☆聖書箇所 ガラテヤ1:1〜10
1人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、 2私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。 3私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。 4キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。 5この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。 6私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。 7ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。 8しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。 9私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。 10今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。
☆説教 ガラテヤ(1)福音にあらざるもの
さて、今日からガラテヤ書の学びに入ってまいります。そんなに長くはならないと思います。全体で6章ありますので、でもやっぱり10回以上は行くと思いますので、しばらくお付き合いいただきたい。 ガラテヤ書のような教理的な書簡は、このオンラインでやるというのは、少し飽きるのではないかと思いますが、いま聖書を映し出していきますので、少しでもきちっとお付き合いいただければと思います。
教会の歴史の中で、「ガラテヤ人への手紙」を大切にした人は、何と言っても宗教改革者のマルチン・ルターですね。 彼はガラテヤ書を「私の愛するケーテ」と呼びました。 ケーテというのは、彼の奥さんであります。
なぜルターがそれほどガラテヤ書を好んだのでありましょう。 宗教改革者ルターは戦っていました。 そして(ガラテヤ書を書いた)パウロも戦っています。 ガラテヤ書というのは、「戦いの書簡」と呼ばれています。 パウロもルターも同じような問題と戦っていました。 それがちょっと聖書を見てください。6節にありますね――
6私は驚いています。……このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。 (※「このように〜行くこと)にまで蛍光ペンの線のついた聖書が映し出される)
「ほかの福音」というのに戦っているんですね。でも(すぐ)7節に――
7ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。……
と言いますと、戦っているのは、福音とは別の教え、いやその福音をゆがめて、その意味を消滅させてしまうような危険な教えと戦っています。
ですから、1章の1節をちょっと見ていただきたいと思うんですけれども、パウロは自分の権威を前面に出して来ます。
1人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、 (※1節すべてに蛍光ペンのハイライト) 「書き手は私パウロだ。その私は使徒であって、キリストの任命を受け、なおかつキリストを復活させた神から任命を受けている」という程の 異常な使徒性、自分自身の権威性にこだわって、この福音書を書いています。
ピリピの手紙と比べていただくとよく分かります。映しますので、ちょっと見てくださいね。ピリピの初めはこうですね。 <ピリピ1:1〜4> 1キリスト・イエスのしもべである、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。 (※2節を飛ばして、)で3節に―― 3私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。 4あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、 (※3節「あなたがたのことを思うたびに」、と4節「祈るたびに」に蛍光ペン)
(ピリピの手紙が)祈りと感謝で手紙が始まるのに対して、ガラテヤ書はこの6節の「私は驚いています」と、こう始まるのを比較してみますと、 「これ(ガラテヤ書)が戦いの書簡である」ということがよく分かっていただけると思います。
なぜパウロはこれほど厳しい言い方をしているのか? ガラテヤの諸教会というのは、パウロが開拓しました。しかし後から来た者が、パウロの使徒性を否定して、彼の教えとは違うことを説き始めました。 それはパウロにとっては緊急事態。まさに福音の危機です。 そこで、自分の教えが直接にイエス・キリストと父なる神から来たことを強調しています。
短く3つのポイントでお話しいたします。先ず第一番目に――
1)では、それほどまでに危機意識を持たせた、「ほかの福音」(6節)というのは、一体どういう教えなのか?
