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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/14 ゼカリヤ(11)【主】に雨を求めよ ゼカリヤ10:1〜2
☆聖書箇所  ゼカリヤ10:1〜12 (※ただし3節以降は来週、藤本牧師の説教で)

1  【主】に雨を求めよ、後の雨の時に。
     【主】は稲光を造り、大雨を人々に、
    野の草をすべての人に下さる。
2 テラフィムは不法を語り、
  占い師は偽りを見る。
  夢見る者は意味のないことを語り、
  空しい慰めを与える。
  それゆえ、人々は羊のようにさまよい、
  羊飼いがいないので苦しむ。

3 「わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。
  わたしは雄やぎを罰する。」
  万軍の【主】は、ご自分の群れであるユダの家を訪れ、
  彼らを戦場の威厳ある馬とされる。
4  この群れからかしら石が、
  この群れから杭が、
  この群れから戦いの弓が、
  この群れからすべての指揮する者が、
  ともどもに出て来る。
5  彼らは勇士のようになり、
  戦場で道端の泥を蹴散らして戦う。
  【主】が彼らとともにおられるからだ。
  彼らは馬に乗る者どもを辱める。
6  「わたしはユダの家を力づけ、
  ヨセフの家を救う。
  わたしは彼らを連れ戻す。
    わたしが彼らをあわれむからだ。
    彼らは、
    わたしに捨てられなかった者のようになる。
    わたしが彼らの神、【主】であり、
    彼らに答えるからだ。」
7 エフライムは勇士のようになり、
  その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。
  彼らの子らは見て喜び、
  その心は【主】にあって大いに楽しむ。
8  「わたしは合図をして彼らを集める。
  わたしが彼らを贖ったからだ。
  彼らは以前のように数を増す。
9 わたしは彼らを諸国の民の間にまき散らすが、
  彼らは遠く離れてわたしを思い出し、
  その子らとともに生き延びて帰って来る。
10  わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、
    アッシリアから集める。
    わたしはギルアデの地とレバノンへ
    彼らを連れて行くが、
    そこも彼らには足りなくなる。
11  彼らは苦難の海を渡る。
    海では波を打ち破り、
    ナイル川のすべての淵を涸らす。
    アッシリアの誇りは低くされ、
    エジプトの杖は離れ去る。
12 わたしは【主】にあって彼らを力づける。
    彼らは主の名によって歩き続ける。
    ――【主】のことば。」

☆説教  ゼカリヤ(11)【主】に雨を求めよ ゼカリヤ10:1〜2

改めておはようございます。宮崎教会の方々、ありがとうございます。礼拝はもうすでに宮崎で始まっているという風に伺いましたけれども、「ゼカリヤが終わるまで高津教会の礼拝を聞きたい」という、ま、そんなことを言ってくださる方はちょっと珍しいかなぁと思いますけれども、本当に感謝いたします。

6月に入りまして、地方の礼拝はソーシャル・ディスタンスを保ちながら、大体始まってまいりました。私たちは首都圏でありますので、もう少し様子を見て第二波の状況がどうであるのかを判断して開始して行きたいと思いますが、それが真夏でありますとおのずと様々な意味で、皆さん方の判断が求められることになりますので、いつも無理をしないでお考えください。

さて、今日はゼカリヤ書の10章を開いていただきました。
10章は2回に分けてお話をいたします。
「戸塚先生来週の当番ですよね?来週私でもいいですか?」
(※と、思い出したように、講壇から戸塚伝道師に尋ねる藤本牧師)
というのは、昨日(説教を)作っていて、10章を2つに分けてしまったので、先生が第四(聖日当番)で、私が第三をさせていただきたいと思います。

前回、主に(ゼカリヤ)9章の12節のみことばに目を留めていただきました。

12 望みを持つ捕らわれ人よ、砦に帰れ。

これだけでもう3つのポイントが出て来ます。
私たちは往々にして望みを持たない者たちです。
しかしここには、「望みを持つ者よ」とつまり信仰者のことが描かれています。
しかしそういう風に信仰を持っていたとしても、私たちは様々な事に捕らわれています。
ですから自分は一体どんな者か?と言えば――「望みを持っている。しかれども捕らわれ人」であります。
神さまは、私たちに向かって「砦に帰れ」と仰いました。

