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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   11/1 ガラテヤ(4)一歩も譲歩しない ガラテヤ2:1〜6
☆聖書箇所   ガラテヤ2:1〜6
1それから十四年たって、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。
2私は啓示によって上ったのです。そして、私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように、異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました。おもだった人たちには個人的にそうしました。
3しかし、私と一緒にいたテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を強いられませんでした。
4忍び込んだ偽兄弟たちがいたのに、強いられるということはありませんでした。彼らは私たちを奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、忍び込んでいたのです。
5私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服したりすることはありませんでした。それは、福音の真理があなたがたのもとで保たれるためでした。
6そして、おもだった人たちからは――彼らがどれほどの者であっても、私にとって問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません――そのおもだった人たちは、私に対して何も付け加えはしませんでした。

☆説教   ガラテヤ(4)一歩も譲歩しない
観ておられる方、申し訳ないです。私(藤本牧師)聖書を映す予定で、これをi-padを用意して、先ほどまで映ってたんですが、時間が経っている間にソフトがアプリが自動的に更新されまして、ちょっとコネクションを失ってしまいました。
今日はどうしても聖書を開かなければいけないので、もしお手元に聖書がなければ、じっくり耳を傾けていただいて、集中していただきたいと思います。

(ガラテヤ)2章の1節に「それから十四年」と始まりました。
それから十四年というのは、1章の16節でアラビアに退いたパウロが改めてエルサレムの使徒たちに表敬訪問をして、それから十四年目の出来事に触れています。

十四年前、最初にエルサレムを訪ねた時、きっとパウロは自分が教会を迫害して来たということを謝罪したに違いありません。
自分は本当にイエス・キリストを神の御子、救い主と信じて、自分は伝道して来たということを証ししたに違いありません。
また他の書簡で記しているように、パウロは詳しくキリストの十字架の意味、また復活のこの歴史的な中心的な出来事の意義を共に語り合ったに違いありません。
最後(ガラテヤ)1章23節で、「人々は」というのは、エルサレムの人々は、「以前私たちを迫害した者が――パウロが――その時は滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」ということに感動して「神をあがめた」(24節)と記されています。

1)さて、それから十四年して、彼は再びエルサレムに赴く機会がありました。
今度はバルナバと一緒です。前回もそうだったかもしれません。
バルナバはユダヤ人で、評判がありました。「立派な人物で、聖霊と信仰に満ちた人」と使徒の働き11章24節に書いてあります。
彼は使徒の間で信頼の厚い、ユダヤ人キリスト者でありました。

急な必要があったということは明らかで、それは使徒の働きの15章の1節2節をちょっと読んでいきます。
使徒の働きの15章の1節〜2節。少しゆっくり目に読みますので、有名なエルサレム会議の冒頭ですね。
今日はこの二つを行き来いたします。(※ガラテヤ2章と使徒の働き15章ということ)
いったい何があったのか、いったいなぜパウロとバルナバが向かわなければいけなかったのか?

<使徒の働き15:1〜2>
1さて、ある人々がユダヤから下って来て(***パウロとバルナバのもとに、と説明)、兄弟たちに「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
2それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

エルサレムから下って来た、所謂割礼の人たちが、「十字架を信じるだけでは不十分。割礼を受けなければ、救われない」ということを教え始め、そして論争になった。
そこでパウロとバルナバはアンティオケ教会から派遣されて、そしてこの問題についてエルサレムの人たちと話し合う、ということでありました。

「十字架だけでは不十分、割礼も受けなければいけない」ということは、勿論割礼だけではありません。食事や安息日に関する律法規定も含まれています。
皆さん、イエスさまが仰った言葉を思い出していただければ解るんですけれども、
イエスさまは「新しいぶどう酒(福音)を、古い皮袋(ユダヤ教の教え)に入れたら、最終的には両者がだめになる」と仰いました(***マタイ9:17)。
新しいぶどう酒(福音)は新しい皮袋に入れなければだめだと。
ところが、当時のユダヤ人キリスト者の中には、今まで自分たちが大事に大事にして来たこの旧約聖書の教え――割礼も安息日の律法も食事の規定も――それを大切にするあまりに、この古い皮袋から離れることができない。

