☆聖書箇所 Tヨハネ 4:1〜12
1愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。 2神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。 3イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。 4子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。 5彼らはこの世の者です。ですから、世のことを話し、世も彼らの言うことを聞きます。 6私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。 7 愛する者たち。 私たちは互いに愛し合いましょう。 愛は神から出ているのです。 愛がある者はみな神から生まれ、 神を知っています。 8 愛のない者は神を知りません。 神は愛だからです。 9 神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。 それによって 神の愛が私たちに示されたのです。 10 私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。 11愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。 12いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
☆説教 ペンテコステ:聖霊と愛 Tヨハネの手紙4:1〜12
【※冒頭部分、音声が飛んでいましたので修正して加筆いたします。(6/7) 今日はヨハネの手紙第一を開いていただきました。 私(藤本牧師)はペンテコステにこの箇所を開くのは初めてでありますが、 改めてヨハネという人物が、聖霊にとても重きを置いていた聖書の記者の一人であるということを見ていただくために、】
できるだけみことばを追いかけていきたいと思います。 で、最初の頃は私(藤本牧師)が読みますので、ま、じっと聞いてください。 イエスさまがまだガリラヤ伝道の頃、エルサレムの仮庵の祭りに出かけて行かれました。 人々が霊的に飢え渇いているのをご覧になり、大声であわれんで仰いました。
<ヨハネの福音書7:37〜39> 37……「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
という言葉を記したヨハネは、すぐその後に付け加えて記しています。
39イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。……
と、もうかなり早い段階で――7章の37節で――「イエスこそが御霊をあなたがたに与える。しかもそれがいのちとなって、生ける水の川となって、あなたがたのうちから流れ出るようになる」ということを、ヨハネは記しています。
最後の晩餐の席で、ひたすらイエスさまが仰ったことが、「わたしが天に昇る時に、父が代わりに聖霊を送る」(***ヨハネ14:16)と仰いました。「それはあなたがたにとっての益だ」と(***同16:7)。 ヨハネの福音書の14章の16節を読みますね。
<ヨハネの福音書14:16> 16そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
父にお願いして、父から送られてくる聖霊ですけれども、これはイエスさまの霊でもあります。 そういう意味で、イエスさまはいつも私たちと共にいてくださるという実感は、まぎれもなく、聖霊がいつも私たちの内にいてくださるという実感にほかなりません。
やがてイエスさまが十字架にかかり、復活なさり、弟子たちに仰ったことがあります。 それがヨハネの福音書20章の22節――「聖霊を受けなさい」でした。 そう言って、主は弟子たちに象徴的に息を吹きかけられました(***創世記2:7)。
私たちは、現代というこの時代が物質的な時代だと考えてしまいます。そして誰も霊的なことを考えない。 ところが、必ずしもそうではありません。 私たちは実質的な所で事足りてしまうようには造られていない。 土の器(***Uコリント4:7)でありますけれども、神の息吹がこのたましいに吹き込まれていて、 どこかで人間というものは、自分を超えた霊的な存在というものに心を寄せるように造られています。
その時に私たちが気をつけなければいけないことを、ヨハネの手紙第一にしっかり記していますので、今日はここを見ていただきたいと思います。 なぜ気をつけなければいけないのか? それはこの世界に沢山霊的な事柄が転がっている。 中には自分こそが霊的な知恵をいただいている、と宣伝する者も多くいるからです。 それはヨハネがこの手紙を記した時代と同じです。 (ヨハネの手紙第一の)4章の1節から順番に見てまいります。
1愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。
怪しい霊がこの世界には沢山いる。それをまともに信じている偽預言者がいる。 しかも、それに喜んでついて行く人がいる。 それ程霊に対するあこがれを、実は私たちみんな持っているんですね。 逆にコンプレックスもあります。自分は霊的でない。霊的に分からないことが沢山ある。だから霊的に分かっている人に耳を傾けてみたいと。 そうなりますと、霊的に怪しい人物に耳を傾けてしまうという傾向が出て来ます。
聖書の中には含まれていませんけれども、当時の文書には「マグダラのマリアの福音書」というのがあります。 マグダラのマリアという人物は、イエスに一番近いところにいた人物でありました。 十字架の場面にも、埋葬の場面にもいました。 復活の主はマグダラのマリアには直接に出会っておられます。
