☆聖書箇所 ゼカリヤ13:1〜9 1その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。 2その日――万軍の【主】のことば――わたしはもろもろの偶像の名を、この地から絶ち滅ぼす。それらの名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。 3なお預言する者があれば、その人を生んだ父と母が彼に向かって言う。『あなたは生きていてはならない。【主】の名を使って嘘を告げたから。』彼が預言しているときに、彼を生んだ父と母が彼を突き刺す。 4その日、預言者たちはみな、自分が預言する幻を恥じる。彼らはもはや人を欺くための毛衣を着なくなる。 5また彼は、『私は預言者ではない。私は土地を耕す者だ。若いときに人が私を買い取った』と言う。 6だれかが『あなたの両腕の間にある、この打ち傷は何か』と聞くなら、彼は『私の愛人たちの家で打たれたものだ』と言う。 7剣よ。目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ――万軍の【主】のことば――。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。 8全地はこうなる――【主】のことば――。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。 9わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『【主】は私の神』と言う。」
☆説教 ゼカリヤ(15)一つの泉が開かれる
ゼカリヤ書の13章のすべてを読んでいただきました。 ゼカリヤ書の13章というのは、前々回の12章と一つになっています。 それはこの12章と13章に「その日は、その日は、その日は、その日は」と、何回も出て来るということで、一貫性があることがよくわかります。
「その日」というのは、前回お話しいたしました。 *イスラエルの中で、何度も襲って来る危機的な状況の日々。 *あるいはキリストの到来。 *そしてキリストの十字架を現す「その日」。 *あるいは「終わりの日」に、「終わりの日」を前にして、イスラエルの悔い改めを指す日。 と、幾重にも重なって描かれているということが分かりました。
<12章の10節>をちょっと、(手元のカメラで)映しますね。今日は映せるようにしてますので。いいですか。(※卓上の聖書やメモなどが映される)。
10わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き通した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく嘆く。
……(※少し音声が途切れ)おられると思います。これは「突き通された者」イエス・キリストを仰ぎ見て、彼らが悔い改めに導かれる。 恐らくこの預言が確かに成就した、と言うことができるのは、ペンテコステの日に聖霊が注がれ、 ペテロが「イエスこそがメシアであった」ということを宣言した時に、「しかもそのメシアはあなたがたが十字架にかけた」ということを告げた時に、 「恵みと嘆願の霊が注がれ」、三千人のユダヤ人が悔い改め洗礼を受けた(***使徒の働き2:41)、まさにその日でありました。
しかし<12章のその次>ちょっと聖書を見てくださいね。ここ(※12:11〜14あたりをカメラで、藤本牧師個人所有の色々と印のついた聖書が映される)。
14残りのすべての氏族は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。
というのは、これはペンテコステの日の出来事ではないんですね。(ゼカリヤ書)12章の最後。 これはイエス・キリストが再び来られ、終わりを迎える時に、イスラエルの民、旧約の民に悔い改めが起こって、 そしてパウロがロマ書の11章(***28〜29節)に記していましたように、こうありましたね。 今は神に敵対していても、「終わりの日」を前にして、彼らに聖霊が及んで、突き通した主イエスに対して悔いて改める、一人ひとりが。 そして旧約の民と新約の民が一つとなって、(神の)民となるその日である、ということをお話をいたしました。
【<ロマ書11:28〜29>】 28彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。 29神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。
つまり、この黙示的な預言者の記述においては、記しているゼカリヤもよく分からないですね。 この先、歴史的にどういう事態でこの預言が成就するのかというのがさっぱり分からないまま、断片的に時には。 時にはその断片的な事柄が、幾重にも成就して行くように出てまいります。 そういう意味で、12章を学んだ時に、私(藤本牧師)は最終的には《「その日」というのは、私たちにとっての「その日」にも当てはまるんだ》ということをお話ししました。
