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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/28 戸塚伝道師:「不信仰な私の信仰」 マルコ9:14〜24
☆聖書箇所  マルコ9:14〜24 
  14さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。
15群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。
16イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。
17すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。
18その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」
19イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
20そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
21イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
22霊は息子を殺そうとして、何度も日の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
23イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
24するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

☆説教――戸塚伝道師       不信仰な私の信仰

皆さんおはようございます。高津教会の礼拝、共に捧げることができる恵みを心から感謝したいと思います。
今日でオンラインの礼拝、19回目です。もうすっかりオンラインの礼拝には慣れたことでしょうか?それとも、まだまだこの礼拝はちょっと、なかなか慣れないな、という状況でしょうか?
教会に来るよりは気軽かもしれません。だけれども、一生懸命小さい画面に向かって賛美しながら、お話を聞くということは、なかなか集中力が途切れ易くなるんじゃないだろうか? そんな気がいたします。
なるべく説教短くいたしますので、今日もよろしくお願いいたします。

それから、今朝も9時30分から、毎週のようにオンラインの教会学校が開かれている、ということも感謝です。今日の朝の教会学校に参加された子どもたちもいると思うんですけれども、(※カメラに大きく向き直って語りかける戸塚伝道師)。
皆さん、お元気ですか?ほんとに皆さんにお会いしたいです。だいぶ背も伸びて、久しぶりに会った時に「ああ、こんなに皆大きくなったんだ」――そんな感じで会うのかもしれませんね。早く会いたいです。
教会での教会学校が一日でも早く始まる日を祈り待ち望みたいと思います。
  
今日はマルコの福音書の第9章の14節〜24節、ここから共にみことばから恵みを味わいたいと思うんですけれども、今日お読みいただきました記事の中から、お父さんの言葉に注目したいと思うんです。
そのお父さんの発した言葉が24節に書かれているんですけれども、この言葉に今朝着目したいと思います。24節お読みいたします。

24するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

「信じます。不信仰な私をお助けください」――今朝はこのお父さんの心からの叫びから、『不信仰な私の信仰』と題して、お恵みを共に分かち合いたいと思います。
3つの視点でみことばを見ていきますが、先ず一つ目――

1)父親の不信仰

「不信仰な私をお助けください」と叫ばざるを得なかった父親の不信仰。
この「不信仰だ」と自分が実感した、そのきっかけは、その一つ前の節にあるイエスさまの言葉にあります。
「できるなら、と言うのですか」――この言葉です。
「できるなら、と言うのですか、お父さん」――なぜ「できるなら」と言ってしまったのか?
それが、(マルコ9章)22節に書かれていますね—―「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
お父さんは「おできになるなら」という言葉を発してしまったがために、
イエスさまは、そのお父さんの言葉に対して「できるなら、と言うんですか?」
そういう風に言われたお父さんは、
「ああ、不信仰な私をお助けください」という言葉をイエスさまに言わざるを得なかった。

この父親の不信仰、「自分は不信仰なんだ。『できるなら、と言うのですか』と言われなければならないような、そういう者なんだ。」
「おできになるなら、どうぞイエスさま」と思わず言ってしまった、そういう不信仰の原因となったものは一体何だったのだろうか?
そのことを想像してみたいと思います。ま、3つぐらいあるのかなぁと思うんですけれども—―

@「おできになるなら」と言わざるを得なかった、このお父さんの言葉、
それは、出端(出ばな)が挫かれたということが一つの原因にあると思うんですね。

自分の息子が口をきかなくさせる霊に取りつかれてしまっている。
でもイエスさまというお方がいらっしゃって、《悪霊を追い出してくださる》というわざを行っている。
そういうイエスさまの噂を聞いて、このお父さんは自分の息子をイエスさまのところに連れて行くわけです。
でもイエスさまはいらっしゃらなかった。留守だった。
その理由は聖書に書いてありますね(***マルコ9:2)。
変貌山に弟子たち三人連れて出掛けていたわけです。
ですからイエスさまはいらっしゃらなかった。
その代わりにイエスさまのお弟子さんたちがいた。

