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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/23 手を伸ばしなさい ルカ6:1〜11
☆聖書箇所  ルカ6:1〜11

1ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは穂を摘んで、手でもみながら食べていた。
2すると、パリサイ人のうちの何人かが言った。「なぜあなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
3イエスは彼らに答えられた。「ダビデと供の者たちが空腹になったとき、ダビデが何をしたか、
4どのようにして、神の家に入り、祭司以外はだれも食べてはならない臨在のパンを取って食べ、供の者たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」
5そして彼らに言われた。「人の子は安息日の主です。」
 6別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに右手の萎えた人がいた。
7律法学者たちやパリサイ人たちは、イエスが安息日に癒しを行うかどうか、じっと見つめていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
8イエスは彼らの考えを知っておられた。それで、手の萎えた人に言われた。「立って、真ん中に出なさい。」その人は起き上がり、そこに立った。
9イエスは彼らに言われた。「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」
10そして彼ら全員を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、手は元どおりになった。
11彼らは怒りに満ち、イエスをどうするか、話し合いを始めた。

☆説教  手を伸ばしなさい

先週の日曜日、私(藤本牧師)は戸塚先生が講壇にお立ちになりましたので、(長野県)上田教会に行きまして、以前の副牧師でいらっしゃいました古川先生に夏休みを取っていただきました。
上田も暑かったですね。上田に行き着くまで、どの都市をとっても37度以上あるという、非常に暑い旅路でありましたけれども、
教会にはアクリル板があって、そして賛美の時だけ窓を閉め、賛美が終わったら一斉に窓を開ける、十分な対策がされていて、
そして教会員の皆さん、皆さん元気で、古川先生を支えておられました。
ま、ご婦人の先生が一人で牧会するというのは大変なことだと思いますけれども、教会の様子を見てとっても安心しました。
これから先もできたら色々行ってみたいなぁと思うんですけれども、ま、色々行くことによって高津教会の伝道費が少しずつ減って行くことになるかもしれませんし、
また行くことによって、迷惑がかかる場合もあるでしょうし、少し自重しなければいけないなぁと思いますけれども、
7月には小島先生(静岡教会)の所に行くことができたということは、本当に感謝でありました。

ゼカリヤの学びが終わりました。で、次に始まるのはガラテヤです。
で、ちょっと私(藤本牧師)に助走時間をください。
ガラテヤをどういう風に組み立てることができるのか、実はガラテヤ書の講解というのは20年ぶりです。ちょうど20年ぶり。
あの時は、インマヌエルに依頼されて「ガラテヤ書の講解を書いてくれ」、今回はいのちのことば社に依頼され、「ガラテヤ書の講解を書いてください。ガラテヤ書は非常に厄介で、神学的なので」ということで、お引き受けいたしました。
やっぱり大切な書物を20年ぶりにやるというのは、私なりにチャレンジですし、皆さんなりに新鮮であろうと思いますので、ぜひついて来ていただきたいと思います。

では今日は「手を伸ばしなさい」と題して、ルカの福音書の6章を見ていただきたいと思います。
(ルカ6章の)1節に「ある安息日」と一つの話が始まっていきます。
そして6節に「別の安息日に」と違う話が始まっていますから、
これ両方共、安息日に関わる話なんだと理解してください。
で登場人物は、基本的にはパリサイ人という当時の宗教家、そしてイエスさま、そして後半に出て来る手の不自由な人です。

最初の出来事を簡単に見ておきたいと思いますが、
(ルカ6章)1節に、「安息日に、弟子たちが歩きながら、麦の穂を摘んで食べていた。
泥棒ではないんです。そうすることは旧約聖書でも許されています。
旅人が麦の穂を摘むということは許されています。

ところがこの日が安息日であった。ユダヤ人では土曜日が安息日に当たりますけれども、これが問題でありました。
細かい規定が沢山ありました。
安息日の規定というのは、もともとの旧約聖書のモーセの十戒では、
「安息日を覚えて、これを聖なるものとしなさい」という非常に単純な規定です。
「聖なるもの」というのは、安息日を聖別しなさいという意味であって、
普通の日と同じようであってはならない、という意味なんですよね。
特に労働をしない。すなわちからだを休める。心を休める。たましいを休める。

