☆聖書箇所 民数記21:4〜9
4彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、 5民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」 6そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。 7民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。 8すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」 9モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。
☆説教 仰ぎ見れば救われる
民数記21章の4節〜9節を見ていただきました。 先週は20章のエドムの妨害を回避して行ったイスラエルの民のことを学びました。ずっと荒野をさまようイスラエルの人々です。
彼らは約束地を前にして、行く手を阻むカナンに住む人々に足がすくみ、そこに必ず導きいれると仰った神さまの力、約束、神さまの真実を信じることができずに、エジプトに引き返そうとします(***民数記14:4)。 そのことに大変失望した神さまは、「斥候隊が入って行った四十日、一日を一年と数えて、四十年あなたがたは荒野をさまようことになる」(***民数記14:34)と、宣言されました。
シナイ半島を北上し、そして、20章にありましたように、あるいは4節にありますね。
4彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。
葦の海というのは紅海のことです。迂回して死海の南からカナンに接近した頃です。荒野の旅路にほとほと疲れて、そして、4節の最後――
4……しかし民は、途中でがまんができなくなり、 5民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」
もう荒野の旅路にほとほと疲れたのですね。
5節の不満というのは、神さまもモーセも、また聖書を読んでいる私たちも、もう何度も聞いています。そして象徴的なのが5節の一番最後「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした」。 みじめな食物とは、天から降りて来るマナですね。 最初は感動的でした。まあ、これはいったい何なのでしょう。ヘブル語ではマン・フーです。そのマン・フーということばからマナという名前がついたと言われています。(***出エジプト記16:15)
それほど感動した神さまの恵みですけれども、しかし、それしかない、荒野で実に粗末な放浪を強いられることになる。 もっと深く言えば、人生の予定が大きく変わってしまった彼らの嘆きです。
何度でも聞かされて来た不満です。それは聖書に何回も同じような不平が記されているからですが、でも理由はもっと深いですね。 私たちも同じように、荒野を放浪するような人生の場面を強いられますけれども、最初は驚きの恵みも、今では惨めな食事になってしまう。
ひとことで言いますとね、(イスラエルの人々は)喜び勇んでエジプトから脱出して来たのですね。 そして、様々な奇跡を見て来て、喜び勇んで一気に約束の地に入る予定だったのです。 しかし、その行程はそれなりの試練に溢れて来て、試練の度に不平不満が漏れ、そして露呈されたのは、彼らの人間的な不信仰です。肉的な思い。 どの行程でも、それなりの試練はついてくるのです。 私たちは喜び勇んで一気に約束の地に入りたい。喜び勇んで一気に解決してもらいたい。 でもそれなりの試練が出て来る度に露呈されるのは、自分の実に肉的な思いと不信仰であったと。
神さまはこれまで様々な方法で、彼らの不信仰、不平不満に対応して来られたのですが、今日読んでいただきました(民数記)21章ではちょっと独特なのですね。6節に――
6そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。 「燃える蛇」とは、毒蛇です。かまれたら、かまれたところが熱く腫れ上がり、やがて死に至る、これはマムシのような蛇ですね。
そうして、これから一緒に学んで行きます、深〜い味わいのある不思議な場面が、やりとりが、聖書に記されていますので、3つのポイントでそれを学んでみたいと思います。
1)モーセは民のために祈った。
7節にこうあります。
7民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
そして、7節の最後、短かな文、「モーセは民のために祈った」。
以前学びましたね。何度モーセはとりなしの祈りをして来たことか。 うんざりするほど、また同じか、と思ったに違いない。 しかし、それでもモーセは祈るのです。 民の苦しみの声を聞き、その辛さを感じ、申し訳なかったと悔いている人々の顔を見て、またもモーセは祈るのです。 何度でも祈る。「神の人」とはこういう人なのだと思います。 昨日久しぶりに教会に電話があり、ま、物乞いさんからの電話なのですね。 この暑さに耐え、路上生活にも疲れ、教会に行けばお金がもらえるのかと。 いや、最近の物乞いさんは、少し進化したなぁと(笑)(思いましたね)。 以前は教会にいらっしゃった。でも今は、携帯で一応(大笑)確認する。それもかなり高ランクですね。
私(藤本牧師)は思わず、 <携帯で家電(いえでん)に電話されるとかなりお金がかかりますよ。もう切ってしまわれた方が身のためではないでしょうか> と、もうここまで出るのですけれども、まぁしばらくお話を聞きながら、 「川崎市の施設やいろんなところがありますから、そこにいらっしゃったらどうでしょうか」 と言って、電話を切ったら、圭子(先生)は、 「久しぶりね。そういえば最近物乞いさん来ないわねぇ」と(言ってました)。 物乞いさんネットワーク(?笑)の中で、高津教会は相手にしてもしょうがないという連絡が行ったのか(笑)。 私はまさに何十回と物乞いさんを相手にして来たのですが、最近来なくなった。 最近はやはり携帯を使うのかなぁと(思うわけです)。