この神の砦で、私たちは慰められ、力づけられ、そしてそのようになった私たちを、神さまは、(ゼカリヤ9章)13節の最後に――

13 ……あなたを勇士の剣のようにする。

勇士の剣のようにする――鍛えられて、強められて、私たちはこの世界に出て行くことができる。
もちろんここには、ヤワンという13節の3行目に出て来ますけれども、これから始まりますギリシャ文明による、帝国の支配が描かれていますけれども、
その中で生き残っていく勇士たちのことが描かれている、ということを申しました。

ゼカリヤ書というのは、8章までが神殿の再建の預言で、9章から終わりの時の預言になります。
その10章の1節2節を、実は今日は目を留めていただきたいと思います。
ペンテコステのことが描かれ、いやもっと先を考えるならこの世界の終わり、第二のペンテコステという程の神さまの霊的な油注ぎがあり、そして千年王国がやって来て、というような、その時代のことが描かれていますけれども、
いくつか、もう少し個人的に今の自分に当てはめて、この箇所を読んでいただきたいと思います。

1  【主】に雨を求めよ、後の雨の時に。
   【主】は稲光を造り、大雨を人々に、
    野の草をすべての人に下さる。

【主】に雨を求めよ――これをもって、今日の説教題といたしました。
私(藤本牧師)は一番苦手とする季節がやって来たなぁと思います。
湿気に非常に弱くて、ましてこの雨が半そでの腕に当たるとか、首に当たる、顔に当たるというのが大変苦痛に感じます。
私(藤本牧師)はよく言うんですけれども、「まるで塩をかけられたナメクジのように、湿気に溶けてしまいます」と。
ほんとに湿気が上がって来ますと、身体に力が入りません。
でも逆を考えますと、そんな呑気なことを言っていることができるのは、やっぱり日本が豊かな雨の国、水の国であるからでありましょう。
大雨が農作物を台無しにしてしまうということはしょっちゅう起こります。
でも干ばつというものは、(日本では)それほどございません。

しかしこの旧約聖書が描かれている世界というのは、乾燥地帯であります。
荒野が広がっています。
そういう意味では、旧約聖書において、井戸は大切です。
それから用水路の建設も大切です。川の流れのほとりや、あるいはオアシスというのも何度も出て来ます。
水は極めて貴重な存在でありました。
そして天からの雨は、神さまの恵みの象徴でありました。
彼らのいのちは、雨が降るか降らないかで決まってしまう。

申命記の11章の13節〜14節。私(藤本牧師)少しゆっくり目に読んでいきますので、聞いていただきたいと思います。

<申命記11:13〜14>
13もしわたしが今日あなたがたに命じる命令、すなわち、あなたがたの神、【主】を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えよという命令に、あなたがたが確かに聞き従うなら、
14わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨をもたらす。あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。

神さまは仰るんですね。
【もしわたしにきちんと心を込めて従って来るならば、わたしは地に「初めの雨」と「後の雨」を降らして、豊かに穀物を実らせる】と。

「初めの雨」というのはちょっと日本と逆になりまして、秋から12月にかけて降る雨です。
この雨によって収穫を終えた土地が潤い、そして次の作物の種を蒔く準備が整っていきます。
そして冬には断続的ではありますけれども、雨が降る。

「後の雨」というのは、3月4月に降る雨でありまして、このまとまった雨によって、収穫前に作物は豊かに実を結ぶようになります。
ですから「初めの雨」というのは、秋ですね、11月12月頃やって来て、そして半期をかけて「後の雨」をもって収穫する。
そして、その収穫の後に完全な乾季が始まって行く、というパターンであります。
「初めの雨」もそうですけれども、「後の雨」はいっそう豊かな収穫、天の恵みそのものですね。