でも「労働をしない」となりますと、何をもって労働となるのか、どこまで働くことが労働と考えられるのか、と色々人々は疑問を感じます。
そこで人々は、39の規則を作り、それぞれに39の細則を作ったと言われています。
合計で1521の規定があったと言われています。

すると弟子たちですけれども、麦畑の脇を歩きながら、「穂を摘んで、手で揉みながら食べていた」(1節)とありますよね。1節の後半――

1……弟子たちは穂を摘んで、手でもみながら食べていた。

これは収穫した。脱穀をしたということになってしまいます(笑)。
何とも滑稽でありますけれども、当時の習慣で、こうした規定をきちっと守ることが「安息日を聖なるものとする」と理解していました。

さて、周囲の宗教家がこれを見て、そしてイエスさまの行動、弟子たちの行動を批判して、第二の出来事が始まっていきます。
6節からの「別の安息日に」という所ですね。ちょっともう一回読んでいきます。

 6別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに右手の萎えた人がいた。(***右手が麻痺した人がいた、と説明)。
7律法学者たちやパリサイ人たちは、イエスが安息日に癒やしを行うかどうか、じっと見つめていた。彼を(***イエスを、と説明)訴える口実を見つけるためであった。
8イエスは彼らの考えを知っておられた。それで、手の萎えた人に言われた。「立って、真ん中に出なさい。」その人は起き上がり、そこに立った。
(※「別の安息日に」に青い線の囲み、「立って、真ん中に出なさい」に青い線が引かれている牧師の聖書が映される)。

という出来事です。今日はここから学びたいのですね。
手は働きの手です。労働者の手です。人生の手です。それが動かない。
それは古代の社会にあって、致命的でありました。
それは左手が右手の代わりをする、そういう問題ではないんです。
四肢のどれかが麻痺して動かないということは、社会的な立場を失う。
それからちょっと別格に考えられてしまう。あるいは社会を追い出される。
そういう苦労を背負っている人がそこにいたんですね。

さて、ここからなんですが――
彼を囲んでいる律法学者やパリサイ人の関心は、この手が不自由な人には実は向けられてない。
宗教家が関心を抱いたのは、その人の苦しみのことではない。
果たしてイエスが安息日にその人を癒やすかどうか、つまりイエスが律法に反することをするかどうかであって、
苦労して――生まれつきなのか、途中なのかは分かりません――心身の不自由を担ったという所には、全く関心を向けていないということですよね。

彼らはそういう目で人を眺め、イエスを眺めていました。
一人の人の苦しみが全く問題になっていない世界。
その人の存在さえ、彼らは関心がありません。

こうした状況が、沢山聖書には記されていますよね。
▼汚れた霊につかれた息子が、所かまわず火の中水の中に飛び込んでしまう。その命がけの人生と、悩んで息子を守る父親が出て来ますよね。
(***マルコ9:14〜29、ルカ9:37〜42、マタイ17:14〜20)
あの時も周囲の人々は、「なぜ弟子たちには悪霊を追い出すことができなかったのか」と論争はしますけれども、その息子と父親に同情している姿はないんですね。

▼正気を失って墓場に住み着き、凶暴で朝晩叫び、自分の身体を石をもって傷つける男とありますけれども、
(***ルカ8:26〜39、マタイ8:28〜34、マルコ5:1〜20)
イエスさまは彼に会うために出かけていきますが、周囲の人々は港から上がって墓場に通じる道に行かないようにしていたと。彼のことを見ないように、彼のことには触れないようにしていたと。

▼12年出血の病を煩っていた女性が出て来ます。
あらゆる医療にお金を注ぎ込んで、すっからかんになってしまった女性です。
(***マルコ5:25〜34、ルカ8:43〜48)

▼生まれつき目の見えない男性が出て来ます。
(***ヨハネ9:1〜41)

▼耳が聞こえなくて、それがゆえに口が利けない男性が出て来ます。
(***マルコ7:31〜37)

▼そして多くのハンセン病の方々が出て来ます。
(***ルカ5:12〜16、マタイ8:1〜4、マルコ1:40〜45)

福音書でイエスさまが病気を癒やされた箇所は併せて、ま、重なりますけれども、105カ所もありますね。
▼ちょっと代表的な表現を見ていただきますと、こういうのがありますね。
マルコの福音書の6章ですが、53節から私(藤本牧師)読んでいきます。
(※自身の聖書を指でなぞりながら読む藤本牧師)

