☆聖書箇所 ゼカリヤ11章1〜14節
1 レバノンよ、おまえの門を開け。 火がおまえの杉の木を焼き尽くす。 2 もみの木よ、泣き叫べ。 杉の木は倒れ、見事な木々が荒らされたから。 バシャンの樫の木よ、泣き叫べ。 深い森が倒れたから。 3 牧者たちの嘆きの声がする。 彼らの見事な木々が荒らされたから。 若い獅子の吠える声がする。 ヨルダンの茂みが荒らされたから。
4私の神、【主】はこう言われた。「屠られる羊の群れを飼え。 5これを買った者は、これを屠っても責めを覚えることはなく、これを売る者も、『【主】がほめたたえられるように。私は豊かになった』と言う。その牧者たちは羊をあわれまない。 6それは、わたしがもはや、この地の住民にあわれみをかけないからだ――【主】のことば――。見よ、わたしは、人をそれぞれ隣人の手に、また王の手に渡す。彼らはこの地を打ち砕くが、わたしは彼らの手からこれを救い出さない。」 7私は羊の商人たちのために、屠られる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、もう一本を「結合」と名づけた。こうして私は群れを飼った。 8私は一月のうちに三人の牧者を退けた。私の心は彼らに我慢できなくなり、彼らの心も私を嫌った。 9私は言った。「私はもう、おまえたちを飼わない。死ぬ者は死ね。滅びゆく者は滅びよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい。」 10私は、自分の杖、「慈愛」の杖を取って折った。私が諸国の民すべてと結んだ、私の契約を破棄するためであった。 11その日、それは破棄された。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが【主】のことばであったことを知った。 12私は彼らに言った。「あなたがたの目にかなうなら、私に賃金を払え。もしそうでないなら、やめよ。」すると彼らは、私の賃金として銀三十シェケルを量った。 13【主】は私に言われた。「それを陶器師に投げ与えよ。私が彼らに値積もりされた、尊い価を。」そこで私は銀三十を取り、それを【主】の宮の陶器師に投げ与えた。 14そして私は、「結合」というもう一本の杖を折った。ユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破棄するためであった。
☆説教 ゼカリヤ(13)キリストをどのように値積もりするのか?
聖書には難しい箇所がありますが、私たちは今年の元旦から(ハガイ書、そして)このゼカリヤ書という書物を学んでいますが、今日読んでいただきました11章が実は一番難しいんです。 で、初めていらっしゃったMさんご家族やまた(高校三年生の)Mさんを前にして、この難しい所を一緒に読んでくれと言うのは、私(藤本牧師)はものすごく抵抗があります。 いらっしゃることが分かっていたら、もう少し簡単な聖書の箇所を選ぶことができたと思いますけれども、でも、ものすごく大切な所ですから我慢して付きあっていただき、またスマホ一つで聖書は読めますので、ぜひ何回か読んでいただきたいと思います。
どうしてそんなに大切なのか? それはこのゼカリヤ書の11章に――これから先350年、400年後のイエス・キリストの時代、そしてイエス・キリストを越えて紀元70年に、エルサレムの神殿がローマ帝国によって滅ぼされます。イエス・キリストの時代、イエス・キリストはなぜ当時の宗教家をあれ程批判したのか?――それらすべてがこの11章に含まれています。
ちょっとだけ復習いたします。 ゼカリヤ書というのは1章〜8章までバビロン捕囚に捕られていたイスラエルの人々が帰還し、神殿の土台だけ作り上げ、しかし十数年間それをほっぽらかしにし、自分たちの日常で一生懸命であった。 振り回されていた所に、ゼカリヤという預言者が現れ、神殿を再開させようと。 土台だけできて中途半端でなく、やはり完成させようという所から、今年の元旦の礼拝は始まりました。
