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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/1献児式・防災の日「恵みの備え」 マタイ25:1〜13
☆聖書箇所      マタイ25:1〜13

1そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
2そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
3愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
4賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
5花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
6ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
7娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
8ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
9しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
10そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
11そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
12しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
13だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

☆説教     恵みの備え

今日はモーセの生涯を少し中断いたしまして、マタイの福音書の25章を開いていただきました。
25章を開いていただいた理由は、非常に単純で、今日様々な備蓄、震災に対する備え、そして、私たちの自分の終わりの日にキリストに備えるという意味で、25章を開きました。

(防災の日である今日は)、関東大震災から90年と、先ほど光楽(みつら)兄がおっしゃっておりましたけれども、仮にその間に2011年の東日本大震災がなかったとしたら、仮にその間に2001年の阪神淡路大震災がなかったとしたら、大した危機感もなく、私たちは90年前の関東大震災も意識することもなく、漫然と防災の日を過ごしていたのかもしれません。

時間の隔たりとは強烈ですよね。プレートが動いての大地震は、何百年に一回、必ず起きると言うよりも、私(藤本牧師)も『日本の大地震』というのをネットで調べてみましたけれども、ず〜っとこう書いてありますね。

関東大震災を起こした相模トラフは何回も動いていますね。
でも百年単位で動きますから、私たちは所詮あまり意識しないのだろうと思います。
でも百年に一度であったとしても、危機感は失ってはならない。

私(藤本牧師)はニュースを見ておりましたら、緊急車両を通すために、首都高速は昔は24時間で緊急車両が通れるまでにすると(言っていたのが)、今ではそれが3日に変わりましたね。
何とか3日経てば、倒れている車を退けて、穴が開いている部分を補強して、ずれを直して、そうして緊急車両が通れるようにする。それが3日ですよ。

南海トラフの犠牲者は予想で32万人となりました。南海トラフの犠牲者がそうじゃなくしたならば、関東周辺のプレート型の大地震であるならば、もしかしたらその数は、その二倍になるんじゃないかと(予想される)。

川崎の駅が海抜2メートルだと、昨日光楽(みつら)兄から教えていただきました。海抜2メートルですよ。へぇ〜そんなに低いんだ。この辺はわずか13メートル。津波があれば、恐らく中原あたりで止まるだろう。
じゃ中原から向こうにある高津教会員のご自宅は(笑)どうなるのだろうと思いますし、いろんなことが考えられる中、最小限の、そして今日いっしょに学びます最大限の備えをしなきゃいけない。
最大限の備えとは、キリストの恵みの備えがそうなのです。

いっしょに見ていただきたいと思います。
緊張感のない中に眠ってしまったというのが、今日の主題です。
マタイの福音書の25章を見ていただきます。
イエスさまは十字架を前にして、復活後天に上り、それから再び地上に来るその終わりの時まで、イエスさまを信じる者たちがどう生きるべきか、そのことに随分詳しく教えておられました。

24章でこの世の終りの時について話が出ます。ところがその時がいつであるかは隠されているというのですね。
この世の終りも、私たちの人生の終わりも、それがいつ来るのかは、人の目からは隠されている。
(マタイ)24章37節をちょっと見てください。こういう表現です。

24:37人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
38洪水の前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
39そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

(人の子が来る、つまり終わりの日は)わからないように来る。
そして24章(45〜51節)、こういう表現が出て来ます。
主人がしもべに全財産を預けて旅に出る。ところがしもべは48節(から)ご覧になってください。

48ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、
49その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、
50そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。

思いがけない日の思わぬ時間に、帰って来る。そして、大変なことになるという話です。

イエスさまは一貫して一つのことを教えてくださいました。
24章の42節、「だから目をさましていなさい。」
44節に、「だから、あなたがたも用心していなさい。」
同じことばが実は、25章の13節にも出て来ます。「だから、目をさましていなさい。」
ここがポイントです。

ところが、今日ご一緒に見ていただく十人の乙女はみな寝ているのです。いいですか。「用心しなさい」ということばもあれば、「目をさましていなさい」という繰り返しのことばがあるにもかかわらず、今日出て来たたとえ話の十人の乙女たちはみな寝ています。

