☆聖書箇所 ヨハネ4:13〜21 13イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。 14しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」 15彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 16イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 17彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。 18あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」 19彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。 20私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 21イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
☆戸塚伝道師の説教 サマリア・ストーリーBまことの礼拝者たちT〜違いを超えて〜
皆さん、お早うございます。高津教会の礼拝、今日も共に神さまを礼拝するひと時が与えられていることを心から感謝しております。 基本的には第三聖日が、私(戸塚伝道師)がこの場に立ってお話をさせていただく日なんですけれども、今日は久しぶりに藤本満先生が高津教会におられる(笑)という、そういう日でありますので心強い限りであります。 今日からハイビジョンということで、映りはどうでしょうか?少しは鮮明になっているでしょうか?(※とカメラ目線で語りかける戸塚伝道師)。私にはわからないんですけれども(※うん、鮮明になってるね、と言い合っています。自宅PC・スマホ組)。 映りが良くても、お話の中身が乏しければほんとに申し訳ないので、少なくともできるだけ短く説教をしていきたいという風に思っております。今日もどうぞよろしくお願いいたします。
今日はヨハネの福音書第4章の15節〜21節、サマリア・ストーリーの第三回目であります。 第一回目は疲れたイエスさまとの出会い、そして第二回目が、「その水を私にください」というサマリアの女性のイエスさまへの求め。 この第一回目、第二回目を通して、イエスさまとサマリアの女性との短時間での信頼関係作り、心の通じ合いのプロセスを読み取って来たわけであります。
今日はその続きです。 「そんな便利な水がほしい」――『永遠のいのちへの水』の本当の意味も分からずに、「その水を私にください」と15節でイエスさまに対して述べた(女性の)物語がずっと続くわけですが、 今日は3つの視点で、共に恵みを味わいたいと思います。
1)サマリアの女性に対するイエスさまのアプローチ
「永遠の水がほしい」と言ったこの女性に対して、イエスさまは決定的な一言を述べておられますが、そこを丁寧に読み取ってまいります。 16節を見てみますと、このようにイエスさまは女性に仰っています。
16イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
女性にとっては全く関係のない指示をイエスさまから、今までの話とは全く関係のない指示をイエスさまからされたわけですね。 この女性はそのイエスさまの言葉に対して、17節――
17彼女は答えた。「私には夫がいません。」……
これでOKかなぁと。女性はこの問題に対して「私には夫がいません」と言って、ま、逃げたつもりなんでしょう。 結婚してないということを言いたかったんでしょう。そうすれば、この話はもう終わるかもしれないと思った。 でもイエスさまはさらに言われました。
17……「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
ここまでは良かったんですけれども、その次にイエスさまはさらにこのように仰ったんですね。
18あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
