☆聖書箇所 ヨハネ4:1〜8
1パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、 2――バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが―― 3ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。 4しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。 5それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。 6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。 7一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に「わたしに水を飲ませてください」と言われた。 8弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
☆説教 サマリア・ストーリー@ 疲れたイエスさまとの出会い
今日はヨハネの福音書の第4章の1節〜8節をお読みいたしました。 「『ヨナ書』に自分を問う」のシリーズ7回が終わりまして、さて次、何をお話ししようか考えておりましたけれども、 「福音書に描かれているイエスさま、このイエスさまに心を留めたい」という強い願いが湧いてまいりまして、この箇所をまず共に開くことにいたしました。
このヨハネの福音書4章はまずサマリアの女性の物語です。 もうすでにご存じの方が沢山おられると思うんですけれども、 このサマリアの女性の物語を通して、イエスさまの恵み深さを味わうシリーズ、 7回位になると思いますが、そのシリーズを「サマリア・ストーリー」と名づけてお送りしたいと思います。
今日はその「サマリア・ストーリー」の第一回目です。 説教題は「疲れたイエスさまとの出会い」。 この説教題、「疲れたイエスさま」という言葉と「出会い」という言葉がありますが、 この2つのテーマで、この朝、このみことばの恵みを共にお分かちしたいと思います。 先ず1つ目のテーマは「疲れ」です。
1)疲れ
イエスさまは疲れておられました。6節をご覧ください。
6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。……
と書かれています。 イエスさまが旅の疲れから、井戸の傍らにただ座っておられた。 ああ、イエスさまってお疲れになるんだ。その疲れの原因は旅だった。 その旅には重荷があったのではないかと想像するんですね。 どのような重荷か?3つの重荷を考えてみました。
@1つ目の重荷――ヨハネへの気遣いとパリサイ人たちの存在の問題。 これがイエスさまにとって重荷になっていたのではないだろうか?
3節をご覧いただきますと、「ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた」と書いてあります。 「再びガリラヤへ向かわれた」ということは、ガリラヤへ向かわれるのは二回目であるということが分かります。 「ユダヤを去って」とありますが、ユダヤを去らなくてはならないとイエスさまが判断されたから、ユダヤを去ることになりましたが、それは一体なぜだったのでしょうか? 1節を見ますとこう書かれています。
1パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、 (※そして3節、と2節を省略して) 3ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
イエスさまがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、という状況があります。 ヨハネというのは、イエスさまが登場される前に、道備えをする先駆者でした。 所謂「洗礼者ヨハネ」とか、「バプテスマのヨハネ」とか言われる、そういう人物でした。 初めの内は、このヨハネの弟子たちのグループが沢山人数が集まっていた、大きなグループになっていました。 その後、イエスさまが現れて、イエスさまの弟子たちが出て来るわけですね。 そうするとこの時代、ヨハネの弟子たちのグループと、イエスさまの弟子たちのグループの二つの存在が目立っていたようです。
さらに日が経つにつれて、イエスさまの弟子たちのグループの方が人数がどんどん多くなっていった。 それが1節に「イエスがヨハネよも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた」という言葉に書かれている、そこから分かることです。 イエスさまの弟子たちのグループの方が、ヨハネの弟子たちのグループよりも人数がどんどん増えていった。
ヨハネはヨハネで、それを信仰で受け止めています。 ヨハネの福音書の1章30節にはこのように書かれています。
<ヨハネ1:30>(***これはヨハネが言っている言葉なんですけれども、と説明) 30『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです。』と私が言ったのは、この方のことです。