<マルコ6:53〜56>
 53それから、彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着き、舟をつないだ。
54彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついた。
55そしてその地方の中を走り回り、どこでもイエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運び始めた。
56村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。

こういう風景が一般的だと思って、私(藤本牧師)はいいんだろうという風に思います。
さて、こういう所からちょっと今日は、3つのポイントで短くお話をします。

1)「出口なき牢獄」です。

「出口なき牢獄」というのは、サルトル(***仏哲学者、1905〜1980による戯曲「出口なし」)の言葉です。
牢獄、地獄とは一体何か?それは人々の冷たい視線の中に投げ込まれた人間の状況です。
人々の冷たい視線の中に投げ込まれた人間の状況――周りに人はいます。
しかしそこには愛がなく、冷たい視線で自分は見られている。見つめられている。
冷たい視線の中に、ただ一人自分が捨て置かれている、という状況です。
これこそ「出口なき牢獄」で、この世界はその意味で「出口なき牢獄」です。

私たちは時として、そういう状況に追い込まれることがありますし、
また反省するのは、私たちがそういう牢獄を造り出して、周囲の人々を一人にしているということがあると思いますね。

イエスさまは、特にそういう状況にあった病人、あるいは社会的にハンディを持つような人々に必ず触れられる。出会う。憐れまれる。声をかける。
そういう箇所が聖書の中に沢山出て来ます。

宮城女学院で長い間、宗教学的な視点から聖書を読んでいた、有名な山形孝夫【***1932~(88歳)日本の宗教人類学者、宮城学院女子大学名誉教授】という先生がいらっしゃいます。
検索されると沢山書籍が出て来ます。
彼の言葉をちょっと読んでいきますね。

――ここから読み始め――
私が聖書を真面目に読み始めたのは、高校二年生の秋。今でもはっきりと覚えているのは、友人と語らって洗礼を受けたからである。もう50年も前の話である。

読み始めてすぐ、ガリラヤ湖畔の村から村へ病者を訪ね歩く、不思議なイエスの物語に惹き込まれていった、おびただしい数の病者である(***病者とは病人ですね、と説明)。

子どもの頃、私の住んでいた仙台東部の寺町には、盆や彼岸の季節になると、どこからともなく沢山の物乞いが湧いてくるように現れた。その中に、顔を布で隠し通り過ぎていく物言わぬ浮浪者が混じっていた。そうした浮浪者のために、握り飯を皿に載せて、家の軒下や戸口に置いておく習慣が寺町にあった。

子どもたちは固く口を閉ざして、覗き見することさえ禁じられていた。そのような過去の残酷な記憶が、聖書の重い皮膚病の男の癒やしの場面と重なったのだ。
――ここまで読み終わり――

ま、昔ですから、町や寺町に住むことも許されなかったでしょう。
せめてお盆の時期だけ、姿を現しにやって来る。
黙って握り飯を家の戸口に置いておくというのは、わずかな優しさでしょう。
しかしその時期が終わってしまえば、もはや目にすることはないですね。

でも当時そのような病を持っていたら、サルトルが言う「出口のない牢獄」に生きていたことになりますね。
それは、私たちがもし仮に、いきなり手足の自由を失ったとしたならば、
仮に、いきなり目の不自由を担うことになったら、
私たち現代でさえも、若干そういうことを感じるに違いないですね。

コロナの時期になって、言われるようになった、という風にニュースでやっていました。
目の不自由な方々が、(健常者から)町で声をかけてもらえなくなったと。
以前ですと、「駅まで行かれます?」とか「肩、お貸ししましょうか?」とか、
色んな形で駅やそこらじゅうで声をかけていただいたのに、
コロナになってから、声をかけてもらえなくなった――ま、触れるということが良くないからなんでしょうけれども。
それがゆえに、大変な苦労をしている、という話をニュースでやっていました。

人の視線を感じながら、それが非常に冷たくて、そして自分を見て見ぬかのように振る舞っている。
パリサイ人や律法学者たちはイエスに視線を注いでいます。彼が何をするか。
ところがこの手の萎えた人には、全く視線を送ってない。

