☆聖書箇所 ゼカリヤ8:1〜8
1次のような万軍の【主】のことばがあった。 2万軍の【主】はこう言われる。 「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、 激しい憤りをもってこれをねたむ。 3 ――【主】はこう言われる―― わたしはシオンに帰り、 エルサレムのただ中に住む。 エルサレムは、真実の都と呼ばれ、 万軍の【主】の山は、聖なる山と呼ばれる。 4 ――万軍の【主】はこう言われる―― 再び、エルサレムの広場に、 老いた男、老いた女が座り、 みな長寿で手に杖を持つ。 5 都の広場は、 男の子と女の子でいっぱいになる。 子どもたちはその広場で遊ぶ。 6 ――万軍の【主】はこう言われる―― もし、これがその日に、 この民の残りの者の目には不思議に見えても、 わたしの目には、不思議に見えるだろうか。 ――万軍の【主】のことば。」
7万軍の【主】はこう言われる。 「見よ。わたしは、わたしの民を 日の出る地と日の沈む地から救い、 8 彼らを連れ帰り、 エルサレムのただ中に住まわせる。 このとき、彼らはわたしの民となり、 わたしは真実と義をもって彼らの神となる。」
☆説教 ゼカリヤ(8)最後に愛は勝つ
さて、ゼカリヤ書の学びを続けていますので、今日は8章の1節から8節までを読んでいただきました。
ところで皆さん、色んな余裕があったりして、「ステイ・ホーム」のゴールデンウィークですから、何をするかという時に、テレビでやっていましたね。 一番多くの方々が取り組むのが、「お片付け」だそうです。 私(藤本牧師)は去年やりましたので、今年やる必要はないかなと思うんですが、ちょっと頑張ってみたらいかがでしょうか? 専門家に聞きましたら、「先ず洋服を片付けるのがいい。次に本と書類を片付けるのがいい。一番難しいのが小物だ」という話が出ていましたけれども、ま、せめて衣類と本ぐらいは、ちょうど衣替えの時期でありますので、試みてみたらいかがでございましょうか?
ゼカリヤ書の8章。先週ですね、ゼカリヤ書に書いていますところの、 本来的なイスラエルの民の現実、あるいはもっと広く言えば、人間の現実、 そして自分もその中に入れば、時にキリスト者の現実となるような問題に触れました。
それは神さまに背を向けたアダム以来、人間が歩んで来た道だと言ってもいいと思います。 バビロンから帰って来たイスラエルの人々は、最初は情熱に燃えていました。 神殿の土台を建設しました。 しかし土台の小ささに失望し、嫌という程、自分たちの弱さを見せつけられ、 加えて日常生活は忙しい。嫌という程、外からの妨害もある。
そうこうしているうちに、イスラエルの人々は、バビロン捕囚以前の不信仰な姿に戻っていきました。
そもそもイスラエルがバビロンの捕囚に捕られたのは、(ゼカリヤ)7章の11節にあります、この人間の根本的な問題のゆえですね。
<ゼカリヤ7:11〜12> 11ところが、彼らは拒んでこれを聞こうともせず、肩を怒らせ、その耳を鈍くして聞き入れなかった。 12彼らは心を金剛石のようにし、……
彼らは神の声を聞くのを「拒んだ」。神さまに対して意地でも聞くまいと「肩を怒らせ」、「その耳を鈍くして聞き入れなかった」という頑なな姿勢を取りました。 12節に「彼らは心を金剛石のようにし」――申し上げましたように、聖書の中で金剛石というのは、一番堅い石の象徴であります。
こういうところが人間全般にある。イスラエルにある。捕囚期前も捕囚期後も、そして私たちのクリスチャン生活の中にもあるんだということを、ま、自覚することはとっても大切であります。 時に私たちは試練の中で堅く心を閉ざし、悲しみの中で、不安の中で、私たちは殻に閉じこもる傾向があります。 その時、私たちの心は金剛石のようだと。全く砕かれることはない。自分の限界、世の中の限界に閉ざされて、金剛石のように砕かれることのない心になってしまいます。
すると、神さまの励ましの言葉にも、慰めの言葉にも、私たちは耳を傾けず、神さまの私たちの罪深さを諭すような声にも耳を傾けず、神さまの招く声にも耳を閉ざし、そして7章の14節、最後こうなってしまいます。
<ゼカリヤ7:13〜14> 14わたしは、彼らを知らないすべての国々に彼らを吹き散らした。この地は、彼らが去った後荒れすたれ、行き来する者もいなくなった。……」
というバビロン捕囚に終わっていきます。 そのひとつ前の13節に――
13「彼らは呼ばれても聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない――万軍の【主】は言われる――。