私たちの人生もそうです。霊的な土台を作り上げ、しかしいつの間にか日常の必要に捕われ、どこかで自分の人生の理想、自分のたましいのことをほっぽらかしにして、日々の事に熱中してしまう私たちに対する反省――それが1章〜8章でありました。 反省だけでなく、神さまの力づけ、そして「神さまの愛が必ず勝つ」というメッセージをずっと説いて来ました。
(ゼカリヤ)9章からは時代的にその先のことが書かれています。 やがて神殿工事は完成いたします。だからと言って、国際社会は平穏無事ではありませんでした。イスラエルの繁栄が待っていたというわけではなかった。 紀元前332年に、ギリシャのアレキサンダー大王が帝国を作り上げ、世界を支配します。パレスチナ全域を支配いたします。
世界の情勢がどんどんと移り変わって行く中で、神さまはご自身のために特別な目をかけておられるという、 【ユダヤ人の将来は神殿を完成してからも、ギリシャ、ローマと次々に台頭してくる帝国に翻弄されました。】 その場面を(ゼカリヤ)9章、そして10章と見ていただきました。
(ゼカリヤ)9章で注目したみことばは、9章の12節――「望みを持つ捕らわれ人よ。砦に帰れ」ですね。 私たちもまた、様々な望みを持ちながら、やはり捕らわれていきます。「捕らわれ人」です。 この世界に生きている限り、私たちは心配や病や、また日常の様々な出来事に捕らわれないということはあり得ないです。 でもこの心の中に、いつも希望が宿っている。 そして神さまは、私たちを「望みを持つ捕らわれ人」と呼ばれて、そしてご自身の砦に帰って来るように言われます。 9章の13節の最後に、「あなたを勇士の剣のようにする」と。 砦の中で私たちは磨かれ、そして大切にされ、再び「勇士の剣」となって、この世に出て行く。
(ゼカリヤ)10章では学びを二回に分けました。 10章の1節に「【主】に(恵みの)雨を求めよ、後の雨の時に。」 「恵みの雨」というのは、showers of blessingという風に英語では訳されています。 祝福のシャワーを神さまは注いでくださる。 それを神さま以外に求めると、私たちは迷い出る羊のようになる。 そして求める祝福というのは、日常的なものでなく、何よりも聖霊である、という話をいたしました。
(ゼカリヤ)10章の後半からは、前回、神さまがアッシリアによって散らされた北のイスラエルの人々と共に、バビロンに捕囚に捕られた南のユダの人々にも、神さまは忘れずに訪れてくださる。 まき散らされた民が9節――「遠く離れてわたしを思い出し、その子らとともに生き延びて帰って来る。」
初代教会で、キリスト者は散らされた人々と呼ばれていました。 私たちもまた――日本に0.5%ぐらいしかクリスチャンはいませんけれども――日常的にはこの世界に散らされた者たちであります。 しかし私たちはどんなに遠く離れても、「神を思い出し、そしてその子らとともに生き延びて帰って来る。」 生き延びて帰って来る――コロナを生き延びて帰って来てほしいと思うんです。 そしていつものように150名以上の礼拝を、この場所で持つことができたならば感謝であります。
私たちの信仰は弱く、外敵は強く、散らされるようなこともありますけれども、神さまは私たちの所にわざわざ訪れてくださり、励ましてくださり、私たちに神さまのことを思い出させてくださる。 (ゼカリヤ10章)11節に――「彼らは苦難の海を渡る」と書いてあります。 12節の最後に――「彼らは主の名によって歩き続ける。」 どんなに散らされても、生き延びて、苦難の海を渡り切り、いつも主の名によって力づけられて、歩き続ける私たちでありたいと思います。
そして今日は(ゼカリヤ)11章に入ります。 さらに時代は進みます。そして出てきた結果は、よりイエスさまの時代に近い、イスラエルを描いています。 ちょっときちんと見ていきたいと思いますが―― ものすごい厳しい状況へと、旧約聖書の神の民が落ちていくことが実は預言されています。 3つのポイントに分けてお話をいたします。
1)神殿宗教の堕落です。