と言って、イエスさまを指し示しています。 ヨハネは、「自分よりも優れた人が来られる」ということを皆さんに紹介している。 「私にまさる方」なんだ――それがこの1章の30節ですね。
さらには3章の30節をお読みいたしますと、ヨハネはさらにこう言っています。
<ヨハネ3:30> 30あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」
「あの方」というのはイエスさまのことです。 「イエスさまの方が盛んになって、私は衰えなければなりません。私の役目は終わります。私の時代は終わります。次はイエスさまの時代です。」 そういう気持ちでこの言葉を言ったのかもしれません。
しかし、イエスさまのグループがどんどんどんどん大きくなる。 それをパリサイ人たちがそのことを知ると、パイサイ人たちは面白くなかったのでしょう。 批判をしたり、やっかみを持ったり、様々な感情がイエスさまのグループに対して湧いて来た。 「もうここでゴタゴタしたくない。ヨハネからは距離を置いた方がいい」とイエスさまは判断されたのでしょう。 そこで(ヨハネ4章)3節「ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた」 そのような気疲れ、それがあって、イエスさまはガリラヤへ向かわれたということです。
そうしますと、この旅というのはイエスさまにとって、ある意味では不本意な旅だったのかもしれません。 ユダヤを去らざるを得ないような状況を抱えながら、旅をしていました。
A2つ目の重荷は、サマリアという場所を通る憂鬱さです。
ユダヤからガリラヤへ行く道、その途中にサマリア地方という場所がありますが、 そこに住んでいるサマリヤ人はユダヤ人と仲が悪かった。 今日お読みしませんでしたけれども、9節の最後から二行目、こう書いてあります。
<ヨハネ4:9> 9……ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
すごくこの二つの民族は仲が悪かった。 イエスさまは神さまであると同時に、100%人間となってくださいました。 人間となられている受肉のイエスさま、この福音書に出て来るイエスさまは生粋のユダヤ人として生活されていました。 ユダヤ人として育てられ、ユダヤ人として生活されて来たイエスさまは、やはりサマリア人に対しては特別な感情を持っておられたのではないだろうかと思うんですね。 いや、イエスさまってそんなことないでしょう。愛の人だから、どんな人でも受け入れるでしょう。 しかしイエスさまの感情がふっと出て来る、その言葉が4節に書かれています。
4しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
「行かなければならなかった」というこの言葉の中に、「ああ、サマリヤを通るのか、嫌だなぁ」という思いをイエスさまが感じられたのではないかと、そのことがうかがい知れるんです。
B3つ目の重荷、それはずばり徒歩による長旅です。 4節と5節ご覧ください。
4しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。 5それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
そうしますと、出発点がユダヤでサマリアを通ってガリラヤに行く、その途中のサマリアの町スカル。 出発点ユダヤとありますけれども、エルサレムではないかと思うんですね。 エルサレムの町からサマリアのスカルの町。 お手元に聖書がもしお有りでしたらば、後でご確認ください。 この(新改訳聖書)2017の後ろに聖書地図が載っていて、聖書地図の11番目にイエスさまの時代の聖書地図があるんですけれども、 エルサレムの町、黒い点が有ります。スカルの町、黒い点があります。 その黒い点を物差しで測ると約3cmありますね。 その地図上の3cmを、縮尺を見て換算いたしましたらば、約52km程だということが分かります。 約52kmの長旅。徒歩の長旅。 時速4kmだといたしますと、一日もしぶっ通しで7時間歩いたとしても28kmしか進めない、大人の足で。 そうしますと、28✕2で56ですから、52kmを制覇するには、まぁ2日間はかかるだろうと。2日間の長旅、やっとスカルの町に来た。52km。 52kmと言いますと、直線距離にいたしますと、溝口から熱海までが大体50〜52km位ではないだろうか。 そうしますと、この溝口から熱海まで歩くわけですよ。 しかもちゃんとした道路はなかったでしょうね、当時は。 もう山坂、荒野もあったし、しかも炎天下。それこそ熱中症どころかもう大変な状況の中で、暑さの中でもうへとへとになりながら、イエスさまは旅をされて来たわけです。しかも徒歩で。
このような3つの重荷を抱えて、イエスさまは旅の疲れを覚えておられた。 当然、「井戸の傍らに座っておられた」(6節)ということは喉が渇いていたと思います。 脱水症状はなかったかどうか分かりませんが、人間イエスさまですから、もうへとへとでしょうね。 熱中症寸前だったのかもしれません。分かりませんけど。