2)イエスさまは何のためらいもなく、声をかけられました。

(ルカ6章)8節ですね――

8イエスは彼らの考えを知っておられた。それで、手の萎えた人に言われた。「立って、真ん中に出なさい。」……

イエスさまの目は、いつも特別にそのような人たちに注がれています。
これはやはり聖書の語る主イエス・キリストの真理だと思います。
この箇所はそればかりではない。
イエスさまは、ある意味、宗教家への挑戦として、病の人を癒やすという行動に出られるわけですね。
彼らが見ているからこそ、彼らの前で堂々とこの人物を癒やすわけです。
でも聖書全体を見れば、「出口のない牢獄」にさまよう人があれば、何のためらいもなく、声をかけるのがイエスさまです。

それが病人であれ、社会的弱者であれ、人生の労苦を負っている者であれ、問題ではない。
聖書は身体的な不自由さを、私たち一人一人の霊的な不自由さとして語っています。
▼足が萎えているということは、自由に行動できない。
それがゆえに床にしがみついて生きて来たという人物がいます。
それもまた私たちの姿でありましょう。
自分の人生の床に、ある意味しがみついてしまう。
▼耳が聞こえないというのは、神さまの声が聴き取れない。
▼口が思うように動かないということは、祈れない。
▼目が見えないということは、霊的なことがら、神さまの世界のことが全然見えない。
出て来る病人というのは、全部私たちのことです。

ですから、もしイエスさまが「さあ、立って、真ん中に出なさい」という声を発せられたのならば、
それは、今日インターネットでこの礼拝を観ておられるお一人お一人、ここに集っておられるお一人お一人、また私自身のことである、ということをやっぱり理解しなければいけないと思います。
私たちを身体的な不自由から解き放ってくださるイエスさまは、私たちを心の不自由さからも解き放ってくださる。

「立って、前に出なさい」というのは、イエスさまにしてみたら、群衆の中からその人物を指名するような出来事でありました。
でも指名された側としては、この時「前に出る」という大変なチャレンジを受けるわけです。
ある意味では、今まで隠れて黙って生きることができた。もうそれに慣れてしまった。
顔を隠すように、手を隠すようにして来た彼が、いま前に出る。
「わたしはあなたを癒やす。」
このイエスさまの愛のチャレンジに惹きつけられるように、彼は応えて前に出て来ます。
それは決断と言うよりも、イエスさまの招きに惹きつけられるように応じて、思わず前に出たんだろうと思います。
でも言えることは、「立って、前に出る」ことは求められている、ということです。

三番目に、これで短く終わりにいたします。
3)「手を伸ばしなさい」(ルカ6:10)

10そして彼ら全員を見回してから、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、手は元どおりになった。

イエスさまは彼を癒やします。
これがイエスさまというお方で、イエスさまは私たちに
「手を伸ばしなさい。わたしはあなたを救いたい」「あなたを癒やしたい」「あなたを励ましたい」「あなたにいのちを与えたい」

「手を伸ばす」というのは、手の不自由な人に向かって、手を伸ばすというのは、これはもうちょっと難しいですよね。
手が動かない人に、「首振ってご覧」って言われたら、ま、それで手が動くようになったらありがたいですね。
片っ方の手が動かなくて、「ちょっとじゃもう片っ方の手を出してご覧。それをクッと引っ張ってる内に、段々こっちが動くようになるから」って言われれば、ありがたいですね。

だけど、「動かない手を動かせ」というのは、これは何倍もの信仰のチャレンジだと言っても過言ではないと思います。
「手を引っ込める」という言葉がありますよね?
考えてみるならば、「手を伸ばしなさい」と言われた。すると、途端にその男は「手を引っ込めた」という表現があったっていいわけじゃないですか?
ま、引っ込める力もないわけですけれども。
しかし彼は信仰をもって、意識的に動かないはずの手を動かしたら、動いたということですよね。

「解放されていく」というのはこういうことなんだろうなと思います。
彼を苦しめてきたことというのは――
@身体的な不自由
Aなぜ自分だけがこんな目に遭うのか?という不遇な境遇に閉じこもる自分
Bいつも晒されていた、周囲の冷たい視線
物を見るように、他人事として、何の関心もなく、自分のこの不自由さを見つめる視線。

しかしここでイエスさまは彼に出会ってくださった。
その方は、自分に目を留め、自分を招いてくださった。
でも仰ったことは、「本来動かない手を動かしてごらん」と、私たちの信仰の勇気を喚起され、そして彼は全く新しくされます。
主によって新しくされ、新しい自分が与えられます。