エゼキエルの34章の26節に有名なことばがあります。
その言葉というのは、神さまが後の日に、聖霊と平和によってこの世界を包む、という約束なんですけれども、そこでも雨の表現が使われています。

<エゼキエル34:26>
26わたしは、彼らにも、わたしの丘の周りにも祝福を与え、時にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。

「祝福の雨」ということばは旧約聖書に50回位出て来ます。
中にはノアの洪水の時のように、大雨が降りそして洪水になっていく、「大雨」と訳されている部分もあります。
「初めの雨」に祝され、「後の雨」に祝され、乾燥した大地、乾燥した人の心、カラカラの人生に祝福の雨が浸透していく、というイメージなんですけれども、
この「祝福の雨」というのが、英語で訳される時に、大体”Showers  of  Blessing”になります。

祝福のシャワー、それが先ほど歌いました讃美歌の"Showers  of  Blessing"
(福308)「雨をふりそそぎ」というこの讃美歌の正式なタイトルです。
16世紀の大覚醒期のアメリカで作られた讃美ですけれども、
歌いましたのは、中田羽後(なかだ・うご)先生(***1896〜1974牧師、音楽伝道者「おお牧場はみどり」の作詞など)の名訳ですね。

  雨を降り注ぎ 恵み給うと
  神は愛をもて 誓い給えり 
  夕立のごと 天つ(あまつ)恵みを(※天からの恵みを、と説明)
  イェスよ今ここに 注ぎ給えや

“Showers  of  Blessing” (シャワー・オブ・ブレッシング)「雨をふりそそぎ」
讃美歌もゼカリヤ書の雨も、聖霊を指していることは明らかであります。
それは単なる農作物の祝福ではありません。
ゼカリヤが見ている幻は、ペルシャが終わり、ギリシャが終わり、やがてローマ帝国がやって来ます。
イエスさまはその時仰いました。(***ヨハネ7:38)
「だれでも渇いている者はわたしのところに来なさい。その人の内側から、生ける水が川となって流れ出るようになる」と。
ヨハネは付け加えました。それはイエスさまは聖霊のことを指していたと。(***同39)

このペンテコステ的恵みを慕って、この讃美歌を当時作った人々、歌った人々は、聖霊のことを慕いながら、聖霊がこの身に降り注がれるように、充満していくように讃美歌を歌いました。

聖霊というのは、神さまの息吹です。
私たちを新たに生まれさせ、私たちにキリストの姿を映し出させ、私たちに霊的ないのちを吹き込み、この世界を平安で包む、神の息吹ですね。
私たち(人間)に霊的ないのちを与え、その霊的ないのちを保っているのは聖霊によります。
もちろん、それは霊的なことだけに限定されるのではなく、必要なものすべてを与えてくださるのも聖霊です。
何よりもいのちを与え、いのちを保ってくださるのは聖霊です。

さて、簡単に3つのポイントでお話をいたします。
非常に明快だと思いますので、よくこの10章の1節2節を心に刻んでください。

1)【主】に、求めよ

1節の初めに「【主】に求めよ」と出てまいります。
大切なのは、「【主】に」ですね。
そしてもう一つ大切なのは、「求めよ」です。
「【主に】」と言う時に、神だけが祝福の源だから。他に泉はないという意識をもって、【主】にだけ求めよ。
求めることを知らない、霊的な恵みを。
霊的な恵みのシャワーを求めることを知らないイスラエルの人たち、私たちに向かって、神さまは仰った――「【主】に求めよ」。大雨を求めよ。
1節の2行目に「稲光を造り」と――これも神さまがなさることですね。

1  【主】に雨を求めよ、後の雨の時に。
     【主】は稲光を造り、大雨を人々に、
    野の草をすべての人に下さる。

これは神さまのみわざです。この世界の恵みの源は神さま以外にない。
乾燥地帯では大雨が降らなければ、一気に大地が干上がって行きます。
私たちの人生に聖霊の息吹が吹き込まれなければ、一気に傷が増えていきます。
逆に吹き込まれれば、傷は癒され、焦りが静められ、苛立ちが収まり、不安な揺れが平安で包まれていきます。