このことを聞いたこの女性は、もうびっくりしたんだと思うんです。 びっくりしたと同時に、女性の本音の部分にぐいぐいと切り込むような、そういうイエスさまのお言葉、それに何かもう抵抗できないような強い思いを感じたのではないかと思います。 このようなアプローチはイエスさまだからこそできるのでしょう。 イエスさまが、自分の私生活、自分の過去、それをすべて知っておられることに気づいたこの女性。 ああイエスさまは、そうすると、あのこともこのことも全部分かっておられるんだろうか? 具体的に「あなたには夫が五人いましたが」と、つい先ほどまで初対面だった、このユダヤ人の男性からこんなことまで言われた。 「そして今一緒にいる六人目の男性は夫ではないでしょう?」と。 「だから結婚しているかいないかに関わらず、『私には夫がいません』とあなたが言ったのはもっともだ」と、そのようにイエスさまは仰ったんですね。
この女性は、その触れられたくない過去、思い出したくない過去、その話題から何とか逃れようとして、すぐに話題を変えようとします。 イエスさまを近づけたくないために必死になっている状況が、この後続くわけです。
2)話題を逸らすサマリアの女性とイエスさまとのやり取りです。
どのように話題を逸らしたか?19節――
19彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
預言者、自分の過去のことを言い当てた存在、これは単なるユダヤ人の男性ではなく、あなたは特別な神さまからの能力を持った預言者ではないだろうか?――そのように私はお見受けします、と返事しました。
そして、その後、このサマリアの女性は、さらに触れられたくない話題から逃れるために、礼拝の話題へと変えるわけです。20節――
20私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
私たちの先祖、サマリア人の先祖、それはこの山――ゲリジム山ですね――そこで礼拝しましたが、あなたがたは礼拝すべき場所はエルサレムにある、と言っている。 礼拝の話題です。礼拝の場所の話題に変えていくわけですね。 サマリア人とユダヤ人の礼拝すべき場所の違いについて、この女性は(話題を)持って行こうとするわけです。
そもそもユダヤ人とサマリア人、それぞれの民族はなぜ付き合いをしなくなったんでしょうか? 9節には最後に「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。」と書いてあります。なぜでしょうか? それは、歴史的な理由がありました。 サウル王さま、ダビデ王さま、ソロモン王さまの時代、イスラエルの国は一つの王国でした。
その後、北のイスラエルという国と南のユダという国に分裂をしていきます。 北のイスラエルの主都がサマリア。南のユダの国の主都がエルサレム。 二つの主都に分裂するわけですね。 そして北の王国イスラエルがアッシリア帝国に攻められ、手に落ちた後、多くのユダヤ人はアッシリア帝国に追放されて行くわけです。 そしてその後、平和を維持する目的で――この北の王国、手に落ちた後の王国――そこに外国人たちが移住していくわけです。来るわけです。 そして今までいたユダヤ人の残りと、それから平和を愛する目的で外国人たちが移住して来た人たちと、結婚して生まれた子どもたちの子孫、それがサマリア人。
そうしますと、ユダヤ人から見れば、このサマリア人というのは、今まで同じ王国で共に一つの民族で、共に同じ神さまを礼拝する民だったのにもかかわらず、 違う民族と結婚し、そして混血の民族になってしまった――ある意味では「汚れた人種である」という風に、ユダヤ人は見なし始めてしまったわけですね。 さらには、ま、歴史的な流れで致し方なかったのかもしれませんけれども、「民族と国家を裏切った者たち」だとユダヤ人の人たちは考えるようになりました。 さらには宗教的にも――ユダヤ教とは違った「移住して来た人たちが信じていた宗教」と混合になってしまったという――そういう事実もあるわけです。
そこで、ユダヤ人はサマリア人とお付き合いをしなくなってしまった。 汚れた、そういう人種なんだ、民族なんだ、そのように見なしたわけですね。 恐らくサマリア人も同じように、そんなことを言うユダヤ人とはもう金輪際お付き合いを止めようと、そういう風になったわけです。
礼拝する場所の違い、それも当然のことながら生まれて来たわけですね。 もうサマリア人は、もうエルサレムの神殿なんか行かない。 エルサレムの神殿に相当する礼拝場所を、井戸のあるスカルの町のすぐ側にあるゲリジム山という山に設けたわけです。 ユダヤ人は神殿のあるエルサレム、そこで礼拝をする。 この女性が20節で言っているのは、そのことなのですね。 二つの民族の対立、長年に亘る偏見、それは礼拝の場所の違いに現れていました。 ルーツは同じ神さまだった。しかし礼拝の場所が、礼拝に対する考え方が、様々な面で違って来てしまった、この二つの民族。 歴史的な経緯による、恐らく不可抗力的なそういう要素も加わっていたのではないかと思われます。
