☆聖書箇所 ゼカリヤ10:3〜12
3 「わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。 わたしは雄やぎを罰する。」 万軍の【主】は、ご自分の群れであるユダの家を訪れ、 彼らを戦場の威厳ある馬とされる。 4 この群れからかしら石が、 この群れから杭が、 この群れから戦いの弓が、 この群れからすべての指揮する者が、 ともどもに出て来る。 5 彼らは勇士のようになり、 戦場で道端の泥を蹴散らして戦う。 【主】が彼らとともにおられるからだ。 彼らは馬に乗る者どもを辱める。 6 「わたしはユダの家を力づけ、 ヨセフの家を救う。 わたしは彼らを連れ戻す。 わたしが彼らをあわれむからだ。 彼らは、 わたしに捨てられなかった者のようになる。 わたしが彼らの神、【主】であり、 彼らに答えるからだ。」 7 エフライムは勇士のようになり、 その心はぶどう酒に酔ったように喜ぶ。 彼らの子らは見て喜び、 その心は【主】にあって大いに楽しむ。 8 「わたしは合図をして彼らを集める。 わたしが彼らを贖ったからだ。 彼らは以前のように数を増す。 9 わたしは彼らを諸国の民の間にまき散らすが、 彼らは遠く離れてわたしを思い出し、 その子らとともに生き延びて帰って来る。 10 わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、 アッシリアから集める。 わたしはギルアデの地とレバノンへ 彼らを連れて行くが、 そこも彼らには足りなくなる。 11 彼らは苦難の海を渡る。 海では波を打ち破り、 ナイル川のすべての淵を涸らす。 アッシリアの誇りは低くされ、 エジプトの杖は離れ去る。 12 わたしは【主】にあって彼らを力づける。 彼らは主の名によって歩き続ける。 ――【主】のことば。」
☆説教 ゼカリヤ(12) 苦難の海をも渡りきる
ゼカリヤ書9章から入りまして、今日は10章の第二回目を学んでいきたいと思います。 今日は少し情報、聖書の学びの部分が沢山あります。 お手元に聖書がないとちょっと辛いとは思いますけれども、しかし何とか耳を傾けてくださり、ついて来ていただきたいと思います。 それは、詳しく歴史的な事情を把握しないと得ることのできないメッセージというのが沢山あります。 今回はそういうものでありますので、ことさら固有名詞や、また時代的な背景が多いと思いますけれども、聞いていただきたいと思います。
ゼカリヤ書1章〜8章は神殿の再建ということにメッセージが注がれました。 そして9章以降は、ギリシャ帝国の時代の預言に移っていきます。 ギリシャ帝国はペルシャを滅ぼし、そして世界の覇者となりましたアレキサンダー大王と、その死後に起こった帝国の圧政を乗り越えていく、ユダの民への預言だと申し上げました。
紀元前331年にアレキサンダーはペルシャを滅ぼし、エジプトを征服し、広大な、ま、ヘレニズム帝国、ギリシャ帝国を打ち立てます。 しかし、それから数年後の紀元前323年に、彼はあっけなく病に倒れます。 猿に咬まれた、という風に一般的に考えられていますけれども、あっけなく病に倒れ、 その後広大な帝国は4分割されていきます。 ユダの民、神殿建設は終えましたけれども、苦難は待っていました。 そういう意味で、彼らは9章の12節に「望みを持つ捕らわれ人よ」――これはバビロン捕囚の継続的な縛りというものを意味しています。 心の中に希望はある。しかし実際は捕らわれている――これは私たちもそうで、 <心の中に希望がある私たちである>ということを忘れてしまいますと、不安や苦難や、また困難や貧しさに私たちは捕らわれてしまいます。 ですから私たちは<捕らわれ人でありながらも、心の中で希望を持っている自分だ>ということを自覚する必要があります。
9章の12節ですね――「望みを持つ捕らわれ人よ。砦に帰れ」と。 私たちは定期的に、いやいつも神さまという砦のもとに戻って来て、 もう一回励ましをいただき、力づけられ、 そして<神さまは私たちを勇士の剣のようにする>(13節)。 イエス・キリストの手に握られた剣のように、私たちを強くしてくださる。
そういう旧約聖書の民に、私たちは自分自身を重ねてまいりました。
