☆聖書箇所 ヨハネ4:7〜15 7一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。 8弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。 9そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。 10イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」 11その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。 12あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」 13イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。 14しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」 15彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
☆説教 サマリア・ストーリーA「その水を私にください」
今日はサマリア・ストーリー、第二回目。説教題は「その水を私にください」。 そういう説教題で、共に恵みを分かち合いたいと思います。
前回はイエスさまは疲れておられた。 そこに一人のサマリアの女が水を汲みに来た。 イエスさまとサマリアの女性との出会いを見ていきました。 その出会いは一対一の出会いでした。 ここにサマリア・ストーリーにおける神さまの仕掛け、舞台設定があったということも見てまいりました。 井戸の傍らでただ座っておられ、疲れ果てていたイエスさま。 そしてイエスさまの弟子たちは、食べ物を買いに町へ出かけていた。 昼の12時、誰も井戸に水を汲みに来ない時刻に、人目を避けるように一人だけで井戸に水を汲みに来た女性。
この舞台設定で、イエスさまとサマリアの女性との一対一の個人的な出会いが生まれた、というところを見てまいりましたが、 今日はこの二人のやり取りを、みことばから丁寧に追ってみたいと思います。 口火を切ったのはイエスさまでした。
先ほどお読みいたしましたヨハネの福音書の4章。7節のみことば、見ていきたいと思います。
7一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
イエスさまの方からこの女性に「わたしに水を飲ませてください」と。 疲れ果てて喉がカラカラで、もう脱水状態のイエスさまは、その女の人に声をかけました。 ここからこの女性とイエスさまとのやりとり、問いかけと答え、Q&A が始まるわけですね。 本日のこの物語の流れを、3つに分けて見ていきたいと思います。
第一番目のQ&Aですね。最初の質問は―― 1)このサマリアの女の人が、イエスさまに質問したことであります。
それが9節に書かれていますね。お読みいたします。
9そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
ここにサマリアの女の質問。 「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に飲み水をお求めになるのですか?」という質問です。 このサマリアの女性の姿がこう描かれていますけれども――これは古い版のリビングバイブルですけれども――この古い版のリビングバイブルには、この女性の言葉がこのように訳されているんですね。
(9節)女はびっくりしたようです。「あれ、まあ、あんた、ユダヤ人じゃないのさ〜。私はサマリア人だよ〜。なのに、どうして水をくれなんて頼むのさあ〜」当時ユダヤ人はサマリア人を見下し、口を利こうとさえしなかったのです。(※リビングバイブルを持っていないので、ここは戸塚伝道師の語り口です)
と訳されている。 この女性のような言葉使いですと、だいぶイメージが違ってきますよね(笑)。 サマリアの女性のイメージ――「あれ、まあ、あんた、ユダヤ人じゃないのさ〜」――そんな感じの女性だったのかどうか、それはわかりませんけれども。 でも、恐らくそんな感じがするなぁと、私(戸塚伝道師)個人的には思うんですね。 「どうしてサマリアの女の私に。どうしてサマリアの女の私に?」 それがこの女性のイエスさまへの質問でした。 「ユダヤ人であるあなたが、サマリアの――《仲の悪い、口を利こうとしなかったサマリア人に対して》しかも――女の私に」 この人は《女》という言葉を口にしたんですけれども、当時《女性の地位は低かった》。 まして《見知らぬ女性に男性が話しかけるということはほとんどなかった》ような、そういう状況の中で、 「サマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」――そういう質問をイエスさまにしたのは、もしかしたら当然なのかもしれません。
この後、イエスさまの答え。Q&AのAが始まるわけですね。 それが10節です。
10イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたの方からその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