という70年間があったということを、私たちは忘れてはならないと思います。 「彼らは呼ばれても聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、(わたしは)聞かない」と、 神さまと私たちが遠く離れた現実というものが生まれてしまう。 それを実感していたのが当時のイスラエルの人々でありました。 そして、それが今の私かもしれない、という警告をもって、私たちは今年ハガイ書から始めてこのゼカリヤ書を学んでまいりました。
さて今日は、こうして導かれていく聖書の、ものすごく大きな大切なメッセージにとうとう至ります。 このメッセージは一貫して聖書に響いているんですけれども、 バビロン捕囚の後のイスラエルの預言者、ま、前も含めますけれども、たとえばホセア、イザヤ、ハガイ、ゼカリヤ、こういう預言書には特に強く出て来ます。 聖書が、旧約聖書の聖書が、最終的に辿り着くメッセージというものがあります。 それが、今日の説教のタイトルになっております「最後に愛は勝つ」です。
私(藤本牧師)は、この説教を作りながら、最初のポイント辺りで、どこかで聞いた言葉だなぁ(笑)と、「最後に愛は勝つ」というのは、何かそういう歌があったんじゃないかと思って、インターネットで検索をしましたら、有名なJポップスの歌がありました。 「♪どんなに困難で、くじけそうでも、信じることさ、必ず最後に愛は勝つ」 というKANさんという方が、この方は幼稚園からカトリックの幼稚園、それからプロテスタントの小学校の教会学校に通っていた人ですね。 ごめんなさい。私が歌えばいいんですけれども、ま、「愛は勝つ」で検索してくだされば、ああ、この曲なんだ、と思っていただけると思います。
いいでしょうか? (イスラエルの民は)旧約聖書全体の中で、バビロン捕囚から帰還し、神殿建設に頓挫し、 国の勢力は依然として植民地、ペルシャ、次はギリシャ、そしてローマの植民地と移る中で、人々の力は段々弱くなっていきます。 信仰はしぼんでいきます。焦点もなく、神殿建設も途中で止めてしまう程、自分の日常生活に心を奪われ、そういう中で強烈に最終的に出て来るメッセージがあるんです。 それが「最後に愛が勝つ」――最後に神の愛が勝つ――なんです。
そのしるしが、この世に来られた主イエス・キリストでありました。 しかしその中にあっても、イエスさまは仰いますよね。(***ヨハネ16:33) 「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」 「最後に神の愛が勝つ」というのはどういう意味なんだろうか?ということを、簡単に3つのポイントでお話をします。
1)なぜ、「最後に神の愛は勝つ」となるんだろうか?
8章の2節を見てください。
<ゼカリヤ8:2> 2万軍の【主】はこう言われる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。
1章の14節を見ていただきますと、その時、特殊なフレーズを学びましたね。
<ゼカリヤ1:14> 14私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。『万軍の【主】はこう言われる。わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。
「ねたむ」というのは、「熱心」という意味でも訳されています。 愛ですから、熱心に愛しますと、愛している対象が背を向けて、ほかのものに走った時に、つまり偶像崇拝に走った時に、神は妬みを起こす程あなたを強烈に愛している、という意味です。 で、これは神さまご自身の告白です。
ちょっとよく聞いていただきたいと思いますが、今日の説教のタイトル「最後に愛は勝つ」と言いましたけれども、この「最後に」という時に、 それは「神さまの中でも最後に愛が勝つ」という意味が含まれています。
「ねたむ神」というのは、十戒の中に出て来ますね。(***出エジプト20:3〜17) 「あなたがたは、わたしのほかに神を作ってはならない。偶像を刻んではならない」 そして、神さまは仰います、「わたしはねたむ神だから」(***同20:5)と。
つまり「ねたむ」というのは、神さまが私たちを愛するがゆえに、神さまの内側に生じて来る苦悩ですね。
それはゼカリヤと同じように、バビロンの捕囚の後に活躍したホセアという預言者がいますが、ホセア書によくその神さまの苦悩が出てまいります。 その神さまご自身の苦悩を代表したのが、ホセアという預言者で、彼はゴメルという名の遊女と結婚いたしました。 どんなにゴメルを愛しても、大切にしても、ゴメルの方から他の男性を求めて家を出て行きます。 ホセアはもう嫌だ、もう諦めよう、とする時に神さまはホセアに語りかけられました。 「ゴメルは今、奴隷市場に売られている。それを買い戻して来なさい」と。
