☆聖書箇所 ゼカリヤ9:1〜17
1宣告。 【主】のことばはハデラクの地にあり、ダマスコは、それがとどまる場所。【主】に向けられるのは、人々の、そしてイスラエルの全部族の目。 2これに境を接するハマテや、非常に知恵のあるツロやシドンの目も。 3ツロは自分のために砦を築き、銀をちりのように、黄金を道端の泥のように積み上げた。 4見よ。主はツロを占領し、その富を海に打ち捨てる。ツロは火で焼き尽くされる。 5アシュケロンは見て恐れ、ガザも大いにもだえる。エクロンもだ。自分たちが頼みにしていたものが辱められたからだ。ガザから王が消え失せ、アシュケロンには人が住まなくなる。 6アシュドデには混血の民が住むようになる。わたしはペリシテ人の誇りを断ち切り、 7その口から流血の咎を、その歯の間から忌まわしいものを取り除く。彼も、私たちの神のために残され、ユダの中の一首長のようになる。エクロンもエブス人のようになる。 8わたしは、わたしの家のために、行き来する者の見張りとして衛所に立つ。もはや、虐げる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。 9 娘シオンよ、大いに喜べ。 娘エルサレムよ、喜び叫べ。 見よ、あなたの王があなたのところに来る。 義なる者で、勝利を得、 柔和な者で、ろばに乗って。 雌ろばの子である、ろばに乗って。 10 私は戦車をエフライムから、 軍馬をエルサレムから絶えさせる。 戦いの弓も絶たれる。 彼は諸国の民に平和を告げ、 その支配は海から海へ、 大河から地の果てに至る。
11 あなたについても、 あなたとの契約の血のゆえに、 わたしはあなたの捕らわれ人を、 水のない穴から解き放つ。 12 望みを持つ捕らわれ人よ、砦に帰れ。 わたしは今日もまた告げ知らせる。 二倍のものをあなたに返す、と。 13 わたしは、ユダをわたしの弓として引き絞り、 これにエフライムをつがえたのだ。 ヤワンよ、おまえの子らに向かって。 シオンよ、わたしはあなたの子らを奮い立たせ、 あなたを勇士の剣のようにする。
14 【主】は彼らの上に現れ、 その矢は稲妻のように放たれる。 【神】である主は角笛を吹き鳴らし、 南の暴風の中を進まれる。 15 万軍の【主】が彼らの盾となる。 彼らは石投げの石で滅ぼし、踏みつける。 彼らは血をぶどう酒のように飲み、沸き返る。 鉢のように、祭壇の四隅のように、満たされる。 16 その日、彼らの神、【主】は、 彼らをご自分の民の群れとして救われる。 まことに、王冠の宝石がその地できらめく。 17 なんという主のいつくしみ。 なんという主の麗しさ。 穀物は若い男たちを、 新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる。
☆説教 ゼカリヤ(10)あなたを勇士の剣のようにする
今日は暑くなりましたね。教会はほとんど人がいないので、ガンガンにクーラーをつけてますけれども、皆さんがいらっしゃると、なかなかこうも行かないだろうなぁと思います。 暑くなりますので、ほんとに気をつけてください。
ゼカリヤ書の9章に入りました。 戸塚先生に随分長い所を読んでいただきましたけれども、9章から雰囲気が変わります。 ゼカリヤ書というのは、1章〜8章までは神殿建設の再開。そしてそれにあっての、信仰の整えがず〜っと記されています。 ところが9章からは、時代的にその先のことが記されています。 やがて神殿の再建は完成します。 だからと言って、国際社会は平穏無事、イスラエルの繁栄が待っていたというわけではありません。
紀元前332年に、ギリシャのアレクサンダー大王が世界を、パレスチナ全域を支配するようになります。 そういう時代を見据えて、今度は預言、これから先のことが記されていきます。 9章の最後に独特な言葉、これは12章の初めにも出て来ますけれども 「宣告」と始まりますので、これまでと文章の雰囲気も変わります。 主のことばは――9章の1節にこうありますね。
1宣告。 【主】のことばはハデラクの地(***これはシリアの北です、と説明)にあり、ダマスコ(***というのは、シリアの中心部、現在の主都ですね、と説明)は、それがとどまる場所。……
南に降りて来て、様々な地名が記されています。 そういう地名のうちに、主のことばがとどまるということは、そういう全ての領域に主のことばが臨むという意味です。
さてここで、様々にゼカリヤ書に含まれる歴史的な情報を説明をし始めますと、あまりにも情報的な説教になってしまいます。 学びにはなるんですけれども、なかなか人生の糧にはならないので、私(藤本牧師)は情報的な解説も入れますけれども、幾つかの聖句にきちんと目を留めて、それを自分自身に当てはめてみたいと思います。
1)8節を見てください。――「今わたしがこの目で見ている」