ですからどうしても十字架という新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるためには、何をすべきか?ということを彼らは考えていました。
それをすればするほど、結果的にキリストの福音が異邦人へと進む道の妨げとなっていたわけです。
どこまでも彼らはキリストの福音をユダヤ教的にしておかなければ気が済まない。
そうすればする程、非ユダヤ人である異邦人には、福音は非常に遠いものになってしまいました。

こういう話を聞いて、パウロとバルナバが(異邦人教会であったアンティオケ教会から派遣されて、)エルサレムで話し合ったわけですね。
(※これが使徒の働き15章のエルサレム会議であっただろうと言われています。)

その時、ガラテヤ2章の1節に戻っていただきますと、一緒に行ったのはバルナバだけではなく、テトスも連れて行ったと。
テトスというのは、割礼を受けていないギリシャ人キリスト者です。
彼がエルサレムでそのまんま受け入れられるなら、2章の2節にありますように――「私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならない。
もしテトスが拒絶されて、エルサレムで割礼を受けることを強いられたならば、
彼(***パウロ)がこれまで14年、いやアラビアを含めたら17年、異邦人伝道に励んで来た事が無駄になってしまいます。
(※彼は、福音を異邦人へと運ぶ選びの器として召されたのですから。
そして福音は、ユダヤ人の習慣や教えとは別に、キリストにおいて差し出される神の賜物であると、彼はそう信じて走ってきたのです。)
旧約聖書を見ますとよく分かりますね。特に律法や祭りごとを見るとよく分かります。
やっぱり、ユダヤ人と異邦人の違いは、決して小さくはないです。
それは食事から日常生活一年間の営みに至るまで、もう大きくかけ離れています。

テトスを連れて行ったエルサレム会議で、ペテロが味方をしてくれました。
ちょっと使徒の働きの15章にもう一回戻りますね。
15章の7節から読んでいきます。色々論争があったんですね。7節に――

<使徒の働き15:7〜11>
7多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。
8そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
9私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
10そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを(***というのは割礼というだけでなく、食事や安息日の規定全部ですね、と説明)、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
11私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たち(***異邦人も全員、と説明)も同じなのです。」

「ですから、この律法というくびきを彼らに掛けるのはやめようではありませんか」とペテロはエルサレム会議でパウロの味方をしたわけですね。
こうして堂々とパウロは、福音の真理だけを語ることを許してもらいました。

2)この時のパウロの姿勢を見ていただきたいと思うんですが――
【自由、真理のためには一歩も引かないパウロ】

ガラテヤ2章の5節に戻っていただいて、パウロが自分の姿勢をこういう風に語っています。

5私たちは、一時も彼らに譲歩したり屈服したりすることはありませんでした。それは、福音の真理があなたがたのもとで保たれるためでした。

「一時も彼らに譲歩したり屈服することはない」「福音の真理」を守るために。
あるいは4節には、3行目に――

4……キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、(***偽兄弟が、と加えて説明)忍び込んでいたのです。

この「自由」を守るために、私(パウロ)は一歩も引かなかったんですね。

ちょっと昨日のことをお話しします。
昨日10月31日は世界中で、特にプロテスタント教会においては、宗教改革記念日でありました。
当時の中世カトリック教会が説いていた教えの一つが、罪の償いです。
最初の時に少し話しましたけれども、もう一回思い出していただきたいと思うんですね。
キリストは十字架の上で、私たちの罪の身代わりとなって、死に売られている私たちのたましいを買い戻してくださった。贖ってくださった。これが贖いですね。