先週は10章の1節と2節だけにとどめました。 「【主】に雨を求めよ」と題してお話をしました。 祝福は神だけから来る。 だから――雨というのは祝福の象徴でありますけれども――祝福は神に求めよ。 間違っても2節にあるような、家の偶像や怪しげな預言者に求めてはいけない。 もし求めるなら、2節の最後に、「羊飼いのいない羊のようにさまよう」だけだと。 そして雨を求めるという時に、祝福を求めるという時に、何よりも聖霊を求めよう、という話をいたしました。 聖霊は私たちに恵みの雨を降り注ぐ。 「恵みの雨」(※ 福308 雨をふりそそぎ)という讃美歌を歌いましたよね。 でもそれだけではない。 私たちの弱さを指摘し、罪深さを悔い改めさせ、そして私たちの心をきよめる。 それこそが最大の恵みの雨である、というお話をしました。
今日はその続きの(ゼカリヤ10章)3節から最後(12節)までを一緒に学んでいきます。
1)雨を求めるべき者たち――すなわち私たちのことが記されています。
それがゼカリヤ書の預言で言えば、(10章)3節3行目です。 「万軍の【主】は、ご自分の群れであるユダの家を訪れ、」 「ユダの家」ってどういうことなのか? それはソロモンが死んだ後に、イスラエルの王国は南と北に分裂いたします。 北のイスラエル王国は、アッシリア帝国によって滅ぼされ、散りちりバラバラになっていきます。 南のユダの王国は、ここにエルサレムがあるんですけれども、 ユダの王国はバビロニア帝国によって滅ぼされ、こちらはバビロンに捕囚として捕られ、 70年間の捕囚期間を経て、そしてもう一回帰って来て、(エルサレム)神殿を再建する。
「ユダの家」というのは南の二部族による、ユダとベニヤミン族ですね、この小さな小さな部族なんです。 神はその部族を訪れてくださる。
私たちはサマリア人とユダヤ人、というものの言い方をしますよね? サマリア人というのは、北の10部族、散りちりバラバラになりながら、そしてアッシリアの方針によって雑婚をして、ユダヤ人の血筋というものを失った人々。 南の、バビロンに捕られ、戻って来て神殿を再建した人々をユダヤ人という風に呼ぶようになります。
どちらにしても、世界史の流れでは、北は国家としてはもう消滅し、南はペルシャ、ギリシャ、やがてローマの支配下に置かれていきます。 つまりどちらにしろ、小さな者たちなんです。 どちらにしろ、暗やみに住む者たちなんです。 どちらにしろ、以前の栄光を失い、失望の中に浸っている者たちなんです。 神さまはその「ユダの家を訪れ」(3節)ですね。(――これは南ですね)。
それから6節に、「わたしはユダの家を力づけ、」 「ヨセフの家を救う」――これは北になります。 7節に「エフライムは勇士のようになり」――これも北ですね。 散りちりバラバラになったイスラエルの人々、エフライムの部族を、神さまは力づけてくださる。
神の契約の真実は消え去ることがない、という大切なメッセージがゼカリヤ書の中に入っています。 旧約聖書に、以前は「エレミヤ哀歌」と呼びました、今は「哀歌」という風に呼びますけれども、 3章の22〜23節に有名な言葉があります。皆さんよく知っておられる1407ページですね。
<哀歌3:22〜23> 22……実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。 23それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。
「あなたの真実は偉大です」――ここから有名な讃美歌ができますね。 Great Is Thy Faithfulness――インマヌエル讃美歌のタイトルですね。
<イ474 ながまことは大いなり> (※1節の歌詞を読み上げる藤本牧師) ながまことは大いなり たのむ神は君のみ 変わらぬなが愛の手に 支えらるるいのちぞ (※私たちには、この曲が好きだった先代の栄造牧師が「小さな群れよ、恐れることはありません」(ルカ12:32)を力説される姿が思い出される) (※以下の繰り返しの部分を、ついに朗々と歌い出す藤本牧師。笑) ながまことは大いなれば 朝(あした)ごとにほめ歌う 恵み日々に豊かなり 御顔常にさやけし
失礼いたしました(笑)。いいですか? 実に私たちが滅び失せなかったのは、神の真実が偉大だからですね。 主のあわれみが尽きないから、それが朝ごとに新しいから、 私たちは滅び失せてもおかしくない状況で、滅び失せなかった、 というのが、「エレミヤ哀歌」の3章の22節のことばです。