1)たとえの全体像

25章の1節に飛びますが、

25:1天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

(1〜13節で)たとえの全体像を一緒に読んでみました。

当時のユダヤの結婚式は夕方に始まります。今もそうかもしれません。夕方に始まる結婚式は日本でも沢山ありますよね。
花嫁の家が婚礼の宴を主宰し、そして結婚式の始めと同時に花婿が到着して、結婚式とお祝いが始まるというセッティングですね。

十人の娘たちが、それぞれともしびを焚いて、花婿の到着を待っていた。
ところが到着が遅れて、25章の5節を見てください。

5花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

花婿がやって来たのは夜中でした。
「そら、花婿だ。出迎えよ」と言う叫びとともに、十人の娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えます。
ところが、愚かな娘たちは油を切らしていたという話ですね。

慌てて、愚かな娘たちは油を買いに行きますけれども、その間に花婿が帰って来て、彼女たちは締め出されます。
(油を買って)戻って来た時に、一生懸命訴えます。何とか(祝宴の戸を)開けて欲しいと。
すると12節にありますように、

12しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。

つまり、入れてもらえなかったというのが、まず一番目、たとえの全体像です。

2番目、3番目と二つのポイントで、簡単に学んでみたいと思います。

2)花婿は遅れるということ――主の日の予測、判断はつかない。

遅れるということばは正しくないと思います。
人の人生がいつ終わるのか、地震がいつやって来るのか、キリストの再臨がいつなのか、その予測、判断はつかない。

このマタイの福音書が記されたのは紀元1世紀の後半です。1世紀の後半というのは、イエスさまが天に召されてからわずか数十年という時期ですね。
その時すでにこのように、花婿の到着が遅れているという意識があったということです。
人々はもっと早いと思っていた。でも十数年でもう待ちきれないというぐらい遅くなっていた。
主は必ず来られると仰った。その時私たちの救いが完成するとみな信じていた。しかしイエスはなかなか来られない。

それは、その後2000年という歳月だとしたら、どういう感覚でしょうか?
いつになったらイエスは来られるのか?
もしかしたら、もうイエスは来られないかもしれない。
そもそももう一度来られるという約束は間違いだったかもしれない。
さらにですよ、イエスさまが救い主であり、この世界は主の支配の中で完成される、終わりを迎えるということ自体が、作り話だったかもしれない――そういう思いも生まれるものです。

ペテロの手紙第Uをちょっと見ていただきましょう。
新約のずっと後に書かれた書物ですが、すでにそういう雰囲気が確かにこの時期にありました。
Uペテロの3章の8節と9節、8節を私が読みますので皆さんで9節を読んでください。

3:8しかし愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

10節、ごいっしょに。

3:10しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

ある人は遅いと思っている。でも神さまの感覚を考えてご覧。
神さまにとって、私たちの一日は千年のようであり、私たちの千年は(神さまには)一日のようだと(3:8***ペテロは詩篇90:4を思い出しているのでしょうか。T・Y)。
神さまは人間の時間を越えておられる。

しかもですね。私たちが遅れていると思っている理由がある。――それはあなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、その最後の時を一日でも延ばすことによって、ひとりでも滅びることのないように、主は救いの扉を開いて待っておられるのだと、でも必ず私たちの人生にも、この世界にも、終わりはやって来る(とペテロは言っているのです)。

花婿はいつ来るか、所詮私たちには、予想も判断もつかないというのが、一つのポイント。2番目(のポイントは)、――

3)そうした時に、私たちの心の中には、今来るかというその緊迫した思いから、まぁしばらくすれば来るかなとか、いやもう待ちくたびれた、いやもう来ないかも知れないという思いがだんだん生まれて来るのです。

愚かですね。私(藤本牧師)こんなことを言うと、友達の伊藤正泰(いとう・まさやす)先生に申し訳ないのですが、明日胃カメラと大腸がん(の検査を)一緒にやってしまおうと思ったのは、2週間前に京都伏見教会の伊藤正泰先生が大腸がんで入院されたからです。
手術の結果腫瘍サイズが10センチですよ。まぁ検査を受けておられなかったということが大きなポイントですね。