8わたしは、わたしの家のために、(***これはそれまでに述べて来た様々の町とは違います、と説明)行き来する者の見張りとして衛所に立つ。もはや、虐げる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。(***というのは、シオン、エルサレム、イスラエルの人々の直接な番人、見張り人として、神さまご自身が立ってくださる、と説明)。
「今わたしがこの目で見ている」(8節)という部分に目を留めていただきたいと思います。 そして9節からこう始まります。
9 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。 見よ、あなたの王があなたのところに来る。 (***これが主イエス・キリストの姿です、その王は、と説明)。 ……、柔和な者で、ろばに乗って。……
やがてイエスさまはエルサレムに入って来られる時に、 このゼカリヤ書の預言を意識して、そして王として入られます。 王としてエルサレムに入られますけれども、 アレクサンダー王のような、あの馬と戦車に乗っているわけではない。 子ろばに乗った柔和な方として、入って来られます。
「柔和」という言葉で新約聖書から、主イエス・キリストについて、どんなみことばを思い浮かべるでしょう? <ピリピ2章6〜7節> 6 キリストは、神の御姿であられるのに、神のとしてのあり方を捨てられないとは考えず、 7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり…… こう始まって行きますね。
<マタイの福音書11章28〜29節> 28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 29わたしは心が柔和でへりくだっているから(***柔和と、遜っているというのはほとんど同じ意味です、と説明)、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
<マタイの福音書12章の20節> 20(※この柔和な方は、と付け加えて説明)傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。……
エジプトから始まり、シルクロード、エジプト・中近東全体を征圧したアレクサンダー大王、絵が残っていますね。 逞しい馬に戦車を引かせ、その上に乗って槍を構えている姿です。
イエスはあなたの王として来られる。 アレクサンダー大王のようではない。 柔和でしもべの姿をとり、私たちの罪のために十字架を背負い、 くすぶる灯芯のような私たちの希望、私たちの願い、いのちを揉み消すことはない。
「くすぶる灯芯」というのは、二つの理解があります。 消極的な意味では、古くくすぶっている灯芯を大事に使い続ける。 神さまは、大事に私たちの望みを願いを使い続ける。 くすぶっててもいい。せめて主の憐れみで、最低限の範囲で大切に使っていただきたい。
でも「くすぶる灯芯を」という時に、もう一つ積極的な解釈があります。 灯芯をもう一度ごしごし削ってあげる、という意味があります。 すると、くすぶる灯芯は前と同じような、いやそれに勝る輝きを放つことができるそうです。
柔和な王は、私たちを切り捨てない。 忍耐深く私たちに寄り添ってくださる。 でも不要と思える灯芯を、大切に、消えないように使い続けるだけではない。 主の恵みには、復元力がある。 ある時には試練を与えて削る。ある時には祝福を与えて削る。 時にはチャレンジを与えて、私たちという灯心を削ってくださる。 そのようにしてくすぶる灯芯に輝きを増し加えてくださる。 以前よりも有効に、以前よりも神の栄光ある輝きをもって使ってくださる。
2)そのために、今度は(ゼカリヤ9章)12節に飛びます。
12 望みを持つ捕らわれ人よ、砦に帰れ。……
(ゼカリヤ9章12節の)前半部分、「望みを持つ捕らわれ人」というのは、まさにイスラエルの人々です。 ハガイ、ゼカリヤと神殿再建の教えの書物を見てまいりました。 しかし9章から、それを超えると申し上げました。 申し上げましたように、神殿の建設の再建で事は終わらない。
私たちの人生もそうです。ある時には神殿の土台を据え、ある時には日常のことに終われ、 すっかり建設そのものを忘れる時もあるでしょう。 しかしある時は、それを完成したかと思う程に集中し、 しかしイスラエルの歴史も、私たちの人生も、続く試練・弾圧・苦難に押しつぶされるようになることが何度もやってくる。
ですからある意味で、イスラエルの人々にとっては、バビロン捕囚というのは終わらないんですね。 ゼカリヤの預言からしばらくすれば、今度はギリシャに支配されるようになります。 つまり、「捕らわれ人」と言われたら、いつも捕らわれているんです。 でもここにあるように、「希望を失わない捕らわれ人」ですね。
