今日の式辞説教は(※奈良県)高田教会牧師、南場良文(なんば・よしぶみ)先生にお願いしました。聖書の箇所をお読みいたします。 説教の式辞タイトルは「悪い知らせを恐れず、ほほえみながら」であります。
<詩篇112篇6〜8節> 6その人はとこしえまでも揺るがされない。 正しい人はとこしえに覚えられる。 7その人は悪い知らせを恐れず 【主】に信頼して 心は揺るがない。 8その人は堅固で、恐れることなく 自分の敵を平然と見るまでになる。 <箴言31章25節> 25力と気品をまとい、 ほほえみながら後の日を待つ。
先生、よろしくお願いいたします(※と言って南場良文先生と入れ替わり、牧師席に着席する藤本牧師)
☆南場良文牧師の説教 悪い知らせを恐れず、ほほえみながら (※マスクを外して胸のポケットに入れ、中央で語り始める) ご紹介にあずかりました高田教会の南場でございます。本日はこうして故藤本幸子先生のお別れ会に皆さまと共にあずかることができますことを心から感謝しております。先ほど来、司会者の方からもありましたように、幸子先生は昨年6月にがんの告知を受けられた後、ケアホスピスにおきまして、緩和ケアを約1年半お受けになり、そして去る12月1日に地上の生涯を終えて天に帰って行かれました。
今日このお別れ会のこの場に講壇に立たせていただいて(※画面はお花で囲まれた遺影)、幸子先生が長年に亘り奉仕をされた場所であるということを心に思いながら、私の頭をよぎる一つのエピソードがございます。 これは家内(康子先生)から聞いた、とある高津教会での祈祷会の出来事だそうですけれども、ずっと以前のことだそうです。
ある祈祷会において、司会者が集まった人に向かって質問を投げかけたそうです。 「あなたにとってイエスさまとは、どのようなお方ですか」という質問でした。 それに対して、色々な答え方があるわけですね。 イエスさまは「私の救い主」です、と答える人があり、「私の牧者・羊飼い」ですと答える人があり、 どれが間違っているわけでなく、みな正解なのでありますが、幸子先生の番が回って来た時の先生の答えは、 イエスさまは「私のいのちのパン」です、というものだったそうです。 先程のY姉の追憶の言葉の中にも、『いのちのパン』のことが触れられていました。 幸子先生にとって、イエスさまはいのちのパン――それは本当に大きな揺るがない事実だったと思います。
ま、多分神学的に言いますと、いのちのパンは一回受ければ、それでイエスさまから永遠のいのちをいただくことができるというものだと思うんですけれども、 私(南場良文牧師)はこのお話を聞いた時に、なぜか幸子先生が毎日いのちのパンなるパンを実際目の前に置いて(笑)、むしゃむしゃ食べておられるという(食べる仕草をして見せて笑)――こういう図を想像してしまいました。 ちょっと失礼な話かもしれないんですけれども。 それはイエスさまをいのちのパンとして、ただ一度受けた――それはもちろんなんですけれども――それだけでなくて、毎日毎日イエスさまと密着して歩んで来られたのが先生ではないかと、そのように感じたからです。 その思いは、特にこの先生がホスピスで過ごされた1年半程の日々を通して、ますます強くなってまいりました。
幸子先生が過ごされたのは、ケアホスピスですけれども、私は何年も前のこと、淀川キリスト教病院で長年ホスピスの活動に携わって来られた、柏木先生のご講演を伺ったことがございます。 その中で、私の心に強く残ったこと――これは先生が話しておられたんですが、「人は自分が生きて来た通りに死んでいく」という、ちょっと不思議な言葉でした。 どういう言葉かと、ま、説明をいただいたところでは、ホスピスで何人もの方のその最期を看取って来た先生から見ると、 普段から割とぐずぐず――と言うと申し訳ないんですが――周りにすがって来た人は、やっぱり最後までぐずぐず周りにすがったり甘えたりしながら死んでいくんだそうです。 一方で、日頃から周りに感謝の心を現して来た、そういう人はやはり最後の最後まで周りに感謝をし、お礼を言いながら亡くなって逝かれる。 なるほどと思いました――「人は自分が生きて来た通りに死んでいく」ものなのかと。 最期のその日々を、自分の生きざまを本物よりももっともっと良かったかのように、ごまかしたり取り繕ったりはできないのだということを、そのお話を通して教えられたことであります。
幸子先生がホスピスで過ごされたおよそ1年半という期間、そういう意味で幸子先生はご自分の今までずっと何十年生きて来られた、特に信仰者として、あるいは妻として、母として生きて来られた、その生き方をごまかしも取り繕いもなく周りに示すことになった、そういう期間であると思います。 文字通り、毎日食べていた『いのちのパン』が、どれ位先生の血となり肉となっていたのかということを、その期間を通して示されたと思います。