しかも、8節から――「弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた」ということは、イエスさまは空腹でした。 勿論弟子たちも空腹だったと思うんですけれども、イエスさまは空腹の状態でした。 そして、そのような状態で、弟子たちは買い物に出かけているし、自分はただ一人ぽつんと井戸の傍らに座っておられた。 この聖書を読みますとね、「その井戸の傍らに、ただ座っておられた」(6節)――この「ただ」という言葉は深〜い意味がありますね。 「ただ座っておられた」ということは、もう他のことはやる気もしない。 イエスさまがボ〜ッとして、父なる神さまに祈る気力もなく、ボ〜ッとしてただ座っておられた。疲れ切ったイエスさま。
でも不思議ですね。疲れ切っておられるイエスさまを想像すると、なんか慰められる(笑)、逆に。なんか癒されるし励まされる。 あ、イエスさまもお疲れになっている。イエスさまも祈る気力もなく、ボ〜ッとしておられた。イエスさまものどがカラカラで、熱中症寸前で、腹ペコで、もうボ〜ッとされているイエスさま――なんか、不思議に癒やされますね。
一つ目のテーマ――「疲れ」です。 二つ目のテーマ――それが「出会い」です。
2)出会い
そこに一人のサマリアの女が、水を汲みに参りました。 この疲れたイエスさまとの出会い。 このサマリア・ストーリーの始まりです。7節――
7一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。……
この何気ない一文、でもこれがサマリア・ストーリーの始まりなんです。 一対一のイエスさまとの出会い。 このサマリア・ストーリーというのは、イエスさまとサマリアの女性との出会いの物語です。 一対一の出会いから始まった。 一対一の出会いなんですけれども、不思議なように、出会いが一対一になるように、3つの偶然が重なっている、ということがここから分かります。 いや、偶然と言ったら違うのかもしれません。3つの神さまの舞台設定と言ったらいいでしょうか。
@「弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた」(8節)。 イエスさまの弟子たちは、食物を買いに町へ出かけていた。イエスさまは一人だった、
A「井戸の傍らに、ただ座っておられた」(6節)。 疲れ果てているイエスさまだった。 イエスさまは疲れていた、ということがこれ、重要なんです。 イエスさまが疲れていなかったら、弟子たちと一緒に買い物に行っちゃったと思うんですね。 イエスさまの好みのものがあるので、一緒に行こうなんて言って、イエスさまも弟子たちと一緒に行かれたと思います。 でも買い物に行く気力もなかった。 イエスさまが疲れて一人でここにおられたから、一対一(の舞台設定)が生まれるんですね。
B昼の12時に、人目を避けるように、一人だけで井戸に水を汲みに来た女性がいた。 7節の「一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。」 イエスさまと、サマリアの女性との一対一の出会い。イエスさまとの出会い。 そして、その出会いのきっかけは、「イエスは彼女に『わたしに水を飲ませてください』と言われた」ひと言にありました。
ところで私たち一人ひとりは、救い主イエスさまと、いつ、どのように出会ったでしょうか? 「イエスさまとの出会い」という言葉に表現されていることの中には色々のことがあると思うんですね。 それは、「イエス・キリストを救い主として信じた」ということがあるでしょう。 「私は救いの恵みにあずかった」ということもあるでしょう。 一般的には、「キリスト教信者になった」という表現もあるでしょう。 さらには、「私は洗礼を受けて、クリスチャンになりました」という言い方もあるでしょう。 それらすべては、イエスさまとの出会いを象徴しているものですけれども、 でも私(戸塚伝道師)は「イエスさまとの出会い」という言葉にこだわりたいと思います。
「イエスさまと出会う」というのは、もっと深い、形に現すことのできない、素晴らしい恵み、イエスさまとの人格的な出会い。 これはなんか言葉で表現したり、一般的な言葉を使ってしまうと、なんか陳腐なものになってしまうような、そんなものではないかと思うんですね。 「イエスさまと私は出会ったんだ」「救い主イエスさまと私は出会ったのだ」というこの体験。
私たち一人ひとりは、いつ、どこでイエスさまと出会ったのでしょうか? クリスチャン家庭で育った人は、ものごころついた時にはもう出会っていた、という感じなのですか?私、分からないんですけれどもね(笑)。 妻(※奏楽の戸塚さん)がよく言うんですね。 「神さまが居るのは当たり前でしょう?」と。 「なんで神さま居るかいないか、迷っているのか。神さまなんて、信じるも信じないも、もう神さま居るの当たり前」って。 ああ、そうなのかなぁ。私(戸塚伝道師)は信じるのに、すごく苦労しました。 でも神さまがいるのが当たり前――もう生まれた時から、神さまがいらっしゃるということが当然の環境で育っておられるクリスチャン家庭の方々というのは、ま、そうなんでしょうね。 空気があるのと同じように、神さまがいらっしゃるのが当たり前なんだ。