預言者ホセアとゴメルの関係は――これ夫婦の関係は――神さまとイスラエルの関係でありました。 その時、苦悩しているのはゴメルではなく、ゴメルを愛するホセアなんですね。 神さまとイスラエルの関係で、苦悩しているのは、苦しんでいるのは、背を向けてるイスラエルではない。 そのイスラエルを未だに愛して、自分の民と考えている神さまが、苦労しておられるんです。
苦悩のゆえに、「だったらもう諦めて、放り出して、ゴメルを捨て置いて、せいせいしたらいいではありませんか?」となりますよね。 それができないわけです。なぜなら、ホセアはゴメルを愛しているから。 なぜなら、神さまはイスラエルを愛しているからです。
この神さまの苦悩を、ホセア書で見ていただきたいと思うんですが、ホセア書というのは、ゼカリヤ書から少しページを下ったところにアモスがあります。 アモスの前がホセアで、その先に行きますとダニエルに行ってしまいますので、 この新改訳2017では、皆さんなかなか持っておられないと思うんですが、11章の8節になります。 ちょっと私(藤本牧師)の方で読んでいきますので、耳を傾けてください。11章の8節だけをお読みいたします。
<ホセア11:8> 8 エフライムよ。わたしはどうして あなたを引き渡すことができるだろうか。 イスラエルよ。どうして あなたを見捨てることができるだろうか。 どうしてあなたを アデマのように引き渡すことができるだろうか。 どうしてあなたを ツェボイムのようにすることができるだろうか。 わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。
「わたしには、あなたを見捨てることができない」という何とも言えない苦悩に満ちた、熱い愛の告白を神さまはなさっているわけです。 引き渡すという可能性がある。 「あなたのことはもう諦めた」と言う可能性もある。 その方がすっきりするではありませんか。 その方が正しいことを尊ぶ聖なる神さまにふさわしいではありませんか、という考え方もありますよね?
「しかしどうしてそれができようか。どうしてもできない。なぜなら、わたしはあわれみで胸が熱くなっているから」と(神さまは仰るのです)。 どういうことなのか?それは正義を尊ぶ聖なる思いに、最後は愛が勝ったという意味です。 それは神さまのうちで、愛が勝った。 そして神さまは、私たちの代わりに御子イエス・キリストを十字架に送られました。 ここに愛がある。 第一ヨハネの手紙の「ここに愛がある。」(***Tヨハネ4:10) それは、最後の最後に愛が勝った、ということですね。
2)神は、最後に愛が勝った祝福の世界を見ておられる。
その姿をゼカリヤ書に戻っていただいて、ご覧いただきたいと思います。 8章の4節(〜6節まで読み進む)――
<ゼカリヤ8:4〜6> 4 ――万軍の【主】はこう言われる―― 再び、エルサレムの広場に、老いた男、老いた女が座り、 みな長寿で手に杖を持つ。 5 都の広場は、男の子と女の子でいっぱいになる。 子どもたちはその広場で遊ぶ。 6 ――万軍の【主】はこう言われる―― もし、これがその日に、 この民の残りの者の目には不思議に見えても、 わたしの目には、不思議に見えるだろうか。 ――万軍の【主】のことば。」
ちょっと長いですので、順番を追って見ていきますね。 4節の頭に、「再び、エルサレムの広場に、老いた男、老いた女が座り、みな長寿で手に杖を持つ」と。 ま、このコロナ旋風が終わったら(笑)、教会のお年寄りもみな元気で礼拝に来ていただけると私たちは確信しています。 杖を持って歩く。「みな長寿で手に杖を持つ」というのは、みな元気で長生きをしているという意味です。
ところが、神さまが見ておられる世界はまだあるんです。 その次に「都の広場は、男の子と女の子でいっぱいになる。子どもたちはその広場で遊ぶ」(5節)ということは、 「お年寄りだけではない。この神さまの広場には、小さな子どもたちも溢れている」という《希望を、最後に愛が勝つ神は見ておられる》ということですね。
その子どもたちまでいるというこの現象、6節の終わりから三行目に、 「この民の残りの者の目には不思議に見えても、わたしの目には不思議に見えるだろうか?」――(不思議には)見えない。 そうした《希望ある世界を、わたしの目は見ている》ということなんです。
私(藤本牧師)は、日本の教会の危機ということを何度も何度もお話ししてまいりました。 ある意味で、日本の教会の危機というのは、二重であるということをお話ししてきたと思います。 一番最初は、教会は牧師不足になるという危機ですね。 十年後にインマヌエルの110を超える教会で、牧師が住んでいる教会は60ぐらいになると算出できますので、牧師不足はインマヌエルだけでなく、カトリック教会でも、また日本キリスト教団でも聖公会でも同じであります。