最初に幸子先生が、病気を告知された時、家族がちょうど集まることができまして、私(南場先生)もその席に同席させていただくことができたんですが、 その時の幸子先生の様子を拝見していて示されたのが、先程読んでいただきました二か所のみことばです。 最初に示されたのは、詩篇の112篇の7節の、厳密に言うと前半分だけですが、「その人は悪い知らせを恐れず」という、先ずこの所が心に通って来ました。 続けて箴言の31章の25節の、今度はなぜか後半だけ、「ほほえみながら後の日を待つ」というみことばが浮かびました。 ちょうどこの詩篇と箴言とが、それぞれに半分ずつなんですけれどもぴったり重なって、「その人は悪い知らせを恐れず、ほほえみながら後の日を待つ」と、そのように私の頭の中には、みことばが示されて来たわけであります。
なぜそのようになったのか?それはまさに病気の告知の時の幸子先生がみことば通りであった。 「自分が癌であって、しかも余命は恐らく三か月、長くて半年」というその知らせを突然受けた時に、まさに悪い知らせを聞いたわけですが、 恐れることなく、慌てたり取り乱したり、ということもなく、しかもなんと明るい笑顔でそれを受け入れておられました。 先程河村迪子(みちこ)先生も「笑顔が不思議」ということを追憶の辞で述べておられましたが、本当に明るい笑顔で自分の病気を受け入れられたわけですね。 そしてそれは告知の瞬間だけではなくて、ずっと続いていったわけであります。
ですから今回、このお別れ会で説教をと依頼された時に、私(南場先生)は先ずこの二か所のおことばから語らせていただこうと、これはすぐに決まりました。 しかし説教の準備をしております時に、それぞれのみことばとその前後の箇所を読んでまいりまして、神さまがこの二つのみことばを示されたのには、私が最初考えていたのよりも、もっと深い意味があったんではないかということを教えられるようになりました。
実はこの説教のためにメモを作って準備をしていたのですけれど、もう神さまが示されている所がもうちょっと深いんじゃないかと、この二〜三日で色々と語られましたものですから、急遽書き加えたり順序を入れ替えたり、というようなことをしながら、今朝までそれをやっていたのでありますけれども、
最初に詩篇の112篇の6節〜8節、先ほど読んでいただきました通りですが、 ここに、「揺るがされない」(6節)とか「揺るがない」(7節)とか、あるいは「堅固である」(8節)と、よく似た言葉が繰り返されています。 もう一つは「恐れず」(7節)「恐れることなく」(8節)と、ま、これは殆んど同じ言葉が繰り返されていますが、 よく調べると、ちょっとこの「揺るがされない」とか「揺るがない」とかいう方がニュアンスが違うんですね。 6節の「揺るがされない」というのは、これはよろめいたり、ぐらついたりしない、という意味合いがあるんだそうです。 それから7節の「揺るがない」は――「揺るがされない」と「揺るがない」で殆んど同じなんですけれども――もともとの意味は堅く建てられている、というそういう意味合いです。 そして8節は「堅固」という言葉がありますが、これはしっかり支えられている、という意味合いの言葉から来ているそうです。 ということは、この所に記されているのは、堅く建てられていて、しっかり支えられているので、ぐらついたり動揺することがないという、それはまさに信仰者の姿として語られているわけですね。
そしてもう一つの「恐れない」は――ま、文字通りでありますけれども――7節では「悪い知らせを恐れない」。8節では「敵を目の当たりにしても恐れない」。 耳にすること、目にすること、いずれも恐れることはないわけです。 自分にとって都合の悪いことや、あるいは危機的な状況が近づいているということが、知らせとして入って来ても恐れない。 あるいは現実に目の前に敵が現れても、やはり恐れない。 ま、口で言うのはいつも簡単ですが、実際に突発的な思いがけない出来事や知らせがあると、私たちはうろたえたり、恐れたりしてしまう。
聖書を見ますと、例えば出エジプト記のイスラエルの民が長年の奴隷状態から救い出される、という大きなすばらしいみわざを体験していながら、すぐ後ろを追いかけて来たエジプトの軍勢を見て、「大いに恐れた」(***14:10)とそう記されています。 現実に自分の後を追いかけてやって来る敵を見ると、そこで恐れおののいてしまう。 神さまのすばらしさが吹っ飛んでしまった、というとても残念な姿ですね。 けれども、これは信仰者であっても起こり得ることです。 もう「恐れ」というものは、突然何の前触れもなくやって来て、私たちを捕らえようとする。 一旦それに捕えられてしまうと、動揺して揺るがされないどころか、ぐらぐらぐらぐら、不安に揺れ動いてしまうものであります。
もし、悪い知らせにも、あるいは敵の姿にも恐れないで、揺るがされないでいられるなら、それはとてもすばらしいことですね。(※画面は最前列の先生方、じっと聞き入る姿) もしそのような生き方を、私たちが願うなら、この6節から8節のちょうど真ん中にある、ちょうど真ん中にある「【主】に信頼して」というこの言葉がネックになると思います。 神さまへの信頼というものが口先ではなくて、本当に日々の歩みの中でどれ位自分の中に根づいているのか、ということです。 幸子先生、何度もいのちのパンの話をして申し訳ないですが、毎日いのちのパンを上がられながら、「主に信頼する」ということが本当に生活の中に根づいておられた。 だからこそ、堅く建てられてぐらつくこともなく、しっかりと神さまによって支えられていったのではないかと思うわけであります。
