☆聖書箇所 Tペテロ2:1〜4 1ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、 2生れたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。 3あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。 4主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。
☆説教 主イエスのいつくしみ深さを味わう
今日は、第一ペテロの2章の1節〜4節を開いていただきました。 もう一回、こういう風になっているということで、見ていただきたいと思います。 (※聖書箇所をカメラで映す。「捨てて」(1節)「慕い求めなさい」(2節)を赤いペンで囲み、「主がいつくしみ深い〜味わいました」(3節)に傍線あり。) 「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、」(1節)――これが今日のポイントの1番目になります。 2番目に――「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい」(2節)――これが2番目です。 3番目のポイントは、3節にあります――「あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」 それをもって4節「主のもとに来なさい。」――ということで、共に聖餐にあずかりたいと思います。
皆さん、心の準備だけでなく、聖餐式の準備の方は、あの、うっかりしてますと整ってないと思います。 神さまはどんな物素も祝福してくださいますから、もし白いパンがなくてもデニッシュでもいいですから用意していただきたいと思いますし、ぶどう液がなかったとしてもお水でも用意して、共にあずかっていただきたいと思います。
3つのことに目を留めると申しました。まず第一番目に―― 1)すべての悪を捨てて、とあります。
1ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
と始まります。 ペテロが挙げていくリストというのは、一種特有でありまして、 それはごまかし、偽善、妬み、悪口というのは、自分を装う、偽装する武器であります。 ありのままの自分を見られることを嫌い、私たちは誰もがごまかします。 それは自分の容姿であれ、自分の心の中であれ、自分の信仰の状態であれ、 ありのままを見られることを嫌いながら、私たちは外側を整える。 イエスさまはそういう者を、偽善者という風に呼ばれました。
人のことを悪口を言うというのは、悪口を言うことによって自分を守る、あるいは自分が少し優れているかのように誇れるからですね。 妬みという言葉もありますが、スイスの精神科医のポール・トゥルニエ(1898〜1986)は言いました。 「教育のある人の妬みは激しい」と。 「往々にして学の高い人は、他人が自分より優れていることが許せない。 有るがままの自分よりも、さらに優れている自分を見せようとする傾向がある。」
キリストの前に出る時――今朝がそうですけれども――私たちは自分自身を武装している武器を捨てなければいけない。 この「捨てる」と訳されている言葉は、正確には「脱ぎ捨てる」です。 脱ぎ捨てて、ありのままの自分で御前に出て初めて、私たちはイエス・キリストの恵みにあずかることができる、というのが第一番目です。
2)純粋な、霊の乳を慕い求める、ということに注目いたしましょう。
2節だけもう一回見ていただきたいと思いますが、こうですね。 (※も一度、聖書箇所をカメラで映して2節を読む) 2生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
イメージはペテロは私たちがすぐに浮かべることができるように、「生まれたばかりの乳飲み子のように」という表現を使っています。 お母さんとへその緒が切れた段階から、人に与えられた生命(いのち)への道、それは母乳を慕い求めることであります。 母乳を慕い求めるためには、母乳が出る・出ない以前に、赤ちゃんの中に母乳を渇望する力がなければなりません。 慕い求める力というのは、生命(いのち)への渇望です。 逆を言いますと、どんなに優れたミルクが用意されていても、それに対する渇き、慕い求める気持ちがなければ成長は期待できません。
そう思いますと、信仰の成長を握っているのは、理解力でもない。悟る力でもない。 先ず渇く力。自分自身の渇きに気がついてあげる力。 真理を求めて、神の力を求めて、「渇く信仰」だろうと思います。
昨日、圭子(夫人と)話しておりまして、ま、しばらくこのオンラインの礼拝が続くという方、ぜひ私(藤本牧師)に連絡をください。 それで教会にもし置いてある聖書がありましたら、聖書・讃美歌を送り戻すことができます。 簡単に送れますので、ぜひ仰っていただきたいと思います。 変わらずに小奈さんは、歌詞と聖書の箇所も(動画に)上げてくださいますけれども、私(藤本牧師)も時に頻繁に聖書を捲りますし、 「自分の聖書がいい」と言う方がいらっしゃいましたら、ぜひ仰っていただきたいと思います。
先ず「渇く信仰」というのが必要だという話をしました。 そして加えて言うならば、その人が神のことばに飢え渇いているのなら、 聖書の言葉を自分自身への神の語りかけとして、それをいただきたいと慕い求めるなら、何の心配も要らないということになります。 何の心配も要らない、と言うのは語弊があるかもしれません。