先程の“Great Is Thy Faithfulness” 「ながまことは大いなり」の作詞は、 トーマス・チッソンという無名の人物であります。 アメリカのケンタッキーで生まれ、子どもの時から身体が弱く、小学校は卒業しますけれども、学業はそれ以上進むことはできませんでした。 定職に就くこともなく、そんな中で、彼は27歳でイエスさまを信じます。 献身して神学校に行き、そして30過ぎて牧師になりますけれども、やっぱり健康的な弱さを抱えて、牧師を止めてしまいます。
そんな彼が、「実に自分が滅び失せなかったのは、神の真実による」というそのみことばに目を留め、 “Great Is Thy Faithfulness”という讃美歌のこの詞を作ります。 それを投稿します。投稿した時に、ある作曲家の目に留まり、曲が付けられ、やがてムーディー聖書学校で頻繁に歌われるようになります。 それを聞きました大伝道者のビリー・グラハムが伴っていた歌手のジョージ・べバリー・シェーに歌わせて、 一躍アメリカに、世界に広がっていく讃美歌が、「滅び失せなかったのは、実に神の憐れみによる。あなたの真実は偉大である」というこの讃美歌ですね。
この詞はイスラエルの人々に通じます。私たちにも通じます。 神は私たちのような小さな者に目を留め、小さなものを力づけ(アーメン)、 ユダの家を訪れ(ゼカリヤ10:3)、ヨセフの家を救い(同6)、エフライムは勇士のようになる(同7、アーメン)。 みんな小さな者たちですね。 朝ごとに、朝ごとに、私たちは「神という砦」(ゼカリヤ9:12)の中で鍛えられ、力づけられ(アーメン)、 平凡な日々も、苦難の多い日々も、病める時も、朝ごとに新しい(哀歌3:23)。 実に神の真実は偉大であると(哀歌3:23、アーメン)。
【ゼカリヤの10章に戻ると、万軍の【主】はユダの家を訪れ(3節)、ユダの家を力づけ(6節)ヨセフの家を救い(6節)、エフライムは勇士のようになる(7節)。】
2)この神の真実は、イスラエルにも私たちにも等しく当てはまるのは、4節があるからです。
4 この群れからかしら石が、(***この群れというのはユダの家です、と説明) この群れから杭が、この群れから戦いの弓が、 この群れからすべての指揮する者が、ともどもに出て来る。
というのは、イエス・キリストとまたキリスト者を、指していると考えていいでしょう。 ユダの家から神の民のかしら石(、礎石)が生まれて来る。 この群れから(出て、)杭(となってくださいました)。杭というのは、あの幕屋(テント)を確かに地面に打ち付ける杭ですね。 そして罪と惡の力、試練や苦難と戦う戦いの弓となってくださるお方、すべてを指揮してくださるお方が、この群れから出て来て、 私たちはその方を信じて、キリスト者になっているわけです。
ですからこのゼカリヤ書で語られている預言というのは、神の民に当てはまるだけでなく、私たちに当てはまる、キリストのゆえに。 ゼカリヤ書に記されていることは、つまり神さまが小さな群れに対する真実を忘れずに、 朝ごとに新しくしてくださるというこの事実は、私たち一人ひとりにすべて当てはまるということです(アーメン)。 さて、今日のメッセージは三番目のポイント、これが最後のポイントになりますので、ここは詳しく聞いていただきたいと思います。
3)神さまの約束は、神さまの真実は、不思議な方法で実現する。
9節(11節、12節も)をお読みいたします。
9 わたしは彼らを諸国の民の間にまき散らすが、 彼らは遠く離れてわたしを思い出し、 その子らとともに生き延びて帰って来る。
わたしは彼らを諸国の民の間にまき散らすが、彼らは遠く離れてわたしを思い出し、その子らとともに生き延びて帰って来る。
11 彼らは苦難の海を渡る。海では波を打ち破り、ナイル川のすべての淵を涸らす。 アッシリアの誇りは低くされ、エジプトの杖は離れ去る。 12 わたしは【主】にあって彼らを力づける。彼らは主の名によって歩き続ける。……
いいですか。今日の説教のタイトルは「海を渡りきる」ですね。 遠く離れて神を思い出し、その子らと共に生き延びて帰って来る。 苦難の海を渡り、海では波を打ち破り、そしてイエス・キリストが彼らを力づけ、 彼らは主の御名によって歩き続けて、神の国へ帰って来る、 というこういうテーマなんですが、ちょっと詳しくお話をしますね。
