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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/20 戸塚伝道師・敬老の聖日:ゆだねて生きる恵み ヨハネ21:15〜19
☆聖書箇所   ヨハネ21:15〜19
  15彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
16イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
17イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
18まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
19イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

☆説教  ゆだねて生きる恵み
この朝、敬老の聖日の礼拝ということですけれども、心に通って来たみことばが、このヨハネの福音書の21章の15節〜19節でした。
このヨハネの福音書が書かれた目的は何なのかということが、20章の最後の節、20章の30節に書いてあります。

<ヨハネ20:30〜31>
  30イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

まるで、ここでヨハネの福音書が終わるような感じがいたします。
そうしますと、この21章は追加なのか?
21章のない聖書の写本は存在しませんので、21章はあくまでもヨハネの福音書に属するものでありますけれども、
21章は公にされる前に、後から書かれたという、そういう説が有力であります。

目的はペテロの名誉回復ではなかったのではないだろうか?と言われています。
十字架の前夜、大祭司の僕マルコスの耳を切り落としたペテロ――それが書かれていますし、
「イエスさまを知らない」と三度も否定したペテロが書かれていますが、
このままヨハネの福音書を終わらせていいものだろうか?という思いがあったのでしょう。
何とかペテロを――その名誉を回復させてあげよう――別にそういう意図をしたわけではないかもしれませんけれども、
ペテロの回復の出来事がこの21章に書かれていることであります。
今日はこの聖書のみことばから3つの視点で恵みを分かち合いたいと思います。

1)望まない所に連れて行かれる
21章の18節ご覧ください。

18まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」

18節の最初に「まことに、まことに、あなたに言います」とイエスさまは仰っています。
この「まことに、まことに」という言葉、よくヨハネの福音書に出て来るんですけれども、
イエスさまがとても大切なことを言い聞かせるように言う時、この「まことに、まことに」という言葉を使われますが、
ペテロに対して、とても大切なメッセージをここでイエスさまが語られたということが分かります。
「望まないところに連れて行かれる」――この「望まないところ」――年齢を問わず、この「望まないところに置かれる」ことは、よく私たちの人生であるかもしれません。
例えば第一志望ではない道に導かれたとか、あるいは思わぬ試練や病気や怪我に遭遇したとか、望まない様々な出来事、それに出くわすのは人生につきものでありますが、
ここではペテロに対して「年をとると、あなたは望まないところに連れて行かれる」

こういう敬老の日のお話で、こういうお話ができるような年齢に自分はなったのかなぁと思います。
若い時には、敬老の聖日のお話なんて、恐らく出来なかったと思いますけれども、
やっと私もそういう仲間入りをさせていただいたという、そんな感じですね。

かつて高津教会のこの敬老の聖日のお祝いをする対象年齢は、60歳以上だったそうです。
60歳以上――当然私も入るわけです。私も敬老でお祝いされるということです。
それが65歳以上になり、70歳以上になり、そして今は75歳以上に、敬老の聖日のためのお祝いがなされる、お祝いの品も贈られる、そういうことになっております。
そのうち80歳以上になるのではないだろうか?そういう感じがいたしますけれども、
そう考えますと、私なんか、まだまだですね。一応前期高齢者にはなっておりますが、自分が高齢者だなんて意識は全くない。

でも年をとると、望まないところに連れて行かれる。
一体何なのだろうか?確かに老化現象――それは望まないところなのでしょう。
でもペテロの場合は老化現象のことではありません。
ペテロの今後の生涯の預言――年をとるとこうなる――そういう預言をイエスさまがここで語られているということです。
若かった時には、「エルサレム教会の羊を牧しなさい」「小羊を飼いなさい」とイエスさまから任命を受けました。実際そういうご用もされていたのでしょう。
しかし年をとるとどうなるか?18節には、「両手を伸ばし」――これは両手を伸ばすということは、(※ご自分の両手を真横に伸ばして見せる戸塚伝道師)十字架に掛けられる、そういう体勢でしょう。
「ほかの人に」――ほかの人っていうのはローマ兵でしょうか?
(「帯をして」とは)束縛されて、捕まえられて、
「望まないところに連れて行かれる」――処刑場でしょうか?

