☆聖書箇所 ルカ11章29〜32節 29さて、群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。 30ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。 31南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソモモンにまさるものがあります。 32ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。
☆説教 『ヨナ書』に自分を問うF 悔い改めに導くしるし
今日の説教題は「『ヨナ書』に自分を問うF 悔い改めに導くしるし」――これがこの朝の説教題です。 今日で、「『ヨナ書』に自分を問う」のシリーズは最終回になります。 ひとまず終わることになりますが、ま、「ヨナ書の学び」なんていうことはできませんでした。私の力量では。「学び」なんていうことはできませんでした。 「みことばに自分を問う」――そんな試みを続けて来た、そんな6回であったと思います。 その6回を初めに振り返ってみたいと思うんですけれども――
●第一回目は、なんと昨年の8月。8月18日に、第一回目ヨナ書を開きました。 @「神さま いやです」ヨナ書1章の1〜3節 ヨナの不服従を見て来たんですけれども、しかし神さまの言いなりではなかったヨナ。 神さまの御顔を避けた。それにはわけがあった。 神さまに敢えて「いやです」と言える程までの神さまとの本音の信頼関係。 神さまへの絶対服従とはまた一味違う、そのような神さまとの関係をヨナのように自分は持っているだろうか?ということを考えて来ました。
●第二回目は、9月29日。A「止めよ。知れ。わたしこそ神」ヨナ書の1章の4節〜(7節)を見ていただきました。 突然の激しい暴風を起こされたのは、ここでは神さまだったわけですけれども、 自分の考えで進む行く手を、壁となってストップされる神さまがおられる。 ヨナは、自分の考えや計画を全部、その暴風によってストップされた。 私たちの経験する試練、勿論身から出た錆ということもあるんでしょうけれども、 しかし様々な試練の中で、その試練にはどのような意味があるのだろうか? 自分の思うようにならない状況の背後に、神さまのどのようなご計画が、お考えがあるのだろうか?ということを問うてみました。
●第三回目は、10月13日。B「大いなる不思議を行われる方」ということで、ヨナ書1章の5節〜16節。 言われるままにヨナを海に投げ込んだら、嵐が治まった。 それを見た異邦人の船員たちが――ヨナの信じている神さまはすごい!――船員たちが感じた恐れ。今も生きておられる神さまへの恐れ。 そして集団回心が船の上で起こってしまった。 神さまの大いなる不思議を目の当たりにして、心が変えられる、そういう経験を船員たちはしました。 私たちも神さまの大いなる不思議を目の当たりにするような恵みの体験、自分にはあっただろうか?自分はそれに気づいているだろうか?ということを問うてみました。
●第四回目は、11月17日。C「神さまを思い出す」ヨナ書2章。 ヨナが大きな魚に呑み込まれて、腹の中からお祈りをするところでした。 ヨナのように、魚の腹の中のような状況の中で、神さまの憐れみを思い出す。 日常生活のただ中で、神さまの臨在を思い出す。 この「思い出す」という言葉にこだわってみました。 私にとって、神さまを思い出すという時はどんな時なのだろうか? また一日にどれ位神さまのことを思い出しているだろうか? あるいは人生の中で、何度本気に神さまを思い出して、神さまを私の主として思い直しているだろうか?――そのようなことを考えてみました。
●第五回目は、D「なんと驚くべき恵み!」今年(2020年)の1月12日でしたけれども、ヨナ書の3章から見ていきました。 あんなひどい町のニネベの人々が、素直に悔い改める光景をヨナは見たわけですね。 神さまはニネベの町を滅ぼそうとされていたのに、神さまはそれを見て惜しまれた。 神さまは「すべての人が悔い改めることを願っておられる」方だということを、ヨナは身をもって実感した。 あの人も救われるんだ。それならば、私のすることはいったい何なんだろうか?ということを問うてみました。
●そして最後、第六回目でしたけれど今年の2月16日。この日が会堂で皆さん共に礼拝をする最後になってしまいました。 それからもうずっと自粛の教会の聖日礼拝になってしまったんですけれども。 その最後の2月16日に、第6回目、E「神さまってあったかい」――そういう題でヨナ書4章を見ていきました。 ヨナを初めからどこまでも面倒を看るつもりだった、神さまの底抜けの恵みを見ていきました。 なんとあったかい神さまでしょうか! その体験を基に、ヨナはこのヨナ書を書いたのです。 自分にとって、神さまってどのようなイメージでしょうか? 厳しい神さまでしょうか、それともあったかい神さまでしょうか?――そのことを問うてみました。
以上6回のシリーズだったわけですが、これでヨナ書のシリーズを終わってもいいのではないかと思うんですが、今日第七回目を入れてみました。 それは新約聖書に出て来ますが、イエスさまが福音書の中で、ヨナのことを話題にしている箇所があったので、最後、イエスさまの語る言葉から出て来るヨナ。 そこから導かれる恵みを、F「悔い改めに導くしるし」と題して、3つの視点で分かち合いたいと思います。