でも、2節の最後に直ぐに、「それによって成長し、救いを得るのです」「救いの完成に至るのです」と、こう書いてあります。 「救いの完成」というとき、救いというのは、洗礼に至るまでの道のりがあるでしょうけれども、私たちがしっかりと理解しておくべきは、 「洗礼は始まりに過ぎない」ということですね。 それがどんなに小さな始まりであれ、どんどん確実に成長していく。 それがキリスト者の成長で、やがて本物の救いは、私たちは天国に入る時にいただくわけです。
乳飲み子のように慕い求める。 昔、私(藤本牧師)の子どもが小さかった頃に、夏休みにカブトムシがほしいと言っていたことがありました。 もうそのお店はないんですけれども、溝口のペットショップに連れて行ったことがあります。 夏休みだけありまして、なるほど大きな桶に十数匹のカブトムシが置いてありました。 何匹も飼う必要はないと思いまして、とりあえず「一匹ください」と。
おばさんに「おばさん、元気なカブトムシを一匹ください」とお願いしました。 そしたら、おばさんは元気なカブトムシを別に調べるふりもせずに、「は〜い、これね」と言って、すぐに袋に入れてくださったんですよね、いとも簡単に。 で、私(藤本牧師)は、 「え、これが元気なカブトムシなんですか?どうやって見分けるんですか?」ってお尋ねしましたら、 「そんなの簡単よ。このカブトムシはね、ほら、取り上げた時に、真ん中の餌にしがみついていたでしょう」と。 よく見ますと、桶の真ん中に輪切りのパイナップルがドカ〜ンと置かれているわけです。 こういう、「餌にしがみついているカブトムシ」は強いんだ。なるほどなぁ、と思いました。
そこにあるのは、パイナップルなんです。 そして全部のカブトムシがそれに集中しているわけではありません。 パイナップルにくっついていて、カブトムシもいっつもそこにいるわけでもないのかも知れないんです。 「しかし、餌に貪欲なカブトムシは必ず成長しますよ。 だから強いカブトムシを見つけるとなったら、先ず餌にしがみついているカブトムシを持ってくるのが一番です」 という風におばさんは仰っておられました。
「家でもパイナップルなんかがいいのよ」と教えてくださいました。 パイナップルは人間が食べた方がおいしいのに(笑)と思って、私(藤本牧師)は買いませんでしたけれども(笑)……
「生まれたばかりの乳飲み子のように」という自分を、どう思い描くか?です。 どのようにして、生れたばかりの乳飲み子のように、みことばを慕い求める自分を思い描くか? お腹が空いたらとりあえず泣き叫ぶ。食べさせてくれと訴える。 しかも一番おいしい、栄養のある母乳がいいと。 「純粋な、霊の乳」とありますように、混ぜ物をしたり、薄めてしまったミルクではなくして、 あるいはへんちくりんな教えの混ざったようなもので、たましいの飢え渇きを満たすのではなくして、 純粋に「聖書のみことばに満たされたい」という渇望があれば、みことばによって成長し、救いを全うする。 そういう風にペテロは教えています。
私(藤本牧師)も皆さんも、オンラインの礼拝がベストだとは思っていません。 で、やっぱりみんなが集まって、皆さんの笑顔が見たいです。 元気なお姿を見て、一緒に言葉を交わしたいですね。 そして高津教会が誇りとする所の、礼拝堂のガラスが振動するような讃美歌を一緒に思い切り歌いたいです。 先ほど言いました「天の窓」にIHさんの原稿が載っています。 実に懐かしく、半年前の礼拝の状況が頭の中を巡ってまいりました。
しかしオンラインの礼拝の方がよい、という意見も聞かないわけではないんです。 なぜなら、人によっては、妙にこの形態が説教に集中できると言うのですね。
先日、O(S)さんがスマホを求められました。 先週の日曜日、初めてYouTube の礼拝を守ることができたと、感謝の連絡をいただきました。 お一人で別の部屋に行き、そして小奈さんが(画面に)作ってくださる讃美歌の歌詞を自分で歌いながら、礼拝を捧げる恵みがこんなに尊いものだとは思わなかったという趣旨のことを、 圭子(夫人)が電話で受けた。それは喜びの電話だったと。
それはKさんにしても、涙の谷を過ぎゆく時に(***詩篇84:6)、病室で礼拝を捧げることによって、そこが生ける水の川(***ヨハネ7:38)の出る場所となっていく。 涙が喜びに変えられて行く。 自分の家の誰もいない小さな部屋で、讃美歌を歌うっていうのは、ここで思いっきり歌うのとは少し状況が違うかもしれません。 でも人生歩んでいる内に、信仰生涯の中でそういう瞬間もあってもいいのではないでしょうかね? そしてそんな瞬間であればある程、より礼拝に集中する、というそういう姿勢はとっても大切だろうと思います。
早くもとに戻りたいと思います。 でも純粋に恵みを、みことばを慕い求めるなら、「それによってあなたは成長し、そして救いの完成を得るのです」(Tペテロ2:2)という教えは、私たちはきちんと覚えておきたいと思います。
3)ちょっと聖書を見ますね。3節です。 (※また聖書を映して、指でなぞりながら説明。「主が〜味わいました」まで赤の傍線あり) 3あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。