お弟子さんたちに、父親はお願いするわけですよ。
「どうぞ息子の霊を追い出してください。あなたイエスさまのお弟子さんでしょう?」と。
でもお弟子さんにも、その霊を追い出すことはできなかった。
その理由は何か?
それはマタイの福音書の17章の19節〜20節を読みますと、その弟子たちが追い出せなかった理由が書かれているんですけれども、
「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったんですか」と弟子たちがイエスさまに問うた時に、
「あなたがたの信仰が薄いからです」と、イエスさまは弟子たちに向かって言うわけですね。
信仰が薄いために、弟子たちに霊を追い出すことができなかった。

で、この後でイエスさまは、この父親も含め群衆たちの不信仰を嘆かれています。
マルコの福音書9章の19節に――

19イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。……」

イエスさまは、(人々の)不信仰を嘆かれるわけですね。
野次馬のような群衆は、大勢の群衆は、この父親の味方となって、無能な弟子たちを恐らく批判したと思うんです。
「おまえたち、イエスの弟子だろう。なんで追い出せなかったんだ!」
そこに律法学者たちが割り込んで来て、論じ合いになって、もうどうにもならないような混乱状態になっていた。
その時に、イエスさまと三人の弟子たちが変貌山から降りて来た。
という所から今日の記事が始まるわけです。

Aああ、弟子たちにも追い出せなかったんだ、というその状況を見て、
お父さんは思わず、「おできになるなら」という言葉を発してしまった。
あるいは、厳しい現実を目の当たりにし続け、諦めてしまい、疲れ果ててしまったから、お父さんはこのように言ったのかもしれません。
イエスさまは父親に質問していますね。9章の21節を見ますと、

21イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」……

恐らくイエスさまは、とっくにご存じだと思うんですね。
それなのに、あえてこの質問をこの父親に投げかけるわけですよ。
「このようなことが起こるようになってから、どれくらい経ちますか?」
そうすると、父親は返事をするんですね。「幼い時からです。」
幼い時――どれ位の年齢だったでしょうねぇ、2〜3歳でしょうか?
今この息子さん、どれ位の年齢でしょう?
私の想像ですと、10歳か12歳か小学生位の息子なのかなぁ、と私(戸塚伝道師)は想像するんですけれども。
そうしますと、2〜3歳の頃から、10歳〜12歳まで、7〜8年間もずっと長い間、わが子の苦しめられる姿を見続けるわけです。幼い頃からです。

イエスさまの質問に、「幼い頃からです」と返事をしたそのお父さんの心の中に、
過去の様々な辛いシーンが甦って来たんではないかと思うんです。
親としてどうすることもできない無力感、その繰り返しに疲れ果ててしまっているお父さん。
もしかしたらイエスさまでさえ、その霊を追い出すことは無理なのではないだろうか?
そのような諦めと無力感――それで思わず、「おできになるなら」と言ったのかもしれません。

Bさらには、このお父さんは霊の脅威やその現象にこだわり過ぎていたのではないだろうかと思われる節もあるんですね。
お父さんの説明に注目してみますと、例えば9章の17節を見ますと――

17すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。

「口をきけなくする霊につかれた私の息子を……」。それから18節を見ますと――

18その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。……

このように書かれていますね。9章の18節のその後に――

18……それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」

「霊を追い出してください」と言う。9章の22節を見ますと――

22霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。……

この「霊」というものに対して、お父さんはその脅威に、そして霊の働きによって、息子をあまりにも豹変させるような、その現象にこだわって、もしかしたら恐れをなしていたのではないだろうか?
霊を恐れている――その現象に対する動揺。
息子の苦しみをもう直視できない――こんなになってしまう息子――そういうような状況に追い込んでしまう霊の存在。
もう身の毛のよだつような恐怖と不安に駆られて、息子の発作が起こる度に、その霊の存在というものを実感していたのではないだろうか?
わが息子の存在そのものよりも、わが子の苦悩の原因となっている霊に注目が行ってしまっているような状況。
そして何とかしてほしい、という思いでいっぱいの状況ですね。