しかしよく考えますと、牧師が引退し教会が無牧になる、というのが第一段階目ですね。 二段階目には、そして誰も礼拝に来なくなる日が来る、ということです。 それは特に少子高齢化がとても顕著な町にある教会には、今ある、迫って来ている現実です。 教会に若い夫婦がいない。あるいは子どもがいない。それは決して特殊なケースではない。 なぜなら、町にいないものですから。町にそういう若い夫婦がいなければ、どうして教会にそういう夫婦がいることができましょうか。
そういう教会が、日本の教会の60%を占めていると言われています。 そういう地域に教会がある教会が、日本の教会の60%だと。 すると10年後の日本の教会は、牧師がいないだけではない。 いま礼拝を守っておられる方々が元気なら、みな杖をついている。長寿の祝福です。 しかしそこには、子どもはいない。
「最後に愛が勝つ」という時に、私たちはきちっと希望を語らなければいけない。 現実を語っているだけではない。 神さまは私たちを希望の道筋に向かって、色んな策(道筋)を設けておられるのですから、 その道筋がどういうものであるかということを真剣に探って行かない限り、 私たちは神さまの希望の世界へと辿り着くことはできないですね。 社会構造が変わるのか、再び霊的な灯がともされるのか、教会に子どもたちの声が響いて来る日が来る。 なぜなら、神さまは仰る。「最後にわたしの愛が勝つから、必ずそうなる」と。
この点に関しては、またじっくり皆さんの内で思い巡らしていただきたいと思いますが、3番目、これが一番大切です。 3番目のポイントのタイトルは――
3)(神の愛は)勝ちに行く
(ゼカリヤ)8章の7節を見てください。7節と8節をお読みいたしますね。
<ゼカリヤ8章7〜8> 7万軍の【主】はこう言われる。 「見よ。わたしは、わたしの民を 日の出る地と日の沈む地から(***世界中から、と説明)救い、 8 彼らを連れ帰り、エルサレムのただ中に住まわせる。 このとき、彼らはわたしの民となり、 わたしは真実と義をもって彼らの神となる。」
「勝ちに行く」というのは、神の愛は勝利を待っているのではない、ということです。 神ご自身が勝ちに行くと仰っておられるのは、7節と8節であります。 これが、今日の説教で一番大切なポイントで、しかもハガイ、ゼカリヤを学んで来て、その中心にあるメッセージがここに表現されています。 ですから、よく聞いてくださいね。
「わたしは世界中からわたしの民を救いに行く」(7節)と、「彼らを連れ帰る」、「彼らをエルサレムのただ中に住まわせる」(8節)。わたしの臨在のただ中に住まわせる。 すべてこれらは神さまの働きとして、描かれています。 神さまが、わたしが働く、わたしが動く。 ですから、「神の愛は勝ちに行く」という3番目のポイントのタイトルとしました。
これがイエス・キリストがこの世に来られた救いです。 誰かが頼んだわけではない。私たちが何かしたわけではない。 「どうして愛する者を罪と死の世界に引き渡すことができようか!」 という神さまの熱い愛のゆえに、御子イエスが神さまの方から送られ、 私たちを招き、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、 私たちに永遠(とこしえ)のいのちを与えるために、 復活の初穂となってよみがえってくださいました。 「神の愛の勝利」ですね。
これはある意味、信仰者の勝利ではない。 これを一つ話をして終わりにいたします。 いつもですと、少し分かり易い話をして終わりにするんですけれども、 日常の話ではなく、今日は神学的な話を一つして終わりにいたします。 分からない方は、また説教の原稿を見ていただきたいと思うんですが、 聞いていて、「あ、なるほどなぁ」と思われる方は沢山おられると思います。
新約聖書のローマ人への手紙の3章を開いてください。 ロマ書の3章の21節と22節をお読みいたします。
<ロマ書3:21〜22> 21しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が(***ま、福音が、と説明)示されました。 22すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。
22節の「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義」 「イエス・キリストを信じることによって」。 新改訳聖書には、ここに*の注が付いています。 この句をどのように訳すか?――小さなことに見えますけれども、 実はこれは20世紀に始まり、今に至るまで論じられている大きな大きな問題です。
