近づいて来ました。

エマオの村への二人の旅人が、失われた者を嘆きながら語り合い歩いていますと、
見知らぬ人、イエスさまが近づいて彼らと一緒に並んで歩かれるんですね。15節――

15話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
16しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。

「イエスさまであるということが分からなかった」というは不思議ですね。
脳がさえぎられていた、とは書いてない。目がさえぎられていた。
「目がさえぎられていた」っていうのは、一体どういう状況なんでしょうか?
分かりません。でも認知できなかったんです。

でもそこには、もはや二人ではなく三人の者が歩いています。
そして歩いて行く内に、何かが変わり始めていた。
この二人は、目の前の地面を見つめ、うつむいて歩いているのではありませんでした。
二人は今や、この見知らぬ人の顔を見ながら歩いている。しかも、イエスさまだとは分からないままです。
途中から旅に加わったこの人は言いました。17節――

17イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」……

19節には――イエスが「どんなことですか」
「何のことですか?」「どんなことですか?」――イエスさまは、そのような喪失感にさいなまれている、二人の弟子たちに向かって質問されるわけですね。

尾木直樹(おぎ・なおき)先生という中学校の先生がいます。
今は教育評論家になっていますが、尾木ママですね。尾木直樹さん。
尾木先生は、中学校の現役教師だった時に、生徒に向かって言う口癖があった。
それは「どうしたの〜?」という口癖だったそうです。
「どうしたの〜?」「どうしたの〜?」
あまりにも「どうしたの〜?」と聞くので、「どうしたの先生」というニックネームがつく位、尾木ママ(笑)尾木先生は、そういう先生だったそうです。
「どうしたの?」独りぼっちでいる子に「どうしたの?」
トイレでタバコを吸っている子に「どうしたの?」
でも、「どうしたの?」という尾木先生のこの一言が、生徒たちの心をどんどん開いて行った。
先生のポリシーは「子どもの目線に立つ」というこの一点でした。
「子どもの目線に立つ」――このことの大切さを今でも訴え続けておられる、ということがコメントを伺っても分かります。

イエスさまは同じように、私たちの目線に立って――「どうしたの?」――そのように語ってくださるお方です。
「何のことですか?」「どんなことですか?」――この質問に対して、イエスさまの質問に対して、二人の弟子たちは、
「知らなかったんですか!」――びっくりしてそのようにイエスさまに言いました。
それでイエスさまが、恐らくイエスさまはもう十分知っているにもかかわらず、
19節で「どんなことですか」と言って、そしてこの二人の弟子たちから色々な話を聞くわけですね。
二人の長い説明がこの19節〜24節まで、延々とこう続くわけです。
イエスさまがいなくなった話。
そしてそのいなくなった状況に輪をかけるような、戸惑いを起こさせるような出来事、空っぽの墓の話。
そしてその人たちが、「そのイエスさまがよみがえったのではないか」と言う、そういう目撃をした女性たちの話。
そういうことを延々とイエスさまに訴え続けるわけです。

で、この24節までのことに、見知らぬ人は耳を傾けました。
幻滅、悲しみ、混乱に満ちた言葉を進んで聴こうとしている人がいるんだ。
二人の間では既に分かり切った事実でありましたけれども、繰り返しているより、見知らぬ人に話している方がずっといいと思ったのでしょう。
何か話していく内に、この二人は癒されていくような感じがしました。
じっと耳を傾けていたこの見知らぬ人、その内にこの人は語り始めたのですね。
25節、第一声が書いてあります。

25そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。

この二人の男たちの心の中に、まっすぐ突き刺さる言葉をイエスさまは語られた。
なぜ「愚か」なのか?なぜ「心が鈍い」のか?
それは「預言者たちの言ったことすべてを、信じなかったから」――イエスさまがそのように仰った。
26節〜27節を見ますと――

26キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
27それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

イエスさまはみことばを通して、ご自分のことを説き明かしてくださった。
今日でもイエスさまは、私たちと共に並んで同じ道を行き、聖書を、みことばを語ってくださるお方です。
悲しみの中を歩く時、試練の中を通過する時、問題課題に囲まれているような時、思い通りにならずイライラするような時、忙しい時、自分の罪深さを思う時、弱さを痛感する時、病の時、
イエスさまはみことばを語ってくださる。

そのみことばはこの聖書に書いてある、具体的な聖句の一節かも知れない。
聖霊を通してこのみことばが心に響く、というみことばかもしれない。
しかし、そうとは限りません。
二人が聖書を説き明かされた方は、イエスさまだと分からなかった。
イエスさまだと分からない状況で、目の前にいる人の話を聞いた。
見知らぬ人や、思いもよらぬ人の言葉を通して、(イエスさまが)語られる時がありますね。
時にはカチンと来ることもあるかもしれない。グサッと来るかもしれない。