9節にある、イスラエルの民は「諸国の民の間にまき散ら」されたとありますね。 これは現実なんですね。私たちもまき散らされているということがよくありますね。 実際十字架を前にして、弟子たちは散らされて、イエスさまのもとを去って行きました。 私たちの信仰でさえ、時にイエスさまのことを忘れてしまい、まき散らされてしまうこともあります。 あるいは今インターネットで礼拝をしているように、この教会堂はガランド―です。 まき散らされた状態で、私たちは礼拝を守っているわけです。 私たちの家族が、まき散らされて信仰から離れているように見える時もあります。
しかし神の約束は、離れない。 そして遠く離れていても、彼らはわたしを思い出す。 そして生き延びて帰って来る。子どもたちと共に帰って来る。 「生き延びて」というのは、サバイブです。サバイバルを体験しながら帰って来る。
様々な苦労があります。妨害もあります。そしてまき散らされた地は遠い所にある。 10節のエジプトの地、あるいはアッシリア(イラン)の地に、彼らは散らされて行きます。 しかし、それらの苦悩を撃破して、彼らは帰って来るんですね。
いいでしょうか?この預言が実現することは、幾重にも考えられます。 @例えば一つは、やがて終わりの日に、旧約の民イスラエルが神のもとに集められる Aキリスト者もまた散らされて行きます。迫害で散らされるんですね。新約聖書の人々は。 あの以前ペテロの手紙第一を学びましたけれども、その1章の1節に―― 「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに『散って寄留している選ばれた人たち』、すなわち、」 という風に手紙が始まっていくじゃないですか。彼らは散らされているわけです。 天国に向かって、地上に散って寄留している、それでも選ばれている人たち。 そういう私たちもやがて集められ、そういう私たちも生き延びて海を渡り、川を渡り、そして子どもたちと共に帰って来る。 時には遠く離れていても、(神さまのことを忘れていたような私たちでも)、 神さまのことを思い出し、再度思い出し、苦悩を撃破して帰って来る。 これは二番目の意味ですよね。
Bしかし三番目に、この預言の興味深い意味があります。 こういう不思議な神の摂理と言いますか、神のご計画と言いますか、神の真実が実現する方法があるんだということを、今日は理解していただきたいんですね。
離散したイスラエルの民が最も多く住んだのが、ギリシャのアレキサンダー大王の死後、ギリシャ帝国が四分割された、その一番南、 エジプトの方面にありましたプトレマイオス王朝の都アレキサンドリアです。 エジプトのアレキサンドリアに、離散したユダヤ人が最も多く住んだんですね。
そこで、紀元前3世紀に、旧約聖書のギリシャ語訳が生まれます。訳者は70人でありました。そこでそれは「70人訳聖書」と呼ばれるようになります。 まだ新約聖書も何もありません。神のことばと言えば、旧約聖書しかありません。 それがヘブル語ではなくギリシャの言葉を使う人々も読むことができるように、ギリシャ語に翻訳された70人訳というのは、セプテュアギンタですね。 新約聖書はやがて旧約聖書を引用する時に、必ずと言っていいほど、このギリシャ語訳が使われて引用されます。
そして、アレキサンドリアにそれほど多くの散らされた旧約の民がいたがゆえに、アレキサンドリアにキリスト教が浸透します。 イエスさまが天に召されてしばらくして、初期の教会は4つの中心的な教会がありました。 エルサレム教会、アンティオキア教会(以前はアンテオケ教会)、ローマ教会、そしてアレキサンドリア教会です。 その4つの中で、最初に消えていくのはエルサレムが滅ぼされますので、エルサレム教会が消えていきます。 最後に残るのは、ローマ教会とアレキサンドリア教会です。 ローマ教会がキリスト教の西を形成します、ローマ帝国と共に。 そして皆さんよくご存じのカトリック教会、そこから分岐したプロテスタント教会というのは、世界で言うと西の教会と呼ばれています。 その中心はローマ教会ですね。
でもこの世界には1054年に分類してしまった西の教会と共に、東の教会っていうのがあるんですよ。 東の教会っていうのが、ギリシア正教であり、それから上に行ったロシア正教ですね。 この東の教会のおおもとがアレキサンドリア教会です。 やがてアレキサンドリア教会はイスラム圏によって支配されます。 そしてアレキサンドリア教会にあったものすごい数の写本が、ヨーロッパに入ります。 そしてルネッサンスが起こり、そして再びヘブル語の聖書、そしてギリシャ語の聖書の編纂が15世紀、16世紀に始まって行く、というのは―― その写本がアレキサンドリアから流れたからなんですね、ヨーロッパに。