(ゼカリヤ)11章の1節から読んでいきます。
1 レバノンよ、おまえの門を開け。火がおまえの杉の木を焼き尽くす。 もみの木よ、泣き叫べ。杉の木は倒れ、見事な木々が荒らされたから。 バシャンの樫の木よ、泣き叫べ。深い森が倒れたから。
これは地方の名前ですけれども、レバノンの杉も、バシャンの樫の木も、もみの木も、杉の木も全部、神殿を建設する時に使われた木材です。 これは一般的に、イエスさまが天に召されて約30年後、紀元70年のエルサレムの神殿崩壊を預言していると言われています。 4節を見てください。
4私の神、【主】はこう言われた。「屠られる羊の群れを飼え。 5これを買った者は、これを屠っても責めを覚えることはなく、これを売る者も、『【主】がほめたたえられるように。私は豊かになった』と言う。その牧者たちは羊をあわれまない。
4節の頭の「私」というのは、ゼカリヤです。 神さまがゼカリヤを通してこう言われたと。 「やがて屠られる羊を飼え」というのは、イスラエルの人々です。 【「屠られるための羊」とあるように、エルサレム滅亡に伴い、滅ぼされる運命にある人々です。】 5節の「これを買って手に入れた者」というのは、ローマ帝国です。 「これを売る者」というのは、当時の宗教家の祭司長、律法学者、パリサイ人です。 【これが問題なんです。】 最後の「その牧者たちは羊をあわれまない」というのも、当時の宗教家ですね。
イエスさまはヨハネの福音書の10章でこういう喩えを仰いました。 良き羊飼いと雇人の羊飼いの譬えですね。 「良き羊飼いは羊のためにいのちを捨てる。 しかし雇い人の羊飼いは狼がやって来ると、羊を放り出して、 自分のいのちの大切さのために逃げていく。 実際は羊のことを全く心にかけていない」と仰いました。
イエスさまはご自分を指して「良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」(***ヨハネ10:15)と仰いました。 イエスさまは群衆を見て、「まるで羊飼いのいない羊のようにかわいそうだ」と(***マタイ9:36)。 いったい当時の宗教家は何をしていたんだろうかと思いますね。 羊を飼っていた。でもその羊を売ってしまうことに何ら心の痛みを感じずに、また羊を守るために自分のいのちを張ることもせずに。
2)神殿ばかりか、羊を飼う所の宗教家たちの堕落がありました。 【宗教家、羊飼いたちのあまりにも自己中心な有様でした】
その手には二本の杖が握られています。(ゼカリヤ11章)7節にありますね。
7私は羊の商人たちのために(***宗教家ですね、と説明)、屠られる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、もう一本を「結合」と名づけた。……
一本は慈愛の杖、恵みの杖です。しかし羊を飼う者たちはあまりにも自己中心でありました。 やがてイエスさまは仰います。 「あなたがたは、人には負いきれぬ律法の重荷を負わせるくせに、自分では指一本それに触れようとはしない。」(***ルカ11:46) イエスさまは宗教家を批判して仰いました。 「あなたがたは白く塗った墓のようだ。外側はきれいでも、しかし内側は悪しき思いでいっぱいである偽善者だ」(***マタイ23:27)と。
神さまはゼカリヤを通して仰いました。(ゼカリヤ11章)8節――
8私は一月のうちに三人の牧者を退けた。私の心は彼らに我慢できなくなり、彼らの心も私を嫌った。
神さまはこの「慈愛」の杖を折られてしまいます。それは宗教家たちの偽善のゆえだけではありませんでした。 一番最後に「彼らの心も私を嫌った」とあるように、当時の宗教家が神を、イエス・キリストを退けます。 やがてイエスさまは仰いました。マタイの福音書の23章の37節で――
<マタイ23:37> 37エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