疲れて休んでいるイエスさま。 それなのに、「水を飲ませてください」と言った、それだけなのに、 「ああ、この言い方だと、こんなことを言われちゃうと、厄介な人と関わることになってしまったなぁ」と、もしかしたらイエスさまは思われたのかもしれません。 でもイエスさまは仰いました。 「もしあなたが二つのことを知っていたならば――」
その二つのこと、それはどういうことか? ●「もしあなたが神の賜物を知り」――神さまの賜物をもしあなたが知っていたら、(あなたの方から)水を求めたことでしょう。 賜物――神さまがあなたにどんなに素晴らしいプレゼントを用意しておられるかということを――あなたが知っていたらいいのに、というイエスさまの願いが込められている言葉です。
そしてもう一つ知っておいてほしいな、とイエスさまが思ったこと。 ●「水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら」――わたしがだれであるかをあなたが知っていたらいいのに、 もしそうだとするならば、あなたのほうからわたしに水を求めていたでしょう。
そういう風にイエスさまは仰った。イエスさまはそういう願いを持っておられた。 もしあなたがこの二つのことを知ってさえいたら、あなたの方から、わたしが願う前にあなたの方から「生けるいのちの水をください」と願ったことでしょう。 ああ、あなたにも知ってほしい。 神さまからのプレゼントを。そしてわたしがだれか、ということを。 2)第二回目のQ&Aがこの後に続きます。
サマリアの女性はまた質問をいたします。11節――
11その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
「どこから、そのいのちの水とやらを、手に入れられるのでしょうか?」 この女性の質問を、先ほどの女性のイメージにちょっと変えてみますね。 リビングバイブル訳(※戸塚伝道師の語り口) (11節)「そんなこと言ったって、あんたは水を汲む桶も綱も持っていないじゃないかぁ。この井戸はとても深いんだよ〜。そのいのちの水を一体どこから汲むのさ〜。 (12節)あんたは、私たちのご先祖のヤコブさまよりも偉いって言うのかい?」 とこう続くわけですよ。 ちょっと違いますね、イメージがね(笑)。 でもこういうようなやり取りを、女性はイエスさまにしたわけですね、質問を。
この時、11節「その女は言った」の質問の初めに、《主よ》という言葉を入れているんです。《主よ》。 9節の一回目のイエスさまへの質問は、「あなたはユダヤ人なのに」と、いきなり始めているのに、 11節は、「その女は言った。《主よ》。あなたは汲む物を持っておられませんし…… この《主よ》という言葉が入っているということは、この女性は、このユダヤ人の男性に何かを感じたのではないだろうか? 《主よ》と言わしめるような、何かを感じたのではないだろうか? だから、思わずこの女性は《主よ》という言葉を使ったのではないだろうか?と想像いたします。
で、この後イエスさまが答えていますね。13節〜14節です。
13イエスは答えられた。「この水を飲む者はみな、また渇きます。 14しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
ここもリビングバイブルではこう訳されています。 (13節)イエスさまはこう仰っています。この水を飲んでもすぐにまた喉が渇きます。 (14節)けれどもわたしがあげる水を飲めば、絶対に渇くことがありません。わたしがあげる水は、その人の内で永久に枯れない泉となり、いつまでもその人を永遠のいのちで潤すからです。
このように、イエスさまはこの女性に答えました。
3)イエスさまのこの答えを聞いた女性は何と答えたか? それが15節――
15彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
「その水を私にください」とイエスさまに言ったんですね。 ここでも15節の彼女はイエスに言った、その台詞の最初に《主よ》という言葉が付いています。 「その水を私に下さい。その水を私にください。」 で、その女性が「その水を私に下さい」とイエスさまに願ったんですけれども、その目の前の男の人がくれる水がほしい理由、それが15節に2つ書かれていますね。 女性はこのような理由で水がほしかった。 ●「私が渇くことのないように」――喉が渇くこともなくなるなんて、そんな不思議な水をもらいたい。そんな不思議な水をもらいたい。 ●「ここに汲みに来なくてもよいように」――毎日、こんな遠くまでテクテク歩いて水を汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。
そうすると、よく読むとですよ、この女性の言葉をよく読むと、この女性がイエスさまに「水をください」と言った動機というのは、極めて現実的で実利的であったということが分かります。 「喉が渇くことのない水、そしてわざわざここに汲みに来なくてもいい水、そんな不思議な水、こりゃ、すごい水だ!これは便利だ!これは不思議だ!こんなご利益のある水はない」 まるでイエスさまの話を、不思議ないのちの水を勧めるセールスマンか何かのように(笑)、その話のように、もしかしたら聞いていたのかもしれない。 「ああ、そんないのちの水、欲しい。そんな不思議な水を」