神さま以外にないのだと確信して1節に「【主】に求めなさい」ですね。

2)2節にあります。イスラエルの人々は祝福を、雨を一体どこに求めていたか?ということがよくわかります。
2節の一行目――

2  テラフィムは不法を語り、占い師は偽りを見る。
     夢見る者は意味のないことを語り、空しい慰めを与える。……

テラフィムというのは、家にあります偶像です。
人はそういうものに守ってもらうことを祈り、またそういうものからお告げを求めますね。

占い師は私たちが想像していないビジョンを見ます。
そしてそれは、私たちがお金をかってそのビジョンを買うわけですけれども、
それもまた偽りを見ている。
夢見る者――預言者ですね――意味のないことを語り、空しい慰めを与える。

イスラエルに入り込んで来ました偶像礼拝は、これはパレスチナ一帯から、小アジア・トルコ一帯からものすごい勢いで入って来ました。
歴史的には、ソロモン【***イスラエル王国の第3代王BC1011(在位BC971)〜BC931頃】の愚行が大きな流れを作ります。
彼は様々な国、文化から千人の女性を抱えるようになります。
そしてその千人の女性が持って来た、様々な国からの異国の文化と神々と交わるようになります。

ソロモンが亡くなった後、分裂した北のイスラエルは、アハブの時代にツロの王さまの娘イゼベルを迎えます(***T列王16:31)。
イゼベルは千人の偶像の預言者を連れて、北のイスラエルに乗り込んで来ました。

人が願い事を叶えてもらう時に、病を癒やされようとする時に、雨を求めます。
どこに行くのでしょうか?
それは昔も今もあまり変わっていないです。
占い師であり、仏像であり、神社であり、様々に将来を予見しようとする者であったり、
しかしそこから得るものは、偽りであり、意味のないこと、空しい慰め。
まともに受け止めようと私たちは何とかお金を払い、そこに自分の将来を委ねようとする傾向は、
北のイスラエルと私たちと、現代のイスラエルも現代のアメリカも、あんまり変わってないように私(藤本牧師)は思っています。

イスラエルという国は、長い歴史をかけて、雨を神さまに求めない国になってしまった。
むしろ空しい泉を探すんですね。
ゼカリヤの少し前に大きなエレミヤ書というのがありますので、
もしお手元に聖書があれば、2章の13節、これもそのものずばりの聖句ですので、
私たち自身、自分に当てはめておくといいと思いますが、これはお読みいたしますね。
神さまのことば――【主】のことば――(12節の最後まで入れて読まれる)

<エレミヤ2:13>
13  わたしの民は二つの悪を行った。
      いのちの水の泉であるわたしを捨て、(※これが一番目ですね、と説明)
      多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。(※これが二番目ですね、と説明)
      水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。

これが私たちの愚行です。
真の泉である神を捨て、自分たちのためにいつも水を溜めることのできない壊れた水溜めを掘っているのが、私(藤本牧師)は人間ではないだろうかなという風に思います。
信頼に足りないものを頼みとし、目標とすべきでないことに多くの時間と労苦を注ぎ込んで行く人生。

そうしてやがてゼカリヤ10章に戻っていただいて、読み残しました10章2節の最後ですね。

<ゼカリヤ10:2、最後>
2……それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。

私たちの人生に何か芯があるとしたら、私たちの人生に何か一本通っているものがあるとしたならば、
それが青年期から壮年期、実年期、病の内からあるいは繁栄、やがて老後、一本通っているものがあるとしたら、
それは主の家に住まうこと。主のみを神とし、この方に水を求めること。
そしてこの方は折りに適った水だけでなく、私たちを生まれ変わらせる水を与え、
この方は私たちに天国を想像させるところの水を与えてくださる。

私たち自身の人生は、もう様々な事をいたします。様々な声に揺らされます。
しかし一本の筋があるとしたならば、それが信仰である、というのがクリスチャンのモットーであろうと思います。
だとしたならば、自分で水の溜まらないような水溜めを作らずに、水の源である神さまを求めなさい。
神さまを求めることを目標としなさい。そこにより多くの時間と労苦を注ぎ込みなさいというのは、私(藤本牧師)はまことにそうだなぁと思わざるを得ないと思います。

