☆聖書箇所 ガラテヤ人への手紙 1:11〜17 11兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。 12私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。 13ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。 14また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。 15しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、 16異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、 17私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。
☆説教 ガラテヤ(2)パウロの一大転換 さて、ガラテヤ書の1章の11節からの箇所を見ていただきました。 ちょっともう一度、画面に映しますので聖書を見ていただきたいと思います。 ここから始めましたね、11節。(※指でなぞりながら読む)
11兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。 12私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。 (※11節「あなたがたに明らかにして」「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません」と12節「ただイエス・キリストの啓示」にオレンジのハイライト。啓示は塗りつぶし)
というこの言葉は1章の1節のこことほぼ一緒です。
<ガラテヤ1:1> 1人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、 (※1節全体に黄色のハイライト)
という1章の1節ととても似ています。
前回ガラテヤ書の主旨を大体お話しいたしました。 この1章の1節で、パウロが自分の強い使徒性を強調している、ということに注目いたしました。 それはパウロがガラテヤの地域の幾つかの教会を建てた後に、 同じキリスト教でも、割礼派と呼ばれる人々が入って来て、いつの間にか教会の福音がゆがめられてしまった、という現実の中で、 何とかして、再び人々をまことの福音に取り戻そうとしているからです。 割礼派の人々は、キリストの十字架(の贖い)は単に(キリスト教の)入り口であって、 キリスト教徒として、神の民として加わるためには、 割礼を含めて旧約聖書の律法に従った生活があって初めて神の民となる、と教えました。
こういう考え方は、私たちの中にも容易に入り込んでしまいます。 十字架だけでは不十分で、この聖書に従った信仰生活の実質が救いを決める、というものの言い方は、 私たちが敬虔を目指せば目指すほど、危険をはらんで来る、という話をいたしました。
さて今日は、その続きでございます。 パウロは6節で、ちょっと見ていただけます? (※「このように〜移って行くことに」に黄色のハイライトが映る) 「ほかの福音に移って行くことに」という、「ほかの福音」という表現をしましたよね? で、今日見ていただくところは、逆に11節に「私が宣べ伝えた福音は」という言葉、あるいは16節「異邦人の間に御子の福音を伝えるため、」という風に、 (※両方の「」共にオレンジのハイライト) 「私が宣べ伝えた福音」あるいは「御子の福音」という風に、真実な福音を呼んでいます。 それが一体何を意味するのか?というのは実は2章の後半にならないと明らかにされません。 今のパウロが強調したいことは、自分の語った福音こそが本物である、真実な福音である、ということだけを頭に入れていただいて、 そして11節12節から始めていきたいと思います。
今日の説教のタイトルは「パウロの一大転換」。 それは3つのポイントでお話ししていきますので、自分自身にも当てはめて聴いてください。
1)13節「かつての私の生き方」 パウロがキリストに出会う前の自分を告白する時、聖書の箇所では沢山あります。 使徒の働きでは9章、22章、26章の3箇所。それからピリピの3章と、長〜い証しだけでも沢山あります。 パウロがかつての自分を振り返る時に、必ず強調する2点があります。 その2点が上手にこのガラテヤ人への手紙では纏まっていますので、見てください。
13……私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。 14また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。 (※13節「私は激しく神の教会を迫害し」14節「先祖の伝承に人一倍熱心でした」にオレンジのハイライト)
この2点を、どの証しでもパウロは強調しています。 つまり、自分は教会を激しく迫害していた、ということ。 それからもう一点は、自分がどれほどユダヤ教に熱心であったのか。 ――この二点を、パウロは形を変え、言葉を変え、いつでも表現いたします。
