☆聖書箇所 ゼカリヤ8:9〜23
9万軍の【主】はこう言われる。「勇気を出せ。万軍の【主】の家である神殿を建てるために基が据えられた日以来、あなたがたはこれらのことばを、預言者たちの口から聞いて来たではないか。 10 その日以前は、 人の働きに報酬がなく、 家畜の働きにも報酬がなかった。 出て行く者にも、帰って来る者にも、 敵がいるために平安がなかった。 わたしがすべての人を互いに争わせたからだ。 11 しかし今、わたしはこの民の残りの者に対して、 かつての日々のようではない。 ――万軍の【主】のことば―― 12 それは、平安の種が蒔かれ、 ぶどうの木が実を結び、 地が産物を出し、 天が露を滴らすからだ。 わたしはこの民の残りの者に、 これらすべてを受け継がせる。 13 ユダの家よ、イスラエルの家よ。 あなたがたは国々の間でのろいとなったが、 同様に、わたしはあなたがたを救う。 あなたがたは祝福となる。 恐れるな。勇気を出せ。」 14まことに、万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたの先祖がわたしを怒らせたとき、わたしはあなたがたにわざわいを下そうと決意し――万軍の【主】は言われる――わたしは思い直さなかった。 15そのように、今や再び、わたしはエルサレムとユダの家に幸いを下そうと決意した。恐れるな。 16 これがあなたがたのなすべきことだ。 あなたがたはそれぞれ隣人に対して真実を語り、 真実と平和をもたらす公正さをもって、 あなたがたの門の中でさばきを行え。 17 互いに心の中で悪を謀るな。 偽りの誓いを愛するな。 これらはみな、わたしが憎むものだからだ。 ――【主】のことば。」 18さらに、私に次のような万軍の【主】のことばがあった。 19万軍の【主】はこう言われる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛しなさい。」 20万軍の【主】はこう言われる。 「再び諸国の民がやって来る。 多くの町々の住民が。 21 一つの町の住民はもう一つの町へ行き、 『さあ行って、【主】の御顔を求め、 万軍の【主】を尋ね求めよう。 私も行こう』と言う。 22 多くの国の民、強い国々が、 エルサレムで万軍の【主】を尋ね求め、 【主】の御顔を求めるために来る。」 23万軍の【主】はこう言われる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、一人のユダヤ人の裾を固くつかんで言う。 『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。 神があなたがたとともにおられる、 と聞いたから。』」
☆説教 ゼカリヤ(9) あなたがたは祝福となる
ゼカリヤ書の8章から見ていただきました。 ゼカリヤ書はずっと1章を1回でやって来ましたので、この8章だけ二回に分けています。 ま、節が長いということと、テーマがあまりにも豊かで大きなものですから、分けました。
前回の復習を少しさせてください。 前回は「愛は勝つ」というタイトルでお話をしました。 もう少し正確に言いますと、「最後に愛は勝つ」というテーマでお話をいたしました。
このメッセージは聖書全体を貫いている。 特にこのメッセージは、バビロン捕囚後の預言者を通して、明確になってまいりました。 神の民は、神と契約を結んで神の民となる。 「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(***エレミヤ30:22、24:7、31:1、33、32:38、へブル8:10)という契約を結ぶわけです。
そうして旧約聖書のモーセの時期に契約の儀式が与えられ、神の民として十戒という生き方を教えられ、しかし旧約聖書の歴史を見ますと、 神のみこころを第一とすることができない民の姿、それどころか偶像を引き込んで、神に背を向ける人々の姿が描かれています。
その結果として、神さまはご自身の民を裁きに引き渡されました。 エルサレムはバビロンによって滅ぼされ、人々は奴隷となってバビロンに連れて行かれます。 そこで(民は)悔い改めました。神の戒めをことさら注意して守りました。 いつも申し上げますように、パリサイ派という律法に厳格な人々は、この時期に生まれていきます。
70年の労苦を経て、希望に満ちて(民は)エルサレムに戻ってまいりました。 ところが神殿の土台を作った段階で、彼らは自分たちの弱さを痛感して、失望してしまいます。 神殿建設は頓挫し、国の勢力は依然として植民地状態でありました。 ペルシャの次はギリシャ、そしてローマと植民地が移って行く中で、 人々の力は失われ、焦点もなく、いつの間にか自分の日常だけに心を奪われるようになり、もう少し正確に言いますと、自分の限界にとらわれてしまうようになります。
そういう中で「最後に神の愛が勝ちに行く」という話をいたしました。 神さまご自身が、神殿の土台の大きさを測りに、測り綱を持って出かけて行く。 神さまご自身が希望の計画を立ててくださる。 再び、都の広場は高齢の男女だけではない。長寿の恵みだけではない。 子どもたちでいっぱいになる。子どもたちはその広場で遊ぶ。