ローマ人への手紙4章18節にアブラハムの信仰が記されています。 「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ」と、 子孫を残すという願いがなかなか叶えられない。しかし希望は失ってない。 私たちもそうです。 しかし、望むことにさえ疲れ果てますよね。それは難題の連続だからです。 ですから、この12節「望みを持つ捕らわれ人よ」の次に、「砦に帰れ」と。 「砦に帰れ」――神さまのもとに帰って来いと。
現代医学の父と呼ばれる、ウィリアム・オスラー(***1849〜1919)というカナダのお医者さんがいます。 クリスチャンで有名な日野原(重明 ひのはら・しげあき)先生(***1911〜2017、105歳)は、このウィリアム・オスラーを一番尊敬しておられました。 オスラーは最初神学校で学んでいます。 未完本の伝記が日本語にも訳されて出ていますけれども、アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学――コロナで急に名前が有名になりましたね――それからオクスフォード大学で教鞭を執ります。
ウィリアム・オスラーが小児科の病棟を訪ねると、大きな部屋の一角で数人の子どもたちが遊んでいました。 その反対側のコーナーには、小さい女の子が一人でベッドの上に座っていました。とっても孤独に見えたそうです。 看護師さんに尋ねてみると、その子は他の子どもたちからは無視されて、そこにいるだけだと。 母親は死んでしまったそうで、父親は一度見舞いに来た、それだけだと。 その時持っていた人形を、今も大事に抱きしめて離すことがない。 それを見ている周りの子どもたちには解る。ああ、この子は大切にされない子どもなんだなぁと。
オスラー先生は、やおらこの子のベッドに近寄り、言いました。「座っていいかい?」 その声は、部屋にいた他の子どもたちにも聞こえるような大きい声で―― 「座っていいかい? 初めて会うね。でも君の名前はず〜っと知っているよ。 一度会ってみたくてやって来たんだ。」 女の子の目がきらりと光りました。
しばらく先生は女の子とひそひそ話をいたします。 彼女の人形の健康状態を尋ねたり、聴診器をこの人形に当ててみたりして、 そして帰る時になって、またもや、みんなに聞こえる大きな声で言うんですね。 「秘密だよ。だれにも言ってはだめだよ。」 途端に無視されていた子どもが、注目の的になるのを確認して、オスラー先生は部屋を出て行きました。
私たちが、「神という砦の所に帰って来る」というのは、このようにして、神さまの大事な大事な、個人的な扱いを受けに帰って来るんです。 この子には存在価値がないんじゃないんだろうか、とか、いや自分自身にないんじゃないんだろうか、と思うような時に私たちは「砦に帰って来る」。
捕らわれていながら望みを失わない。しかし望みを失いかけた瞬間に、私たちは砦に帰って来る(アーメン)。 旧約聖書にエリヤという預言者がいます。 戦いに疲れ果てて、言いました――「私のいのちを取ってください。私は先祖たちに勝っていませんから」(***T列王記19:4)。 自分の存在価値に関する言葉ですね――「私なんかどうだっていい。信仰だってないも同然だ。」 神さまは、彼をその腕に囲われました――「わたしにとって、あなたは大切な存在だ。そんなことを言ってないで、とにかく寝なさい。とにかく食べなさい。ゆっくりしなさい。」
「望みを持つ捕らわれ人よ。わたしの砦の所に帰って来い。わたしがあなたを力づける。」 というのが、二番目に注目していただきたい言葉です。
そして三番目、出て来るのが今日の説教題といたしました、13節の最後です―― 3)あなたを勇士の剣のようにする
神という砦に戻って来て、神さまは私たちを慰め、力づけ、勇士の手の中にある剣のようにする。 (ゼカリヤ9章)13節、ちょっと読みますね。 読みますと、しばらく歴史的な情報を説明しますので、よく聞いてください。
13 わたしは ユダをわたしの弓として引き絞り、これにエフライムをつがえたのだ。 (※ユダというのは、南のユダですね。エフライムは、イスラエルの部族の中で一番北に位置する北の部族ですから、以前分かれていた南と北の王朝時代を越えて、 神さまはユダを弓とし、エフライムを矢とする。これは一つにして、戦う武器とするということですね、と説明)。 ヤワンよ、おまえの子らに向かって。シオンよ、わたしはあなたの子らを奮い立たせ、 (※という、このヤワンはギリシャです。 先程お話ししましたアレクサンダー大王は、ギリシャ・中近東を征圧するものの、実は若くして30前にして死んでしまいます。 その後、広大なギリシャの帝国は4分割されます。 で、世界史に出て来ますね。南はエジプトにあるプトレマイオス王朝、北はシリアにありますセレオコス王朝、この二つにパレスチナは挟まれることになります。
一番イスラエルの尊厳を踏みにじったのは、北のセレオコス王朝のアンティオコス4世エピファネスという王様でした。 インターネットで調べるとすぐ出てまいります。アンティオコス4世エピファネス。 彼は、ユダヤ人を徹底してギリシャ人化しようとして、ゼカリヤの時代に建てられる聖なる神の神殿に、イスラエルの人々が最も嫌う豚を捧げます。 ダニエル書(***9:27、11:21,31)では、エピファネスのことを、「荒らす忌むべき者が祭壇に立つ時」という風に記されています。 イエスさまもその言葉を引用しています(***マタイ24:15)。「荒らす忌むべき者が、最も聖なる神殿の最も聖なる祭壇に立って、好き勝手なことをする、豚を捧げる」と。