何度来られても、やはり丁寧に対応はします。 それが、教会ということに対するイメージでもありますし、自分の人生行き詰ったという相談を持って来られたら、それが電話であっても、何度電話されても応対はいたします。 でも恐らく私の思いでは、その応対というのは、そこでとどまってしまう。その程度で終わってしまうのです。
モーセは何度でも祈るのです。 どの家庭にも、どの教会にも、どの国にも災いを免れ、死から救われるために命がけで祈る人がいなければいけないことが、よくわかります。 この人から来る祈りの課題はまたこれか。 教会で問題があると、またこの人か。 国の中で問題が出て来るとまたこれか――先週と話を続ければですね――今の日本、今の世界にとって、災いは戦争でしょうね。何度やっても懲りない、この報復のやりあい。 私たちの家庭にあっても、災いは人間関係の災いかもしれませんし、災いは病かもしれない。 それはしつこいばかりに、何度でも襲って来るのです。
モーセは何度でも祈るのです。 つまり「神の人モーセ」という題で私たちは学んでいますけれども、「神の人」モーセというのは、祈ることに飽いたりはしない。 祈ることにあきらめることはない。 神さまがまたもや赦してくださるように、神さまがまたもや癒やしてくださるように、回復してくださるように、慰めてくださるように、守ってくださるように、「神の人」モーセは何度でも祈るのです。 モーセは祈ることにいのちをかけていた人です。
2)神さまは不思議な解決方法をお与えになりました。
これが一番不思議なのです。(民数記21章)8節に――
8すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
この神さまの提案というのは理解できない――あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。
日本人的な感覚ですとね、蛇を神さまとして祭れということになります。 お蛇さまの(大笑)お怒りを静めるのじゃ!(大笑)ということになりますでしょう。――それを仰ぎ見れば、あなた方は生きる(とはとても不思議です)。
もちろん聖書が語るのはそうではないことは明らかなのですが、たとえばですよ、オーストラリアの原住民アボリジニには、ニシキヘビをいのちの源して考えますよね。オーストラリアのあの大地に出て来るニシキヘビ。 蛇を漢方とする中国の文化もありますでしょう。 あるいは蛇を神の化身と考えるギリシャの文化もありますよね。 すると、その蛇を祭ると考えたら、あ、なるほど(そういう文化のように)蛇を祭るのか(と考えるのかと思いがちです)。
しかし、聖書の文化はそうではないということを、旧約聖書の人々も私たちもよく知っているわけですよ。 聖書では、創世記のエデンの園以来、蛇はサタン、あるいはサタンの誘惑を指します。 アダムとエバは、狡猾な蛇の誘いに乗って、神さまが絶対食べてはならないと禁じられた、あのエデンの園の真ん中にある木の実を食べてしまう。 蛇は実に巧妙にアダムとエバを罪に誘うわけです。 そして、一番最後の聖書の書物、黙示録(12:9)では、悪魔は蛇と呼ばれています。 皆さんの中には、蛇を可愛がっておられる方もおられると思いますが、蛇という爬虫類がそうだというわけではないですね。これはもちろん象徴的なものの言い方です。 毒蛇の恐ろしさを古代の人々は良く知っていたのです。あるいは蛇の動き、その蛇の様子に、悪の力を感じたのだろうと思います。 そしてパレスチナ一帯、オリエントの世界で、蛇とかさそりとかいうのは、荒野に行ったらいつも存在し、人のいのちを奪う存在です。 蛇は、人間を罪に誘うものであり、また人間の罪深さの象徴であり、なおかつ、罪深い者に対する神の裁きとして、蛇は捉えられていた。 モーセは9節を見ますと、青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけるわけですけれども、それがどんな形をしていたのかわかりません。 神さまは単純に、「燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ」と仰った。 それでモーセは青銅で作るのかなぁと、こう考えたのでしょう。
旧約聖書を読む限り、これの意味するところは、さっぱりわからない。正直わからない。 なぜ神さまはそんな処置をなさったのか。あたかも蛇を祭らせるような指示を神さまはなぜなさったのか、わからないです。
しかしイエスさまは、その意味するところを教えてくださるのですね。 ヨハネの福音書の3章14節を見てください。 なるほどこういう意味だったのかと、私たちはこれを読んで初めて解るのです。 私(藤本牧師)が14節を読みますので、15節を皆さんがお読みください。
ヨハネ3:14モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。 3:15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
そう仰った後に、16節の――
3:16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ということばがつながります。
14節に「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない」とはどういうことなのか? これは言うまでもなく、人の子もまた十字架の上に上げられるということ。 どういうことか?