さて、今日読んでいただきました13節と14節に、他の箇所には出て来ない、つまり聖書の他の場所には出て来ない、この言葉があります。――「ユダヤ教」という表現です。 これは新約聖書の中で、ここにしか出て来ないんですね。 「ユダヤ教」って一体何かと言えば――旧約聖書に始まり、そこから流れる民族の伝統、宗教的な教えの全体を指す――と考えていいんだろうと思います。 でもパウロが特に念頭に置いているのは、やはり「律法」でありましょう。 あるいは律法から派生した、「先祖の伝承」という教えの全体でありましょう。 イエスさまが当時のユダヤ教を鋭く批判されたように、食事に関する律法、安息日に関すること、旧約聖書の律法だけでなく、人々の伝承によって膨大な解釈・言い伝えができ上がってしまったのが、ユダヤ教の生き方でありまして、 それがかつてのパウロの生き方であり、そしてその生き方に人一倍熱心であったということです。
本来、律法の根幹というのは、神を愛し人を愛することなのに、 安息日を聖なるものにするために、膨大な規則を作り上げ、食事に関することでも食材・調理法・作法に至るまで、すべて「汚れときよめ」というジャンルで詳しく徹底した人々ですね、その教えを人々に背負わせ、律法学者やパリサイ人は。 でも自分たちでは真剣に取り組んでいない、という律法学者たちの偽善を、 イエスさまは「あなたがたは白く塗った墓のようだ」(***マタイ23:27)と指摘されました。 つまり律法主義的なメンタリティーの問題を明らかにされます。 律法主義的なメンタリティーというのは、自分がどう振る舞うべきか、何をすべきかという、外側の壁を塗ることに一生懸命でありますけれども、 肝心要の自分の心の中の醜さ、汚れ、弱さ、愚かさが見えなくなっていきます。 神を愛するはずが、規則に従って歩んでいる自分に満足し、そして律法を守れない者たちを見下して、自分こそが立派な人間であると自己満足に陥ってしまう。 それがユダヤ教の背後にありました。あるいは、律法主義、成果主義、出来映え主義の背後にある問題であります。 それをイエスさまは偽善者、偽善という風に仰いました。
パウロはロマ書の10章の3節にこう言っています。ちょっと開きますね。ちょっと映しますので見てください。
<ロマ書10:3> 3彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。 (※3節すべてにオレンジのハイライト、指で押さえながら読む藤本牧師)
「神の義」というのは《イエス・キリストの贖い》です。あるいは《イエス・キリストの救い》です。 それを知ろうとせず、むしろ律法によって、自分たちの義を立てようとして、 結果的に「神の義」に従わなかった、というのは、イエス・キリストの十字架の贖いをぞんざいにしてしまった。キリストを捨ててしまった。
パウロはこの「ユダヤ教」を「自分の生き方」としていた。 もう一回ガラテヤ人への手紙1章の13節、14節に戻っていただきますと、こうありますよね。 ま、文章の流れとしては当然なんですけれども、ちょっとまた映しますね。
<ガラテヤ1:13〜14> 13……(二行目、と指さして)あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。 14また私は、……人一倍熱心でした。 (※13節「教会を迫害し」、14節「先祖の伝承〜熱心でした」にオレンジのハイライト)
これちょっと主語と動詞だけを繋げていきますと、パウロという人は 「私は以下のように生きて来た――私は激しく迫害し、私はユダヤ教に進んでおり、私は人一倍熱心であった」と、 もっぱら自分の考え方、「自分の生き方」が出て来ます。 これは「かつての自分のこだわり」であった、ということがよく分かります。 パウロは、ユダヤ教的な価値観に凝り固まっていたんですね。 自分自身を閉ざされた世界にはめ込んでいて、誰がどう説得しようが、どんな議論も口を挟む余裕はありませんでした。 パウロが自然の成り行きでキリスト教に回心する、ということは考えられなかったわけです。
そういう風に言われますと、自分自身に当てはめても私はいいんだろうと思います。 自分自身がどのようにしてキリスト者になったかと言えば、それは私たちの誰もが、 「かつての自分」というものがあり――たとえクリスチャン・ホームで育った子どもたちであったとしても――かつての自分というものがあり、 そのキリスト教に対する反発心とか、あるいは成長期に親への反抗期と、親の信仰に対する反抗が重なってしまって、教会を離れて行ってしまった自分というものがいて、 その方向に走ってしまった時に、親がどういう風に説得しようが、 「自分はもはやキリスト教を離れてしまった」という事実から抜け出ることができない自分がいた、というのもまた事実でありましょう。
しかし二番目に――この15節を見ていただけませんでしょうか? (※15と16節をまとめるオレンジの横線が見える聖書が映し出される)
2)神の介入(※15〜16節) このこと(※パウロが自然の成り行きでキリスト教に回心する、ということは考えられなかったということ)は、 この「しかし」という言葉ですべてが変わっていきます。 しかし、自分も自分の周囲も、自分の「かつての生き方」を変えるなんて、不可能ではありませんか? 特にパウロは生粋のへブル人である上に、厳格な律法の教育を受けて、教会を迫害することに情熱を燃やして来たわけですから、 今更、自分のあり方を、生き方を根底からひっくり返すことはできないです。 でも神さまならできるんですよね。そのことをパウロは体験いたしました。