でも、イエスさまがこの女性に飲んでもらいたかった水の一番の効能というのは、14節に書いてありますね――
14しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
これがこの女性に飲んでもらいたかった水の一番の効能だったわけです。
今日も礼拝の最後で歌う讃美歌の歌詞に、ちょっとこだわりたいと思うんですけれども―― 今日の礼拝の最後に歌う讃美歌は、(福471)「あまつましみず」です。 これはもう、『絶滅危惧讃美歌』ではないかと言われる、恐らくもう段々と歌われなくなってしまうような歌ではないか? でもこの教会福音讃美歌には、きちっと載っていることは嬉しかったですね。 この「あまつましみず」って日本語ですよ(笑)。日本語です。 あまつ――天の。ましみず――本当の清水。 天から注がれる本当の清水、水のこと、生ける水のこと――それを「あまつましみず」。
福471 あまつましみず 1節 あまつましみず ながれきて、 あまねく世をぞ うるおせる。 ながくかわきし わがたましいも、 くみていのちに かわりけり。
この歌詞は永井えい子さん(1866〜1928)という人が訳しました。 この人はすごい人なんですよ。詩人であり、翻訳家であり、教師であり、伝道者であり、ジャーナリストであり、実業家であり、そして日米で活躍したスーパーウーマンだった人です。 こんなすごい人、日本であまり知られない理由は、ほとんどアメリカにいた。それが理由だった。 でも、知る人ぞ知る、永井えい子なんですね。 その人がイエスさまに出会った時の感動をもとに、この歌詞を作ったと言われています。
2節 あまつましみず 飲むままに、 かわきを知らぬ 身となりぬ。 つきぬめぐみは こころのうちに、 いずみとなりて 湧きあふる。
3節 あまつましみず うけずして、 つみに枯れたる ひとくさの さかえの花は いかで咲くべき、 そそげ、いのちの ましみずを。
このような「ましみず」、永井えい子さんの人生を変えた「ましみず」。 イエスさまはそのような「ましみず」を、このサマリアの女性にも飲んでもらいたいと願っていた。 でもこの女性は、この部分を理解することはできなかったのでしょう。このことを。 「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(14節)と聞いても何のことだか分からなかった。 ただこの女性の心に入った言葉は――「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません」――ここだけがこの女性の心を捉えて、 「ああ、そんな水があったらほしいね。喉も渇かないの?そんな水、一回飲むとそれで終わりっていうすごい水?ああ、欲しいねぇ。 そして汲みに来なくてもいい水?ああ、欲しいねぇ、その水欲しい、その水欲しい」 そういう風にイエスさまに願い出たんですね。
動機が何であれ、それでもイエスさまの語る水に興味関心を示し、そして「その水を私にください」とこの女性は求めた。 それはとても価値あることだと思います。 この時、このサマリアの女性は目の前の名も知らぬユダヤ人の男性とやり取りをしながら、《心が通じ合った》んですね。心が通じ合った。 そのようにイエスさまは、この女性と関わって来ています。 そして《心の通じ合い》がここで生まれたんですね。 これは信頼関係ができたと言ってもいいのかもしれません。 でもそれよりも、私(戸塚伝道師)は《心の通じ合い》という言葉を使いたい。 イエスさまとこの女性とが、心が通じ合ったのだ。 これこそ、イエスさまからの『呼び水』だったんです。
私たちが福音を伝える時、一番大切なことは何でしょうか? それは《心の通じ合い》です。 これがなかったら、どんなすばらしい福音も、人の心に入って来ない。 福音を伝えるということは確かに難しい時代になりましたね。
高津教会が、溝口の駅前で路傍伝道を行っていた、それは今から20年(以上)前ぐらいでしょうか?そこからもうずっとやっていません。 全く効果がなかったからです、理由は。 「路傍伝道」――もうこの言葉でさえ死語ですね。20年ほど前からずっとやってなかった。 それと同時に、高津教会の集会から「伝道会」という名のついた集会がなくなっています。
「路傍伝道」、懐かしい響きですね。 日曜日の夕方5時に、神学生が何名か来て、準備室でお弁当を食べていました。 5時30分に伝道委員会である人たちが集まって、準備祈祷会が始まって、 そして6時から、溝ノ口の駅前で、ちょうど今ペデストリアン・デッキの下にある交番、あの辺りですよ。あの辺り。 あの辺りが、私たちの日曜日の路傍伝道の拠点だったんですね。
そして6時から6時40分まで、一生懸命教会の伝道会の案内をしたことを覚えています。 でもみんな素通り。無視。チラシも受け取らず。 人々が求めているのは――今になって分かりました――形だけの集会案内じゃなかった。 人々が求めているのは《心の通じ合い》だったんです。 私たちが一生懸命チラシを蒔いている。でもチラシには見向きもしない人が、 「すいません。ちょっと道を教えてほしいんですけれども、イトーヨーカドーはどう行ったらいいんでしょうか?」 「ああ、ヨーカドーはこうですよ」 「ああ、ありがとうございます」 そっちの方が《心の通じ合い》ができているんですよ。