その「新しい自分が与えられる」というのは、イエス・キリストを信じる者にとって、一番大きなテーマです。
これ程難しいことはないんです。
でも神さまは少しずつ、時に一気に、時に一段階上に、私たちを変えてくださいます。

一つ興味深い実話をお話しして終わりにいたしますね。

地方の新聞、日本でも地元の名士が亡くなったりしますと、お知らせが出ますよね。
ここ十年位、新聞取ってないんで(笑)分からないんですけれども、多分地元版には出るんじゃないんですかね?
アメリカの地方紙に行きますと、「お悔やみの欄」だけじゃないんですね。
「結婚しました」というのが出ますし、それから「子どもが生まれました」というのが出るんですね。
それでご両親は自分の子どもが生まれたという部分を切り抜いて、子ともの成長のアルバムの中に、その生まれた日とその生まれた日の一面の出来事――こういう時代にあなたは生まれたんだよ、みたいな――一面の出来事を貼る、というそういう習慣があるほど、名前が出るんですよ。
生まれた時、結婚した時、死んだ時ですね。

実話はこうなんですね。
一人の男性が、ある朝新聞を読んでいると、「お悔やみの欄」に自分の名前が出ていた。
同姓同名ではないんですよ。タイトル(***肩書)があるから、これは間違いなく自分なんですよね。

ちょっと誤解を招く。ま、それ以上にけしからん、という思いで新聞社に手紙を書くんですね。
「お悔やみ欄に、訂正記事を載せてほしい」と。
すぐに新聞社からの手紙が返って来ます。新聞社からの答えがこうなんですね。
「大変申し訳ありません。しかし弊紙はそのような訂正記事を載せることはありません。
その人に何らかのダメージ、社会的なダメージが生じるような場合を除いては、そのような訂正記事を載せることはありません。」

「その代わりに『誕生欄』にあなたのお名前を載せましょう。」
(※藤本牧師自身も楽しそうに大笑)
そういう提案だったんですよ。で、新聞社の方から、
「○月○日の『誕生欄』でいかがでしょうか?」
という提案があったんですよ。で、最後に
「新しい人生をプレゼントします」と。

で、これね、実話なんですけれども、私(藤本牧師)は半分冗談だと思います。
新聞社側からの非常に機転の利いた応答が返って来た、ということなんだろうと思います。
で男性は、その返答に感激して、それで良しとしたという話でございます。

誰もが、ある意味、明日に向かう力を必要としているんですよ。
それは誰でもそうです。
それを私たちは神の摂理――神が扉を開いてくださる。神が私のために、明るい将来を約束してくださる。祝された道を備えていてくださる――
これを信じることができなかったら、私たちはひたすら今日の労苦に埋もれるだけです。
あるいは、明日に迫り来る所の不安に、心を惑わされるだけです。
でも神さまは常に私のために、希望のある将来を備えてくださる、とエレミヤ書に書いてあるじゃないですか。(***エレミヤ29:11)

イエスさまの「手を伸ばしなさい。わたしがあなたの動かなくなってしまった手を、縛られてしまった心を、『出口のない牢獄』からわたしが引き上げてあげよう」というのは、
まさにある意味、「あなたの名前を、お悔やみ欄に載せた。代わりにあなたの名前を出生欄に載せてあげよう」と言っている程の劇的な変化を、この男性は体験したんです。
私たちもまた、少なからずそういう体験を期待したいと思います。

☆お祈りをいたします――藤本牧師

10そして彼ら全員を見回してから、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、手は元どおりになった。
(ルカ6:10)

恵み深い天の父なる神さま、この手を、右手の萎えた人物の勇気、「前に出て、真ん中に立つ」だけでなく、「全く動かない方の手を伸ばせ」と仰るイエスさまに答えた彼の信仰、私たち、少し見倣うことができますように。

なぜなら、あなたはみことばを開き、礼拝に出る私たちを見る度に、私たちに関心を寄せ、私たちの心を慮り、私たちを迎え、私たちに「手を伸ばせ。その動かない方の手を伸ばせ。動く方ではない」――そう仰ってくださるのがあなたであります。

どうか私たちに、あなたに信頼して意識的に動かないものを動かす力を与えてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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