その「マグダラのマリアの福音書」というのは、皆さん、普通に書店で買って読むことができるんですけれども、始まりはこうなんですね。 弟子たちがこのマリアのところにやって来て願うんです。 「あなたはイエスの側にいた女性だ。さあ、私たちが聞いてない、知らない教えを教えてほしい」――この言葉で始まって行きます。 それはとても魅力的な始まりです。 私たちでさえ、全部霊的なことを把握したわけではない。 もっとイエスさまの側にいたところのマグダラのマリアの方が、私たちの知らない教えを聞いていた可能性があるわけですよね? 「あなただけがイエスから聞いた教え」というのは、奥義(おくぎ)であり、あるいは奥義(おうぎ)という表現もできるでしょう。 「秘儀であり、霊の教えであり、それを私たちも教えてほしい」という、この弟子たちの言葉の中に、私たち自身に繋がるものがあると考えてもいいんじゃないでしょうか? これがとても問題になるんですね。 (そうして語られる言葉は、聖書の福音書のイエスさまの教えや行動と全く違いますから、怪しげな文書としか言わざるを得ません。)
ですからヨハネは聖霊はいかなることを教えるものなのか? 何がまともで何がまともでないのか?何が真理で何が真理でないのか? ということをとても詳しく教えていきます。 で、今日は「聖霊と愛」というタイトルで、3つのポイントで話してまいります。
1)真理の御霊は、イエスを告白する。
(Tヨハネ4章)2節を見てください。
2神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。
これ大切ですね。 私たちは自分自身の教会、あるいは教団、教派というものを持っていますけれども、 しかしこの世界には様々な教団教派があります。 例えばカトリックがありますし、ギリシャ正教会がありますけれども、 正統派であるかどうかの基準は、特定の礼拝形態や教えにあるのではない。 最終的には、イエス・キリストを神から来た救い主であるかどうかを告白するかどうかです。 3節――
3イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。
反キリストはすでに世に来ていると。 キリスト教の異端に向けられる質問は、古今東西いつも同じです。 「あなたは自分をキリストとしていないか?」 「聖書のある一部分を、自分に都合のいいように解釈していないか?」 「イエス・キリストのみの絶対性というものを、あなたは脇に退けていないか?」
真理の御霊というのは、イエス・キリストを超えるようなことはしない。 必ず「イエス・キリストにすべての栄光を帰して行く」というのが、真理の御霊の特色なんだと、 これが一つの見分け方になる、という風にヨハネは教えているわけですね。
ヨハネの福音書の16章の13節、もし聖書をお持ちでしたら開いていただいて、そうでなければ聞いていてください。ちょっとゆっくり目に読みますね。
<ヨハネの福音書16:13〜14> 13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。 14御霊はわたしの栄光を現されます。……
聖霊というのは、キリストから聞いたことを語り、キリストを証しし、キリストの言葉を思い出させ、最終的にキリストの栄光を現す。 ヨハネは、これが「偽りの霊」と「真理の霊」を明確に見極める一つの基準だ、という風に言いました。
2)もう一つ見分け方があるんです。で、そちらの方はとても大切なんですけれども、忘れられがちです。
そこで今日のペンテコステの日は、もう一つの見分け方の方にしっかりと目を留めていただきたいと思います。 第一ヨハネの手紙の4章の6節から読んでいきますね。
6私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。(***私たちの言うことを聞くかどうかということを、凄くヨハネは強調していますよね、と説明)。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。
それによって見分ける、じゃ「それによって」って何なのか?と言えば、これは私たちの言うことを聞くかどうかなんです。 じゃ、そのヨハネの言う、「私たちの言うこと」って何なんでしょう? それが、神の命令です。神の命令。 4章の7節から出てまいりますね。
7愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。……
ヨハネは一貫して、すべての神の命令をこの言葉に集約させていきます。 あなたがたが一つであること、あなたがたが互いに愛し合うこと。 それが言葉でなく実践的なものであること。 ヨハネは一貫して強調します。 その霊が、私たちが信じているという霊が、神から出たものなのか?それとも怪しげな偽りの霊なのか? イエス・キリストを告白するだけではない。
その見分け方の基準として、あなたがたが互いに愛しているか?愛してないか? この「愛する」ということが、じゃどういうことなのか? ヨハネの手紙(第一4章)はもう少し続きますね。7節――
7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。 愛は神から出ているのです。 愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。 8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
