☆聖書箇所 ロマ5:1〜11
1ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 2またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。 3そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 5この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 6私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 7正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 9ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 10もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。 11そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
☆説教 希望に生かされる
今朝は洗礼をお受けになりましたお二人のために、お話をします。そしてそれがともに礼拝している私たちにも意味があると思っています。
ロマ書5章を見ていただきました。そこで(著者の)パウロはこんなことを言っています。3節を見ていただきますと、私が3節を読みますので、みなさんで4節を読んでください。
3そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
ここに4つつながると書いてあります。患難→忍耐→品性→希望と。 *患難というのは苦労すること、大変なこと、嫌なことですね。 *それがあると忍耐するというのは、我慢する力、忍耐する力が与えられる。 *耐えていくうちに、品性が備わるというのは、人間として人として優しく強くなる。信仰も強くなる。 *それが希望を生み出す。
辛いことが、我慢することを与える。我慢する人は人として優しく強くなり、それによって希望が与えられる(という風につながるのですね)。
5月の教会のフェローシップで、それから先生はもちろんひかりちゃんのお父さんと一緒の勉強会で、ひかりちゃんがお父さんと一緒にイギリスに行っていた頃のビデオを見ました。
ビデオの中で英語もまだよくわからない、お友だちもまだ日本のようにはいない、イギリスの小学校に通っているひかりちゃんの姿が出て来てね、その日、古いイギリスの女性の格好をして学校に行くっていう、あの場面ですよ。 頭に白い帽子というか、ずきんというようなものを被って重い鞄を持って出るところを、たぶんお母さんがビデオを撮って見送っているのですが、ひかりちゃんが家の前の道をトボトボ歩いて行きます。
後ろからことはちゃんが、楽しげに、「お姉ちゃん変なの」って言っているのですね(笑)。「今日は昔の格好をするんだってさあ」と陽気にけらけら笑いながら、ことはちゃんはお姉ちゃんを送り出すんですけれども、ひかりちゃんは、「やめてよ、恥ずかしいんだから」って、それしか言わないのです。 本当にイヤそうな顔をして(笑)、鞄を持って、トボトボ、本当にトボトボ歩いて行く、というシーンなのです。 もちろん笑顔のシーンも沢山あります。楽しい運動会もありました。でも、あのイヤそうな顔は、妙に良かった。 それはね、ああ、いろんな苦労の中を通ったのだろうな(と想像できるから)。だって、英語が全然わからないのに、いきなり現地の学校にポ〜んと置かれて、そこに毎日通うのですよ。 授業中何をすればいいのか、休み時間どうやって遊べばいいのか、最初は全部見よう見まねで、皆がしていることを自分もするんですけれども、自分のエネルギーを発散できない。 それをまたビデオで撮ってもらって、ことはちゃんに笑われて……なんかわかるなぁと思いますよ。 イヤなことを体験すると、全然知らないことを体験すると、我慢する力ができるし、それに耐える力も内側にできる。するとその人は優しく強い人になり、それからおおよそ希望にあふれた人になると、聖書には書いてある。 いい?
で、今日はここから3つお話をしますけれども、先ず第1番目に――
1)本当にそうなるのか?