神さまが「恵みと嘆願の霊を注いで」(ゼカリヤ12:10)くださる、「その日」というのは今日かもしれない。 そして今日注がれるなら、私たちは神の民となり、神は私たちの神となる――そういうお話をいたしました。 「恵みと嘆願の霊が注がれる」時に、私たちは悔改めに導かれ、深く砕かれ、そして神さまの真実に支えられて、神のもとに帰って来る「恵みの日」が何度もやって来る。
13章、今日学びます13章の多重のレベルを持ったその日です。 ですから12章と同じように、そのレベルがどういう風に展開されているのか?ということを見ていただきます。 今日の説教はちょっと色んな聖書の箇所を開きます。 で、やっぱりゼカリヤ書を、結構難しいゼカリヤ書を最後まで一緒に読んだという、ま、自己満足かもしれませんけれども、それはまあ味わっていただきたい。
今日は説教の最後に讃美歌があります。東さん(※ひがしさん・オリーブで小柳さんとデュエットでお馴染み)に歌っていただきます。 東さんを(昨日)夜中叩き起こして、「明日来てね」と(笑)。来てくださいました。 小柳さんは山に行っちゃったんで、山でこの礼拝を聞いているはずですね(笑)。 東さんと私(藤本牧師)で、私が途中でfade-out(自然に消える?)しますので、 東さんの讃美歌になると思いますが、その讃美歌の味わい、それが今日の説教のポイントです。 それをより深く味わうために、私たちは今日の学びをするんだということを覚えてください。
先ず第一番目に、この章にも―― 1)イエスさまの十字架を前にして、イエスさまご自身も、また後に弟子たちが意識した聖書の箇所があります。
それが(ゼカリヤ13章)7節です。ちょっと7節映してみますね。
7剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ――万軍の【主】のことば――。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。
(※指で文章をなぞって読みながら説明し始める藤本牧師) 「剣よ」というのは、当時の宗教家のことです。これは祭司長、長老、律法学者のことです。 剣が目覚めて、「わたしの羊飼い」というのは、イエスのことです。 「わたしの仲間」もイエスのことです。 当時の宗教家が剣のように目覚めて、イエスに向かう。 万軍の【主】のことば――羊飼いを打て。打たれて十字架にかけられます。 それを前にして、羊の群れは散らされて行きます。
見たら分かりますように、「羊飼いを打て」とありますから、神さまの命令になっています。 それは――イエスさまが受けた杯――それは神のご計画であって、 《「ユダヤ人によって打たれた十字架により、私たちの罪を引き受け、 その裁きを身に受け、人類の贖いのわざを成し遂げられる」というご計画は、 まさに神さまから来た》ということがここにおいて分かります。
この聖書の箇所(***ゼカリヤ13:7)もイエスさまはよく知っておられましたし、 後に弟子たちも、このことがよく分かりました。 イエスさまが逮捕された瞬間、羊はバラバラに散らされて行きました。
2)今度は「終わりの日」の預言です。
7節が「イエスさまの十字架の預言」の場面の預言だとしたら、8節9節は「終わりの日」の預言になると考えざるを得ないですね。 ちょっと聖書を映しますね。(※と言って、指で聖句をなぞりながら読む)
8全地はこうなる――【主】のことば――。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。 9わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『【主】は私の神』と言う。」
この試練の時がやってくる。いや、やって来る前に、「三分の二が死に絶える」という風に書いてあります。 これはペンテコステの出来事でも、十字架の出来事でもありませんでした。 長い間世界に離散していた神の民ユダヤ人、全イスラエルはエルサレムに集められます。 12章の10節の「恵みと嘆願の霊が注がれて」いるからですね。 そして一人ひとりに異常なまでの悔い改めが始まる、ということが記されています。
しかしゼカリヤ書の預言ではここがすごく大切です。 ある日突然悔い改めの霊が注がれ、非常に厳しく彼らは悔い改めた――とはならないです。 前回パウロのローマ人への手紙(***11:28〜29)を引用しました。 彼は必ずイスラエルの民は回復されることを信じていました。 でもここには、重大な真理がありまして、 それは《霊が注がれて悔い改める》という部分と、《試練の中で、試練に錬られて悔い改める》。 これは分けて考えることはできないんです。 ペンテコステのように、確かに試練のない中、いきなり聖霊が天から降り、悔い改めに導かれたという場合もありました。 しかしほとんどのケースで、試練に遭い、試練をどう受け止めるかによって、私たちは砕かれるんですよね。