これは後に詳しく書を学びながら説明していきたいと思いますけれども、 2章の12節に、割と簡単な表現でこういう風に出てきます。いいですか。
<ガラテヤ2:12> 12ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。 (※「割礼派の人々」に蛍光ペンのハイライト)
「割礼派の人々」というのが、今ガラテヤの教会を支配しています。 それがパウロがいうところの「ほかの福音」なんですね。 割礼派の人々というのは、どういう教えをするのか? 非常に端的に今日お話誌しておきます。もう少し詳しく、後に説明をいたします。
彼らは言います。 「十字架によって救われる。」――そりゃそうなんです。 「しかしその人が正式に神の家族に加わるためには、ユダヤ人と同じ割礼を受け、 そして正式に旧約聖書の律法(ま、割礼も含めて安息日の律法、食事律法)を守らなければいけない。 そのようにして、正式に長〜い伝統のある旧約の民と共になる。 十字架はあくまでもその入り口だ」と教えていました。
ある意味、説得力があります。 いきなり生まれたキリスト教ではなく、長〜い間伝統と誇りのある、教えのある旧約聖書の民の中に、十字架という門を通って中に入っていく。 ですからキリストの十字架を信じて、異邦人としての罪を赦してもらう。 しかし私たちの基本的なあり方というのは、神の民の(旧約聖書の)律法を行うかどうかによって決まって行く、というものの考え方です。
ルターが当時戦っていた「ほかの福音」を掲げるのは、カトリック教会の人々でありました。 彼らも同じようなものの考え方を言います。いいですか。 私たちの罪が赦されるのは、十字架の贖いによります。 しかしそれを受け取った時に、あなたは同じように罪を償わなければならないと。 罪赦される。しかし二度とその罪を犯すことがないように、罪を自分で償う努力をしなさい。
簡単なもので言えば、「主の祈り」を百回唱えなさい。 少しお金持ちであれば、有名な画家に頼んで立派な聖画を描いてもらって、教会にささげなさい。 金銀財宝を積んで、礼拝堂の修復拡張工事に協力しなさい。 庶民ができるものとして、ローマへの巡礼というのがありました。
中世後期で最大の償いの方法というのは、いのちをかけて十字軍に参加しなさい。 ローマ教皇は教えました。 「もしあなたが、十字軍に参加するなら、既に死んでいるあなたがたの家族をも煉獄から救い出すことができる。」 煉獄に入るということはどういうことかというと、罪赦されて神の子となっても、償いが十分に地上で成し遂げられていなかった。つまり生活がまともでなかった。 だから煉獄という一旦フィルターに掛けられるわけですけれども、その償いを充分に果たすほど、自分の償いだけでなく、家族の償いまで。
OYさんが、スペインにおられた時に、「先生、今年サンティアゴの400`の大巡礼の年です。この日400`歩けば、一生の罪が赦されます。先生、是非お出でください」という。 これは行くべきかなぁという風に思いましたけれども(笑)、ツアーを調べてみますと日本からも随分ありまして、 400`全部歩いてもいい。所々バスを使ってもいい。それから所々自転車を使ってもいい。色々短縮する方法もあるんですね。 全部行くのと短縮した方法と、最後の免状は違うわけですけれども、その免状をもらいに行くわけではない。 それからスペインの田舎町を歩いて、自分の人生を変えるためでもない。 本来の意味は巡礼ですから、それによって自分が地上で成し遂げなければいけない償いを一気に果たす――そういう意味があったわけですね。
ルターの頃、そこに出現いたしましたのが、貨幣価値の文化とそれからグーテンベルグの印刷機です。 どうなりますかというと、印刷機を使って大量の贖宥状(しょくゆうじょう)というのを作ります。 贖宥状というのは、あなたがこの紙を買ったがゆえに、あなたはこれこれ分の償いを果たすと。 そして、その贖宥状を地域の担当官に全部預けて、販売許可を与え、そしてそれを販売していくんです。 非常に販売の上手い人もいました。利益の半分はローマの教皇庁に行きます。利益の半分は地元のカトリック教会に行きます。あるいは王家、お城に行きます。
そのようにして償いのために贖宥状を買いなさい。 それはそれは売れました。 ちょうど今のコロナパンデミックと同じように、さらに致死率の高いペストの大流行の年など、贖宥状が飛ぶように売れていきました。