それをしなくなってしまった時に、私たちは「羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しんでいく」(***ゼカリヤ10:2)。
イエスさまはガリラヤの海を渡って向こう岸に着かれた時に、イエスさまに癒してもらおうと多くの人々が集まって来た時に、イエスさまは群衆を見て、憐れんでこう仰いましたよね。(***マタイ9:36)
「彼らは羊飼いのいない羊のようだ」と。
でも実際は「羊が逆らって、自分の道を行ってしまった」と、イザヤ書の53章(***6節)に記されていますね。

そんなことで、羊飼いのいないような状況が長〜くイスラエルに続いていきました。
そのくせ、雇い人の羊飼い、偽物の羊飼いは山程いたということが、ヨハネの福音書10章に出てまいります。

神にのみ雨を求めよ、後の雨の時に。(ゼカリヤ10:1)
祝福の源泉は神だけである。間違っても自分で壊れた水溜めを、水の溜まらない池を掘ってはいけない。
求める祝福は何よりも「シャワー・オブ・ブレッシング」・聖霊を求めなさい。

3番目、これで終わりにいたします。
3)雨を求める時の心の姿勢をお話ししたいと思います。
申し上げましたように、10章の3節以降は改めて来週お話しいたします。

雨について、神さまに雨を求めることについて、祝福を求めることについて、
とても大切な聖書の箇所を、もう一か所、今度は画面に出すようにお願いしましたので、
これを見ていただきたいと思います。
歴代誌第二の7章にあります。これを紹介して説教の最後のポイントといたします。
歴代誌第二の7章の13節から読んでいきます。じっくり目を通してください。

<U歴代7:13〜14>
13わたしが天を閉ざして雨が降らなくなったり、あるいはわたしがバッタに命じてこの地を食い尽くさせたりして、わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、
14わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。

ここに「疫病」という言葉が出て来ますね。
私(藤本牧師)は、今現在世界を襲っている新型コロナウィルスと同じように解釈するつもりはないですが、
でももしそのような状況にあるならば、「わたしの顔を慕い求めよ」と神さまは仰る。
そしてこの14節の最後に、「わたしは彼らの地を癒やす」と書いてありますね。

神さま、この世界を癒やしてください。
病でいのちを失い、仕事を失い、希望を失い、傷が広がるこの世界で、
この地を癒やしてください。
あなたに求めます。恵みの雨をあなたに求めます。

すると、神さまはこう仰いますね。
「ありがとう。わたしに求めてくれて。
なぜなら、わたしの名で呼ばれている、わたしの民であるあなたが、求めてくれてありがとう」と。
歴代誌第二の7章はそういうことです。
神さまは仰る――
「わたしは世界がそのように求めてくれることを、欲しているわけではない。
でもせめて、わたしの名で呼ばれているわたしの民が自らへりくだって、たましいが砕かれてそのように祈るのを、わたしは待っている」と。

この地を癒やすための祈りは、聖霊があなたの心の奥底に触れ、
あなたの心の中にある不信仰、弱さ、罪深さに触れてくださる。
そして、あなたが遜ってそれを受け止めるなら、
わたしは天を開いて、恵みの雨を降り注ぐ。
そういう約束です。
単純に恵みの雨を求めるのではありません。
真実に砕かれて、祈り求める力を聖霊は与えてくださる。
地が傷つく以上に、あなたの内側が傷ついていることを聖霊は教えてくださる。
その時、恵みの雨が降り注がれ、聖霊は不思議なみわざを為してくださる。

先日のペンテコステ、オンラインの礼拝で、私たちの教会からの神学生、Y神学生が、心に深い感動を得て、そして連絡をくださり、その連絡があまりにも良かったので、私(藤本牧師)は「天の窓」に載せる証しを送ってくださいと(お願いして)、送ってくださいました。