蛇が旗ざおの上に縛り付けられてか、くくりつけられてか、上げられるということの意味を、イエスさまは十字架から逆に解釈されたのです。 時代的には十字架の方がはるかに後です。でもはるかに後の出来事から、はるかに前の出来事を、イエスさまは解釈された。
十字架の上で、イエスさまは磔になって、上げられます。 それは、パウロのことばを使いますと、「罪の裁き、私たちを責め立てている罪の裁きという債務証書が十字架の上で釘付けになった」(コロサイ2:14)とパウロは言うのです。 すると、青銅の蛇は、罪深い私たちに対する神の裁きであった。 それを旗ざおの上に釘付けにして、神の裁きを釘付けにして、みなに見えるように、上に上げよと(磔のイエスさまは、ご自身のいのちを呈して、モーセに私たちに教えてくださっているように感じます。T・Y)。
そのイエスさまの解釈から、民数記21章を解釈し直すと、神さまはモーセにこう仰った。 「あなたたちの罪深さ、そしてそれを責め立てる神の裁きは、あそこに、あの旗ざおの上に釘付けになっている。 あなたがたは、自分の罪を悔い改めた。だとしたら、赦してくださる神の恵みを信じなさい。 あなたがたの罪深さ、そしてそれに対する神の裁きは、あそこで終わっている。 赦してくださった神の恵みを仰ぎ見なさい。そうすれば、あなたがたは生きる」。 青銅の蛇は、神の化身ではない。青銅の蛇は、神の裁きの象徴で、それが釘付けになって、旗ざおの上に上がっているということは、神さまの憐れみの象徴という風に、イエスさまは理解されたのです。
「旗ざおの上に釘付けにされている蛇は、あなたがたの罪、そしてそこに、罪に対する裁きもまた釘付けにされている。――神さまの憐れみは確かだ―― それを仰ぎ見る時に、あなたの罪は赦され、あなたがたは生きる」。
それは私たちが十字架を仰ぎ見ているのと同じだ、とイエスさまは仰る。
3)最後に興味深いポイントを見ていただきたいと思います。
民数記の21章の7節をちょっともう一回見ていただきたいと思います。民の願いです。
7民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」(モーセは民のために祈った。)
8節に――
8すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
ということはどういうことか? それは民の願いどおりには、蛇は取り去られなかったということです。 民は蛇を取り去ってください(と願った)。でも蛇は取り去られなかった。ま、数は少なくなったのかもしれませんけれども。
課題は明らかで、彼らが荒野にいる限り、毒蛇やさそりはついて回る。なぜなら、荒野は毒蛇やさそりの住処です。 もともと荒野は毒蛇やさそりの住処として、聖書にず〜っとこう記されていますから、それはいなくなるものではないです。
(罪の)裁きとして送られたというのなら、蛇は大量に発生したということでしょう。その蛇は数は減るのだろうと思いますけれども、彼らが荒野を旅している限り、誰かが蛇に咬まれ、誰かがいのちを落とす。 しかし、これから先は青銅の蛇は旗ざおの上にあり、それを仰ぎ見る度に、自分たちの罪深さを知り、それを赦してくださる神さまの憐れみを信じて、彼らは癒やされていくわけですね。
蛇はいなくはならない。私たちの愚かさ、私たちの罪深さ、私たちの不平不満もきれいになくなりはしない。 でもその旅路を続けていく限り、それを赦してくださる神さまの十字架は私たちとともにあるのです。
私(藤本牧師)は昔、インドの神学校で奉仕をしました。その神学校というのは、そうそう昨年75周年で、圭子(先生)とともに、記念式典に参りましたけれども……。(アメリカの宣教師が75年前にそこに神学校を建てました。)
地元では、アナンダギーリと書くと、そこへ郵便が着くのです。聖なる丘という意味で、別に住所を書かなくても、アナンダギーリ、○○(**もう一つの地名)で手紙が行っちゃう位、有名な神学校なのですが、二つ問題があった。
一つは水不足で、二十年ほど前に地下水脈の流れが変わって、水が全く出なくなった。 あの時は、インマヌエルが献金をいたしまして、新しい井戸と、それを汲み上げる設備を造りました。