この時のペテロには、このイエスさまのお言葉が何のことなのか、全く分かりませんでした。そう思います。
でもイエスさまの言われる「自分の望まないところに連れて行かれる」って一体どこなんだろう?
なんか不安に駆られて、自分の目の前にいるもう一人の弟子のことを
「この人はどうなんですか?」(21節)と、
その弟子を捕まえて、イエスさまに質問されている記事がこの後に書かれていますね。

ペテロの今後の預言のその中身、「望まないところに連れて行かれる」
そしてこの18節のみことばから、これはずばり殉教の予告であったということでしょう。
殉教――信仰を守り通すために、迫害の中、神さまにいのちを捧げることを殉教と言います。
殉教の予告をイエスさまは18節でされました。

2)神の栄光を現す死に方
19節をご覧いただきますと、こう書いてあります。

19イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。……

殉教、死に方、ペテロの死に方――その殉教は神さまの栄光を現す死に方であった。
「そのような予告が、イエスさまによって語られている」ということを、ヨハネが補足しています。

ペテロの殉教。これは聖書には書いてないんですけれども、言い伝えとして、残されている情報があります。
ペテロは激しい迫害の中でも、福音を宣べ伝えるそのご奉仕に専念しておりました。
当時のローマの皇帝ネロによる迫害がますます激しさを増して来た。
そういう状況の中で、ペテロは信徒たちから、「どうか早くローマから逃げるように」とお願いされました。
ローマで宣教していたんですね、ペテロは。
「早くローマから逃げてください。ペテロ先生。」
ペテロはローマから離れる決心をしました。
ペテロがローマを出て、南へ行くアッピア街道という街道を急いでいました。
その時に突然、光り輝く輪が天から降ったかと思うと、こちらに来られるイエスさまと出会った。
ペテロはイエスさまと出会った時、びっくりして「イエスさま、あなたはこれからどこへ行かれるのですか?」とイエスさまに尋ねます。

この「主よ、どこへ行かれるのですか?」――「クオ・ヴァディス、ドミネ?」という言葉になっていますけれども、この「クオ・ヴァディス」という言葉、有名ですね。
なぜ有名かっていうと、1896年ポーランドの作家シェンキェヴィチ(***1846〜1916)の歴史小説にまとめられているからです。
さらには1951年にアメリカで映画化されました。「クオ・ヴァディス」「主よ、どこへ行かれるのですか?」

イエスさまは言われました。
「わたしはロ−マへ行きます。ペテロよ。もしあなたがわたしの民を見捨てるなら、わたしはローマへ行って、もう一度十字架にかかる。」
そういう風にイエスさまはペテロに言われました。
これを聞いたペテロは、悔い改めて、直ちにローマに引き返します。
死を恐れず、ペテロは前にもまさって福音を伝え、ついには十字架に付けられる。
イエスさまと同じ十字架じゃ申し訳ないということで、逆さ十字架に付けられたという言い伝えが残されています。
これがペテロの殉教です。
「神さまの栄光を現すペテロの死に方」と言い伝えられていることですね。

でもこの時ペテロには、このような死に方が待っているとは全く知らされていませんでした。
ましてや、神の栄光を現す死に方を目指そうなど、そんな計画はどこにも、ペテロの頭の片隅にもなかったことでしょう。
でもこの時、ペテロが聞いたイエスさまのお言葉はこれでした。
それが19節の最後の方に書かれていますね。

19……こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

「こう話してから」というのは、18節のお言葉をイエスさまが話してからですね。
「わたしに従いなさい」――この一言をイエスさまはペテロに言われました。
イエスさまのお言葉を耳にしたペテロは不安ながらも、イエスさまに従う生涯を決心したと思われます。

この復活のイエスさまが天に挙げられた後、(ペテロは)ペンテコステに聖霊を受けて、イエスさまの復活の証人としていただきます。
そしてまだ若かったペテロは、イエスさまの福音を宣べ伝えることに専念していくわけですね。

先ずは神さまの栄光を現す死に方をする前に、イエスさまに従う生き方をしたのがペテロです。
その集大成と言えるものが、新約聖書の最後の方にありますペテロの手紙でしょう。
その内容は、イエスさまに従うとはどういうことか?ペテロの信仰のあり方が、ずら〜っと書かれています。
なんとハイレベルな信仰をこの時ペテロは持っていたのかと思います。
三度も「イエスさまを知らない」と言ったペテロが、ペテロの手紙では、こう書いてあるんですね。
Tペテロの4章の12節にはこう書いてあります。

<Tペテロ4:12〜13>
  12愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。
13むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。

あのペテロがこのペテロに変えられているんですよ(笑)、
凄いレベルに到達した信仰ですね。
でもペテロはこの信仰、イエスさまに従う信仰、それをペテロは目指していました。
まさにイエスさまに従う生き方をペテロは続けて来たわけです。

で、私たちにも同じように、将来の死に方よりも現在の生き方が問われている。
まさにイエスさまに従う生き方こそ、神さまの栄光を現す生き方であるということなんでしょう。