しかし十字架の贖いを信じるだけでは不十分だと。私たちは自分の罪に対して、この世にあって生きている内に罪の償いをしなければいけない。
それが当時の教えでありました。
そしてこの償いが十分にできなければ、この世を去った後に直通で天国に行くことは出来なくて、中間地点の煉獄という所に行く。
その煉獄で罪の償いに励んで、ようやく天国に迎えられる。
それが私たちであり、恐らく私たちの両親、家族、先祖に至るまで、いまだに煉獄で苦しみに耐え、償いをしているに違いない。

だから罪の償いをしなくてもいいように、贖宥状というんですけれども、償いを免除される証書をお金を払って買いなさい。
そしてグーテンベルグの印刷機がこの贖宥状を大量に印刷します。
そしてその担当官がいまして、各地を巡って、それを売り歩くんですね。もう飛ぶように売れていきます。
ペストの時代でありますので、死の恐怖がすぐ側にあり、かと言って十分な償いをしているという実感もない自分は、これを飛ぶように買っていくわけですね。

この宣伝が自分が住むヴィッテンベルクに迫って来た時、ルターは大変な危機感を感じて、1517年――503年前ですかね――1517年の10月31日、ヴィッテンベルク城にある教会の扉に95箇条の公開質問状を釘で叩き付けました。

ルターは確信していたんですね。
十字架の贖いがいかに十分であるか。
そしてそれを与えてくださる神の真実と神の憐れみがいかに偉大であるか。
それを前にして、偉大な贈り物を受け取りながら、同時に「ありがとうございました」と「付きましては、私のこの償いをお受け取りください」というのは、神さまの偉大な憐れみに対する侮辱にしか過ぎないと。
もしその神さまのギフトをいただくとしたならば――ルターは言いました――「乞食の手」のような空手の信仰をもって受け取るべきだ、と。

私たちが物乞いさんに憐れみをもって、何かを差し出した時に、ま、ずいぶん立派なものを差し出した時に、物乞いさんが
「ありがとうございました。これでは申し訳ないので、私の汚いハンカチをあなたにプレゼントします」(大笑)
と、うやうやしく神さまに差し出したところで、それは神さまが無償で与えようとしている救いに対する冒涜的な行為だと。
私たちはしょっちゅう、その償い的なことをするんですね。
これ程の恵み、救いをいただいたからには、これだけのことをしなければいけない、というその償いメンタリティーというものが、人間の内側には自然に働いてしまうわけです。

ルターもこの時一歩も譲りませんでした。
ローマ教会から「あなたは異端の刑に、生きたまま火刑に処する」と、そういう脅しをもらいますけれども、彼は一歩も引くことはありませんでした。

律法主義的なメンタリティー、償い主義的なメンタリティー、出来栄え主義、それから成功主義、成果主義というのは、いつの間にか侵入して来ます。
で、ガラテヤの2章の4節はそれを見事に説明していますね。
ちょっと4節、読んでいきます。(※解説しながら読み進める藤本牧師)
「忍び込んだ偽兄弟たちがいたのに、強いられるということは、私はなかった。
でもこの忍び込んだ偽兄弟は、私たちを奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、忍び込んで来ている。」

ね、償い主義的なメンタリティーは、偽物の福音として私たちの間に忍び込んでくる。
そしていつの間にか、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、
自由を狙って、忍び込んで来た。

私たちの教会は服装は自由です。
昔、15年か20年前に、あまりにも自由な方がおられて(笑)、そして「今日はずいぶんリラックスしていますね」(大笑)という風に、ちょっと嫌味っぽく申し上げたんですよね。
私なんかはちゃんとネクタイしているのに、あまりにもリラックスしててれ〜んとしておられるので。で、彼がポロッと言ったんですね。
「礼拝の時ぐらいはリラックスしたい」つまり「週日会社でギュウギュウ詰めに緊張しているのに、週末ぐらいはリラックスしたい」
私たちは以前言いました――「週日スーツを来て仕事に行っているんだったら、ましてや神の前に出る時にはベストなものを着て出るべきだ」と。
これは一つの考え方ですよね。