すると、一つの論理が生まれます。 「救われるために、十字架の贖いだけでは不十分だ。」 ま、十分なんですけれども、でもそれに加えて、 「その十字架の贖いに答えるように、あなたは一生懸命償いをしなさい」と言われると、 関心はどんどん「いかにして罪の償いを果たすか」という方へ向いて行きますね。 しかも贖宥状のように手っ取り早い償いの方法があれば、気持ちが引き寄せられて行きます。
パウロが戦っていた割礼派の人々も、ルターが戦っていた中世のカトリック教会も、共にキリスト者でありました。 しかし、そこに「福音にあらざるもの」が混入してまいります。 するといつの間にか、福音の真髄が破壊されます。 ルターの時代なら、人は喜んでキリストの御前にひざまずいて信仰する以上に、喜んで償いを果たすという人間的な方法に走っていきます。 パウロの時代で言うならば、人は喜んで新しい十字架に心を寄せる以上に、古くからある旧約聖書の厳しい律法というものを好んで取り入れるようになります。 それはまじめで敬虔な人であればあるほど、そうです。
私(藤本牧師)は以前、カッコウという鳥の話をしたことがあります。 カッコウは他の鳥の巣を見つけて、自分の卵を産み付けるんですね。 他の親鳥は帰って来た時に、卵の数が増えているということに気が付かずに一生懸命その卵も温めてしまう。 カッコウの卵はほかの鳥の卵よりも早くかえるんです。 すると雛は本来そこにある卵を全部巣から蹴落としてしまいます。 そして自分が居座ってしまうんですね。
それをたとえて、ドイツの(ルター派)神学者ヘルムート・ティーリケ(***1908〜1986)はこんなことを言いました。 「悪魔は敬虔という巣の中に、自分のカッコウの卵を産み付ける」と。 敬虔というのは、信仰深い、信心深い、真面目な、そういう人のたましいに、悪魔は自分の卵を産み付ける。 割礼派も非常に敬虔なクリスチャンでありました。
自分のたましい、あるいは家族のたましいを煉獄から救い出すために、十字軍に行く人々も敬虔な信仰者でありました。 赦してもらうだけでは不十分だ、という心というのは、私たちにはいつもあります。あるものです。 「積極的に罪の償いに励むように努力しろ」と言われれば、あ、そういうものかなという風に思うではありませんか。 気をつけなければいけないんですけれども、カルト的な教会というのはほとんどそういう方向に行きますよね。
神さまの恵みというのは――何て言いますかね――有島武郎(ありしま・たけお、1878〜1923)の言葉ではないんですけれども、「愛は惜しみなく奪う」というのがありますね。 「神さまが御子イエス・キリストのいのちを投げ出すほど、私たちを愛してくださったならば、あなたもいのちを投げ出しなさい。 あなたも自分の人生、自分の財をすべて投げ出して、神に仕える者となりなさい」 ということを、何度も何度もこの講壇から聞かされている内に、段々、 「そういうものなんだなぁ」と。 「なるほどキリストの救いは入り口であって、本当に神の家族になるためには、私たちはそれなりの努力を積み重ねていかなければいけないんだなぁ」 ということを考えてしまいますね。
2)パウロは言います。(ガラテヤ1章)6節に――
6私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。 (※「このように〜行くことに」まで黄色のハイライト有り)
「このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに驚いている」ということは、 私たちが覚えておかなければいけないことは、こういう愚かさを私たちも背負っているということです。 カルトなんかによく染まるなぁと思いますけれども、しかし、そこに染まりやすい性格というのは、もしかしたら人は誰でも持っているのかもしれません。
理由は簡単なのですね。 それは、「何かしなければいけない」「何か頑張らなければいけない」という、この律法主義、自力主義、成果主義、出来栄え主義というメンタリティー(***気持ちの方向性ですね、と説明)――それは《サタンが敬虔なキリスト者の心に植え付けた卵》だと思っていいんですけれども――私たちはなかなか気づかないものなんです。 パウロが「このように急に離れて、ほかの福音に移って行く」と驚いたほど、あっという間に私たちも流される傾向にある。
どうしてなのか?――これが第2のポイントなんですが―― それは、私たちが住んで育って来た世界がそうだからです。 この世界そのものがそうなんですよね。