そうしますと、散らされた民がプトレマイオス王朝のアレキサンドリアにいたということは、ものすごくキリスト教にとっては、神さまの計らいだった。 彼らは「遠く離れた地で、やがて神さまのことを思い出し」(***ゼカリヤ10:9)、多くの苦悩を撃破して、アレキサンドリアに多くの教会を造っていくんです。 「神の国へと帰って来る」(***同)わけですね。 (このゼカリヤ書が実現しているといっても過言ではないでしょう。)
さて、離散したユダヤ人が次に多く住んだのは、4分割されましたギリシャ帝国の北になります、シリアのセレウコス王朝です。 これは高校生の皆さんが一番良く知っておられるんじゃないかと思いますが、 このセレウコス王朝に、アンティオキアの教会がありました。 この教会がやがてキリスト教の一大拠点になるんですよね。 使徒の働きを見ますと、このアンティオキア教会でリバイバルが起こる。 そこで奉仕していたバルナバが、リバイバルがあまりにも大きいので、もはや自分の手には負えないということで、 故郷に帰っていたパウロを呼び出して(使徒11:25〜26)、そしてこのリバイバルを指導する。 やがてこの二人はアンティオキア教会から小アジア、そしてギリシャに伝道旅行に送り出されて行く。 つまりローマ教会ができた基本は、エルサレム教会ではない、このアンティオキア教会にあったわけですよ。
すると、キリスト教の二つの拠点(※東方教会と西方教会)というのは、散らされたユダヤの民によって、イスラエルの民によって、神さまの約束が実現することによって築き上げられていきます。 エジプトへ、シリアへと散らされたユダヤ人たちは、あるいはサマリア人たちは「遠く離れて神さまのことを思い出し」(ゼカリヤ10:9)、 そしてイエス・キリストを信じ、「生き延びて神の国へと帰って来る」(同)というのは、 当時のゼカリヤ書を読んだ人々には想像もしなかった。 想像もしない形で、神さまの約束は幾重にも実現していく(アーメン)。
実に滅び失せなかったのは、神の恵みによる(哀歌3:22)んですよね。 そして「神のあわれみは朝ごとに新しい」んです。「神の真実は実に偉大」なんです(哀歌3:22〜23)けれども、 それは私たちの想像を超えて、幾絵にも実現して今日の私たちがあるんです。 そこに希望を抱く私たちは、苦難の海を渡りきるんですよ。 その海の波を撃破して(ゼカリヤ10:11)、私たちは帰って来る。 その間いつも、12節にありますように、「わたしは【主】にあって彼らを力づける」という「わたし」は、キリストでしょうね。 キリストは父なる神にあって、私たちをいつも力づけてくださる。 「彼らは(わたしたちは)主の名によって歩き続ける。」(ゼカリヤ10:12)
ですから、コロナに負けるな、ですよね(笑)。 世界中の神の民よ。コロナに負けるな。人生の荒波に負けるな。 イエスさまは私たちを力づけてくださいます。 ですから私たちは海の波をも撃破して、歩き続ける。信仰生涯の道のりを歩き続ける。 そしてやがて天の御国へとたどり着くというメッセージは、実に不思議に実現していくと思います。
☆お祈りをして終わりにいたします。――藤本牧師
12わたしは主にあって彼らを力づける。彼らは主の名によって歩き続ける。 11彼らは苦難の海を渡る。海では波を打ち破り、…… (ゼカリヤ10章12節前半、11節前半)
恵み深い天の父なる神さま、旧約の民もまた新約の民も、人生様々な場面で散らされるような体験をいたします。愚かにも時にあなたの真実を忘れて、しかし「遠く離れて神の恵みを思い出し、その子らとともに生き延びて帰って来る」(ゼカリヤ10:9)というこのメッセージ。それが不思議な形で実現する。それが日々の苦労の中で必ず実現していくという、あなたの真実。
あなたの真実は偉大ではありますけれども、それは単純に見えるものではなく、信仰と希望を持ち続ける者に見えて来る、あなたの不思議な摂理であるということを、私たちにどうか教えてください。もし私たちが気落ちしていましたら、もし私たちが疲れていましたならば、もし私たちが焦りを感じていましたならば、「あなたの約束は、あなたの真実は必ず実現していく」という、この信仰に立つことができるように私たちを励ましてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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