そんな光景は、自分の限界にとらわれているだけの者たちにとっては、想像も尽きません。 しかし神さまは仰いました。 「この民の残りの者の目には不思議に見えても、わたしの目には不思議に見えるだろうか」(ゼカリヤ8:6)と。 「わたしは必ずそれを成し遂げる」と。
さて、バビロンの捕囚から帰って来た民も、また私たちも所詮同じ人間に過ぎません。 厳しい現状に閉ざされたら、途端に先は見えなくなってしまいます。 信仰を奮い立たせるどころか、なかなか神さまの期待に応えることができません。
しかし最後に勝ちに行ってくださるのは神である。 (ゼカリヤ)8章の2節をご覧ください。8章の2節(と8節)をお読みいたします。
<ゼカリヤ8章2節と8節> 2万軍の【主】はこう言われれる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、……
「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し」 この愛をもって、神さまは勝ちに行かれるわけです。8節に、一番最後――
8 わたしは真実と義をもって彼らの神となる。」
「彼らがどのように情けない、失望に溢れた者たちであったとしても、わたしの真実は勝ちに行く」という風に神さまは仰いました。
そして、今日は(ゼカリヤ)8章の後半であります。 3つのポイントでお話をいたしますけれども、一番最初は(ゼカリヤ8章)9節と10節に目を留めてください。 ちょっと9節から読んでいきますね。
9万軍の【主】はこう言われる。「勇気を出せ。万軍の【主】の家である神殿を建てるために基が据えられた日以来、あなたがたはこれらのことばを、預言者たちの口から聞いて来たではないか。 10 その日以前は、 人の働きに報酬がなく、 家畜の働きにも報酬がなかった。 出て行く者にも、帰って来る者にも、 敵がいるために平安がなかった。 わたしがすべての人を互いに争わせたからだ。
1)「その日以来」(9節)と「その日以前は」(10節)は明確なコントラストを描いています。
「その日」というのは、神殿の基が据えられた日です。 その基が据えられる前と、その基が据えられた後では、明確に違うんだよ、ということを神さまは仰ってます。
私たちにしてみれば、主イエス・キリストの恵みも知らず、この世の価値観に振り回され、信じているんだか、信じてないんだかわからない。神の存在もあるやなしや――そういう頃というのは、神殿の基を据える以前です。 ようやく信仰生涯の土台らしきものの完成まで至りました。
しかしずっと学んで来ましたように、その完成の日から17年間、神殿建設は頓挫いたします。 土台はほっぽらかしで、そして日々の必要に追い回されていきます。 いつの間にか、自分が神殿の土台を建設したことも忘れてしまって、こんなものだろうと思ってきました。 基礎を据えたところで、神殿ができるわけではない。 所詮人の人生は複雑なもので、そういう理想の神の道を歩むことができないと、人々は諦めていた所を――
神さまは仰います。 「いやいや、自分の信仰生涯をそんなに軽んじてはいけない。土台を据える前と、土台を据えた後では、明確に違うんだよ」と。 主の愛を知る以前は、10節にありますように「働きに報酬もなく、家畜の働きにも報酬がなく、出て行く者にも帰って来る者にも、敵がいるので平安がなかった」というのは、 究極的な虚しさです。 もうちょっと分かり易く、いやもっと分かりにくいかもしれませんけれども、 何のために生きてるのか、どこに向かって生きているのか、自分の人生にどんな意義があるのか、何のために仕事をしているのか、この試練に何の意味があるのか、この労苦は何のために――ということを実感できない。 所詮、私たちの人生は野の草のようで、「朝には花を咲かせていても、夕べには萎れて枯れてしまう」(***詩篇90:6)。
そういう私たちが、神を信じるようになり、洗礼を受けて信仰生涯を歩み始めた、ということを「軽んじてはいけない」と神さまは仰るわけですね。 (ゼカリヤ8章)12節をご覧ください。
12 それは、平安の種が蒔かれ(***平安の種は、わたしが蒔いたものだ、と説明) ぶどうの木が実を結び、地が産物を出し、天が露を滴らすからだ。 わたしはこの民の残りの者に、これらすべてを受け継がせる。
(12節を続けて読んで)ように、計画している。 まだすべてが成し遂げられたわけではない。 しかし軽んじてはいけない。 わたしは確かに平安の種を蒔き、あなたを確かにキリストの幹に繋ぎ止めた。 そしてあなたはやがて神の国を受け継ぐ者になる。 ですから「神殿の基、信仰生活の基を据える前と据えた後では、あなたの人生は決定的に違うということを軽く見てはいけない」と神さまは仰います。
2)続けて、さらに強い《神さまの決意》が表明されます。
(ゼカリヤ8章)15節をちょっと見ていただきますか?
