☆聖書箇所 哀歌3:19〜24 19私の苦しみとさすらいの思い出は、 苦よもぎと苦味だけ。 20私のたましいは、 ただこれを思い出しては沈む。 21私はこれを心に思い返す。 それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。 22 【主】の恵みを。」 実に、私たちは滅び失せなかった。 主のあわれみが尽きないからだ。 23それは朝ごとに新しい。 「あなたの真実は偉大です。 24【主】こそ、私への割り当てです」と 私のたましいは言う。 それゆえ、私は主を待ち望む。
☆説教 それは朝ごとに新しい〜藤本幸子先生を偲んで〜 今年のアドベントは藤本幸子先生と特に関係が深くなったような、そんなアドベントだなぁと思います。特にこの12月の月。いつもと違う12月の月になっています。 藤本幸子先生が召天されたのが12月1日火曜日朝の8時35分、医師の診断によりますけれども。 そして12月11日に家族葬。そして昨日12月12日にお別れ会。 そしてなんと、明日12月14日は、幸子先生の92歳のお誕生日でした(笑)。 あともう少し生かされていると、92歳のお誕生日を共にお祝いすることができたのかなぁと思うんですけれども、昨年は元気な時に共にお祝いできたので、あ、今年はもしお祝いできたとしても昨年のようにはいかない、なんかお辛い状況の中でお祝いするのはどうかな?と思いながら、ああ、神さまの時は最善だったんだ――改めてそのように思うことでございます。
今日この朝、「それは朝ごとに新しい」という説教題で、藤本幸子先生を偲んで、みことばを開きたいと思います。 先ほどお読みくださいました哀歌の3章の21節から23節までをもう一度お読みしてみたいと思います。
<哀歌3:19〜24> 新改訳2017 21 私はこれを心に思い返す。 それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。 22 【主】の恵みを。」 実に、私たちは滅び失せなかった。 主のあわれみが尽きないからだ。 23 それは朝ごとに新しい。 「あなたの真実は偉大です。
新改訳2017の訳ではこのようになっていますが、で、恐らく最新の聖書学の研究ではこの訳が一番いい訳なのかもしれませんが、私(戸塚伝道師)は以前の第3版までの訳の方がいいなと個人的には思っております。 前の訳はこうありました。
(※第3版で) 22私たちが滅び失せなかったのは、【主】の恵みによる。 主のあわれみは尽きないからだ。 23それは朝ごとに新しい。 …… こちらのみことばです。この朝は、この第3版までの訳からみことばを見て行きたいと思うんですけれども。
1)まず最初に、私たちが滅び失せなかったのは、【主】の恵みによる。 私たちが滅び失せなかった。 藤本幸子先生のご生涯を振り返ってみた時、幸子先生が心から実感されているのは、 「私は滅び失せなかった、神さまの恵みによって」ということではないかと思うんです。 「私は滅び失せなかった」――戦時中の空襲の中を振り返ってそうお感じになったかもしれない。 桑名に空襲が襲って来て、ご両親がその爆風で一瞬の内に亡くなりました。 この間の「天の窓」(12/6発行第51号)にもその記事が載っていましたけれども、幸子先生は爆風同士のその隙間の中に入って、いのちが助かった。 「ああ、私は滅び失せなかった。私のいのちは守られた。」 まだその頃はイエスさまを信じて救われる恵みにあずかってはおられませんでしたけれども、でも幸子先生はそのような体験をされたんです。 神さまの不思議なご計画の中に置かれていたのだと思うんですね。
さらには幸子先生は救いの恵みにあずかりました。 18歳の時、女学校時代でした。もうすでに何度も語られていますけれども、宣教師の先生が近くに家庭集会を開いていて、その家庭集会に通われて、そこでイエスさまを救い主として信じるように導かれた。 自分の戦時中の様々な辛い経験、それを何とかして癒されたいという思いで、最初は仏壇に手を合わせたり、様々な神さまにお祈りしたけれども、平安がなかなか与えられなかったと仰っていました。 でも宣教師の語る神さまを信じた時、不思議に心に平安が与えられた。 その時、宣教師の先生は片言の日本語でこう仰ったそうです。 「これからはこの神さまがあなたのお父さん、お母さんなんですよ。辛いことがあったら、何でもこの神さまにお話ししなさいね。」 「ああ、私は救われたんだ。滅び失せなかったんだ。」――心からそのように実感されたと思うんです。 その後の幸子先生のご生涯は、この「私は滅び失せなかった」という神さまの不思議なみわざの連続の中を通されていたように思います。
今から32年前にもなります。幸子先生が60歳の時です。12月31日、忘れもしない、12月31日。 幸子先生がお正月のおせち料理を作った後に、お鍋を一生懸命に磨いておられた。 力を入れて、もう一生懸命磨いていた時に、何か頭に急に刺激が走って、これは何かおかしいぞ?と思って、すぐに横になった。それが良かったんですね。くも膜下出血でした。 その夜7時間に及ぶ手術を受け、一時はいのちが危ういのではないかという状況の中、後遺症が残るかもしれないという不安の中、幸子先生は不思議に神さまのみわざによって癒された。 私たちの切なる祈りに、神さまは答えてくださった。 「ああ、私は滅び失せなかったんだ。」