新改訳聖書の注には、ギリシャ語そのままの訳が書いてありますが、 【*の注には、別訳「イエス・キリストの真実によって」】 「イエス・キリストを信じること」というのは、ギリシャ語では「キリストの信仰」なのです。 ギリシャ語では、ピスティス・イエスゥ・クリストゥです。 ピスティスというのは「信仰」。で、イエス・キリストの、ですね。 「イエス・キリストの信仰によって救われる」という時に、私たちはこれを普通「キリストを信じる信仰」と訳すじゃないですか? もちろんそう訳してある他の聖書の箇所もありますけれども。
ところが、このロマ書の3章の22節については、1962年に20世紀最大の神学者、スイスのカール・バルトが、ロマ書の講解の第二版で、全く違う訳を出して来たんですね。
それは「私たちがイエス・キリストを信じる信仰」ではなくて、文字通り、「イエス・キリストが持っておられる真実」。 バルトの訳では、「キリストに現された神の真実」と訳しましたが、 文字通り「イエスの真実によってあなたは救われる」という風に訳したわけです。
そもそもピスティスという言葉は、「イエス・キリストを信じる信仰」と訳していますけれども、本来の意味は忠実とか、真実とか、誠実という意味です。 特に旧約聖書では「契約を守る神の真実」という時に、ギリシャ語で使われるようになりました。
バルトは考えました。私たちを救うのは、「キリストを信じる信仰」である以上に、「神の真実」が私たちを救うと。 それから今に至るまで膨大な研究がなされて、世界中で2/3位の学者はバルトに賛成している立場でありましょう。 私(藤本牧師)もそうでありますけれども。
なぜなら、これこそが、今ず〜っと学んで来たゼカリヤ書のメッセージだからです。 私たちの弱さ、自分たちの情けなさを痛感していた、バビロン捕囚後の旧約の民が感じていたこと。 ベストを尽くして神殿を建てようと思った。しかし土台の所で止めてしまった。 自分の弱さを痛烈に感じたところに、神さまが来られて、 「いや神殿を建てるのはあなたがたではない。わたしが建てに行く。わたしが測りに行く」(***ゼカリヤ2:2)と。 「わたしがあなたがたのうちに、二人の指導者を聖別し(***同3章、4章)、『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』(***同4:6)あなたがたを奮い立たせ、神殿の建設を完成する」と仰ったんですよね。
すると、メッセージは、非常に明確で―― 強固な信仰に立ちたいけれども、なかなか神さまの期待に答えられない。 私たちが救われるのは、神さまが私たちのことを妬むほど激しく愛し(同8:2)、私たちを連れ帰り、私たちを神の国に住まわせておられるから(同8:8)。だから私たちが救われているんです。 そして、8節の最後に神さまは仰いますよね。 「わたしは真実と義をもって彼らの神となる。」 この「真実」という言葉が、「信仰」という言葉と同じ意味でありまして、「私たちは神の真実によって救われる」んですね。(アーメン!)
神の愛が、私たちを勝ち取りに来る。 神の愛が、私たちを最後まで支える。 神の愛が、先の見えない明日に希望を与える。
私たちの信仰は、せめてこの熱烈な神の愛に背を向けず、神の愛に応えていくことだろうと思います。 私たちを勝ち取りに来てくださったイエスさまについていく、ということが何よりも大切なことだろうと思います。
☆お祈り――藤本牧師
8このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と義をもって彼らの神となる。」 (ゼカリヤ8:8)
恵み深い天の父なる神さま、これがあなたの宣言であるから感謝いたします。もしこれが私たちの宣言であったとしたならば、到底自分の力をもってしても、この宣言を守り切る自信はありません。 しかし私たちを最後まで、信仰のレースを完遂させる力があなたにあるとしたならば、あなたの真実にあるとしたならば、こんなに弱い愚かな私でも少しずつ成長しながら、試練を乗り越え、あなたが用意してくださった義の栄冠を受けるにふさわしい者へと成長していくことができる。なぜならそれが神の真実のわざであるから。 せめてあなたの熱烈な愛に背を向けることがありませんように、私たちを引っ張って行ってください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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