何かをしなければ、自分の存在意義を証明できない。 努力の結果も、そもそも何もしなければ出来上がるものではないですね。 小学校の通知表の「良くできました」「できました」「頑張ろう」 算数、体育、音楽でさえ、成績は付くものじゃないですか。 出来が悪ければ、せめて先生は仰いますよね。 「整理整頓を頑張ったね」とか、あるいは「多くのお友だちができましたね」とか。 何らかの評価というものは、必ず通知表に書かれていなければいけない。
極端な話に聞こえますが、米国の自動車会社のフォードは、社員が1〜27等級まで分かれている。 平社員から取締役に至るまで、1〜27の等級に分かれていて、これによって給料が決まるだけではない。 星が13個になると、役員の資格が与えられ、自分専用のオフィスが与えられ、しかもそのオフィスに窓が付いている(笑)。 窓がついてないオフィスというのがあるわけですよ、工場ですから。そんなオフィスもらったって苦しいばかりですけれども(笑)。 窓のついてるオフィスをもらって、そして観葉植物が付いているんですよ(笑)。 星が16個になりますと、オフィスに専用のシャワールームが付くんですよ。 評価され、それがその人の会社でのすべてを決定していくというのは、 「良くできました」「できました」「頑張ろう」の延長線の極端な所にある。
時に評価されるということは励みになります。 でもいつの間にか、この評価のために働き、この評価のために人生があるような気がします。 世知辛い競争社会であってほしくないなぁと思いますし、勿論そういうことが教会の中に入って来ても困るなぁと思います。 でも信仰生活の中でも、やっぱりどこかで「良くできました」「できました」「頑張ろう」というのはくっ付いて回ります。 成績というのは、神学校でも付きます。やがて牧師になっても、牧師の奉仕の成果というのは、何らかの形で現れて来るものです。
でもパウロが言うのは、福音が福音たるゆえんは、どんなに「良くできました」が並んでも、私たちはそれによって救われるのではない。 つまりどんなに沢山の星が並んでも、それは神の御前には単なる星屑だ。 逆に、どんなに「頑張ろう」が並んでも、それで私たちが救いから程遠いのではない。
「できました」も「良くできました」も「頑張ろう」も、救われる根拠はただ一つ。 それはキリストの十字架のゆえである。 キリストの十字架の贖いは、私たちの救いの入り口に過ぎないのではない。それはすべてである。 「キリストの十字架の贖いによって、私たちは罪赦され、その後、償いが残っていますよ、その償いを果たすことが私たちの課題です」と福音は教えていません。 《十字架の贖いこそが、罪の赦しと罪の償いのすべてを成し遂げてくださる。》
競争社会に生きて来た私たちが、自然に信仰の生活に――「良くできました」「できました」「頑張ろう」「いや、それではだめです」「それでは失格です」――こうした評価を信仰生活の中に、教会生活の中に入れ込んで行く傾向性というのは、もう過分にあります。絶対的にあります。 それがいつの間にか、私たちの信仰生活を出来栄え主義というものに、染めて行ってしまいます。
エペソの手紙の2章の8節と9節をちょっと見て行きたいと思うんですね。 ガラテヤの次がエペソですが、いま映しますね。 2章の8節と9節です。(※10節まで続けて読む藤本牧師)
<エペソ2:8〜10> 8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 10実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。 (※8節「この恵みのゆえに」「信仰によって救われ」10節「良い行いをするために」に黒インクで傍線。また10節「キリスト・イエスにあって」にブルーのペンで傍線)
償いではない。 新しく創造されたあなたが、神が備えてくださった良い行いに歩むようにと、神さまが力をくださる。 でも覚えておきなさい。あなたの救いは恵みのゆえに、8節、信仰によって救われたのです。それは神の賜物、すなわち神のギフトです。 ですから、そうそう簡単にこの世の中の論理にはまってはいけませんよ、ということをパウロはここでも教えているのです。
3番目にほんの短く―― 3)先ほどの8節、ガラテヤの1章の8節に戻りますね。この言葉ですね。
8しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えて福音に反することを(***つまり「ほかの福音」ですね、と説明)、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。 (※8節「そのような者はのろわれるべきです」に黄色のハイライト)