この「霊に取りつかれる」というのは、日本ではあまりない、あまり見られないような現象ですが、
恐らくこの症状を見ますと、てんかんのような症状なのかな?そう思うんですけれども、
てんかんが原因でこのような症状が出ていたとは聖書は書いてないですね。
口をきけなくする霊、悪い霊に取りつかれていたということなんです。

かつてインマヌエルのインドの宣教師、蔦田公義(***つだだ・ただし1939〜2015、教団創設者・蔦田二雄の息子)先生という先生がおられました。
もう今は天に帰られていますけれども。
その先生がインドに行くと、「悪霊がうようよしているのがわかる」と仰るんです。
悪霊がうようよしている――どんな状況なのか?
悪霊がうようよしていて、そして霊に取りつかれている人たちって、よく見かけると仰ってました。
日本でこのことを話すと、躓く方もおられるので、公には私(戸塚伝道師)は話していないんですけれども、
でもそういうような霊の働きというのが今でもあるし、
その悪霊をイエス・キリストの御名によって追い出す、というそういう役割をしている人たちも大勢おられる、ということを伺ったことがあるんです。

確かにそういう霊の脅威というもの、そういうものは今でもあるわけですから、
お父さんの思いはいかばかりだっただろうか?
霊の怖さ、霊の脅威、霊の恐怖、息子よりもその霊に注目せざるを得なくなってしまった。
そういう思いから、「もしおできになるなら」「そんなすごい霊の力に打ち勝つことができるなら」どうぞよろしくお願いしますと、
「もしおできになるなら」という言葉を使わざるを得なかった。

ま、様々な理由が考えられると思うんですけれども、お父さんの不信仰、不信仰にならざるを得なかった、その原因を今思い巡らしてみたわけです。

2)イエスさまのメッセージが、そういうお父さんに語られる

「おできになるなら、あなたに霊が追い出せるなら、私たちをあわれんで助けてください」という父親に対して、イエスさまのメッセージが続きます。
それが(マルコ)9章の23節ですね。

23イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなこともできるのです。」

「できるなら、と言うのですか」――このイエスさまの言葉のニュアンスを見ますと、
これは一概に父親をイエスさまは責めてはおられないと思うんですが、
イエスさまというお方はどこまでも愛なるお方です。
父親の「もし、おできになるなら」というその不信仰な思いを、イエスさまは丸ごと受け止めて、それを受け止めた上で、「できるなら、と言うのですか、お父さん」と、そういう風にイエスさまが語っておられるのではないかと思うんですね。

「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」という、このお言葉なんですけれども、私(戸塚伝道師)は今まで読み流していました。
でも、何度も何度もこの状況を思い巡らしながら、このイエスさまのお言葉を読んでみますと、大切なメッセージが伝わって来るのが分かりました。

イエスさまは「できるなら、と言うのですか?わたしは霊を追い出すことはできるのですよ」とは言われませんでした。
「できるなら、と言うのですか?わたしにはどんなこともできるのですよ」とも言われませんでした。
「できるなら、と言うのですか?わたしを信じる者には、霊を追い出すことができるんですよ」とも言われませんでした。
「できるなら、と言うのですか?わたしを信じる者は、どんなことでもできるのです」そういう風にも仰らなかった。