でもノンクリスチャンの環境にいた人は、イエスさまとの出会い、いつどこでどのように出会ったか、様々なきっかけがあると思います。 自分から一生懸命求めていたら、あ、イエスさまが分かったとか。 きっかけはミッションスクールに入ったことからだった。 ミッションスクール、そこで毎日のように礼拝があって、そこで礼拝されている対象が実はあのイエスさまだった、ということが分かったとか。 教会学校に小さい時から通っていて、そして教会学校で語られているイエスさまと出会ったとか。 さらには、一冊の本、讃美歌の一曲、一枚のチラシ、友だちや友人や家族の誘い、教会のイベントに参加したということもきっかけになったと思います。
今年は夏恒例の、「教会学校夏祭り」がなかったんですよ〜。 ねぇ、これを聞いてる教会学校の皆さん〜、あ、聞いてる?聞いてます? (と笑って左下のカメラに語りかける戸塚伝道師) 寂しかったね、今年の夏ね。教会学校夏祭りがなくてね。こういう楽しい企画ね、一年に一回か二回しかないのにね、今年残念でしたねぇ。
でも、この夏祭りのような教会のイベントに、参加してくださる親御さんもいました。 そういう所から教会に来て、イエスさまに出会う、というケースもあるでしょう。 あるいは8月30日に予定されているオリーブのコンサート、そのコンサートがきっかけになるかもしれないし。 もしかしたら今日初めて高津教会のオンライン礼拝に何気なしに出会って、 今ここでこのお話を聞いてくださっている方の心に神さまが働いてくださって、 もしかしたらイエスさまが出会ってくださるんじゃないだろうかと期待しているあなた、今日がその日かもしれません。今日がイエスさまと出会う日かもしれません。 ねぇ、何がきっかけになるかわかりません。
でもこれだけは共通しています。それは、イエスさまとの出会いのきっかけというのは、 このサマリアの女性との出会いのように、神さまが用意してくださっているということなんです。 その出会いは――私たちが一生懸命頑張ってキリスト教を勉強して、 イエスさまというお方はどういうお方かを聞いて、 挙句の果てに、それならば信じてみようか――という所に現れるものではなくて、 ふっとした所から、イエスさまの方から出会ってくださる、そういうものなんです。 ですから、私(戸塚伝道師)も不思議です、良く信じられたなぁと。 イエスさまの方から出会ってくださる。 神さまの方で全部用意してくださっていて、舞台設定は全部準備万端で、 そして何らかのきっかけで、ふっとイエスさまが救い主だと分からせてくださる。
で、この場合、(ヨハネ4章)7節、サマリアの女性の場合―― イエスは彼女に「わたしに水を飲ませてください」と言われた。 イエスさまの方から、喉が渇いてカラカラになっているイエスさまの方から、 水を汲みに来た女性に向かって、出会ったんですね、イエスさまが出会われたんです。 出会いのきっかけはあちらから、イエスさまから。
最後に歌う讃美歌、教会福音讃美歌の426番を賛美する予定なんですけれども、 これは、昔、伝道会が夜あった時に、よく讃美した伝道会の讃美歌でした。 最初にイエスさまの言葉から始まる讃美歌です。 イエスさまがこう仰っています。 (1節)「疲れたる者よ 我に来たり 重荷をおろして とく休め」 「とく休め」というのは、早く休みなさい、ということです。 2節、「渇きたる者よ わが与うる いのちの清水を 来たり飲め」 3節、「暗きに住む者 我の照らす まことの光を 仰ぎ見よ」 イエスさまが招いておられる讃美歌ですね。 「疲れたる者よ 我に来たり 重荷をおろして とく休め」 「渇きたる者よ わが与うる いのちの清水を 来たり飲め」
でもヨハネの福音書4章のイエスさまは、イエスさまも疲れていた(笑)。 イエスさまも渇いていた。 疲れたイエスさまが、喉がカラカラのイエスさまが、声をかけてくださる。 「わたしに水を飲ませてください」と。 水を汲みに来た一人の女性に、声をかけられたイエスさま。 この朝、私たち一人ひとりにも声をかけてくださるイエスさま。 あの日あの時、イエスさまに声をかけられて、私たちはイエスさまと出会うことができました。 感謝したいと思います。
☆お祈りいたします。――戸塚伝道師
イエスさま、感謝いたします。水を汲みに来たサマリアの女性に出会ってくださったように、あなたは今を生きる私たち一人ひとりにも目を留めてくださるお方です。そしてこの私を救うために、十字架でいのちを捨てられたことさえ知らなかった私にも声をかけてくださいました。心から感謝いたします。 出会いのきっかけは人様々ですが、あなたはどのようなきっかけをも用いて導かれるお方ですからありがとうございます。
始まりましたこの一週間の歩みにおいても、暑さの中で、忙しさの中で、新しい生活様式の中で、様々な状況に振り回され、心身共に疲れを覚える時、サマリアの井戸の側で座り込み、共に疲れを経験されたイエスさま、あなたを思い起こさせてください。そして私たちを強め、励ましてくださるよう顧み続けてください。あなたのお名前で天の父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。
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