イエスさまが地上におられた時代から今日に至るまで、礼拝の場所、あるいは礼拝についての様々な違いというのは、現在も続いています。 礼拝の仕方一つとっても、様々な礼拝が、恐らくこの日本の中に於いても、この時間様々な礼拝が、それぞれの教会で捧げられているのではないかと思います。 同じ神さまを礼拝しているのに、世界中様々なキリスト教会がある。 そしてその礼拝はそれぞれ皆異なっている。
例えばカトリック教会はミサ中心で、ご聖体をいただく、イエスさまのお身体をいただく聖餐式が礼拝のメイン。 御聖体はパンですね。何かウェハースみたいな丸い形をしたパンをいただく。それが礼拝のメイン。 ぶどう酒は神父さまがいただく。そうすると神父さまは相当お酒が強くないとなれないのかもしれません(笑)。 聖公会は式文による礼拝がずっと続きます。 司会者の言葉から、お祈りから信徒の告白、すべて式文に基づいて礼拝が進められて行く。 ペンテコステ派の礼拝というのは、賛美を中心の礼拝。 礼拝30分前から準備賛美が始まるという教会もあって、もう賛美、賛美、賛美の連続。 その中で異言による祈りや霊の歌も捧げられ、そして預言も語られるというような、そういう礼拝の光景。
さらには文化や伝統や習慣によって、千差万別の礼拝が全世界で捧げられている。 伴奏はオルガンかピアノかギターかバンドか。 アフリカでは太鼓を叩きながら、踊りながら礼拝をしている、そういうビデオを観たことがありますね。 「ああ、こういうのも礼拝なんだ」――カルチャー・ショックを受けるような場面もしばしばであります。 同じインマヌエル教会でも、違いは沢山あるでしょう。 今やオンライン配信が盛んで、様々な教会の礼拝が居ながらにして観られるようになってくると、「あ、この教会はこんな礼拝はこんな礼拝をしている」「あの教会はあんな礼拝をしている」ということを観ることができると思われます。 このような様々な違い、それはサマリア人とユダヤ人の違い以上に、もう数えきれない無限の違いが礼拝の形態に出て来る、そういう現在であります。
イエスさまはこのサマリアの女性の話を聞いて、礼拝についての話をさらに深くされていくんですね。
3)まことの礼拝者たち――これが今日のメインです。
21節を見ますと、その「まことの礼拝者たちというのはどういう礼拝者たちか」ということが書かれています。 21節からずっと書かれていますが、大きく分けて二つ――まことの礼拝者たちというのは、こういう礼拝者たちではないか――聖書から読み取れるんですが、 今日はその内の一つ目だけを見ていきたいと思います。
▼まことの礼拝者たちとはどのような礼拝者たちか? それは違いを超える人たちのことです。 サマリアの女性の言葉をさらに深めていくならば、礼拝場所の違いに拘らない人たちのこと。 イエスさまは仰いました。21節――
21イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
そういう時が来るんだ、とイエスさまは女性に宣言しています。 違いを乗り越えて、お互いがお互いを認め合いながら、許し合い、許され合い、神さまの恵みに生かされていることを感謝するような人たちこそ、まことの礼拝者たちであり、 そういう礼拝をする時がやがて来るんだ、イエスさまはそのように語りました。 サマリア人もユダヤ人も、過去の歴史的な縛りから解放されるんだ。 お互いがお互いを認め合い、赦し赦される関係に回復されるんだ。 お互いの間の憎しみや心の傷が癒された、そういう霊の状態で信仰者が一つになって、神さまを礼拝する時が来るんだ――それがまことの礼拝なのですよ、と。 イエスさまは、そのような礼拝をとても大切にされていることがよくわかります。
違いを乗り越える礼拝。 現在でも違いを乗り越えようとする努力は続けられています。 プロテスタントとカトリックの違いを何とか乗り越えようと、聖書の翻訳、共同訳の試みが為されたのが、1987年発行の新共同訳聖書です。 この新共同訳聖書は、聖書のシェアの8割近くを占めている。 カトリックの方々も使っている教会も沢山あられるということで、これがプロテスタントとカトリックの違いを乗り越える一つのステップとなったと言われています。