パウロはここで4節の最後ですね、「そうなると知っているからです」と書いてあります。
4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
本当に私たちみんな知っているかというと、いや必ずしもそうならないことの方が多いのではないか。 つまりね、嫌なこと、辛いことばかり体験するとへこみます。苦労し過ぎますとね、素直さ、大らかさがなくなってしまいます。人の目を気にしすぎるようになります。 貧しい中を通りますと、どこまでも節約、どこまでも貧乏、いつの間にか、その貧乏根性というものが身についてしまって、大らかに生きることができない。人に与えることもできない。
つまり、患難が忍耐へはつながるかもしれないけれども、じゃあそれが越えて品性へ行くか、希望へ行くかというと、必ずしもそうならないですよ。卑屈な人間になる場合もある。 ところがパウロ先生は、かならずそうなります(と言い切る)。4節の最後に「私たちはそうなると知っています」――これは独特なものの言い方です。
ひかりちゃんね、僕がきみとお祈りをした時のことばは同じローマ人の手紙の8章28節です。ちょっと見てください。同じことばをここでも使っていますが――
8:28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、(同じく)私たちは知っています。
ここでも「知っています」――これはね、自分が背負った苦労も、嫌なことも、人からされた意地悪も、病気も、辛いことも、神さまがすべてのことを相働かせて、ひかりちゃんの益としてくださることを知っていると言われても、ほんとにそうなるのか、とやっぱり思っちゃうのですね。この苦労に何の意味があるのだろうと、私たちは皆そう思います。
でもパウロは、そうなると【私たちは】知っています(と明言しています)。つまり世の中の人たちは必ずしもそうはいかない。嫌なことでへこんで人生が難しくなる。人間がゆがんでしまう。 でも(私たちは)そうはならない。必ず患難は忍耐、忍耐は品性、品性は希望へとつながることを知っている。
2)そういう私たちは、いったいどういう私たちなのだろう――というのが2番目(のポイント)。
それは特別な私たちですね。この8章28節では一番最初にこうありますでしょう。 「神を愛する人たちは」…そうなると、知っている。
【***8:28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。】
5章の1節に戻っていただいて――
5:1ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
「信仰によって義と認められた私たち」「神との平和を持っている私たち」です。
十字架を信じる信仰によって、「神の前に正しい者と認められた私たち」は、イエス・キリストによって、神との平和(を持ち)(5:1)――それは【「神さまとの特別な愛の関係」の中に入れられている私たち】(5:1、8:28)は、患難が忍耐、忍耐が品性、品性が希望につながることを知っているし(5:3〜4)、全てのことを相働かせて益としてくださる(8:28)ということを知っている。
つまり、私たちは普通の人ではない。パウロが言いたいのは、私たちは神さまに大切にされて、神さまを大切にする特別な人たち。それはイエスさまの十字架を信じて、罪赦されて、神の子とされて、洗礼を受けた私たちのことです。 そういう私たちは――神さまに大切にされ、神さまを大切にする特別な者たちは――患難さえもいろんなところをくぐりながら、やがて嫌なことでも希望に変わることを知っていると、パウロは神さまの驚くべき愛というものを教えているのですね。
5章ををもう一回見てほしいのですが、5章の7節にこういうことばがあります。ちょっと7節一緒に読んでみましょうか。
5:7正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
誰かの身代わりになって死ぬというのです。 「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。」――世の中に正しい人がいて、その人が死ぬとき、殺されるときに、「私が代わりに死にます」と進んでいう人はほとんどいない。 でも7節の後半に、「情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。」――情け深い人というのは、以前私はこの人に助けられた、すっごく恩を感じている、もうこの人がいなかったら、自分の人生はなかったかもしれないという人が死にそうで、もし私が身代りになれそうなら、そういう人のためには、もしかしたら一万人に一人ぐらいは、せめてね、いるかもしれない。 でも6節――