いいですか。どんなに真理に見えたとしても、そこに愛がないなら、それは神の真理になっていない。神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました(***十字架の愛ですね、と説明)。 それによって 神の愛が私たちに示されたのです。 10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。
「真理の霊」と「偽りの霊」の見分け方という時に、私たちが神の戒めを守っているかどうか? それは互いに愛し合いなさい。 でも、どんな愛をもって互いに愛し合っているのか?と言われれば―― それは神の愛をもって互いに愛し合う。 神の愛というのは、自己犠牲的な愛であり、 神の愛というのは、自分に向かうものではなく、他者に向かうものであった。 それが御子イエス・キリストを十字架に送った父の神の愛であり、自分を犠牲にされた御子イエスの愛だから、ということを明確に宣べているわけです。
「互いに愛し合うべき」とありますけれども、単純に実行することは、あぁなかなか難しいですね。なかなか難しいです。 「愛の賛歌」と呼ばれる――これはパウロの言葉ですけれども――Tコリントの13章に、
<Tコリント13章4〜8節前半> 4愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、 6不正を喜ばずに、真理を喜びます。 7すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。 8愛は決して絶えることがありません。……
というような愛をもって、私たちが互いに接することができるのか? あまりにも崇高で、あまりにも及びがたくて、理解するのが精一杯で、なかなか実行することは困難ですね。 でも覚えておかなければいけないことは、これが神が私たちに願っておられることなんだ。 ペンテコステの日に、聖霊は力となって、幾ばくかの実行を可能にしてくださる。 私たちが互いに愛することができるように。 なぜなら、神は愛であり、神の御霊も愛であるから。
聖霊の力によって、寛容になれる。 聖霊の助けによって、親切にすることができる。 妬みが内側から上がって来る時に、思わず自慢したい時に、 聖霊の働きによって、私たちは遜ることができる。 聖霊は自分の高慢さに気づかせてくださる。 礼儀に反することを、聖霊は喜ばれない。
自分の利益を求め、苛立ちを感じる時に、 人のした惡が気になって仕方がない時に、 聖霊が愛を教えてくださる。
愛は寛容であっても、不正は喜ばない。愛は真理を追究する。
世界中での感染症、何百万という人の尊い尊い命が失われて行きます。 職を失う者、非難に晒される者。 昨日、サンフランシスコで一日の感染者数が1000人になっていましたね。 ブラジルがもう少し多いんでしょうかね。 お墓を掘っても掘っても掘り切れない。 以前私たちがショッキングな形で見たのが、あのイタリアの礼拝堂で、もう棺が所狭しと並べられ、 次にショッキングだったのは、ニューヨークの葬儀屋さんで、遺体が処分できない。 ですから、ユーホールというレンタカーのトレーラー、冷凍庫のトレーラーを借りて、その中に、死体を山積みにしていた。 ところがあまりにも山積みにしたがために、段々腐敗してそれが近隣住民に漏れたっていう話がありましたよね? そんなことが世界中で起こっている中、いのちが失われる時に、そのいのちの一つ一つに尊さがあるということが、なんかこう感覚的に鈍くなってしまいますね(アーメン)。
日本ではむしろ職を失うという事態が、これから体験されるんだろうと思いますが、 医療従事者に対する、この何となくこう 【避けて通るような思いですとか、人間社会、人間性が問われる非常事態】(※【 】の部分、ほんのちょっとの間、音が切れました。6/7加筆)。 非常事態っていつもそうなんだろうと思います。 それは社会のあり方や、私たちの人間性が問われる、それが非常事態でありまして、 「愛はすべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍ぶ」って、一体どういうことなんだろうか?と私たちは今年、考えてもいいんじゃないかと思うんですね。
感染症で教会をオープンできない。中にはいのちの危険を冒して仕事をしておられる方がいる。 感染症のダメージについて言えば、まだ日本は軽傷でありましょう。 しかし経済的なダメージにおいては、日本は深刻なんでありましょう。
そういう中で、「互いに愛する」っていうのは、一体どういうことなんだろうか? もし、経済的に非常に大きなダメージを、この感染症の現状で受けた方がおられましたならば、ま、一言でもお祈りのために、お知らせいただきたいという風に思っています。 今年のペンテコステは聖霊を求めます。聖霊に応えます。 それは真理の御霊だけでなく、愛の御霊、互いを愛する愛の御霊を私たちは求める。
そして、私たちはもう100以上の世帯に別れて、この礼拝を守っているわけです。 それが100だろうと200だろうと、それが二か月だろうが三か月だろうが、 私たちはこの非常事態において、単純に礼拝を守るというだけでなく、 互いのことを思いながら、互いに連絡を取り合い、 互いのために祈るような気持ちをもって、ペンテコステを迎えるわけですね(アーメン)。
3)この言葉に今日は目を留めてほしいと思うんですね。11節――
11愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