当時のイスラエルの人々は、神が遣わされた御子イエス・キリストを嫌うんですね。 神さまは何度となく、そのひなたちをめんどりが翼の下に集めるように、集めようとした。 しかし、彼らはそれを好まなかった。 ということは、彼らの心は、イエス・キリストを、神を、退けたんですね。
やがて神さまは「慈愛」の杖を折ってしまわれ、もう一本の「結合」の杖も折られます。 「結合」の杖っていったい何であったのか?それは(ゼカリヤ11章)14節に書いてあります。
14そして私は、「結合」というもう一本の杖を折った。ユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破棄するためであった。
ユダとイスラエル――南のユダの王国と北のイスラエルの王国との間の兄弟関係を破棄するためであった。 十二部族をもう一度一つにしようとする、その「結合」の杖も折られ、そしてイスラエルという国は国家を失い、紀元70年以降散りちりバラバラになって行った。 そのことに関して、イスラエルの宗教指導者たちの責任は重いですね。
【ゼカリヤの11章の預言が、どれほどイエスさまが地上に到来された時の雰囲気であったかがわかります。】
イエスさまはこういう喩えもなさいました。 (***マタイ21:33〜46、マルコ12:1〜12、ルカ20:9〜19) イスラエルは神の(ぶどうの)畑だ。神さまご自身が土を掘り、ぶどうの木を植え、それを小作人、つまり当時の宗教家に貸し与えた。 季節が来た時に、ぶどうの木の分け前を受け取りに行かせます。 すると小作人たちは、宗教家たちは、神の使いを袋叩きにします。
イエスさまは仰いました。「こういう人たちは人一倍、厳しい罰を受けるのです。」
【3)その宗教指導者たちは、最後、イエス・キリストを十字架へと引き渡す。】
父なる神さまは、一番最後にその使いとして、御子イエス・キリストを送られました。 すると小作人たちは「こいつは跡取りだ。こいつを殺してしまえば、このぶどう畑は私のものになる」と言って、イエス・キリストを十字架につけます。 その場面が書いてあります。――(ゼカリヤ11章)12節(と13節)ですね。
12私は彼らに言った「あなたがたの目にかなうなら、私に賃金を払え。もしそうでないなら、やめよ。」すると彼らは、私の賃金として銀三十シェケルを量った。 13【主】は私に言われた。「それを陶器師に投げ与えよ。私が彼らに値積もりされた、尊い価を。」そこで私は銀三十を取り、それを【主】の宮の陶器師に投げ与えた。
非常に理解は難しいですけれども、銀三十シェケルというのはよく分かります。 それはイエスの弟子の一人ユダがイエスを裏切って、当時の宗教家の手に渡した時に受けた報酬が、銀三十シェケルでありました。 つまりどういうことかと言うと、当時の宗教家、イスラエルの王、信仰の責任を持っている者たちは、どんどん神さまのみこころから離れ、そして神さまの使いたちを袋叩きにし、 そして最後は、この人物を送ったら人々は敬ってくれるだろうと思った御子イエス・キリストを、彼らは銀三十シェケルという――奴隷が売られて行く値段です、旧約聖書では。銀三十というのは奴隷売買の時に使う値段ですけれども――その値段でイエス・キリストを売り渡し、ローマに引き渡し、(主は)十字架に掛けられました。
今日の説教のタイトルは、私たちはいったいイエスをどれくらいに値積もるのか?ということです。 イエスをどれ位軽く見て生きているのか? この人物だったら敬ってくれるだろうと、父なる神は私たちの所にイエス・キリストを送り込まれた。 イエス・キリストは私たちのためにご自身のいのちをお捨てになった。 しかし、私たちはいったいどれほどイエス・キリストを敬い生きているんだろうか? 主イエスさまをいくらに値積もりするのか?というのは、人生最後で問われる質問ですね。
「だれでも疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます」(***マタイ11:28)と仰った時に、私たちはイエスさまをどれくらい値積もっているんだろうか?