3)イエスさまからの問いに「ゆだねて生きる」ということについて、共に見ていきたいと思うんですね。

では、この時ペテロにとって「イエスさまに従う」とは何を意味しているのでしょうか?
それを思い巡らすために――
「あなたはわたしを愛していますか?」と言われるイエスさまの問いに、ペテロはどのように答えているか?を見ていきたいと思います。

ペテロはかつてイエスさまを否定する前に、自信満々で答えています。
「主よ、あなたとご一緒なら、牢であろうと死であろうと覚悟はできております」とルカの福音書の22章の33節に書かれています。
「覚悟はできています」
しかしここでは、ペテロはこんな勇ましい答えはしませんでした。
15節の一番最初のイエスさまの質問――
「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」
という問いに、ペテロは答えて言います。
「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」

これと同じような答えを16節もしていますね。
「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」

同じような質問を三回もイエスさまからされた時に、ついにペテロはこう答えていますね。
17節の最後にこう書いてありますね――
心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」
イエスさまはすべてをご存じ。私があなたを愛しているかどうかも、あなたがご存じ。私があなたに従うかどうかも、あなたがご存じ。

これはもうペテロにしてみれば、「イエスさま、私のすべてをあなたにお任せします」の境地です。
これこそ、イエスさまに従うということの本質なのかもしれません。
私のすべてをあなたにお任せします。
つまりイエスさまに従うということは、イエスさまにゆだねて生きること。
イエスさまへの信頼が、その根底にあります。

ペテロが「わたしに従いなさい」と言われてイエスさまに従うことを決心した時、
ペテロをこれから待ち受けている、自分の死に方は知らされていなかった。
それでよかったと思います。
もし知らされていたら(笑)、ペテロはどういう風にこの時思ったでしょうねぇ?
でも、自分の死に方を知らされてなくて良かった。
すべてをイエスさまにゆだねて、一歩踏み出すのみだった。

恐らく自分が殉教する時になって初めて、十字架に付けられる時になって初めて、21章の18節のお言葉の意味が、「あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」という言葉が、初めて理解できたのではないかと思います。

イエスさまにゆだねて生きる人生、なんと心強いことでしょうか!なんと安心していられることでしょうか!
それは大きな恵みです。恵みということは、私たちがイエスさまにすべてをゆだねるということも、神さまからの恵み、プレゼントなんですね。
頭でわかっていても、ゆだねることがなかなかできない。
難しいことがあるかもしれません。「神さま、あなたにゆだねます」「あなたにゆだねます」と何回何回言っても、いつの間にか、神さまにお委ねしたものを、もう一度自分の所に持って来て(笑)思い煩っている自分がいます。
「神さま、あなたにゆだねます」と口では言っても、全然ゆだねられない自分。

しかし、「どうかすべてをゆだねられますように」と祈りながら歩んでいく時に、
「あ、ゆだねるってこういうことなのか」
そういうことが、体験的に分かる、導かれる、そういう時があります。
だから恵みなんです。
私たちが頑張ってゆだねるんじゃなくて――ゆだねる――それは恵み。
ゆだねることができるのも、恵みなんですね。

特に、私(戸塚伝道師)を含めご高齢の方々にとって、ゆだねて生きるということは一体どういうことなんでしょうか?
ま、死に方を考えておられるという方はあんまりおられないと思うんですね。
なぜならば、自分では決められないことだからです。
ただ私たちの願いは、私たちの祈りは、残された人生の日々――ま、殉教するということはないと思いますけれども――病気になっても、試練に出遭っても、自分のことが分からなくなったとしても、イエスさまの御手の中に身を任せる。
そういうことができますように、大船に乗った以上の平安が、向こうから押し寄せて来ますように。
たとえ自分では信仰を働かすことができなくなったとしても、恵みに生かされて生きるような存在であり続けたい。
そして、与えられたいのちを最後まで生き切る者でありたい。
それが私たちの祈りであり、願いであるとするならば、どんなにすばらしいことでしょうか。

藤本栄造先生、幸子先生のためにお祈りいただいていること、ありがとうございます。
幸子先生は昨年の6月に喉頭がんと診断され、あと三か月のいのちだとお医者さんから言われました。ご本人もそれを聞いています。
しかし、奇跡的に、奇跡的にここまでいのちが伸ばされて来ました。
皆さんのお祈りのおかげだと思います。ありがとうございます。
神さまが見事に答えてくださっています。
あれから一年三か月、まさに一年伸ばされたんですね。
大分弱って来ています。でも認知症は進んでいない。
自分で歩くこともできる。食事も自分で食べることができる。
私(戸塚伝道師)は幸子先生の生きざまを見ると、僭越ながら私の印象は、
「信仰による開き直り」この一言に尽きるのではないかと思います。