このエピファネスの行為は、やがてイエスさまの時代を超えて、紀元70年にエルサレムの神殿を滅ぼしたローマ皇帝と重なることになります。 こういう災難、こういう出来事、こういう事件は、私たちの時代でも何度も繰り返されます。 小さなエピファネスはそこら中にいる、と言ってもいいでしょう。 私たちの聖なる空間に土足で踏み込んで来て、私たちの心を掻き立て、ずたずたにしてしまう。
さて、ゼカリヤ書に戻りますと、このエピファネスの時代に、ここには記されていませんけれども、ユダのマカベア家の者たちが立ち上がります。 そして僅かな武器で勝利を治めます。それが紀元前165年のことでありました。 そのことは旧約聖書の正典には入ってないんですけれども、外典という文書にマカベア書があります。 このマカベア書にこの時代のことが詳しく記されています。
このようにして戦った者たちが、 (ゼカリヤ9章)13節の最後に出て来る「あなたを勇士の剣のようにする」という。 彼らこそが、神の御手に握られた剣となります。
《勇士の剣のように用いられる者たち》というのは、一体どういう者たちなのか? @イエス・キリストとくびきを一つにし、主イエス・キリストの心の優しさ、柔和な姿勢を学ぶ者です。 これは学ばないと学べない。キリストから逞しくも、心優しく、柔和な姿勢を学ぶ者。 A捕らわれながらも決して希望を失わない、望みを持ち続ける者。 B神という砦で休み、力づける者、 C力づけられて、剣のようになって派遣されて行く者。
それが歴史の中で、次から次に出て来る、小さなアンティオコス・エピファネスを倒す者となる。 神さまは、そういう者たちを私たちの内側に起こしてくださる。 世界中でコロナウィルスと戦う剣。それが看護師さんであれ、医者であれ、それがクリスチャンであっても、そうでなかったとしても、皆さん愛に溢れ、逞しく見えますよね。 神の御手に握られた剣ですよ。
一昨日天に召された横田めぐみさんのお父さん。 悲しみをこらえ、憤りを力に変え、拉致事件なぞ存在しない、と一般的に受け止められた常識を変えていきますよね。 行かなかった県はない。日本全県を回って講演し、訴え、拉致被害者の組織を引っ張り、そして静かに天に帰って行かれました(アーメン)。 彼もまた「勇士の剣」として神さまに用いられた人物です。 彼もまた「望みを持つ捕らわれ人」であって、彼もまたイエス・キリストのような「柔和」な笑顔をたたえていた人物であります。
【望みなくして捕らわれているだけの人を助けるために、私たちがキリストの手に握られた剣になることができますように】というのが、今日の私たちの祈りです(アーメン)。 イエスさま、あなたのような柔和さを学びたいと思います。 私たちは往々にして捕らわれていますけれども、どうか、望みを失うことがないように。失いかけた時に、あなたという砦の中に逃げ込ませてください。 どうか私たちを、試練をもって磨き、慰め、力づけ、くすぶる灯芯になおも輝きを与えて、イエス・キリストの手の中に握られた剣として、私たちを用いてください。(アーメン!) ひと言お祈りをして終わりにいたします。
☆お祈り――藤本牧師
13 わたしは、ユダをわたしの弓として引き絞り、これにエフライムをつがえたのだ。……シオンよ、わたしはあなたの子らを奮い立たせ、あなたを勇士の剣のようにする。 (ゼカリヤ9:13)
恵み深い天の父なる神さま、この世界に様々な国があり、出来事がある。しかしあなたのことばはそれらの上にとどまり、しかしその目は私たちに注がれ、私たちを守るために、あなたご自身が守衛所に立って、私たちを見ていてくださると。見よ、あなたの王があなたのところに来ると(いうゼカリヤ9章の学びを感謝します)。
どうか、いつも私たちの所に来られるイエス・キリストをじっと見ることができますように。のみならず、キリストとくびきを一つにして、その柔和なお姿を、力強いお姿を、自分のものとすることができますように。「望みを持つ捕らわれ人よ」と――望みのない捕らわれ人ではなくて――心のどこかにいつも願い事を、いつも信仰を、いつも希望を宿すことができますように。
そのためにいつも「あなたという砦に帰って」来て、あなたに心の思い煩いをすべてお話しし、試練によって磨かれ、再び光り輝く者となり、その私たちがキリストの御手に握られて、「戦いに出て行く剣」となることができるように、私たちを強めてください。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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