私たちが嵐の海の中にいる時に、「恐れるな、わたしだ」(***マタイ14:27)とイエスさまが仰った時に、私たちはイエスをどれくらいに値積もっているんだろうか?
「安心しなさい。あなたの信仰があなたを救った。健やかでいなさい」(***マルコ5:34)と私たちが癒される時に、いったい私たちはどれ程の値段をイエスさまにつけているんだろうか?
「この世にあってはあなたがたは患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(***ヨハネ16:33)と、敗北だらけの人生に勝利を与えてくださるイエス・キリストを私たちはいったいどれくらい値積もっているのか?
神の栄光を捨ててしもべのかたちを取り(***ピリピ2:6〜7)、私たちの足を洗ってくださる時(***ヨハネ13:5)に、私たちはイエスさまをどれくらいに値積もっているのか?
主が十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわかっていないのです」(***ルカ23:34)という程、私たちは自覚もなく罪深い私たち。 その私たちに「赦しの祈り」を唱えてくださるイエスさまを、私たちはいったいどれくらい値積もっているのか?
私たちの値積もりの金額は、割と簡単に明らかになります。 それは、私たちがこの方の仰ることを、この方のみことばをどれくらい真実に受け止めているかで、私たちの値積もりがすぐ出てしまいます。 イエス・キリストのことばを聞き流すのか?自分のこととしては受け止めずに、頭の上を通り過ぎていくのか? それとも聖書のことばを、素直な喜びと感謝をもってこの方のことばを受け止め、この方に真実な信頼を傾けて行くのか? 自分の思いや人の意見に振り回されるのか、いやそうではなく、真っ直ぐに私たちの信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリスト(***へブル12:2)を見つめるのか? 私たちは自覚して考えなければいけないですね。
私たちはイエスを裏切ったユダのような振る舞いはしないです。 私たちを愛し、私たちのためにいのちを捨ててくださり、私たちにいつも真実であられる主イエスを敬い、愛し、従っていく時に、 神さまは喜んで「慈愛」の杖と「結合」の杖をもって、私たちを導き、私たちを守ってくださり、私たちを養ってくださる。 決して「慈愛」の杖と「結合」の杖を折らずに、 高津教会の民がどのような形で散らばっていたとしても、私たちを一つにまとめて、 そして私たちを養ってくださるということを心から信じたいとも思います。
☆お祈りをいたします。――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、数百年前のゼカリヤの預言書のその通りの様子が、神殿であり、当時の宗教家でありました(アーメン)。イエスさま、あなたがどれほど神殿を「強盗の巣」(***マタイ21:13)と呼び、そして当時の宗教家を「あなたがたは白く塗った墓のようだ」(***マタイ23:27)と批判されたのか、それはまさにゼカリヤ11章の預言の通りでありました(アーメン)。そして彼らは悲しいことに、イエスさま、あなたに銀三十の値段をつけてローマに売り渡し、そして殺すことを実行していきました。
もしかしたら私たちも、あなたの「慈愛」の杖と「結合」の杖を無きに等しいかのように、イエスさま、あなたのことを軽く値積もってはいませんでしょうか? 「恐れるな。わたしだ」(***マタイ14:27)と仰るあなた。 「わたしのもとに来て、重荷を降ろしなさい」(***マタイ11:28)と仰るあなた。 「あなたがたは世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(***ヨハネ16:33)と仰るあなた。 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分では分からないのです」(***ルカ23:34)と私たちの罪を荷ってくださった主イエスさま。
あなたを私たちが最も高く値積もることができるように、私たちの信仰を育ててください。 そして、そういう信仰者に対して、あなたの「慈愛」の杖と「結合」の杖はいつも側にあって、私たちを守っていてくださることを信じることができますようにお助けください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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LAST UPDATE: 2020.07.15 - 11:04 |
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