私、近くの高山クリニックに行って、高山クリニックでは「藤本さん、随分間が空きましたね。前回から2年半です」と言われました。
あ、2年半というのは、八木先生が大腸がんになったときだ(笑)。
私は人の苦しみで慌てて病院に電話して、行くような何と意識のない、情けのない人間であるなぁということに改めて気が付きました。
でもせめて私がそう言ったのであれば、皆さんもそう思っていただいて、別に高山でなくてもいいですから、どこでも掛かりつけ(の医者の検診)に、まぁ2年に一回はお受けになった方がいいのではないかあぁと思いますけれども……。

花婿が遅れる、あるいは予想がつかない、待ちくたびれた、という中で、必ずみんな寝ます。
十人の乙女の中で、賢い乙女一人だけが起きていたとは書いてない。そうですよね。5節をご覧ください。

5花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

ということは、十人いた乙女のうち十人が全員寝たということですよね。
私たちは肉体的に考えるならば、いつでも目を覚ましていることはできないです。
肉体的にも信仰的にもそうで、みんな、うとうとしていく。
もちろん花婿がいつ到着するのかわからない中で、目を覚まして待っている、眠り込んでしまわない、ちゃんと備えていることが私たちに求められていることは確かです。
そういう人がいればいいと思います。でも人間は弱〜い者なのです。
肉体的に、ず〜と眠らずに起きているということは不可能です。
同じように信仰においても、眠り込んでしまうこと、目覚めていられなくなってしまうことが絶対に起こるのです。

イエスさまの再臨がなかなか起こらない。終りが来る気配がない。地震が来ることはないかもしれない――そういう前提の中で、だんだん私たちの心から緊迫感というのが薄れていくのです。
その眠りの間に、主イエスの到来を待つ信仰のともし火が消えていく。

これは私たちが信仰者となり、ある年月を経ていく中で、誰もが体験すものです。
誰もが洗礼を受ける時には、自分は神さまを信じる者となるのだとみんな決意します。そしてすっごく新鮮な気持ちで洗礼に臨みます。
小さな子どもでもそうです。そして信仰の中に喜びがあります。

でもそのようにして信仰者となって何年も時を経ていく中で、その最初の思いがずっと持続していくものではないということは、私たちみ〜んな知っていますよね。
信仰者になったという新鮮な思いは一時のものであって、次第にそのことに慣れ、新鮮さは失われ、振り返ってみれば、あぁ自分の信仰生活にもそういう場面はあった。

時にそれは、信仰が身について行き、礼拝を守り、教会の一員となって生活するのが自然になってしまった、であるが故に、当たり前となってマンネリ化してしまったということで、ま、立派なクリスチャンとして成長したが故に、その緊張感、新鮮さが失われたという場合もあるでしょう。
それがイエスさまのたとえで言うならば、待ちくたびれて緊張感も失って寝てしまった十人の娘たちということになるわけです。

もう一度申し上げますと、主のたとえ話の中で、待っている間に緊張感が薄れて眠り込んでしまう私たちというのは、ある意味、それで良しと言わんばかりに前提とされている。

十人の娘はやがて賢い者と愚かな者に分かれます。
でも十人が十人全員寝てしまったという事実は確かなのです。
イエスさまの教えの中で、「目を覚ましていなさい」「用心していなさい」と言われながら、このたとえにおいては、みんながみんな寝てしまった。
なぜみんな寝てしまったのに、賢い者と愚かな者とに分かれてしまったのか?
その違いは、予備の油を持っているかどうかでした。

昔から、この予備の油って、何を意味しているのか、議論されて来ました。
たとえば、予備の油――自分の人生の最後に、キリストの再臨に万全に備えていることだ――それは間違っていますよ。
万全に備えているならば、眠り込んだりしないでしょうから。

予備の油を持っていても眠り込んでしまった。でも起きた時にその予備の油が役に立ったという、その予備の油は、普段の信仰をもって、絶えざる祈りをもって、いつも信仰の目を覚ましている、私たちのことではない。
私たちはみ〜んなどこかで、祈りは弱く、そして信仰の歩みが途切れ、どこかでぽつっと教会に行かない時期もあるに違いない。