というこの言葉です――これはすごく私(藤本牧師)は教えられました。 それは「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら」 「これほどまで」がどれほどまでかわからない限り、私たちは互いを愛し合うことができないでしょうね。 ヨハネは、自分たちが互いに愛し合う以前に、「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのだから」、互いに愛し合いましょうと。 「神がこれほどまでに愛してくださった」ということをヨハネはよく分かった。 あなたがたもよく分かってほしい。 それがゆえに、私たちもまた「神が愛である」ということの上に立脚して、互いに愛そうではないかと。
「これほどまでに」ということに気づいた人の話をして終わりにいたします。 神の愛がどれほどまでか、よくわかった―― それは昨年、日本人キリスト者の誇りであった中村 哲(なかむら・てつ1946〜2019)さんが、アフガニスタンで殺害されたという、何とも痛ましい悔しいショッキングな出来事がありました。 中村 哲さんは、そもそもパキスタンでハンセン病の治療に当たっていました。2000年ごろからなんですけれども。 当時パキスタンは厳しい、激しい干ばつに見舞われ、豊かだった農地も砂漠となり、水さえあれば救われるいのちが空しく奪われていく、そういう現状を目の当たりにいたします。 栄養失調、それから度重なる赤痢の流行。 中村さんはそこで医療よりも、何よりも飢えと渇きを癒やさなければどうしようもないと判断して、 そして彼は、「緑の大地計画」というものを2002年に立ち上げて、用水路の開発に乗り出していきます。
まさにその年の12月ですね、「緑の大地計画」を立ち上げたのは、確か2月だったと思うんですけれども、 12月に日本に残していた10歳の二男の体調が急速に悪化していきます。 前の年に、(二男は)脳腫瘍を宣告されて、脳腫瘍と戦っていたんですね。 中村哲さんというのは、もともと脳外科のお医者さんですから、息子の状態にはよく分かっていました。
直ぐに帰国いたしまして、自宅で付き添って、最後まで息子さんを看取ったわけですけれども、 息子さんを亡くした次の日の朝、彼は庭を呆然と眺めていたそうです。 冬になって枯れてしまった木々の中に、一本だけ緑の濃い常緑樹に目が止まった。 肉桂という、その木はちょうど息子さんが生まれた頃に、鳥が運んで来た種が芽を出した記念樹だったそうです。 「あの木はおまえと同い年だぞ」とよくお父さんは息子さんに話したそうです。
息子を亡くした次の日の朝、突然、深い悲しみが幾重にもたましいに突き刺さったそうです。 それは、干ばつの中でお母さんが病気の子どもを抱えながら、長〜い道のりを歩いて診療所にやって来る。 助かるかどうかわからないながら診療を待つ母親。 そして死んだ子どもを背負って、とぼとぼと村に帰って行くその姿。
中村さんは、その朝、息子のいのちのようなその木を見ながら決意します。 「見とれ。おまえの弔いは私がいのちがけでやってやる」と。 彼は息子を失ったことによって、飢餓や空爆で犠牲になった子どもを思う母親の悲しみ、父親の悲しみ、親の愛の深さがいっそう分かるようになった、と言うんですね。 そのことによって彼は、用水路の建設の一大事業をさらに進めて行くことになります。
つまり、中村 哲さんの他者に向かう愛はどこから生まれたのか? それは(Tヨハネ4章)10節にあります――「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物として御子を遣わされました」という―― この父の愛、父の涙を中村さん自身が体験し、気がついてみたら、自分の回りに、それを体験しているお父さん・お母さんが山ほどいるという。 「これほどまでに愛する愛」が、どれほどまでに尊いかということに気づいた。 それによって、互いに愛し合うべきことを彼は実践していくんですね。
ヨハネの言っていることはそういうことなんだろうと思います。 御子イエスを十字架に送られた父の愛が、どれほどまでにあなたに注がれているか分かれば、 ロマ書の5章の5節にあるように、神の愛をあなたの心に注いでくださるのは、神の霊ですとあります。 【<ロマ5:5>この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。】
聖霊によって、私たちは、イエス・キリストを十字架に送られた父の愛がどれほどのものだったのか、ということを知ることができる(アーメン)。 それができれば、きっと私たちも互いのことを思いやって、互いに愛するようになることができる。 という風に、ヨハネはここで教えているんですね。11節――
11愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
☆お祈りをして終わりにいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、真理の御霊は私たちのためにとりなしの祈りを捧げてくださるお方であり、真理の御霊はどんな時にも私たちと共に歩んでくださるお方であり、たとえ死の陰の谷であったとしても、私たちと共にいて私たちを守ってくださるお方でありますが、このいのちの御霊が神の愛を私たちのたましいに注ぎ込み、イエス・キリストの十字架が、この私に対するどれほど大きな愛であったのかを教えてくださると、御霊は説いています。
愛のかけらもないような偽りの霊ではなく、愛に溢れるところの聖霊を恋い慕うことによって、十字架の愛をもっと深く知り、同時に互いを愛する愛をどのようにして深めていくことができるのかを、私たち考えることができますように。特にこの危機的な時代の中にあって、そのことを考える教会でありますように、私たちを憐れんでください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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