なんて仰ったか?
「できるなら、と言うのですか?信じる者には、どんなことでもできるのです」とイエスさまは仰った。
「信じる者には、どんなことでもできるのですよ。」
「この信じる者には」っていうことは、お父さんに向かってイエスさまは仰ってるわけですから、
「お父さん、あなたには、どんなことでもできるのですよ。お父さん、信じる者にはどんなことでもできるんですよ」
イエスさまはお父さんに期待しておられる。
そういう意味で、「信じる者には、どんなことでもできるのですよ」とイエスさまが仰っているのではないかと思うんです。
お父さんに向かって、「信じる者には、どんなことでもできるのです」ということは、
「お父さん、あなたが信じるならば、お父さんは、どんなことでもできるのですよ」ということをイエスさまは言いたかったのではないかと思います。

では、この父親は信じる者ではなかったのでしょうか?
そうではないですね。お父さんは立派にイエスさまのことを信じていました。
父親は信じる者でした。どういう意味で信じていたかと言うと、
「イエスさまなら、息子を悪霊から解放してくださるお方なんだ。霊を追い出す力をイエスさまは持っておられるお方なんだ」
そういうことを、父親は信じていた。そういう意味で父親は信じる者だった。
だから父親はイエスさまに期待して、イエスさまの“追っ駆け”にまでなって、
群衆と共に息子をイエスさまのところに連れて行ったわけですね。

それでは、イエスさまがお父さんに期待している「信じる者」と言われた、この「信じる」とは何のことでしょうか?
それは、「お父さん、あなたはこの子の父親ですね。この子の父親でしょう?」――そのことを信じるということではないかと思うんです。
さらに言うならば、「神さまが自分をこの子の父親として召されたこと」を信じる信仰ではないかと思います(アーメン)。
このことを暗示しているのがこの「信じる者」ではないか。
「わたしは、お父さん、この子をあなたに託したのですよ。そのことを信じていますか?」

わが家に「子どもが生まれる」という、そういう言い方しますね。
「子どもが生まれる」――色々な表現があると思いますが、例えば「子どもが授かる」という言い方があるでしょう。
あるいは、「自分はこの子の親になる」。
私(戸塚伝道師)の知人が、お父さんになった時、子どもが生まれた時、私にこんな感想を漏らしたことがありました。
「人生に革命が起こった。この子が生まれたってことは、俺の人生に革命が起こったようなことだった。」
ああ、父親になるって、そんなすごいことなのか!私は当事者ではないのでわからないんですけれども、そんなすごいことなんですか?(笑)
人生に革命が起こる程、自分はこの子の父親になるんだというような思いって、そんな強い思い、厳粛な思いなのかな――そういう風に想像いたしました。

キリスト者はよくこういう言葉を使いますね。
「わが家に子どもが与えられた。神さまによって、子どもが与えられた。」
しかし、キリスト者でもほとんど使わない表現というのがあります。
それは、「神さまが私をこの子の親になるように召してくださった」ということです。
親になるということは、召命なんだ。神さまから召されることなんだ。
母親でも父親でも、親になるということは神さまからの召命という霊的なものなんだ。
その信仰で息子に向き合う父親の手の中には、神さまにある可能性が与えられている。
イエスさまが「どんなことでもできる」と仰ったこの言葉の中に、この可能性を込めて仰ったのではないだろうか?(アーメン)。
「信じる者には、お父さん、どんなことでもできますよ。この息子さんのために、お父さん、信じる者にはどんなことでもできますよ」と、
そういう思いを込めて、イエスさまはお父さんに言われたのではないかと思いますね。

この時の父親に対するイエスさまの思いを、想像してみたいと思います。
もしかしたらイエスさまは、お父さんに対してこんな風に思っておられたのではないだろうか?
「お父さん、息子さん、色々ありましたねぇ。長い間、大変でしたねぇ。
でももう大丈夫ですよ。
霊の仕業を恐れたり、その現象に縛られたりする必要はありません。
わたしがあなたをこの子の父親として召したのです。
息子さんのこれからは、わたしが責任を持ちますよ。
息子さんのために、父親としてどんなことでもしてあげたいと思うでしょう。
できますよ。お父さん、大丈夫ですよ。
そのために必要な恵みは、すでに十分備えられていますから。
お父さん、息子さんはあなた次第ですよ。」