私(戸塚伝道師)の新卒時代、教師をやっていましたけれども、
クラスはめちゃくちゃで、子どもは荒れるし、忘れ物はひどすぎるし、どうしようもない状況の中で、私は『忘れ物表』というのをつけました。
名簿に『忘れ物表』というのがあって、忘れた子に✖をつけていく。
今こんなことやったらば、人権問題で(笑)大変なことになるかもしれませんけれども。
忘れ物をした子に✖をどんどんつけていった。

でもある一人の子ども、まさかずくんという。まさか観ていないでしょうね、まさかず君(※右側のカメラ目線で語る戸塚伝道師・笑)。
まさかず君は今もう52歳ですか?今だに覚えているんですけれども、まさかず君が言った一言がいまだに忘れられません。
「先生、忘れ物をした子に✖をつけるんじゃなくて、忘れ物をしなかった子に○をつけたらどう?」――そう言ってくれました。

私(戸塚伝道師)は、この時何かを感じました。何かを直感しました。そして心は内に燃え始めて来たんですね。
「ああ、そうか!私は子どもたちの悪いところばっかりを見て、この子はここができていない、この子はあそこもできていない、というそういうような状況ばかり目についていたけれども、忘れ物しなかった子に○を付ける。ああ、忘れ物をしなかった子はこんなに沢山いるんじゃないか!」
私はその時、教師として子どもたちを見る視点、大切な視点を、まさかず君から教えられた。
いや、《まさかず君を通して、神さまが語ってくださった》ということを経験したんですね。

43年経った今でも、はっきり覚えています。ああ、あれはイエスさまが語ってくださったんだ。あれはイエスさまだった。
直接みことばを通して語られる時もあるでしょう。
このように、間接的に人や出来事や状況を通して語られる時もあるでしょう。
でもイエスさまがこの私に語ってくださった、という体験をもっともっとさせていただきたいと思うんです。
心燃やされるような体験。そして希望が与えられるような体験。
安心した気持ちになり、嬉しい思いに変えられるような、そんなイエスさまから語られるという体験をさせていただきたいなぁと思うんですね。

三つめの視点、これが最後ですね。
3)心を燃え立たせてくださった見知らぬ人を、二人はどうしたか?ということです。

この見知らぬ人は二人の心を燃え立たせ、目と耳を開いてくださいました。
そのことは32節に書いてあります。

32二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

今や、旅の親しい仲間になったことでしょう、この見知らぬ人は。
28節をご覧いただきますと――

  28彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。

と書いてあります。
やっとエマオに着いた。溝口から渋谷ぐらいまでず〜っと語り合いながら歩いて行って、やっと渋谷付近まで着いたということでしょうか。
目的の村近くに来た。でもイエスはもっと先まで行きそうな様子だった。
ここで見知らぬ人に何て言うか?人生の分かれ道なんですね。
まだイエスさまは先に行きそうな様子。
この見知らぬ人と、このままではお別れになってしまう。

人生の分かれ道、どうしたらいいか?
ある場合には、こう言って別れるかもしれません。
「お目にかかれて嬉しかったです。深いお考え、忠告、励ましをいただいてありがとうございます。残りの旅も気をつけて行ってらしてください。では、さようなら」
これで終わりですよ。
そしてエマオで一泊して、次の日どうするのでしょうね?

でも、この二人の弟子たちはそうしませんでした。
もっと色々話してみたい。もっと色々聞いてみたい。そういう思いで一杯だった。
心が燃えていた。イエスさまに語られて、心が燃やされて、希望が与えられて、励ましが与えられて、「何だろう、この経験は?」と思いながら、そして29節が語られるわけですね。

29彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。

「一緒にお泊まりください」
先に行くこの見知らぬ人に向かって、「一緒にお泊まりください」と二人の弟子は言いました。
私たちがイエスさまを招く言葉です――「一緒にお泊まりください」。

イエスさまが私たちを招いてくださる――このパターンには慣れています。
イエスさまが招いてくださる。
「はい、わかりました。じゃ今すぐまいります」
「今すぐ従います」「分かりました、そういたします」
というのが、私たちが慣れている心の姿勢なのかもしれない。

しかしイエスさまは、私たちから招かれることを望んでおられるのではないだろうか?
私たちの招待がなければ、イエスさまは先へ行ってしまうこともあるんだ、ということがこのみことばから分かるんです。
イエスさまは決して、ご自分から私たちに強要するようなお方ではありません。

それは「信じる、信じない」ということもそうです。
え、そうなんですか、イエスさまは私たちが一人も滅びないで救いにあずかることを願っておられるのではないですか?
でも、私たちは「信じる、信じない」ということさえも、イエスさまは強要されないお方なんです。
なぜか?それは、私たちが人間として造られているからです。
神さまは私たちに、人間としての尊厳であるものの一つの「自由意志」を与えてくださいました。
その自由意志を使って、イエスさまを信じるか、信じないか、私たちが決めるようにさせてくださった。