もう一つは、75年間ず〜っと続いている問題があって、それはコブラです。 宣教師の方々は、沢山の献金でもうすっごくきれいな神学校を作った。 でもその場所が、コブラの生息地だということは知らなかった(笑)。
私が行った時に、「夜中は絶対に懐中電灯を持って、外へ出てくださいね」です。それは単純にコブラの尻尾を踏まないためです。踏んだら絶対に咬まれる。 蛇が出る度に、神学校全体がお祭り騒ぎです。 インドの方々の熱狂振りというのは何となく皆さんも想像できると思いますけれども……。
神学校でだれが一番人気があるか?これは蛇を退治するのが得意な男子神学生。蛇が出たらあいつを呼べ。そいつはもう本当に人気者です。 サンダル履きで、棒一本でコブラと向き合う。それをみんなが取り囲んでそれ眺めて楽しむ――という世界はちょっと考えられない世界ですね。
奉仕して初めの頃に、神学生が私を呼びに来ました。 「先生、蛇が出ました〜!」 見に行くわけですね。みんな、お祭り騒ぎで蛇を退治して、殺したコブラを自慢げに見せてくれる。
そして彼が言ったのは、 「先生、これが南インド聖書学校の栄光です!」(大笑)
This is the glory of South India Biblical Seminary.
これだけコブラが出て、今まで一度も咬まれたことがない、これが神学校の栄光です。 私と、当時神学生だった、今の京都西教会の牧師、田辺宣恵先生は、あとで笑いが止まりませんでした。 なんという栄光自慢!(大笑)ねっ、めちゃくちゃ沢山蛇が出る、でも、まだ一人も咬まれたことがない、というのがこの神学校の栄光だと言われても、何という神学校だと思っちゃうのですね。
それでも、きっちり毒蛇の血清は、神学校の医務室はいつでも用意してある。冷蔵庫に入っているのです。 な〜んか、えらい神学校に来ちゃったね、と二人で笑ったのを思い出します(笑)。 でも私たちも夜、外に出る時に、懐中電灯だけは忘れることはなかったです。
荒野の旅路って、そういう感じだろうと思います。私たちはコブラの生息地の中に生きている(笑)。 あるいはイスラエルの人々が四十年荒野に生きる限り、そこから蛇やさそりはいなくならないのと同じように、いつも私たちの傍には、人の罪深さ、そしてその罪深さの故の災い、それは私たちの元から去って行かないです。 でも「神の人」が私たちの中には沢山いて、その祈りに応えてくださり、私たちの真ん中には十字架があって、私たちは十字架を見上げて旅して行く。 主は、いつも私たちを赦してくださり、癒やしてくださり、回復してくださり、守ってくださるということを、私たちは信じて、十字架を見上げ「仰ぎ見る時に、彼らは生きる」。 彼らは生きるのですよ。
蛇はいなくならないし、蛇に咬まれる私たちも、性懲りもなく蛇に咬まれるのですよ。そして私たちは痛く傷つけ、傷つけられ、人のことばに、自分の愚かさに、いやと言うほどいやな思いをするのです。 しかし、「十字架を仰ぎ見た時に、私たちは生きる」という現実は、イスラエルの民と全く同じだということを心に留めておきたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、聖なる丘に住みながら、そこはコブラの生息地であったと言うように、聖なる教会に足繁く通いながら、私たちは荒野に住んでいて、蛇やさそりは私たちを狙いに来る。
私たちは愚かなほど不平不満も多いですし、私たちは愚かなほどこのことばは滑りますし、人のことばによって傷つけられ、時に自分の罪深さの故に返り血を浴びるということもあるでしょう。
でも「十字架を仰ぎ見る度に、彼らは癒され、生きる」という事実は、私たちにもまた当てはまることを心から感謝をします。 主よ、どうか、私たちを憐れんで、私たちを癒して、回復して、力強くこの荒野を行かせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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