このような思いを込めて、イエスさまは父親に言われるわけですよ。
「できるなら、と言うのですか、お父さん。
いいですか、お父さん、あなたに言いますよ。
信じる者には、お父さん、あなたにどんなことでもできるのですよ。」

3)父親の応答

それは「私をお助けください」という父親の叫びとなって現れました。
24節ご覧いただきますと、

24するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

「信じます。不信仰な私をお助けください。」
まるで自分を奮い立たせるかのように、「信じます」という言葉をすぐに、即、イエスさまに対して申し上げたわけです。
「信じます。不信仰な私をお助けください」――この「私をお助けください」と叫ぶ父親。

「私をお助けください。」
ところが、同じ父親が(マルコ)9章の22節には、違う言葉を使っていることが分かります。

22霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」

ここに、「私たち」という複数になっているわけです。
その複数の中身は、野次馬のような群衆と、解決できない弟子たちと、議論を吹っ掛ける律法学者たちと、霊につかれた息子と、霊を追い出すイエスさまに期待している父親――それ全部含めて私たち。
父親にしてみれば、自分の存在というのは、大勢の中の一員に過ぎなかった。
(マルコ)9章の17節を見ますと――「すると群衆の一人が答えた。……」
この群衆の一人って誰かと思いました。読んでみますと――

17すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。

なんだ、この「群衆の一人」ってお父さんのことだったんだ。お父さんのことだ。
まるで他人事のような、(22節の)私たち。
20節を見ますと――「そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た」とあります。
お父さんがイエスさまのところに連れて来たんじゃなくて、その周りにいる沢山の人たちがイエスさまのところに連れていくわけですね。
お父さん、その後からついて行ったんでしょうかねぇ?まるで他人事のような感じ。
「私たちをあわれんで助けてください。おできになるなら。」

でもここでは違います。
「信じます。不信仰な私をお助けください。(※力を込めて)私を、私をお助けください。」(24節)
しかも、(22節の)「あわれんで」という言葉はもう使っていませんね。
「私たちをあわれんでお助けください」と前は言っていたのに、もう「憐れんで」なんて言葉を使っていません。
自分に対する憐れみは十分注がれている、ということをお父さんは腹の底から実感していたからでしょう。
「不信仰なこの私を、お助けください」――父親が自分の問題として、息子の問題を自分の問題として認識させられた瞬間でした。
「イエスさま、わかりました。イエスさま、わかりました。
神さまによって召された私の手の中に、この子に必要な恵みの鍵が与えられているんですね。気づきませんでした。
でも今、信じます。こんな私をイエスさま、お助けください」という告白です。

この後、今日読みませんでしたけれども、25節からずっとイエスさまによる悪霊追い出しの記事が続くわけですけれども、
まるで付け足しのみわざであるかのように、あっけなくイエスさまによって、息子についた霊はすんなりと追い出されるわけですね。
息子も父親も、長い間の苦しみから解放されるわけです。

でも大切なのは、その後です。それは聖書には書かれていない。
でも、少なくても父親にはイエスさまが息子から霊を追い出してくださるんだという信仰は必要なくなりました。もう霊は追い出されちゃったわけですから。

そうなると、この後どういう信仰で息子と向き合ったらいいのか?
それは、この子の父親として、信じる者にはどんなことでもできる、というそういう信仰で息子と向き合っていく訳ですね。
神さまを仰ぎ、息子と向き合い、そしてこの後、反抗期や、自立の葛藤や、恐らく色んな所を息子さんは通され、親は悩み、色々なことがあると思います。
でもそのような状況の中でも、神さまの恵みをいただいて、親も子も共に成長していったのではないだろうか?――私(戸塚伝道師)はそのように思います。