もう一つの考え方は――「週日は様々に緊張しているんだったら、神さまを礼拝する時ぐらい、ありのままの自分で気持ちを楽にして礼拝したい」
と言ったら、そういうほうが、もしかしたら当たっているんじゃないですか?
つまりそれは私たちの自由です。私たちの自由なんです。
どういう服装にするのか、どういう髪型にするのか。

息子が中学校卒業して、言った言葉が「髪の毛を染めたい」だったんですね。
「いいよ、どうぞ。高校行くまで染めたら。」
僅か春休み短いですから。でも牧師の息子であるということを考えて(笑)、私(藤本牧師)は彼に言ったんですね。
「染めるのは良いんだけれど、せめて人間界に存在する色にしてくれない?」(大笑)と。ま、緑や紫はちょっと人間の色として存在してないですからね。
で、私はなんか色々それだけでなく、様々な事につけて、彼に「牧師の息子なんだよ」
っていう意識を、やっぱり叩き込んで来たなぁと思います。

それがプラスだったのかって言いますと、やっぱりマイナスだったなぁと思いますね。
どうしてかと言うと、それはイエス・キリストが私たちに与えてくださった「自由」を奪うからです。
信仰がまだ幼い時には「型から入りなさい」ですね。
だけど、これは非常に危険ですね。
型から入ると、信仰が幼い時から、償い主義的な、律法主義的なメンタリティーを植え付けてしまう。

それがいつの間にか、狡猾に私たちの心の中に忍び込んで、そして私たちの内側からせっかくキリストが与えてくださった「自由」を奪っていくというんですね。
カッコウが、悪魔が私たちの敬虔な信仰の中に産み付けていった、出来映え主義、成果主義という傾向性に気が付かないと、
いつの間にか私たちの心の中で、大切なキリスト・イエスにあっての「自由」というものを奪い去られてしまう。
ですからパウロもあるいはルターも、一歩も譲歩しなかった。

3)ガラテヤ2章6節に次のようにあります。
ちょっと聞いてくださいね。
6そして、おもだった人たちからは(エルサレム会議で、と説明)――彼らがどれほどの者であっても、私にとって問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません――そのおもだった人たちは、私に対して何もつけ加えはしませんでした。

いいですか?
福音の真理――つまり、私たちの罪のためにイエス・キリストは十字架につけられ、罪の犠牲を払い、同時に神への服従を全うされ、
そのキリストを信じる信仰は、私たちとキリストを結び合わせて、十字架の恵みばかりか、キリストの復活の力もいただけるようになる。
聖霊が私たちを導き、力を与えて、神の子どもとして生きる道を聖霊が与えてくださる。律法ではない。
という、この真理以外には何もつけ加えなかった。

ところがですよ。実際エルサレム会議の結論は、少しばかりの付け足しがあるんですね。
実は付け加えられているんですよ(笑)。
使徒の働きの15章に戻っていただきますと――「何も付け加えられなかった」(ガラテヤ2:6)とパウロは言っているんですけれども、いや、実は付け加えられているんですよ。
エルサレム会議の最後にあの重鎮であったヤコブが、19節でこう言うんですね。

<使徒の働き15:19〜21>
19ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。
(***異邦人をユダヤ教の律法で悩ませるのはやめましょう。彼らの自由を奪ってはいけない。次の20節が付け加えです、と説明)
20ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。
21モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

最後の21節は――つまりユダヤ人は各地に散らされ、今も礼拝を守っている。
そして彼らにも福音が宣べ伝えられるのであれば、少なくとも彼らに対しては、(20節に)「偶像に供えて汚れたもの」と、「淫らな行い」と、「絞め殺したもの」と、「血は避ける」ように、4つ避けるべきことが記されているんですね。
もしかしたらこれはユダヤ人キリスト者に対する付け加えなのかもしれない。
「このように書き送るべきです」ということを、パウロは異邦人に対しては一度も言ってないです。