1)ヨナのしるしと人の子のしるし
お読みいたしましたルカの福音書の11章の29節から32節を見て来たわけですけれども、この物語のこのシーンの事の発端は、群衆の中にイエスさまに天からのしるしを要求する人がいたことでした。 それがその前に書かれていますが、11章の16節にこう書いてありますね。
<ルカ11:16> 16また、ほかの者たちはイエスを試みようとして、天からのしるしを要求した。
こう書いてあります。「天からのしるしを要求した」。 イエスさまを試みようと、イエスさまがほんとのメシアかどうかを試みようとした。天からのしるしを要求した。 どんなしるしだかは分かりません。 そして群衆が増えて来た、ということで29節――
29さて、群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。(***ここからイエスさまのお話が再び始まるわけです、と説明)。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。
とイエスさまは仰いました。 「しるしを要求する時代は悪い時代だ。しるしは与えられない。ただしヨナのしるしは別です」ということは、「ヨナのしるしは与えられます」ということです。 イエスさまは人としてはユダヤ人でしたので、当然旧約聖書は暗記する程読んでおられたと思います。 勿論ヨナ書も読んでおられたんでしょう。そしてヨナのことはよ〜く解っておられた。 勿論人として来られる前からイエスさまは神さまですので、ヨナのことは重々ご存じに違いないんですけれども。 「ヨナのしるしは別です。ヨナのしるしは与えられます」――そうイエスさまは仰いました。
では「ヨナのしるし」とは、いったい何か?(ルカ)11章の30節を見ますと――
30(前半)ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように……
とありますが、この「ヨナのしるし」――それが32節を読むとわかります。 32節の3行目――
32……ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。……
と書いてあります。そうしますと、イエスさまの仰る「ヨナのしるし」とは、ニネベの町の人を悔い改めに導いた説教であるということが分かります。 「あと四十日すると、ニネベは滅びる」という神さまからのメッセージ――これがヨナのしるしであるということが分かります。 30節(後半)にもう一つのしるしが書かれています。
30ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。
と「人の子のしるし」というのが、もう一つ出て来ます。 これもヨナのしるしと同じく、悔い改めに導く説教のことです。 「ニネベの人々のために、しるしとなったように」とありますから、同じように、 「人の子も、この時代のために悔い改めに導くしるしである」ということをイエスさまが仰っています。
この「悔い改めに導くイエスさまの説教・言葉、それはヨナにまさるものだ」ということが、32節の最後の行に書かれています。
32……しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。
とあります。 ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたけれども、しかし見なさい。 ここにヨナにまさる説教があります。ヨナにまさるイエスさまの言葉があります。 イエスさまの言葉、そうすると、《人の子のしるしというのは、ヨナのしるしよりもまさるものであ》ということが、ここで分かります。 そしてそれがこの時代のためのしるしになるんだと。
31節にはもう一つ、ソロモンにまさるものとして、イエスさまの知恵が語られていますけれども、今回は省略いたします。
そこで、この「ヨナのしるし・ヨナの説教」と、「人の子のしるし・イエスさまの語る言葉」――これを見ていきたいと思うんですけれども、この二つに共通するしるしの特徴はいったい何か? それは「悔い改めに導くしるし」であるということ。 それを聞いた人々に悔い改めが起こる、そういう結果が現れている――これが共通するしるしの特徴であります。 だから、ニネベの町の人々はヨナの説教を聞いて悔い改めたわけですね。
ところがその一方で――イエスさまの言葉を聞いても、ニネベの人々のように、この時代のイスラエルの人々は悔い改めなかった――そう書かれています。 そこで、ルカの福音書11章32節にこう最初に書いてありますね。
32ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。……
イエスさまの言葉を聞いても悔い改めなかった、この時代のイスラエルの人々のことを罪ありとしますと。 悔い改めないイスラエルというのは、悔い改めた異邦人からでさえ――ニネベの人々のような異邦人からでさえ――罪ありとされるんだ、とイエスさまは指摘されているわけです。 このように、 《イエスさまの言葉、さらに言えば聖書の言葉は、悔い改めに導くしるしとなる。しかし悔い改めなかったイスラエルの人々は罪がある》 ということをイエスさまが語っておられるんですね。
2)「悔い改め」とは何だろうか?