15そのように、今や再び、わたしはエルサレムとユダの家に幸いを下そうと決意した。恐れるな。
「幸いを下そうと決意した」という表現は、(ゼカリヤ8章)14節の表現と呼応しています。 14節、ちょっと読みますね。
14まことに、万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたの先祖がわたしを怒らせたとき、わたしはあなたがたにわざわいを下そうと決意し――(***決意し、とありますね、と説明)万軍の【主】は言われる――わたしは思い直さなかった。
「わざわいを下そうと決意」されたのは、神さまに背いてばかりいるイスラエルの民―― 悔い改めのかけらさえもないイスラエルの民――をバビロンに引き渡す、ということを考えられた。 そしてその決意の固さを、神さまは14節の最後で表現されます。 「わたしは思い直さなかった。」
そうしますと、今度は「幸いを下すという決意」も、「わたしは思い直さなかった」という表現がくっついて来るはずです。 「幸いを下すことを決意した」というのは、イエス・キリストの御名においてですよね? イエス・キリストの十字架のゆえに、わたしはあなたがたに幸いを下すということを決意した。 そして、そこに思い直し――計画の変更――はない、とこれは【不退転の決意】ですね。
パウロがピリピの手紙で記しているように―― <ピリピ1:6> 6あなたがたの間で良き働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。
そこに表れているのは、《神の決意》です。
平和の種を蒔かれた《神の決意》は、「その種が必ず実を結び、そしてその実の収穫に至るまで、わたしはその木の面倒を看る」と、 主イエスさまはヨハネの福音書6章の37節で仰いました。 <ヨハネ6:37> 37……そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に出したりはしません。
もとの訳ですと、「わたしは決して捨てません」(***第3版)です。 「決して捨てません」というのは、やっぱり《イエス・キリストの決意》ですよね。
パウロはこんなことも言います。 <ピリピ3:12> 12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
「ただ捕らえようとして追求しているのです」というのは、ま、パウロの決意ですよね? ところが、「それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」というのは、《イエスさまの決意》です。 パウロが必ずゴールすることができるように、イエスさまがパウロを捕らえることにした。 《イエスさまの決意》は、ピリピの3:12のこの言葉に表れているように、 「私を捕らえている」、皆さんを捕らえている――【この決意の固さ】 それは「思い直すことはない」という、先程のゼカリヤ書(8章)の14節の言葉に戻って行くわけです。
私たちは、自分のために、互いのために祈らなければならないと思います。 神さまが「あなたを祝福する」と仰った決意、 イエスさまが「わたしは決してあなたを捨てない」と仰った決意に、 私たちは、素直に飛び込んで行かなければならないと思います。 (こんな風に)疑わずに、 「神さまは途中で思い直されるんじゃないだろうか?」 「神さまは、結局は私を捨ててしまうんじゃないんだろうか?」 「平和の種は蒔かれたけれども、結局のところ、実を結ぶことはないんじゃないだろうか?」
いやいや、「神さまはあなたがたの間で良き働きを始められ、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成してくださる」(***ピリピ1:6)ことを、つまり《神の決意》を、私は知っています、とパウロは言っているわけですよね。
さて、三番目が今日のメインなんですけれども、それは―― 3)神さまは「残りの者を祝福する」と仰います。
13 ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたがたは国々の間でのろいとなったが、同様に、わたしはあなたがたを救う。あなたがたは祝福となる。恐れるな。勇気を出せ。