「血を避ける」というのは、旧約聖書の根本的な食事律法のものの考え方です。
食事だけではない。それは触れるということも、非常に忌み嫌われています。
「絞め殺す」――例えば鳥を絞め殺して食べるってどういうことかというと――
生きている間に頸動脈を切って鳥を吊るせば、鳥は暴れながら自然に血が噴き出して身体から血が抜けていくんですよ。
ところが絞め殺してしまうと、体内に血が残ってしまう。
彼らは血が残るということをすごく嫌い、今でも鶏肉であっても、あの赤肉のもも肉は水に浸けてから血を抜いてからでないと、orthodox Jew 正統的なユダヤ教の人たちは鶏肉を食べないですよね。
それほど、この「血」というものを体内に入れることを嫌う、文化なんです。

でもそんなことをパウロは異邦人教会にあって教えたのを見たことあります?
一度もないですよね?
ということは、ここでヤコブが付け足したことに対して、ま、「淫らなことをするな」ということは、パウロも認めることでありましょうけれども、
「偶像に供えた肉を避けなさい」ということも、実はパウロはあまり問うてないんですね。
Tコリントの8章の8節をちょっと読みますね。

<Tコリント8:8>
8しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。

というのは、偶像に供えた肉のことです。
私たちを神に近づけるのは食物ではない。だから偶像に供えられた肉を食べても損にもならないし、別に益にもならないと。
つまりヤコブが最後に提唱した、付け加えた但し書きでさえ、パウロはそれはユダヤ教にまつわる習慣や律法としての古い皮袋に過ぎない、と言って、彼はもう一切そこには触れなかったわけです。

一歩も譲らない福音の真理は、もしかしたらものすごく単純なものなのかもしれません。
「付け加えられて来るもの」というのは、もう些末にいくらでもあります。
日本の教会で言うならば、宣教師が持ち込んで来た髪型や服装がそうですよね?
日本の教会が作りだした文化というのがあります。
例えば一昔前で言うならば、教会で男子の席と女子の席が分かれているとかですね。
あるいは今で言うならば、歌う讃美歌の好みから説教のスタイルに至るまで、こだわりが先行するんです。
こだわりが先行する――うちの教会の習慣はこういう風にやって来たと。

後に、ヨーロッパ一帯に広がった宗教改革は、一つになることができませんでした。
特に、宗教改革を引き裂き大論争を展開したのは、聖餐の考え方でありました。
これは宗教戦争にも発展します。
カトリック教会ではパンとぶどう酒の実体が、キリストの肉と血の実体へと変化するという実体変化説。
ルターは、両方(パンとぶどう酒)の実体は変化はせず、しかしキリストの肉と血の実体がそこに宿るという共在説。
ツヴィングリは、物は全然関係ない。信仰によって、私たちはキリストの十字架を記念しているだけだと。
カルヴァンは、実体の変化の問題ではない。キリストは確かに、パンとぶどう酒と共に霊的に臨在されるという現臨説。

こういう何とか説というものの違いで、プロテスタントは幾重にも分割して行くんです。
洗礼の方法でも分割します。
やがて教職や牧師が着る服装においても分割して行きます。

結局の所、福音の真理に立ちながら、本質でないものが気になる私たち(笑)。
そして非本質的なことに、譲歩も屈服もしない私たち(笑)。
それによって、自らキリストにある自由を奪っている私たちを、つくづく考えさせられる聖書の箇所です。
(※語るべきこと力説して、言うだけ言った!という感じのスッキリしたお顔でにこやかな藤本牧師)

☆お祈りをして終わりにいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま。キリストにある自由をどのように尊んだらいいのか?確かに自由が放縦に至ることがないように、というのがガラテヤ書の5章のメッセージであります。でも同時に自由がいつの間にかサタンによって奪い去られて、私たちはまことに不自由なキリスト者になっているとしたならば、また私たちが作り出した様々な付け足しによって、教会を縛っているとしたならば、なんと憐れなことでしょう。どうか本質的には一歩も譲らず、しかし非本質的なことにあっては、きわめて自由な者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2020.11.01 - 22:54
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