悔い改めというのは、人間わざではなくて、神わざです。聖霊の働きによるものです。 人間がどんなに頑張っても、聖霊の働きなくて悔い改めということは起こり得ない。 でも「悔い改めって、改めて何でしょうか?」って今更言われると、どういうことなのか?改めて考えさせられることであります。 国語辞典で調べると、「悔い改め」っていうのは――「悔いる」と「改める」――この二つの動詞が合わさった言葉です。 「悔いる」というのは、自分の間違いや悪い点に気づき、残念に思ったり反省したりすること。これが悔いる。 「改める」というのは、悪い点を直して、より良いものに変えること。これが改める。 「悔い改める」――そうすると、「悔い改める」ということの要素の中に、 悪い点に気づき、反省し、直し、より良いものに変えるという、そういう要素が含まれていることが分かります。
私たちがキリスト者として信仰生活を送る中で、私たちが行っている「悔い改め」というのは――罪の自覚、罪の告白、そしてその罪の赦しを求めること――これが「悔い改め」ですね。 「主の祈り」でも毎回、「我らの罪をも赦したまえ」とお祈りしている「悔い改め」です。 「神さま、お赦しください。この罪を悔い改めます」―――してはいけないことが分かっていることを悔い改める。「ああ、本当に申し訳なかった」と、神さまの前に悔い改める。
まともなことをしている自分が、どんなに的外れなことをしているかということに気がつかないこともある。 最初からこれが罪だと分かっている場合と、自分では気がつかない場合がある。 そういう時に気づかされてする悔い改めもある。 もしかしたら、気づかされてする悔い改めの方が、本当は根が深かったのかもしれない。 そんな感じがいたします。
そこで今日はもう少し深く、「悔い改め」ということを、ちょっと突き詰めていきたいと思うんですね。 「悔い改め」、ギリシャ語では「メタノイア」と言います。 メタというのは、移す。ノイアというのは、視点とか立場。 そうしますと、「メタノイアというのは、視点・立場を移すこと」――これが「悔い改め」。 視点・立場を移すことによって、今まで見えなかった風景が見えて来て、そしてそれに気づかされて、その後、罪の自覚を伴うこともあるかもしれません。 でも自覚やそれから告白や赦しだけでなくて、思いや行動の変化が促される。 そして結果的に《方向転換》に導かれる。《自分の考え方や生き方や歩みが変えられる》――それが「悔い改め」。 そうしますと、「悔い改め」とは、単なる「神さま、ごめんなさ〜い」じゃなくて、《視点の移動、視点の変化、立場の移動》――これが悔い改めの本来の意味であること、これがギリシャ語から読み取れると思うんです。
「視点の移動」――これ二つありますね。それは、 @自分の立ち位置を動かすこと。 私が教師生活5年目に初めて一年生を担任いたしました。 一年の担任はあれが最初で最後だったんですけれども。たった一回。 その時に、先輩教師からのアドバイスで、 「しゃがんで見なさい。教室風景が変わりますよ」――そうアドバイスされました。 しゃがんで見るということは、子ども目線で見るということ、子どもの背の高さで見るということです。 そうすると、「ああ、掲示物がちょっと高すぎるなぁ」とか、床に「あ、落とし物があるなぁ」とか、「ああ、ここの本棚の角は子どもの頭にぶつかるなぁ」とか、色々なことに気づかされるわけです。 立ち位置を動かすだけで、そのように新たな気づきが与えられる――これが「視点の移動」の一つ目。
A相手の立場に立って見るということ。 相手には感じていても、自分には分からないことがいっぱいある。 そんな自分を、その視点から見る。自分を客観的に見るということでしょう。 それこそ、カメラに映る自分、それを見るということでしょう。