さらに言えば、ここまで思い巡らしてきたことは、これは父親の息子への向き合い方、親子関係、それだけの問題ではないと思います。
私たちの目の前の様々な課題、途方に暮れてしまうような、目を背けてしまいたくなるような、逃げ出したい気分になるような、真正面から取り組む気力さえ失くしてしまうような、そういう自分を嫌という程見せつけられながら、
そういう自分に対して、イエスさまは――「信じる者には、どんなことでもできるのですよ」――そのように語っておられるのではないかと思います。

「信じる者には、できるんです」――はっきりとイエスさまは宣言されました。
「あなた次第ですよ。あなた次第です。
信じる者には、どんなことでもできるんですよね。でもあなた次第」
と、イエスさまからもし言われたとしても、それだけでは不安ですよね。
でも、不信仰な私を助けてくださる、イエスさまにすがる私次第だとするならば、
(ちょっとややっこしいですね、もう一度もうしあげますね、と繰り返される)まさに「どんなこともできる」と思える心の姿勢が与えられるのではないでしょうか?

2020年上半期、気がついてみたらもう明後日で終わりです。
あっという間の半年間でした、2020年。
振り返ればこの半年間、新型コロナウィルスの感染拡大に、まさに振り回されるような日々でした。
「これはイエスさまにお祈りしても無理かなぁ。おできになるならば、イエスさま、おできになるならば……」と父親と同じように、「おできになるならば」と私も何度もイエスさまに「これはちょっと厳しいんですよ〜」と何か申し上げなきゃならないようなことがいっぱいあった。そう実感させられるような、そういう毎日であったことを、振り返って思うんですね。

無理かなぁ?イエスさま、これは無理かなぁ?感染しないだろうか、自分は?仕事はどうなるんだろうか?学校はどうなるんだろうか?家庭は、家族は、そして教会は、高津教会はどうなるんだろうか?
さらには自分の信仰は、どうなるんだろうか?
礼拝に共に集い、そして神さまの恵みを受けることのできない状況が、こんなに長い間続いてしまっている。私の信仰はどうなるんだろうか?
様々な不安、様々な思い煩い、恐れ、戸惑い、色々なものを感じさせられた半年間ではなかったかと思います。
でもイエスさまが仰いました。
「信じる者になりなさい。信じる者には、どんなことでもできますよ。
ピンチはチャンスですよ。すべては益と変わりますよ。
どんなことでもできるんですよ。」
勿論この「どんなことでもできる」というのは、100%の全能感、有能感、万能感ではないと思います。
でもイエスさまは、そう仰らざるを得ない位に私たちを励ましたくてたまらない、恵みの言葉ですね。
「どんなことでもできるんですよ。信じるならば。
その鍵をあなたは握っているんですよ。
その恵みは十分備えられているんですよ。
わたしはそういう恵みをあなたのためにもう準備していますよ。」
なんと心強いお言葉でしょうか!

これから先、どうなるんだろうか?人には言えないような様々な問題を抱えておられる方も沢山おられるに違いありません。
目に見える大変な現状に縛られて、信仰を働かせるような余裕もないかも知れない。
それでも私たちはこの朝、このイエスさまの言葉に励まされて、信じる者にさせていただきたいと思う。
私の手の中に恵みの可能性は既に備えられているんですね。
この朝もう一度「信じる者には、どんなことでもできる」というイエスさまを仰ぎ見たいと思います。
「信じます。不信仰な私をお助けください。」

☆お祈りいたします――戸塚伝道師
イエスさま、どうにもならない深刻な状況を目の前にした時、「おできになるなら」と父親のように、私もあなたに申し上げてしまうかもしれません。でもあなたは「信じる者には、どんなことでもできる」と宣言されました。イエスさま、信じます。不信仰な私をもお助けください。どのような中に置かれても、あなたに召された者として、既に私の手の中に備えられている恵みの可能性に期待して、希望をもって様々な課題に向き合い、取り組む力を与えてください。今週も、また2020年の下半期も守り導いてくださいますように。愛するイエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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