ヤコブ書の1章の2節、3節、4節をちょっと開きます。 私(藤本牧師)また映しますので、教会の皆さんは開いてください。 ヤコブ(書)はヘブル書の後です。ヤコブ書の1章の2節ですね。
(※ヤコブ1:2〜4まで、青い色のペンを使った線で囲んである箇所を指でなぞりながら読む) <ヤコブ1:2〜4> 2私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。 3あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。 4その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。
という、この一番最初――「様々な試練に遭うときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」 そこでは信仰が試され、忍耐が生まれていく。 これがあって初めて「恵みと嘆願の霊」は私たちの内側で《神に帰るという行動へと導かれる。》
仮に皆さんが、私(藤本牧師)がコロナになって、不安な日々を過ごし、やがて人工呼吸器を取り付けられたあたりで――昨日インタビューでやっていました――皆さんスマートフォンを使って遺書を書くそうですね。 人工呼吸器を取り付けられますと、麻酔をかけられますので、もうコミュニケ―ションは難しいです。 だから最後に遺書を書く。 それと同じなのかもしれない。 遺書の代わりにもう一つ、最後に自分の祈りを書くかもしれませんね。 それは人工呼吸器を付けて、この世界に生還して来るという人は、もしかしたら半分、いやそれ以下なのかもしれないですよね。
同じヤコブの手紙の4章の9節を見てください。 ここにも非常に同じようなことばがあります。 (※9節と10節を青い線で囲んだ聖句を読む)
<ヤコブ4:9〜10> 9嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。 10主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。
つまり、嘆き無しに、悲しみ無しに、涙無しに、遜ること無しに、「恵みと嘆願の霊」は私たちの内に注がれないんだということを、心に留めておく必要があるんじゃないでしょうか? つまりゼカリヤ書の12章で、《悔い改めに導かれる聖霊の働き》が強調されていました。 その聖霊の働きによって、私たちは信仰に回復されます。 でも(ゼカリヤ)13章を見ますと、《試練の中で神によって錬られて、私たちは神の民になる》という風に記されています。 私(藤本牧師)はこれは同じことであろうと思っています。 この二つは切り離すことができない。 試練によって不純物を取り除かれ、(神の民になる)。 聖霊の働きだけでなく、その働きは特に試練のただ中で聖霊は働くんですね。
そうしますと、もう一か所だけ聖書を開きます。 重要な聖書の箇所を思い起こされると思います。 コリント第二の7章の10節です。 これはとても大切なみことばですねぇ。お読みいたしますね。
(※またカメラで映される。10節は青い線で囲まれている) <Uコリント7:10> 10神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
私たちが、「悔いて悔い改めて悲しむ」というのには、二種類ある。 神のみこころに添ってないものは、悔いて悔い改め、涙と共にあなたは滅んでいくかもしれないと。 でも「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせる」というのは、きっと特殊な文脈があると思います 【***Tコリント5:2(コリント第一の手紙は「悲しみの手紙」と言われる。)】 でもそうでなく、キリスト者の信仰全般に当てはめる一つの真理を語っています。
それは、《世の悲しみ》というのは、世における不都合を悲しみ嘆くんですね。 自分の失敗、自分の立場を失った、しくじった、転落した、予定通りにはいかなかった、こんなはずではなかった。断食も祈りも効果がなかった。 自分の人生はもうだめだ。もう終わりだと悲しみます。 時に私たちは自分が失敗しておきながら、その責任を神さまに転嫁して、 「私がこうなってしまったのも、あなたのせいです」とこう言いますね。 これは世の悲しみです。 悔い改め、反省と言っても所詮大切なのは、世における自分の人生設計であり、自分の今の状況なんですね。 そういう悲しみというのは、《最終的に死をもたらす》。