Y神学生は、なかなか病名を付けることが難しい病気、その病気であるということを見つけるまでに何年もかかるような病気にかかって来ました。
この病気は様々な所に症状が出ます。
典型的には目に来ますね。光が何倍、何百倍にも眩しく感じ、また視力を失ってしまいます。
原因が分からなくて苦しむのは自分だけで、周囲はその苦しんでいる様子を原因が分からないがゆえにいぶかしく思って、なかなか理解を戴けない。
ですから、自分の身体の不調以上に、理解してもらえない苦しみというものが苦痛なんですね。

ペンテコステの礼拝の中で、Yさんが書いてくださった証し、皆さんのもとに後にお届けします。
Tさんの所にファイルは回しましたので、Tさんが組んで届けてくださいますが、ちょっとお先に読んで、関心を高めていただきたいと思います。

  ペンテコステの礼拝の時、気が付くと、私の内にあまりにも深く根ざして絡み合い、自分にはどうにもできなくなっていた暴走する怒りの根が抜き取られていました。
  自分が障害や難病を負っていること、それに苦しみ苛立ってきたことを、「クリスチャンは弱者を理解するべきだ」という正義感にすり替えてきました。
  しかし、そんなことはもうどうでもよくなりました。障害を負って以来十年以上も、障害者を理解してもらうための活動をしてきたのに、そんなことはもうどうでもよくなって、なんだかとても心が楽になりました。神様は不思議な方だなと思います。
  実はこの体験の数日前に、ある局の、障害を特集するラジオの取材を申し込まれていました。その準備のため伝えたいことを箇条書きにしておきました。このたび、それを見返して驚きました。ペンテコステの前にはこう思っていました。
「全く見られないのに視覚障害に認定されないなんて、私たちに死ねということか。これから外出のための支援などを受けられるように戦っていかねばならない。」
  しかし今、心が空っぽになった私の奥底から、生ける水の川が溢れ流れ出ていたのです。それは感謝の泉でした。
――ここまで――

自分の苦しみ、それを何とか理解してもらおうと、
しかし理解してもらえない時に、それが正義感となって、苛立ちとなって、
いつの間にかしっかりと根を下ろしていた。
障害のこと、色んな支援を求めること、それを口にする度に、
自分の内側にある怒りの根というものが、幅を利かせていたのを、
聖霊が示してくださり、それをスポンと引っこ抜いてくださった。
Yさんは、こう記していますね。

「今、私たちは歴史的危機に瀕しフラストレーションが溜まっています。そのことで、今まで踏みつけられてきた方々の立場に立ち、怒って当然の精神状態にあるかもしれません。しかし聖霊は私たちに平安を与えると聖書にあります。(ヨハネの福音書14章27節)
 こんな私にも主は平安を与えてくださいました。このように危機的状況にもかかわらず、与えられる神からの不思議な平安。この神の奇跡によって私たちはきっと平和を作るものになることができるのではないかと思わされています。」

そのようにして、私たちを用いて、神さまはこの地を癒やすことを願っておられるんだろうと思います。
「主に雨を求めよ」(ゼカリヤ10:1)。地を癒やすために、あなたの心を癒やすために、主に雨を求めよ。

☆お祈りをいたします――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、Y姉ではありませんが、私たちの心の内側には様々な苛立ちや、憤りや、うまくいかない焦りや、置かれていく状況も時代にとって様々でありますし、自分の上に立つ人・下に立つ人、自分が通っている人生の状況も時と共にどんどん変わって行きます。しかし私たちは一貫して一つの筋を持って来ました。

それはどんなことがあっても「あなたに信頼し」、あなたの導きを仰ぎ、いつも「希望ある捕らわれ人」として「あなたという砦」の中に逃げ込み、あなたに癒されて、「剣のように鋭く」されてもう一度自分の置かれている場所に「戻って行きなさい」。
決して他の物ではなく、「わたしに雨を求めなさい。大雨を求めなさい」。そしてそれが単なる物質的な恵みではなく、何よりも聖霊を求めなさい。

「わたしは地を癒やそう。しかしその前に、あなたの心を癒やそう」と仰るあなたにゆだねて、精一杯聖霊を求めて、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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