もう一つの箴言(31章)の方のお言葉ですが、こちらはしっかりした妻、あるいはお母さんについての教えの一部ですね。 妻としても、母としても、すばらしいのはこのような女性であるという、長い言葉があるわけですが、それは一切省略しまして、この25節だけに注目しますと、そこには、 「力と気品をまとい、ほほえみながら後の日を待つ」と記されています。 最初に私(南場先生)が示されたのは、先程言いましたように、なぜか後半の部分だけでした。 「ほほえみながら後の日を待つ」(箴言31:25後半) 直訳すると、後の日に対して笑う――微笑むというよりはむしろ笑う――明るい笑いです。 これは将来に対して心配がないということと、もう少し積極的に言えば、将来に対する明るい希望がある、ということを示すものですね。 実際、幸子先生は病気の告知の時だけではなくて、先ほども触れましたが、ケアホスピスで過ごしておられるその日々、ほとんどの時間、特に家族が訪ねて来るといつも笑顔で迎えてくれました。 それがいかにも病人ですといった、弱々しい、頼りない微笑みではなくて、ほんとに明るい、ほんとに朗らかな笑顔であった、ということは、まさに不思議としか言いようがありません。 病気はいつまでも同じ状態で留まっているのではなくて、段々と進行してまいります。 そうすると不快なことや苦しいことも段々と増えていったはずなのですが、人を見ると明るい笑顔で力づけてくれる。 そういうことを毎日繰り返してくださいました。 「微笑みながら後の日を待つ」――永遠の世界について何の心配もなく、確かな希望を持っているからこそ、それができたのだと思います。
ではこの(箴言31章の)25節の前半の部分ですね。 「力と気品をまとい」というのは、どうなのだろうか? この言葉が気品と訳されているのは、新改訳ではここだけでして、普通は威光、神さまのご威光、あるいは威厳、あるいは誉れ、輝きなど色々訳し分けられている言葉です。 ホスピスに入っていながら、力と気品、あるいは威厳や輝きを身にまとうということは、普通では多分ありえないことだと思われます。 少しずつ、少しずつ死というものが近づいて来る。自分でできることは段々少なくなっていく。 周りからこう色々お世話してもらわなければ、何一つできなくなって来る、という時に、力を失なわい。気品や輝きを失わない――それは本当に難しいことだと思います。 けれども主に信頼し続けた幸子先生は、その難しいことを明るい笑顔と共に、力と気品・輝きをまとい続けることを最後まで貫いていかれました。
ま、それが証拠というのも変なんですが、病床にある幸子先生によって励まされたのは、家族だけではありません。 ケアホスピスで働いておられる職員の方々も色々励ましを受けたのだそうで、どういうことかと言うと、「幸子さんの所へ行くと元気がもらえる。癒やされる」と言うんですね。 介護される側が、介護してもらうその職員の方々、看護師の方々に、元気や力が与えられる――本当にそんなことがあるんだろうか?その逆ならまだ分かるんですが、そんなことがあるんだろうか?ということが実際に行われていた。 ですから職員の方々は、時々、ちょっと元気をもらいに幸子さんの部屋に行って来ようか、というようなことがよく言われていたということです。
本当に幸子先生がみことばにあるように、神さまに密着して、そして偉ぶる(選ぶ?)ことなく力と輝きを失わないで、日々を過ごしていかれたのだということがよく分かることであります。 主が幸子先生の生涯に、力と輝き、明るい希望を与え続けてくださったことを心から感謝したいと思います。 また幸子先生が私たちに与えてくださった色々な形での力、励まし、慰めの証しを、私たちはまたそのすばらしさを覚えながら、生涯を歩ませていただきたいと願うものです。 一言お祈りをして、締めくくらせていただきます。
☆お祈り――南場良文先生 すべてのいのちの源であられる神さま、今日私たちは過ぐる日みもとに召された藤本幸子先生のお別れの会に、こうしてあずかることができましたことを感謝いたします。あなたは幸子先生を祝して永遠のいのちを与え、その地上生涯を恵みに満たし、その最後の日々にも力・輝き・希望を与え続けてくださいました。本当に感謝します。
また幸子先生を通して、今日まで私たちに励ましを、力を与え続けてくださってありがとうございます。どうぞ幸子先生を天に送られた栄造先生をあなたが強め、支え続けてくださいますように。またしばらく地上に残される私たち家族、教会の皆さん、そして様々な形で幸子先生との温かい交わりに導き入れられた一人ひとりに、主の豊かなお慰めが注がれてありますように。尊き主イエス・キリストの御名によって、感謝と共に御前にお祈り申し上げます。アーメン。
※お別れ会のほかの部分もとっても善いものでした。ぜひ聖日説教でご確認くださいますように。T・Y
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LAST UPDATE: 2020.12.16 - 14:23 |
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