先に行きそうなイエスさまをどうするか?
それは神さまが私たちに与えてくださった自由意志を用いて、
「一緒にお泊まりください」と決める領域なのではないかと思うんです。
イエスさまを招かなければ、いつまで経っても見知らぬ人のまま。
何か感じることがあっても、いいお話し合いができても、結局は他人で終わってしまう。
特にクリスチャン家庭ではない家庭で育った私(戸塚伝道師)は、
イエス・キリストという名前を聞いた時、「ああ、イエス・キリストね〜」――それで終わっちゃったらば、もうそのままだった。
私たちから招かなければ、イエスさまは先へ行ってしまう。見知らぬ人のままなんだ。

しかしこの二人の弟子たちは、イエスさま、見知らぬ人に「一緒にお泊まりください」と声をかけた。
しかも無理に強要した、無理やりに願って「一緒にお泊まりください」と願ったんですね。

ここで「お泊まりください」という言葉、この言葉は深い意味があるのではないかと思います。
「一緒に休んでください。一緒にお茶でも」――そうではない。
「一緒にお泊まりください」とイエスさまに申し上げた。
「お泊まりください」という場所、これは宿屋ではないような気がします。
二人の弟子のうちのどこかの家なんでしょうか?わかりません。
でもイエスさまを招くような、そういう場所だったんでしょうね。

「お泊まりください」というのはどういうことなのか?
それは一緒に食事をすることです。一緒に寝起きを共にすることです。
さらに深い親しい本音の会話をすることです。お互いをさらに知るところです。
さらには、様々な語り合いのうちに好き嫌いも分かるでしょうし、
寝たらば、ああ、この人すごいいびきだなぁ、ということも分かるでしょうし、トイレにも立ったりなんかするでしょうし、
もう隠し事があんまりないような状況が、「一緒にお泊まりください」の状況なんではないかと思いますね。

私は見知らぬ人を迎えて、そして「一緒にお泊まりください」という行為に出た、この二人の弟子たちの姿勢は、とても大切な選択だったと思います。
どうか私たちも、このあなたを、私たちの日々の生活の中でお迎えして、
「一緒にお泊まりください」という思いで、イエスさまを招きたいと思うんですね。
私を知ってもらうために、プライベートな生活の中にまでイエスさまに来ていただいて、
あるいは忙しい日々の生活のただ中にいる私に会ってほしいし、
最も傷つき易いような状況の中にある時に、イエスさまに触れていただきたいし、
もしかしたらしっかりと鍵をかけておきたいと、自分でさえ思っている心の部屋を、
その裏部屋まで入って来て、そして
「どうかこのような現状なんです。一緒にお泊まりください。
そして、私たちに必要な恵みを与えてください。
私たちを励ますようなお言葉を語ってください」
そのようにイエスさまをお招きしたいと思うんです。

この先、イエスさまをお招きした二人の弟子たちにどのような恵みが与えられたかは、先週語られました。
パンを取って祝福し、裂いて渡してくださるという、すばらしい恵みを与えてくださいました。
でもお招きしなかったらば、そのままだった。
で、私たちはこの朝、「一緒にいてください」とイエスさまの前にお祈りしたいと思うんですね。

最後に歌う(教会福音)讃美歌430番(夕闇の迫るとき)はこの様子が描かれている讃美歌であります。
「一緒にいてください」 "Abide  with Me"
讃美歌の歌詞を見ますと、1節を見ますと――

1夕闇の迫るとき 頼りゆく身を支え いつまでも離れずに 主よ、ともにいてください
インマヌエル讃美歌【118番 日くれてよもは暗く】ですと、「主よ、ともに宿りませ」
「宿りませ」――「一緒にお泊まりください」という意味です。
一緒にお泊まりください。

復活され、今も生きておられるイエスさまを心からお招きし、
私たちのための十字架を覚えながら、
「私はあなたを信じ、私のすべてをあなたにゆだねます」とお祈りしたい。
その時、イエスさまは私たちに深い交わりに導いてくださる。
そして、何でもイエスさまにお話し、何でもイエスさまと語り合いながら、
そしてイエスさまから心燃やされるようなお言葉をいただきながら、
私たち一人ひとりのこの日々の歩みを、この大変な状況の中にある歩みを、
共に歩んでまいりたいと思います。
みことばを語って、私の心を燃やしてくださるイエスさま、
私の罪を贖ってくださったイエスさま、
どうかイエスさま、先に行かないでください。
一緒にお泊まりください。一緒にお泊まりください。

☆お祈り――戸塚伝道師

イエスさま、今私はあなたを信頼します。私のすべてを、からだも思いもたましいも、あなたにお委ねします。そしてイエスさま、この朝どうぞ私と一緒にお泊まりください。ただ信じてお祈りする関係ではなく、もっともっとあなたのことを知ることができますように。
また私の心の奥の感情や思いの最も深い所で、私が様々な事に思い悩むとき、あなたが私のことすべてをご存じであることを感謝いたします。みことばを通して心を燃やしてくださり、罪が許され贖われた者として、あなたとの深い交わりを味わう恵みをこの一週間の生活の中でお与えください。聖霊のとりなしの内に、愛するイエスさまのお名前によって父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。


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