1章の15節からこうありますね。 15しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、 16異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しと……… (※16節「異邦人の間に福音を伝えるため」にオレンジのハイライト)
「良し」としてくださった、今日はここまでにしたいと思います。 注目すべき言葉はこの「良しとする」という言葉です。 それは神さまがそのことをお喜びになる、みこころに適っている、そういう意味なんですけれども、 なんと神さまは、パウロを、生まれた時から実は選び出しておられたと。 パウロはそんな現実、全然知りませんでした。
神さまはパウロを、あなたを、生まれる前からあらかじめ聖別し、恵みをもって召していた――そんなこと全然知りませんでした。 でもそれが実現したのが、ダマスコの途上で、よみがえりのイエスに出会った。 その時点からパウロの人生に、想像もつかないことが起こったんですね。 そして後に気がつくんです。すべてそれは神のご計画であったと。
私たちも同じです。 私たちはキリスト者になって初めて、ああ、考えてみると、神さまのご計画のうちに「良し」とされていたんだなぁと(いう事実を味わうようになります)。 自分がキリスト者になるということが「良し」とされていたんだな。 なるほどこんな自分を。なるほど神が介入してくださらなければ
皆さんがたとえ高津駅から図書館に行く途中、何度となく高津教会の前を通って行き来していたとしても、神さまがもし出会ってくださらなければ、この教会の門をくぐるということはなかったわけです。 いや、くぐるだけではない。神が介入してくださらなければ、神がそのご計画のうちに、 「良し」としてくださらなければ、私は自分の生き方を変えることができなかった、 ということをパウロはここに言い含めているんですね。
そうしますと、三番目にこのポイントが出て来ます。 (※再び15,16節辺りが映し出される)
3)「御子を私のうちに啓示して」(16節)くださるという独特な表現 つまり神さまがお望みになるなら、神さまはパウロのように頑なに、イエス・キリストを否定する人間さえも扱ってくださる。 その人の心のうちに啓示を、キリストを現してくださる。 私のように神に背を向けて来た者であったとしても、神さまに背負われながら暴れて来た者であったとしても、「神などいない」と自分の生き方に固執して来た者であったとしても、 神が良しとしてくださるなら生き方を変えることができる。 言い方を変えますと、キリストを私の心のうちに現してくださる。 そして「自分の義」を立てることに必死であった人生から、努力から、「キリストの義」だけに信頼を傾け、神の恵みと神の愛に応える道へと進むことができる。
彼は、キリストの福音に生き、キリストの福音を伝える者と変えられたんです。 神さまの介入のなせるわざですね。
そのことを痛感するために、この言葉に注目してください。 16節見てください。(※指で押さえて見せて、)ここに「異邦人の間に」と書いてありますね。 これが実は鍵の言葉なんです。2章には何回も出て来ますね。 下の段の2章の2節にも「異邦人の間で」と出て来ます(※ここも指で押さえて見せる)。 これ、繰り返し、繰り返し出て来る言葉なんですね。 これこそがパウロの主張の中心です。 パウロが説いて来たことは―― 「救いはユダヤ教にあるのではなく、キリストの福音のうちにある――これはもう当然ですね。 そしてキリストの救いは、私たちの行い主義や出来映え主義や律法主義にあるのではなく、まして私たちの『熱心さ』の中にあるのではなく、ただキリストの十字架の贖いの中にある。」 この二つは先週学びましたよね。
その二つを合わせた上で、パウロがなおここで付け加えて来る言葉がある。 それは「この福音は、異邦人のためにもある」 ということは、私のためにも、あなたのためにもあるということです。 つまりユダヤ教のことはほとんど知らず、ユダヤ人のような信仰の伝統も聖書の知識もなく、道徳的に考えれば、ユダヤ人のような優れたものは何もなく、まして割礼などの儀式には全く関係ない、私たち異邦人にも、 キリストの福音は等しく及び、私たちを神の子どもとしてくださる。
これがパウロが特有に背負ったところの、「私の宣べ伝えた福音」(11節)なんですね。 ですからガラテヤの教会の人々に、 「あなたがたは救われた上でユダヤ教に戻る必要はない。 救われた上で、旧約の教えに縛られる必要はない。 あなたがたはあくまでもキリストの福音に忠実に、神の召しに応えて生きて行くだけで充分だ」(と言うのです。)
それは、パウロ自身の時と同じように、「神さまがキリストを私のうちに啓示することを良しとしてくださった」からです。 私(藤本牧師)のように――牧師の家庭に育ち、右も左も分からずに信仰を教えられ、そしていつの間にか、それが親の教えなのか自分の信仰なのか、よくわからなくなってしまった―そんな者にも神さまはキリストを啓示することを良しとしてくださった。 私の家内や戸塚(伝道師)先生のように、キリスト教の背景は何も持ってなくても、何かのきっかけで教会に来るようになり、そして自分の決心で信仰を持つようになった者にも、 神さまは等しく御子イエス・キリストを心のうちに啓示してくださる。 神さまが良しとしてくだされば、神さまが私たちにキリストを信じる信仰を与えてくださる。 そしてその神の介入がない限り、私たちは信仰に飛び込むことはできないですね。