では予備の油っていったい何なのか?
信仰のともしびを燃やし続けることが予備の油ではないです。もし、そうやって解釈してしまうと、所詮眠らないで目を覚ましていない限り、天の御国に入ることはできない。
そうではなく、もし眠ってしまう私たちを助ける予備の油があるとしたら、それはそのように眠ってしまう私たちをも赦してくださる、キリストの憐れみ以外にない。十字架の恵み以外にないです。

つまり予備の油というのは、自分で何か蓄えておくものではない自分で何か蓄えておいても、必ず私たちは眠るのです。
すると、予備の油というのは、私たちの外から来なければいけない。神学的に言えばですよ。

眠っている者でさえ、いざというときに助けてくれるもの(この予備の油)とは何か?
眠っていた私が、すがることのできる十字架の恵み、ですね。
つまり、眠っていたからもう十字架の恵みにすがる資格はないと言ったら、終わりです。
私たちが心の隅にいつも置いておかなければいけないことは、どんなに眠っていても、どんなにまどろんでいたとしても、いつでも、それでもすがることができる十字架というものです。
それを、きちっとたましいの底に置いておくことです。

それでもすがることができる。
こんなに弱く、こんなにまどろみがちな私でも、キリストは私をお捨てになっておられない。
私は主の十字架に備えることができる。この予備の油なしに、いかなる備えもむなしい。いかなる備えも間に合わない。

ま、作り話だと思いますけれども、ある町の教会の牧師のところに、――ノルウェーの話なのですけれども――ノルウェーの王宮から電話があって、今朝あなたの教会に王様が聴衆として出席されるというもので、警備の者たちも行くけれどもよろしくお願いしますと。

それで牧師は用意していた原稿を大幅に変えて、ノルウェーの王様はどれほど信仰的で、私たちの国は王の信仰によって支えられていると、王を賛美する説教をとうとうとしたのです。
(牧師には)わずかの期待がありまして、王様は帰ったら何かお土産を、プレゼントを王宮から送ってくれるだろうと。

さもありなん、一週間後に、小さな箱が届いた。箱を開けてみると木の十字架が入っていた。牧師は思いました。
<なんだ、十字架か。十字架だけなら、この教会に腐るほどある>
十字架の下に一通の手紙が入っていて、その手紙は王様のシールで留めてありました。王様のことばは、
「あなたが講壇で説教すべき、王の王であるイエス・キリストの十字架が、あなたの教会を見渡した時に、講壇から正面の壁には十字架がなかった。
そこにこの十字架を置いて、自分はもっぱらイエス・キリストの十字架を説教するということを心に刻んだらどうでしょう」という(手紙であった)。

私の目の前にあるのは時計です(笑)。そろそろ……。
皆さんの目の前にあるのは十字架です。私たちの教会は、私たちの家庭は、震災に向けてできる限りの準備をする教会でありたいと思っています。それはある意味、誇らしげに。
光楽兄が(先ほど)おっしゃいました。いざという時には、よきサマリヤ人になれるような家庭であり、なれるような教会でありたいと思います。

しかし、それは最小の備えで、最大の備えはいったい何か?
どんな時にもイエス・キリストの十字架にすがることができる、そのこと(十字架の恵み)をしっかりと心の、たましいの奥底に刻んでおくこと。
どこからでも、どんな時でも、キリストの十字架にすがれるということを忘れないようにしたいと思います。
(信仰的にまどろんでしまう私たちのために、十字架にかかられたキリストを、本当の備えとして、生きていく者でありたいと祈ります)。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、今日の一日を心から感謝いたします。どうか日本の国をお守りください。そんなに大きな地震がやって来たならば、私たちのいのちが奪われるばかりか、この国が滅んでしまう。

でも確かに地震大国どころではない。常に動いていく大きなプレートの交差点に私たちは住んでいることがよくわかりました。どうか知恵を与えて、いつでも最善のことをなすことができるように、そうしたことを皆で意識することができる教会とさせてください。

しかし最大の備えは、あなたの十字架にすがれる者であることを今朝も確認することができました。感謝いたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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