主がいつくしみ深い方であることを、既に確かに味わいました。 このことはとても大切ですね。 これから私たちがあずかる聖餐は、主がいつくしみ深い方であることを味わう機会です。 ですから、そう言った後で、ペテロは「主のもとに来なさい」(4節)と私たちを招いています。 既に確かに、主がいつくしみ深い方であることを味わっている私たちでありますけれども、この味わいというものを私たちはいつの間にか忘れてしまいます。 人間っていうのは、そういうものだろうと思います。
でも、「味わって知っている」というのは、どういうことなんだろうか? 一度味わって知ったものは、忘れないでしょう。 悲しみであれ、挫折であれ、それを味わうということは、その悲しみや挫折を自分の中にしっかりと取り込んで体験するということです。 それは本で読むような知識ではありません。
さらに言うと、ま、子どもの頃によく「ご飯を咬みなさい」と言われたように、「味わって食べる」というこのペテロの言葉は、詩篇34篇8節――
<詩篇34:8> 8味わい 見つめよ。【主】がいつくしみ深い方であることを。……
という言葉から来ていると言われています。 つまり「味わう」という言葉には、ゆっくり噛み締めて、その味わいを楽しむ、という意味が含められています。 やっぱり、ゆっくり、じっくり見つめて、隅々まで吸収しなさい、ということです。
私たちは、往々にして自分の挫折体験をゆっくり味わって、落ち込みますよね。 何か失敗しますと、お風呂に浸かりながらそれを味わい、そしてやがて寝床で寝入る前にそれを味わい、 周囲から励ましの言葉をかけてもらっても、それを味わい噛み締めるということはあまりしないです。 人間誰でも、否定的な自分自身の愚かさの方を、何度も何度も口に入れたまま反芻し、自分の足りなさ、罪深さを味わい、 そして霊的に鈍感であると無感動になってしまいます。
でも詩篇の作者は、そしてこの手紙の書いたペテロが言っているのは、「味わうべきは主のすばらしさ」だと。 ゆっくり見つめて、味わうべきは、「イエスさまというお方が憐れみ深いお方である」ということを味わいなさい。
これには二重の意味があります。 一つにはこれを記しているのが、ペテロだということです。 イエスさまの一番弟子でありながら、「イエスさまを知らない」と三度、十字架を前にして否定したペテロ。 イエスさまを捨てたペテロが、赦していただいた。 所詮、自分の信仰は口だけのものであった。あるいは所詮、自分は偽善者であり、つまらない自分の人生、簡単に転落してしまう自分の人生の弱さというものを知っていました。 でも仮にそんなものを深く味わったところで、何にも生まれて来ないですよね。 何も生まれてこない。もし生まれて来るものがあるとしたならば、 その自分の弱さ、愚かさを隠すためのごまかしであり、偽善であり、妬みであり、人を批判する所の悪口、つまり自分を装う武器ばかりが出て来ます。
もう一つ心に留めてほしいのは、「主のすばらしさをじっくり味わう」と言った時に、それは単純に「すばらしい」という言葉で片づけることをしてはいけないということです。 「ああ、すばらしいね」と言われると、「何が、どこがすばらしいの?」と思わず聞き返したくなりますよね(笑)。 「すばらしい」という言葉程、漠然としていて、なんて言うんですかねぇ、褒め言葉にもならない言葉は、日本語にはないんではないかと、私(藤本牧師)は感じています(笑)。 どこがどういう風にすばらしいのか? 「神のいつくしみのすばらしさ」というのは、言うまでもなく――キリストが私たちの罪深さ、私たちの情けなさ、私たちの病、私たちの愚かさ、私たちの孤独、私たちの死という運命を代わりに背負ってくださった、十字架のすばらしさ――それを具体的に指しているわけです。
この恵みは何度味わっても、味わい尽くすことはできないですね。 この手紙を記したペテロは、確かにこの主のいつくしみ深さを体験しました。 主イエスを三度否んだことを許していただき、いや、そればかりか、 「わたしの羊を飼いなさい」と新しい使命をイエスさまからいただいた。 そのすばらしさを、ペテロは決して忘れません。
ですからペテロは、いつまでもイエスを否んだ事実というものを味わう人生ではなく、 一生忘れない失敗と、自分に対する異様な程のコンプレックスに生き抜くという生き方ではなく、 そんな失敗を隠す必要もない。偽善やごまかしに走る必要もない。 なぜならイエス・キリストが私を赦してくださり、私を用いると約束してくださったからです。 聖餐にあずかる時、私たちは自分自身の愚かさの大きさではなく、十字架の恵みの大きさを味わいます。 何度でも味わいます。
4節「主のもとに来なさい」――ペテロは私たちを招いています。 今朝共に「純粋なみことばの乳」を慕い求めて、飢え渇いて、そしてその純粋なみことばに凝縮されている、聖餐の恵みを共に得ようではありませんか。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、自分自身を武装する所の様々な武器を脱ぎ捨て、自分の内側にある霊の糧に対する渇きを思い出し、そして既に味わった所の主のいつくしみ深さを思い起こし、今あなたの御前に出て行きます。
どうか、私たちの心の隅から隅に至るまで、聖餐の味わいを浸透させてください。そしてどうか私たちが聖餐にあずかることによって、残された数か月、信仰のゆえに、涙の谷も泉の湧く地となることができるように、あなたが共にいて、私たちの手を握り、私たちを励ましてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖餐式 ●讃美歌 ―― 以降は聖日説教に掲載しています。
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