パウロは、この「異邦人の間に」―― つまり旧約聖書の人々がキリスト教に回心した。あるいはキリスト教に回心した人々が、旧約聖書の教えをもう一回取り込んだ、というのではなく、 ユダヤ教の人々は勿論ユダヤ教から始まらざるを得なかった―― でも私たちはいきなりキリスト教から始まっても、同じように割礼に戻ることなく、同じように真っ直ぐに神の愛と恵みに応えて、神の子どもとして生きることができる、 というのが、パウロが教えている、「異邦人の間に宣べ伝えられた福音」(16節)です。 ですから割礼主義者のように、「もう一度、旧約聖書の教えに戻って来い」ということを、パウロは言いませんでした。
最後に一つだけ加えて終わりにいたしたいと思います。 パウロに突然復活のキリストが現れた時、実は彼は三日間、一口も食事を摂るとができませんでした。 それ程のショックでありました。 それから、神が計画してくださった救いを理解するために、彼は何年もの歳月を費やしています。 今このように読みますとね、聖書では一日にして大きな大逆転が起こったかのように見えますけれども、使徒の働きをよく見ますと、パウロは何年もの歳月をかけて、自分の内側に啓示されたキリストの福音の意味を理解するようになります。 そして――次回もやりますけれども――パウロはここであたかも誰の助けも借りなかったように記していますけれども、三日間食事ができなかったパウロを助けたのはアナニアという人物ですね。 神さまはアナニアを遣わして、パウロに何が起こったのか、キリストとはどのようなお方であるのか、詳しく説明を受けた時に、彼の目から鱗のようなものが落ちた(***使徒9:18)と記されているではないですか?
パウロは一生懸命奉仕したいと願っていましたけれども、エルサレムの教会の理解をなかなか得ることができませんでした。 彼は、ま、ふて腐れたわけではないですけれども、一旦故郷タルソに戻ります。 そこに長い間引っ込んでいます。 でも、アンティオケの教会でリバイバルが始まった時に、アンティオケの教会というのは、ユダヤ人とギリシャ人の半々でありました。 (※頭をちょっとかしげて)ギリシャ人の方が多かったんじゃないですかね。 そこにパウロを連れ戻して、ここから異邦人伝道を始めよう、と言ったのはバルナバですよ。 バルナバによって呼び戻され、バルナバに支えられて、パウロは異邦人伝道に出ていくわけです。
ここでは、「私は人の助けにはよらなかった」と書いてありますけれども、 いや、神さまは彼を助けるために、人の助けを用意していたんですね。 そういう風に考えますと、パウロには3日かかったとしたら、私たちには3年かかるんじゃないでしょうかね?(笑) パウロには福音の全体を理解するために数年かかったとしたならば、私たちには20年かかるかもしれませんよ(笑)。 でも大逆転には変わりがないんですよ。
そしてその大逆転を引き起こしたのは、やっぱり何と言っても洗礼なんですね。 いや、何と言っても洗礼に始まる前の、教会に初めていらっしゃり、そして聖書のみことば、讃美歌、祈りを聞いた時に、何とも言えない聖霊の感動を感じた、という経験こそが大逆転の始まりなんです。 私たちは大逆転が一日にしてなって、そこから新しい人生を送り始めたのではない。 私たちは日々大逆転を生きている。
ですから、心の内側に様々な悩みがある。今日の詩篇の62篇で読みました。 自分の心を神の御前に注ぎ出す時に(8節)、今日もまた大逆転が起きる、というこの勇気を、私たちは決して失うことはありません。 神さまが良しとしてくださるなら、私たちは人生かけて、この大逆転を生きていくんだという決意をしっかり保っていたいと思います。
☆お祈りをいたします。――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、自分の価値観、自分の生き方に凝り固まっていたパウロを、当時サウロでありましたが、その生き方から引き出すことができる者は、あなたの介入以外に何者もありませんでした。誰がどう説得しようが、てこでも動かない程熱心であったパウロを、あなたは出会いによって一瞬に変えられました。でもその出会いは長いプロセスであり、人の助けも実はあり、しかしその助けと言ったとしても、それはあなたが備えてくださった助けであり、そのようにして、パウロは生涯、大逆転を生き抜いた人物でありました。
私たちは今オンラインで礼拝をし、教会で集まることはできませんが、かつてこの会堂に窓が振動するほどの讃美歌が響いたように、「やがてその日がやって来る」という希望で、私たちは今礼拝を保っていますが、あの日と同じような感動は聖霊によって今も体験できる。なぜなら「私たちは大逆転を生きているんだ」というこの喜びを決して忘れることがありませんように導いてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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