授業が上達するための近道の一つというのは、 「自分の授業の録画をしなさい。そして、自分の授業の動画をよく見なさい」と、 それが授業が上達する近道として教えていただきました。 やってみました。もう自己嫌悪に打ち震えながら、自分の授業している姿を見るわけですよ。そうしますと―― 「ああ、これじゃ駄目だ。動き過ぎ。しゃべり過ぎ。それなのに、大事な子どもの意見を取り上げないでスルーしてしまっている」。そして、 「ああ、あの一言を言ってしまったために、授業が違う方向に流れてしまった。あの一言は無駄だった」 色々なことを学ばされます。
今はオンラインで説教している自分を見る機会がある。 Iさんが動画配信システムを新しくしてくださって、今日カメラの映り、どうでしょうか? 良くなったでしょう(笑顔で)。Iさんがしてくださって。このカメラ(左側前方)とそれから向こうのカメラ(正面後方)とそれからそこのカメラ(ピアノの上方)。 正面のカメラが第一カメラ。そしてピアノの横にあるカメラが第二カメラ。そして新しく付けられたこのカメラが第三カメラ。 Iさんから色々アドバイスしていただいて、 「カメラ目線、なるべくこのカメラ(第三カメラ)を見ながら、会堂の皆さんの顔を見ながらお話しするといいでしょう」というアドバイスをいただいたんです。 心強かったです。これでいいでしょうか?(笑)わからないです、自分では。
でも時々、YouTube の動画が、この礼拝の時だけじゃなくて、後から観られるんですね。これ後からもう一度観られるんですよ。 そうすると、自分が説教している姿が観られるわけですよ。 私(戸塚伝道師)それ見て、「え、自分の声ってこんな嫌な声していたのか」とか「こんな声じゃないよ、こんな声じゃない、自分は」と思ったり、それから「なんか自分の話し方って癖のある話し方をしているなぁ」(笑)とか、「なんか嫌だなぁ」とか(自分でも思うし)、 (また、他人からも――) なんかこう上から目線のような(笑)、お説教しているような(笑)、自分じゃ聞きたくないような、それからもうちょっと笑顔を見せてもいいような、なんか硬い表情みたいだとか、自分の説教しているその場面を見せつけられると、もう色々なことを指摘されるわけですよ。 もうこんな、自分のことばかりしゃべってるとか、説教、長すぎるとか――あ、こんなことしゃべっていると長くなっちゃうんですけれども(大笑)
相手の立場に立ってみる。そうすると、自分では分からなかった自分が見えてくる。 そうすると、視点の移動――自分の立ち位置を動かすだけではなくて、相手の立ち場に立って見る――そういうことをすることによって、 「ああ、そうだったのか!」「これはまずかった」「知らなかった」「申し訳なかった」「今度からこうしてみよう」「これは気をつけなければいけない」「ここは何とか変えよう」「前から薄々感じていたんだけれど、これじゃ駄目だ!」 様々な事を気づかされるわけですよ。 《視点の移動、メタノイアが、悔い改め、方向転換である》ということはこういうことなんだ。 つまり《悔い改め、メタノイアというのは確かな変化となって現れるものなんだ》ということなんです。 これが「悔い改め」なんです。
そうしますと、第三番目に、この「悔い改めに導くしるし」、それについて思い巡らして終わりにしたいと思うんですが――
3)「悔い改めに導くしるし」はどういうものか?をもう一度考えてみたいと思います。
ヨナの説教もイエスさまの語る説教も、「悔い改めに導くしるし」です。 ヨナの説教――罪深い異邦人、ニネベの町の人々は、ヨナの説教で悔い改めた――これがヨナのしるし。 イエスさまの語る言葉――しかし主の民イスラエルの人々は、その言葉を聞いても悔い改めなかった――これも人の子のしるし。 イエスさまの語る言葉も、本来ならば、悔い改めに結びつくはずであった。 でも聞く人によって、その結果の現れ方が違って来るということです。
では私はどうでしょうか? イエスさまの語るみことば、悔い改めに導くしるし、それを読んでどうだったでしょうか? 聖書に親しみ、聖書を毎日読む。みことばを聞き味わうひと時も与えられている。 しかし何となく、何となく、私はマンネリ化しているのではないだろうか? なんかこう同じ所に居座り続けて、固定観念に縛られて、聖書の言葉を読んでも、 以前のように、なんかものすごい感動だとか、気づきだとか、そういうものがない自分を最近示されるようになって来ました。 メタノイア、視点の移動がないまま、恵みの世界を充分知らない自分なのかなぁ。 ああ、でもみことばの力は悔改めに導くしるしなのです。 そんなメタノイアに導くような恵み、メタノイアの恵み、私(戸塚伝道師)は待ち望みたいなと思いました。