同じプロテスタントの中でも、教派の壁を乗り越える。 メソジストもバプテストも聖公会もルター派も改革派もペンテコステ派も、多様性を認め合いながら、教会は一つなんだ。 「使徒信条」で毎週告白していますけれども、「聖なる公同の教会を我は信ず」。 「聖なる公同の教会」というのは、教会は一つなんだということの告白です。 みんなイエスさまの十字架で救われ、罪赦され、神さまの子どもとされ、恵みによって生かされている者たち――私たちは主にあって一つなんだ。 どこで礼拝するのか、といった場所の違いを超えて、どのように礼拝するのかという形態の違いを超えて、どなたを礼拝するのかで一つになれる。
サマリアの女性のこの出会いから井戸端談議がず〜っと進み、あらぬ方向に逸れているような、そんな感じがいたしますけれども、 サマリアの女性が思わず語ったことから、イエスさまは大切な礼拝についてのメッセージを、この女性に語っていく訳です。
私たちはどなたを礼拝しているのでしょうか? それは私たちの信じる神さま、救い主イエスさま、十字架・復活のイエスさまです。 さらに「主にあって一つになる」ということは、礼拝する者というのは一人だけではないということがわかります。 勿論一人で礼拝することも不可能ではないでしょう。 でも礼拝者たち、23節で――今日はお読みしませんでしたけれども―― 「まことの礼拝者たち」という言葉をイエスさまが使っている、この「礼拝者たち」という言葉から――礼拝する者たちというのは、複数いることが前提である――ということがわかります。 現にイエスさまは、「二人でも三人でもわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいます」(***マタイ18:20)とイエスさまは仰いました。
二人でも三人でも、複数いることが前提である礼拝者たち。 特に教会の礼拝、共に主の前に集まることに大きな意味がある。 赦し赦されているお互いを覚えながら、礼拝をする。 礼拝こそ、恐らく『3密』を要求するんではないかと思うんですね(笑)。 密集、密接、密閉?(笑)、あ、密閉は必要ないかも知れませんけれども、でもそれが本来の姿なのかもしれません。 それが許されない今、顔を直接見ることができなくても、「主にあって私たちは一つである」という意識は、この礼拝の時間ずっと持っていたいと思います。
会堂での礼拝、今日は会堂にいらしている方々、私たち全員を含めますと、13名ですね。 13名の方々がここに共に集まって、顔と顔を見ながらお互い礼拝を捧げています。 でもオンラインでこの時間礼拝を捧げている方々、沢山おられると思います。 毎週100名以上の方の端末が数えられていますけれども、そのタブレットの前での礼拝。机の上でしょうか、そのタブレットは。 今お子さんを一生懸命あやしながら、もう大変な格闘をしながら、この礼拝の時を過ごしておられる方もいらっしゃるかもしれない。 病院のベッドの上で、この時間を迎えておられる方々もおられるかもしれません。 でも病院のベッドの上でも、共に礼拝の恵みにあずかれるような、そういう時代になりました。 様々な苦しみを抱えながら、布団の上で臥せって礼拝を奉げておられる方々もいると思います。 私(戸塚伝道師)も今年の元旦に経験いたしました。 さらには送られて来る原稿を読みながら、平日にいつでもどこでもその原稿を読みながら、礼拝の恵みにあずかっておられる方々もおられる。 このような時だからこそ、様々な違いがある中で「主にあって一つになれる私たち」でありたいと思います。 共に恵みをいただいて、主と共に、皆さんと共に、これからも歩んで行きたい。 そんな新しい一週間がまた始まります。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、感謝いたします。二千年程前、あなたが出会われた一人のサマリアの女性に、慈しみをもって関わっておられるストーリーを今日も読ませていただきました。女性は話題を変えたのに、その別の話題からあなたは恵みを語られました――「まことの礼拝者とは、サマリア人とユダヤ人の違いを超える者です」と。
私たちもそうです。どうか教会の違いも、教派の違いも、礼拝形態や場所の違いも、様々な違いを超えて、あなたを主と崇める恵みへと導いてください。その恵みを心にいただいて、この一週間も私たち一人ひとりを助け、守り、導き、あなたと共に歩めますように。イエスさまのお名前によって父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。
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