「あなたがたは祝福となる」というのは、神さまがアブラハムに与えられた約束と同じです(***創世記12:1〜3)。 「祝福となる」というのは、「わたしはあなたがたを通して、すべての国民を祝福する」という意味です。 あなた自身が祝福そのものとなって、あなたが行く場所様々な所で、あなたがたは神の祝福の輝きを放つようになる。
このゼカリヤ書の8章には「残りの者」という表現が3回出て来ます。 非常に多いですね(***9節、11節、12節)。 「残りの者」というのは、最初にエルサレムに帰還してきた5万人を主に指します。 バビロンに捕囚に捕られ、そしてバビロンの捕囚に耐え、そしてエルサレムに戻って来て、神殿建設に関わった苦労人たちですね。 もう少し数は増えていきますけれども、実質的には非常な少数に過ぎませんでした。
神さまは、この神殿建設に携わるこの「残りの者」が「祝福となる」。 彼らを祝福すると仰る。 それは、祝されて豊かになる、という意味ではないです。 そうではなくて、22節と23節によく表れています。ちょっと読みますね。
22 多くの国の民、強い国々が、エルサレムで万軍の【主】を尋ね求め、【主】の御顔を求めるために来る。」 23万軍の【主】はこう言われる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、一人のユダヤ人の裾を固くつかんで言う。 『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたから。』」
つまり全く神さまのことを知らない人々が、私たちの所に来て、私たち一人の周りに十人がやって来て、私たちに懇願する。 「共に礼拝に行きたい」「共に神の御声を求めたい」21節ですね。
21 一つの町の住民はもう一つの町へ行き、『さあ、行って、【主】の御顔を求め、万軍の【主】を尋ね求めよう。私も行こう』と言う。
とみんながあなたの周りに集まってくる。 それ程あなたは、「神があなたと共におられる」という平安と祝福に満ちているというのが、神に祝された人の意味ですね。
繰り返しますが、「祝福となる」ということは、「神が私たちと共におられる」という事実のゆえに、周囲の十人が神の御顔を尋ね求めるようになる。 私が祝され、私が小さな信仰を持っているがゆえに、 私のうちにご自身の平安を神さまが置いてくださったがゆえに、 私の内側に平安の種を与えてくださったがゆえに、 私たちは「地の塩」となり、この「地の塩」に触れるために、周囲の人々が私たちを通して、神を尋ね求めるようになる。 そのようにして、「あなたは祝福の源となる」――という約束を、非常にわずかで自信のない乏しい残りの民に、神さまは約束されました。
ですから、(ゼカリヤ8章)9節の最初に――
9万軍の【主】はこう言われる。「勇気を出せ。……
「残りの者よ、勇気を出せ」と。 「ほんのわずかな一握りの者たちよ、勇気を出せ」と。 わたしはあなたを「地の塩」とし、あなたはこの世界でわたしの栄光を輝かせるようになる。 そして、周囲の人々が見た時に、「神はあなたと共におられる」という何とも言えない信仰のオーラを、あなたは輝かせるようになる。 今までなかった愛が芽生え、今ままでなかった忍耐を持ち、平安に満たされ、今までなかった祈りをもって生きるようになる。
政府の力を借りる必要もない。市会・県議会の力に頼る必要もない。 この一かけらの塩が地に落ちますと、必ず周囲への祝福となる。 で、私たちの疑問はこうですよね――「なっているんだろうか?」ですよ(笑)。 神さまは繰り返し仰いますね――「恐れるな。勇気を出せ」と。 9節にもありますし、13節にもある。13節の最後3行――
13 同様に、わたしはあなたがたを救う。 あなたがたは祝福となる。恐れるな。勇気を出せ。」
自分はほんの一握りの塩に過ぎない。 こんな少量で、こんな僅かで、いったい何になろうと考えている私たち。 勇気を出しなさい。なぜなら、神はあなたを祝福してくださる。
もう40年ぐらい前に、私(藤本牧師)はNew Centurionという映画を観たことがあります。 New Centurionというのは、ま、日本語で言いますと「新しい百人隊長」というタイトルの映画なんですね。 別に何の宗教性もない、ただの刑事ものの映画なんですけれども、 要は、ベテラン刑事が警察学校出たての新米刑事と組んで、大都会を奔走するという映画なんですけれども、その映画の最初の方にこういう場面が出て来ます。 一番最初にペアを組まされて、夜の都会に取り締まりに出て行くんですよね。 悪い奴らを追っ駆けて、強盗に売春婦にと捕えて来て、 次から次に警察の大きなバンにぶち込んで、 警察に、シフトが終わる頃戻るわけですね。