という非常に厳しい言葉を、パウロは使っています。「のろわれるべきです」と。 パウロは福音を損なうような教えは呪われるべきものだ、と割礼派を責めています。 そのようにして、何とか割礼派になびいてしまった人々を取り戻そうと必死なんですね。 こういう風に考えてください。 二千年のキリスト教は、福音を守るためにいのちを捨てた人たちに溢れています。迫害ですね。 逆に、キリスト教会は福音を守るために、異端者を処刑して来ました。ま、逆の考え方ですね。
今の時代、信仰の自由がありますので、そのような対応をしていません。 しかし、私たちはいつも異端に警戒しています。 月に一回位、日本福音同盟から、異端に関する文書が私(藤本牧師)のもとに届きます。 これは別に日本福音同盟だけでなく、カトリックであろうが、プロテスタントであろうが、福音派であろうが聖霊派であろうが、エキュメニカル派であろうが、ルター派であろうが改革派であろうが、教会はいつも一つとなって、一つとなって(※と強調して語る藤本牧師)この異端に警戒するんです。
異端は私たちの中に入って来て、私たちを奪いに来ます。 一番簡単に奪われるのが、大学ですね。 ミッションスクールが一番敏感です。 それはこの割礼派のような、福音をゆがめる異端派の使者が聖書研究会の中に入り、そして聖書研究会の友だちを異端派の修養会に連れて行き、その教えに付け込んで一人また二人と、やがて聖書研究会を潰してしまうんですよ。 それだけではないです。昔は、神学部ごと潰れた、ということがありました。 異端という教えは、ちょっとばかり似ているんですよ。
割礼派もそうです。十字架を大事にするという点ではちょっとばかり似ているんです。 だからキリスト教かなと思いまして中に入ってみると、中は旧約聖書の律法で一杯でありました。 ガラテヤ書は、そういう「呪われる」という厳しい言葉を使いながら、私たちの救いの根本である福音を守ろうとしているんですね。 私たちのお祈りは、最後ピリピの手紙に出てまいりますので、それを1章の9節から読んで終わりといたします。 これが私たちの祈りです。1章の9節、ピリピの手紙。
<ピリピ1:9〜10> 9私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、 10あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。…… (※9節「私はこう祈っています」に黒ペンで囲み。「あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり」と、10節「大切なことを見分けることができますように」に黄色のハイライト有り)
で、パウロは異端と本物を見分けるように。 皆さん、こういう喩えは昔よく聞いたでしょう。 「偽札を見分ける最大の方法。銀行員が訓練された、偽札を見分ける最大の方法は、お札を何度も何度も触るんですね。 本物に触れてれば触れてる程、偽物を敏感に見分けることができます。」
愛だけでなく――愛というのは受け入れるんですよ。 でも異端を受け入れたら、福音そのものが崩れていく―― あなたがたに識別力が与えられ、つまり本物の福音にいつも馴染みながら、 自分の生活の中から、律法主義的なメンタリティーを追い出して行きなさい。 それは世的なメンタリティーであって、福音のメンタリティーではありません。 では福音のメンタリティーはどういうものなのか? 10回位かけてじっくり学んでいきたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、この世界がそうであるならば、教会がそうであっても、信仰者がそうであってもおかしくない程、私たちは自力主義、出来映え主義、成果主義にどうしても走って行く傾向があります。
どんなに「良くできました」が並んでも、それで救われるのではない。どんなに「頑張ろう」が並んでも、それで救いから遠いのではない。徹頭徹尾、救いはイエス・キリストを信じる信仰のみによる。それは、神の愛のゆえに、私たち、できの悪い者たちに与えられた神からの贈り物である。その贈り物を受けていることを感謝いたします。
そしてこの贈り物のすばらしさに触れていれば触れているほど、偽物がよく分かる。どうか、ガラテヤ書を読むにあたって、本物に深く触れていることができるように助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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