じゃ《主のみこころに添った悲しみ》というのは、どういう悲しみなんだ? それは主の御前に砕かれて、悔いることです。 その試練の意味を、信仰的に、人生的によく考えてみることです。 また試練に埋もれず、神の助けを求めることです。 悲しみ、苦悩のゆえに、神から遠ざかるのではなくして、神に近づくことを学んでいく。 その試練に耐えなければならないのでしょう。 でも耐える力もまた神さまは与えてくださる、ということを信じて、 希望の灯火を消さずに、救いを求めて叫び続ける。 矛盾の中に決して埋もれることをしない それが《救いに至る悲しみ、悔い改め》。 そのようにして、《神が私たちを錬ってくださり、精錬してくださるならば、》 その叫びは、《嘆願の霊によって支えられた叫び》です。
申し上げましたように、ペンテコステの日のように、試練無くして悔い改めの霊が突然注がれるということもあるでしょう。 それは否定いたしません。 しかし、悔い改めというのは、ほとんど試練と共にやって来ます。 それは私たちがよく知っていることです。 《試練の中で信仰が試され、信仰が錬られる》こともよく知っています。
そして最後に三番目、さて、そう考えますと――
3)「試練の中で私たちが神の民となり、主が私たちの神となる」事実は、別に終わりの時のイスラエルに限られたことではないです。
試練の中で私たちが神の民となり、主が私たちの神となるのは、私たちの日常的な出来事ですよね。 そういう中で、私たちは改めてゼカリヤの13章の1節、このみことばを尊く受け取っていただきたい。 そしてこのみことばから生まれた讃美歌を、最後歌いますので、 その讃美歌の意味をよ〜く噛み締めながら、少しゆっくり目に歌っていただきますので、自らがこの(ゼカリヤ13章)1節に近づくことができるように。
1その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。
「一つの泉が開かれる」――何のためか? それは悔い改めた私たち、その私たちの罪と汚れをきよめるために、イエス・キリストの十字架が開いてくださった泉がそこにあるんですね。 イエスさまも仰いました。(***ヨハネ7:37〜38) 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来なさい。わたしを信じる者の内から、生ける水が川となって流れ出るようになる」――イエスさまは仰いました。
「その日」というのは、ペンテコステを意味するかもしれませんね。 聖霊の泉が開かれ、主イエスに背を向けていた人々、そしてそこから誕生するキリスト教会には、泉が一つ開かれるようになります。 それは聖霊の泉で、十字架から流れる泉で、それ以外の泉はないです。 それこそが、罪と汚れからきよめる泉です。
すると、その日はいつ来るのか? 今日が聖会であるならば、その日は今日ですと。 皆さんを恵みの座に招くことです。その日は今日です。 もし私たちが自らの罪と汚れを意識し、若干の距離を神さまとの間に感じ、 「恵みと嘆願の霊を注いでください」と前々回祈ったならば、 今日改めて、その泉に近づく者は、信仰と共にきよめられる必要を感じている者だけが、その泉に近づくことができる。
そのことを考えて、昔のインマヌエル讃美歌293番、新聖歌も同じ番号だったと思います(※新聖歌は238番でした)。 インマヌエル讃美歌293番 とうときいずみあり 1節と3節を賛美していただきます。
――東さんの賛美――(※ギターを弾きながら、1節は藤本牧師と一緒に) イ293 とうときいずみあり ※新聖歌238 尊き泉あり ※福322 こひつじ主イェスの
1 尊き泉あり そのうちより インマヌエルの血ぞ 溢れ流る 罪に悩む者 くぐり入らば 汚れは洗われ しみは消されん
3 殺され給いし 小羊なる 主の血の力に 変わりあらじ 世より選ばれし 神の民の 聖潔(きよめ)の恵みを 受くるまでは
☆お祈りをいたします――藤本牧師
あなたが開いてくださったきよめの泉は、この世界にただ一つしかありません。私たちはすばらしい絶景の湖を何度も見るでありましょう。しかしイエス・キリストの血が溢れる泉は一つしかありません。
「殺され給いし小羊なる 主の血の力に変わりあらじ。世より選ばれし神の民の きよめの恵みを受くるまでは。」(イ293 とうときいずみあり・3節)
この泉はただこんこんと涌き出で、そして世界を潤しているのではありません。この泉に招かれているのは私たちであり、そしてもし私たちが屈んでこの泉にあずかるならば、「悔い改めの霊」は「恵みの霊」となって、私たちの罪を赦し、私たちをあなたのもとにぐっと引き寄せてくださり、その喜びは今日もこの会堂に溢れ、皆さんの礼拝の場に溢れていることを覚えます。
周囲には、厄介な問題が沢山あります。でもこういう時に、あなたは厄介な問題以上に私たちの心をご覧になるお方であります。どうか――すばらしい讃美歌を歌わせていただきました。開かれた泉がここにある――その泉に飛び込もうとしている私たちの信仰を祝してください。決して私たちの悔いが死に至るものになることがありませんように。あなたへの信仰に満たしめてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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