6私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
私たちが正しくもなく、情け深くもない、弱い、罪深い、不敬虔な私のために、身代わりとなって十字架にかかって死んでくださった。それほどまでに(主イエスは)あなたを愛されたとパウロは言っているのです。
ですからね、嫌なこと辛いことが忍耐を生み出し、普通だとその忍耐を我慢しているうちに、だんだん人間がゆがんでしまう。 でもそうではなくして、辛い嫌なことが我慢する力となり、それがゆえに、その人物の信仰も品性も優しく強くなり、やがて絶対に消えない希望に変わっていくというのは、特別な人の場合。 その特別な人というのは、ものすごく神さまに愛されている人の場合。 どうやって、ものすごく(神さまに)愛されていることかわかるのかと言われれば、パウロは十字架のことを考えなさい(と教える)。
イエス・キリストは十字架にかかり、あなたの身代わりとなって、いのちを投げ出してくださった。あなたは神に愛され、その愛に感動し、神を愛している。そのように神の愛に答えているなら、神さまはすべてのことを相働かせて、必ず益としてくださることを私たちは知っていると。
神さまの愛に気付くというのは、人生いろんな機会がある。神さまは私のことを愛していてくださる。でも一番大きいのは、5章の5節です。
5:5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれている。この聖霊は洗礼を受ける時に(与えられる)、さっき頭に水を垂らしたでしょう。頭の上に水を垂らすというのは、二つの意味がありまして、それは、 @水はいろんな汚れをきれいにしますね。旧約聖書の昔から、水で洗いきよめるという儀式がありますが、同じように、水によって私たちの罪や穢れが流れる。 Aそれと同時に、イエスさまが洗礼を受ける時に、バプテスマのヨハネが、ヨルダン川の岸辺でイエスさまの頭に水をかけたときに、聖霊が鳩のごとくにイエスさまの上に下ったということを象徴するために、上から水を垂らすのです。(***マタイ3:13〜17、マルコ1:9〜11、ルカ3:21〜22)
洗礼を受けて生きていくときに、聖霊は私たちの心の内に注がれて、いつも神さまの愛を教えてくださる。自分ではなかなかわからない時もある。でも(聖霊が)教えてくださる。
3)ということを私たちは知っています、と言えるまでには、長〜い時間がかかる。それが3番目。
信仰生活の素晴らしさというのは、信仰生活を長く生きないとわからない。 洗礼を受けた時の喜びというのは、子どもで言えば来週手っ取り早いところで、聖餐式があるのでようやくあの聖餐式のジュースとパンが回ってくる(笑)のか。ま、そのあたりもあるよね。 洗礼を受けた時というのは、みんなに「おめでとう、おめでとう」と言われるけれども、なかなかわからないです。 患難が忍耐を生み、忍耐が品性になり、品性が希望になる。あるいはすべてのことが働いて益となるということは、それは時間が経たないとわからないです。 だって、すべてのことを相働かせて益としてくださるには、時間がかかるのですから。 神さまはろくろの上の粘土をくるくる回しながら私たちを造るように、ゆっくり時間をかけて私たちを造ってくださる。
だからそれが希望につながるということは、頭でわかるものじゃない。 だから私たちは言うのですね。――勉強してクリスチャンになれるのだったら、ま、一生勉強していればいいです。でもおそらく(笑)解らないことも多いので、なれない。頭でわかるようなことだったら、それは信仰ではないです。
それじゃ信じたらわかるのか、そんな単純じゃないです。 信じて一歩踏み出して、そして神を信じる人生を自分なりに始めて、なるほど神に愛され、神を愛していると、すべてを働かせて益としてくださるんだなぁという納得を得るには、時間がかかる。 だから信仰生涯という。一遍でわかるのだったら、それっきりの話ですよね。
今朝洗礼の恵みにあずかったお二人は、神さまに愛されて、導かれてここまで来ました。 でもこれから先に、さらに神さまに導かれ、いつでも十字架の愛を注がれて、やがて振り返ってみると、わかるようになる。 嫌なこと、辛いことが耐える力を与える。耐える力があって初めて自分の強さや優しさが生まれ、信仰も強められ、それが希望につながっていくということがわかるようになる。
片岡姉は先にご主人が洗礼の恵みにあずかりました。 ご主人は今日来ていらっしゃる矢代兄に誘われて教会にいらっしゃったのですね。 ご主人は今、九州、別府でお仕事をされていて、東京と別府を行ったり来たりしておられるのですが、今年の夏、お母様が具合が悪くなって、お母様は天に召されました。