まさにその信仰こそ、神さまに100%ゆだね切る信仰です。
「あなたはすべてをご存じです」(17節)とペテロは告白したように、
すべてをご存じの神さまにゆだね切っている幸子先生の姿を見ます。
神さま、いつでもどうぞ天国へ。死ぬことは全く怖くありませんから。
本当にゆだね切っているってこう言うことなんだなぁと。

60歳の時にくも膜下出血で、手術をされ一命をとりとめたというご経験もあるんでしょう。
もう天国は、一度天国の手前まで来ているから、そういう経験をされている。
一度死にかけて復活されたという。そして91歳のここまで生かされた。
葬儀の準備はもう万端です。もう天国は目の前。
「でも私はなかなか死にません」とご本人が仰っていました。
3月の段階で、もう葬儀のプログラムも準備され、死に装束も準備し、写真も完璧に準備し、何もかも準備し、後は召されるだけというような状況の中で、幸子先生、今日も支えられています。

幸子先生のもう一つの生きざまが、与えられたいのちを日々生き切る姿勢です。
「ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行かれる」(18節)
確かに気管切開をされ、カニューレが装着され、声が出ない状態は望まないところなのでしょう。
でも幸子先生は「私は今が一番幸せ」「今が一番感謝」、望まないところに連れて来られたといった悲壮感は全く感じられていません。
お世話してくださるすべてに笑顔で「ありがと〜う」という気持ちを伝えています。
その笑顔が、笑顔そのものが証しなのですね。
もと牧師だということは周りの人たちは知っていますので、人生相談に来られる、というそういう方もおられる。
もしかしたら、あわよくば幸子先生は救いに導きたい方ももしかしたらいるんじゃないかと思う位、一日一日を、与えられたいのちを生き切る姿勢。
まさに神さまの栄光を現す「死に方」ならぬ「生き方」。
その時になってみなければ分からないことだったでしょう。
まさしく自分では決められないことだった。
でもイエスさまにゆだね切った人生を、幸子先生も平安のうちに一日一日歩んでおられます。
そして今日まで守られています。

今日の礼拝の最後に歌う讃美歌、教会福音讃美歌409番「救い主イエスと」
この歌詞ですけれども、
アメリカの盲人の詩人、ファニー・クロスビー(***1820〜1915)、女性の方ですけれども、
その方の証しそのものが、歌詞になっています。

1  救い主イェスと ともにゆく身は
  乏しきことなく おそれもあらじ
  イェスは安きもて 心たらわせ
  ものごとすべてを よきになしたもう
  ものごとすべてを よきになしたもう

2  坂道につよき 御手をさしのべ
  試みのときは 恵みをたもう
  よわきわがたまの 渇くおりしも
  目の前の岩は 裂けて水わく
  目の前の岩は 避けて水わく

3  いかにみちみてる 恵みなるかや
  約束しませる 家にかえらば
  わがたまは歌わん 力のかぎり
  きみに守られて 今日まで来ぬと
  きみに守られて 今日まで来ぬと

この3節を見ますと、「わがたまは歌わん 力の限り」
「約束しませる 家にかえらば」――天国へ行ったらばこう歌うんだ。
「きみに守られて 今日まで来ぬと」――イエスさま、あなたに守られてここまで来ることができました。天国まで来ることができました。

しかし私(戸塚伝道師)は思うんですね。
天国に行ってからじゃない。地上にいるうちから告白したい。
きみに守られて今日まで来た――イエスさまに守られてここまで来ることができた。
だからすべてゆだねれば、これからも大丈夫なんですね。
そして天国へ行ってから、この歌をもう一度この歌詞を味わいながら、イエスさまの前で告白するのでしょう。
きみに守られて、あなたに守られて、今日まで来ることができましたと。
ゆだねて生きる恵み、今日から存分に味わっていきたいと思います。
 
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
イエスさま、お言葉が心に響いています。「あなたはわたしを愛しますか」「あなたはわたしに従いなさい」――あなたの迫り来るお言葉に私もペテロと同じように、自らの罪深さを覚えながら、この朝あなたにお答えしたいと思います。「あなたはご存じです」「あなたは私のすべてをご存じです」と。

今日まで守られていますことを、心から感謝いたします。どうか老いも若きも、人生の残された日々において、あなたにすべてをゆだねて生きる恵みを、さらに味わわせてください。召される最後の最後まで、たとえ険しい道をたどる中でも、共におられるあなたの御手の中で、平安のうちに歩ませてくださいますようによろしくお願いいたします。愛するイエスさま、あなたのお名前で父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。


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