そのために、みことばを読みながらも、みことばに自分を問うということは、大きな恵みです。 さらに聖書をさぁ〜っと読むだけではなくて、この言葉を通して様々な事を神さまが語ってくださって、私たちに問いかけておられる、 その問いに自分はどう答えるかというような姿勢で、みことばを読むということが必要なのではないだろうか?ということを考えさせられます。 このみことばを読んで、神さまはなぜこういうことをされたんだろうか?こういうことを言われたんだろうか?疑問という形で問われることがあるかもしれない。 こんな時、自分だったらどうするだろうか?自分だったらどう判断するだろうか?どう行動するだろうか?この時自分だったら相手に何と言うだろうか? 自分のことを考える形で、みことばに自分を問うことがあるかもしれません。
さらには、自分の信仰、考え方、信仰生活、生き方、人との関わり方、様々な日々の生活のあり方、それは一体どうだったんだろうか? 振り返りという形で問われることがあるかもしれません。 ヨナ書に限らず、他の書でも、聖書のある特定の場所でも、もしかしたら一つの聖句かも知れない。 お気に入りのみことば、それを毎日毎日見ながら、味わって恵みを感謝して、そう思っておられる方々もおられるかもしれません。
幸子先生は、救われた方に、救いのみことばをカードに書いて渡されていました。 「聖書一冊こんな分厚いのを読むの大変かもしれない。でも救われた時のこのみことばを毎日読みなさい。いつでも読みなさい。そのみことばがあなたを救ったのですよ。」 幸子先生は救われた方々に、そのようにお話しされていたのを思い出しますが、そういうみことば。 そのみことばを通して、イエスさまの恵みを通して、自分の生き方を問い直されるような経験。その経験――それを私たちは求めたいと思いますね。
メタノイアに導かれるような、そういう聖書の読み方。 自分では分からなかったことを新しく気づかされることによって、自分を変えていただくような、そんなみことばの読み方――そういう読み方をしたいと思います。
今日のお話の最後に、ささやかなメタノイアをお分かちして終わります。 メタノイア――ギリシャ語で悔い改めのことを、メタノイアと言いますが、 (※かつて話題になったオリンピックのお・も・て・な・しのリズムで、初め自分の右手で右から左へ移動して見せる戸塚伝道師) メ・タ・ノ・イ・ア、視点を移動して(※次に左手で左から右へ移動させて)、アから読むと何でしょうか? あ・い・の・た・め(愛のため)。愛のため。 「メタノイア逆から読むと愛のため」(※変な俳句みたい?) 神さまの愛に生きるためのメタノイア。 その先には、思いもよらない風景が見えて来ます。 神さまの驚くべき恵みの世界が、そこには備えられています。
☆お祈りいたします。――戸塚伝道師
イエスさま、聖書を通して語ってくださることを感謝いたします。にもかかわらず、あなたのみことばを聞いても悔い改めなかったイスラエルの人々のように、反応の鈍い者です。どうかみことばによって、今まで見えなかった自らのあり方に気づかせてください。そして、本当の意味での悔い改めに導いてください。あなたの恵みに生かされる者として、変えてくださることを期待いたします。
今週の歩みにおいても、様々な場面で悔い改め、メタノイアを経験する機会を備えてくださいますように。聖霊のとりなしの内に、愛するイエスさまのお名前によって父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。
|
|
113.150.176.120 - Mozilla/5.0 (Windows NT 6.3; Win64; x64; Trident/7.0; MALNJS; rv:11.0) like Gecko
|