そのすぐ後にメールをもらったのです。それはまだ奥様の洗礼のきっかけになるちょっと前でしたが、あまりの素晴らしいメールだったので、圭子にはすぐ話したのですが、ご本人に許可を得ましたので、お話します。なかなかいい。
「母の葬儀を終えて、7日(今年の7月7日です)に、インマヌエル別府教会に行きました。(ま、いつもいらっしゃる)いつも仕事の時にはそこに行っています。 徳田文彦牧師に話をして、私は自分で母のためにお祈りをしました。やっと落ち着きました。今思うと、やはりイエスさまから導かれているなぁと本当に思います。
別府の教会は、今いる実家から車で5分のところですが、以前の別府の教会は実家から歩いて5分の所にありました。まだ以前の教会がそのままの形で残っており、老人ホームになっています。2006年に新築した5階の自宅からきれいにその教会が見え、懐かしいことを思い出しました。
当時小学生だった私の妹が教会に通い始め、インマヌエル別府教会ですね、母はインマヌエルという意味が解らなかったので、新興宗教と思い、必死に止めました(笑)。妹は隠れて通っていました。 大分県にたった2つしかない(ま、今は1つなんですけれども、当時は大分教会と別府教会。今は大分教会は別府の伝道所になってしまいましたが)インマヌエルの教会のすぐそばで、私は高校生まで過ごしました。 その後、40年して高津教会に導かれ、私は洗礼を受けました。そして実家に帰り、インマヌエル教会を探したら、その教会だとわかり、びっくりしました。これを導きというんだなぁと思いました。
そういえば、これを書きながら思い出したことがあります。 21歳の時、一年間オックスフォードにいました。そのとき友人になった学生に、教会に連れて行ってもらいました。 何回も行く内に、お前は熱心な敬虔な態度だからと言って、洗礼らしきことをしてくれました(大笑)。 もう名前も覚えてないし、どのカレッジだったのか、どの教会だったのかも覚えていません。 でも昨年オックスフォードに行ったとき、彼から説明を受けたカレッジを何となく思い出しました。 そこにウェスレーの墓碑のようなもの(これはウェスレーの記念碑ですが)、そして講堂にある写真で話をしたことも思い出しました。
葬儀を終えて、自分はクリスチャンになって本当によかったなぁと思います。 紀子にも洗礼をきちっと受けてほしいなぁと思います。」
で、今日の日があります。長〜い時間をかけて分かったのですね。 兄弟の場合は、40年かけて、子どもの頃、実家のそばのインマヌエル教会に行っていたと(わかり)、すべてのことを相働かせて益としてくださる神さまは不思議ですよね。
片岡兄は矢代兄によって高津に導かれましたが、メールにはこういう風に(書いてあります)。
「同じ職場で、電車から高津教会を見るだけの私を誘ってくれたのは彼です。 どうして誘ってくれたのか、なぜ私が教会に行きたいのを知っていたのかはいまだにわかりません。 一緒の会社ではまず宗教の話はしないからです。このこともイエスさまのお導きだと思います。」
人生というのはいろんな出会いがあり、いろんなところを通り、患難さえも忍耐、品性、希望に変えてくださる神さまを私たちは知っている。全てのことを相働かせて益としてくださる神さまを知っている私たち。 なぜなら私たちは神さまに愛され、その神さまを大切にしているから、神さまは絶対私をお見捨てにはならない。どんな状況下でも、私に希望の道を見せてくださるということを信じているわけです。
今日洗礼を受けたひかりちゃんがやがてそういうことがわかるには、長〜い時間がかかるので、せめてご両親がわかってくだされば(笑)という風に思いますが、教会家族というのは、かくも温かくすばらしいものだなぁと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、 「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ロマ5:1) 神との平和を持っているということは、神に愛されているということです。 「情け深い人のためにも進んで死ぬ人はほとんどいないでしょう。」(5:7)――でもイエスさま、あなたは不敬虔な私のためにいのちを投げ打ってくださいました。
その神さまの愛を、洗礼を受けた時も、あるいは洗礼式に参列しながら、自分の洗礼の時を思い出している時も、また全く考えずに苦難の中を通過している間でも、ふとしたきっかけに圧倒的な神の愛を、この心に注いでくださいますから感謝いたします。
だからこそ、患難さえも喜ぶというこの独特な、特別な恵みを私たちに教えてくださり、学べば学ぶほどあなたの深〜い愛に心を寄せることができるように私たちを導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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