一旦は留置場に入れて、シャワーを浴び、そしてシャワーから出て来て、早朝の深夜営業のレストランでコーヒーでも飲むかって出て行く時に、 自分たちが今捕えて来てぶち込んだ人たちが、もう出て来ているんですよね。 もう出て来ているんですよ。そして 「またな、ジョージ」とか「やあ、デイブ」とか言って、挨拶をしながら、 引っ張って来てぶち込んだ人間が、もう一回出ていく訳ですよね。
若い警察官がカンカンになって言います。 「一体どうなっているんだ。命がけで、こいつらを追いかけ回したんだぞ。 でもシャワーを浴びる間もなく、もう釈放されているなんて、 一体警察は何をしているんだ」と。
すると、ベテランの刑事が、こうたしなめるんですね。 「おまえ、百人隊長って知っているか?」って。「いえ」 「まぁ、教会学校でも行かなければ、百人隊長なんて言葉聞いたことないよな。 ローマの軍隊は世界を駆け巡る最強の軍隊だ。 ローマの兵士百人に一人を、百人隊長と呼ぶ。 この百人隊長が、ローマ帝国がどの方向に進むべきかをよく知っている。 百人隊長は、外人部隊のローマ軍を一手に統率した。 百人隊長がいなければ、ローマの軍隊はただの群衆。 百人隊長があってこそ、ローマの軍隊は精鋭部隊となる。」
そして、このベテランの刑事は若い警察官に言います。 「分かるか。この世は崖っぷちに立っている。 おまえの周辺は崖っぷちに立っているんだぞ。いつ崩れるかわからない。 俺たち警官は新しい百人隊長さ。 世界が狂ってしまうのを防いでいる百人隊長さ。 もっと誇りを持て。百人隊長なんだぞ」と。 ま、警官がそうなのかどうかは分かりません。
ゼカリヤ書で、神さまが、この非常にわずかな民の残りの者、 そして残りの者たちが建てた小さな小さな神殿の基、 それに失望して、もう一度日々の生活の忙しさの中に完全に飲まれている者たちに対して、(こう諭されるでしょう)。 「《神殿の基ができる以前と、基ができてその後とは違うんだ》ということをよく覚えておきなさい。(アーメン!) わたしはあなたがたの中に平安の種を蒔いた。 あなたがたをキリストに繋ぎ止めた。 いや、あなたがたを祝福することは私の決意だ。 それはイエス・キリストの十字架のゆえに、【不退転の決意】であって、それはもうひっくり返ることがない。 わたしは思い直さない。 あなたがキリストの中にとどまっている限り、わたしは必ずや神の国をあなたに相続させる。」
ゼカリヤ書の(8章)23節で描かれているのは、一人に十人が来る。 百人隊長は一人に九九人です。 私たちの回りに何人、神の恵みを必要としている人がいるかは分かりません。 でも神さまは、ご自身の働きを、この日本で言うならばわずか1%の私たちに委ねられた。 「勇気を出しなさい。わたしは必ずあなたを用いる。 あなたはわたしの祝福となる。」
☆一言お祈りをいたします――藤本牧師
13 わたしはあなたがたを救う。 あなたがたは祝福となる。恐れるな。勇気を出せ。 (ゼカリヤ8:13後半)
恵み深天の父なる神さま、私たちは本当に僅かな力しかなく、人数も少数で、もし神殿を建てたとしても、その土台は小さく、また途中で土台から上の神殿そのものを建設することを諦めてしまう程、弱い者でありますが、 あなたはそんな私たちの内に平安の種を蒔いてくださり、そんな私たちをキリストのぶどうの幹に繋げてくださり、実を結ぶようにし、これから後これらすべてを受け継がせる、と思い直すことのない決意をもって、私たちを祝福の方向へと定めてくださいました。
勇気を与えてください。私たちの回りにどれほど信仰者が少なかったとしても、「あなたを地の塩、世の光とした」と仰るイエスさまの言葉に真剣に耳を傾けて、《神は必ず私を尊く用いてくださる。どんな場合にあっても用いてくださる》というこの勇気を大切にすることができるようにお助けください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
|
|
113.150.176.120 - Mozilla/5.0 (Windows NT 6.3; Win64; x64; Trident/7.0; MALNJS; rv:11.0) like Gecko
|