チラシは受け取ってくれない。聖書のお話なんか耳も貸してくれない。でも、道を聞いてくる。そういう人がいる。一人や二人じゃなかった。 お酒を召し上がって、大分酔っておられる方が声をかけてくれた。 「ああ、大変だねぇ!がんばれよ〜」 「ありがとうございます」 そこで《心の通じ合い》ができてるんですよ。「頑張れよ〜」 路傍伝道をやっている人たちに対して「頑張れよ〜」って言ってくれる人ってのは、お酒に酔った人しかいなかった。「頑張れよ〜」
ちょうど私たちが路傍伝道をやっていた所は、バスの停留所の真ん前でした。 バスが発着する停留所の前で、何台かのバスがそこで発着するそういう所でした。 その前で、交通案内するおじさんと仲良くなって、 「いつも大変だねぇ。お疲れさま〜」と声をかけてくれて、 ほんとに私たちの労を労ってくれた。 女子神学生――以前話したと思うんですけれども――女子神学生が寒い中、そのおじさんにチラシを渡した。「ありがとう、ありがとう」 そうしたら、そのおじさんがふっといなくなって、また現れたかと思うと、手に温かい肉まんを持って、その女子神学生に「はい、ご苦労さ〜ん」と言ってあげた。 その女子神学生は、「ありがとうございま〜す」――《心の通じ合い》ですよ。 何か路傍伝道よりも、そっちの方がすごく現実的であり、ぬくもりがあり、温か〜いものを感じ、何かそこから生まれるような気配さえ覚えた、そういうひと時であったことを覚えます。
今の時代に必要なのは《心の通じ合い》です。 私たち教会も様々な『呼び水』を用意して、新しい方々が教会に来てほしいという願いを込めて、色々な企画をするわけですよ。 色んな教会があります。バザーやっている教会。高津教会も(以前)やりました。 コンサート、カルチャースクール、英会話。 学習サポート、ま、塾みたいなことをやっている教会。 フラダンス、お茶、デイサービス、カウンセリング、色々なことをやっている。
私たちは今何をやっているか?オンライン礼拝をやっています。 オンライン礼拝、これ、誰でも観られるんです。世界中どこでも観られる。 もしかしたら、今日初めて、たまたまこの礼拝を今ご覧になっている方がおられたら、 ありがとうございます(とカメラ目線で軽くお辞儀して呼びかける戸塚伝道師)。 よく観てくださいました。初めて観てくださっている方。 様々な企画を用意する。みんなイエスさまからの呼び水なんです。 「ああいいことやっていますねぇ。行ってみようかなぁ?行ってみようかなぁ?」 それがこのサマリアの女性の言葉、「その水を私に下さい」(16節)ということなんです。
初めて教会に行こうと思っておられる方々のみならず、今オンライン教会で、日曜日教会で会うこともできない。 もうバラバラで、それぞれの場所で、今タブレットの前で、礼拝を共に奉げておられる方々、今こそ私たちは、《心の通じ合い》を一番必要としているのではないでしょうか? 私はもう教会学校の子どもたちに会いたくて会いたくてたまらないんですよ。 どれ位背が伸びているのか? 今日天海ちゃん、来てくれましたけれども、でも教会学校の子どもたち、どうしているのかなぁって。 《心の通じ合い》を求めています。 一日も早く新型コロナウィルスの感染拡大が終息しますように、と願っていますけれども、いつになることやら。 《心の通じ合い》
ところでイエスさまは「その水を私に下さい」と、そう求めたサマリアの女性、心と心が通じ合ったこの女性に対して、 そのままで終わらせたくはありませんでしたね、イエスさまは。 本当のいのちの水、生ける水をこの女性にどうしてもあげたいと思った。 そこで決定的な一言を語られるわけですね。 それは、サマリア・ストーリー第三回に続きます(笑)。次回をお楽しみに。 予告編は16節から26節にありますけれども。
動機が何であれ、「何かいいことやっていますね。その水を、そんな素敵な水を私に下さい」と私たちの所に来る方々。 たとえ冷やかしでもいい、教会を覗いてくださる方々。 そしてオンラインを聞いてくださっている方々。 先ずは、その方々と《心の通じ合い》がなされる――そんな楽しく和やかな関係づくりができたら、どんなにすばらしいことでしょうか?
☆お祈りいたします――戸塚伝道師 イエスさま、サマリアの女性に出会われたように、あなたは私たち一人ひとりにも出会ってくださいました。難しいことは分かりませんでした。でもあなたが下さる水を、「すばらしいプレゼント、私にも下さい」という思いであなたに求めました。こんなにも小さな小さな私の期待を、あなたへの思いを、イエスさま、あなたはしっかりと受け止めてくださり、心を通じ合わせてくださいました。そして素晴らしい恵みの世界を味わわせてくださっていますことをありがとうございます。
この大変な状況の中、「その水を私にください」と言ってあなたに求める方々が、高津教会にもオンライン礼拝を通してでも、来ていただけるようにどうぞお導きください。イエスさま、あなたのお名前によって父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。
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