その後、幸子先生がお元気になられた時に、夜の伝道会でしたか、祈祷会でしたか、お証しをされて「私はもう一度生まれ変わりました。一度死んだのかもしれない。でももう一度生まれ変わりました。残る生涯、もう一度生まれ変わった者として、神さまにお仕えしていきます」とそのようにお証しされていたのを覚えています。 藤本栄造先生は、「また新しいお嫁さんが来た」(大笑)と、そのように仰っていました。 もう一度新しいお嫁さんをいただくことができた、そんな感動的な出来事だったのでしょう。心から神さまに感謝されたことでしょう。 私たちもほんとに神さまの御名を崇めました。 「ああ、滅び失せなかったんだ。」
そして、去年5月の呼吸困難の事態。 妻がペンテコステの午後に、ケアハウス、ルツの家に訪問に行った。いつもと変わらない訪問でした。 でも、行った時に中の部屋に入った時に、幸子先生がうずくまって苦しんでいた。 これは大変ということで、施設の人と相談してすぐに救急車。 そのまま横須賀の共済病院に入院ということになりました。 あと一台バスが遅れていたら、もしかしたら幸子先生のいのちは助からなかったかも知れないという、その危機一髪の状況での中で妻は駆けつけることができた。 そのように神さまが導いてくださった。 幸子先生は思ったでしょうね、「ああ、私は滅び失せなかった。」
診断の結果、喉頭がん。喉頭がんが大きくなって呼吸困難になった。 器官を切開してカニューレを装着するようになりました。 そのあともう声も出ず、その後ず〜っと筆談の生活が続きましたけれども、その時の医師の説明は「あと三か月ですよ。」あと三か月。 そうしますと、去年の5月でしたか、あと三か月と言いますと去年の8月あたりには、もう召されている、医師の判断ですとね。 しかし一年7か月、幸子先生の地上でのいのちは延ばされた。 「ああ、私は滅び失せなかったんだ」と心から実感されたことでしょう。
私たちも神さまの恵みによって、不思議な体験をすることがあります。 あの時、到底そんなことはあり得ないのに、神さまの不思議なみわざによって、助けられた。支えられた。導かれた。この人と出会うことができた。こんなアドバイスをいいただいて、道が開かれた。「ああ、私は滅び失せなかったんだ。」 神さまは、私たち一人ひとりに、最善以下のことは決してなさらないお方です。 そしてすべてのことを働かせて益と変えてくださるお方です。 その神さまの測り知れない恵みの中で、「ああ、私たちは滅び失せなかったんだ。私たちは神さまに助けられたんだ。私たちは神さまの特別な恵みの中に保たれているんだ」と心から実感することができた――そういう経験は何度あったことでしょうか?
このような【主】の恵み――「私たちが滅び失せなかった」というその【主】の恵み。 その【主】の恵みが与えられたのは、何が理由だったのか? 2)それが、「主のあわれみは尽きないからだ」という、このおことばにあります。 「私たちが滅び失せなかったのは、【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」 主のあわれみは尽きないがゆえに、私たちは滅び失せなかった。
2年前に、藤本栄造先生・幸子先生ご夫妻が、高津教会の礼拝にいらっしゃったことがあります。 あれがお二人でいらっしゃった最後の礼拝でした。 その時にお二人が礼拝の時間、ご挨拶をされた。幸子先生も栄造先生も。 栄造先生がご挨拶をされた時に開かれたみことばが、今日お開きしましたこの哀歌の3章の22節23節でした。 「主のあわれみは尽きない」――藤本栄造先生はそのことを切々と語っておられたのを思い出します。 主のあわれみは尽きないんだ。あわれみが尽きないということはどういうことでしょうか? それは、私たちがどんなに汚れていたとしても、 神さまのみこころに適おうと一生懸命やっているのに、すぐに罪を犯してしまったり、人にご迷惑をおかけしてしまったり、 また思うようにいかないことが一杯あって、もう不安と恐れに駆られて、時には信仰なんかわからなくなってしまうような状況であったとしても、 《主のあわれみは尽きないがゆえに、主の恵みが注がれ続けているのです》。
こんこんと泉のように、次から次へと湧き続ける主のあわれみ。 そのあわれみによって、今も私たちは神さまの恵みの中に支えられているんです。 主のあわれみは尽きない。 私たちの人生を振り返りますと、ああ確かにそうだなぁと思います。 何度も何度も罪を犯して、何度も何度も悔い改めて、何度も何度も人さまにご迷惑をおかけしながら、それでも許され続けている――主のあわれみ。 そしてこのような、当然恵みを受ける資格のないような者も、恵みをふんだんに与えてくださっている主のあわれみ。 この一年振り返っても、どうでしょうか?先週一週間、いかがでしょうか? 主のあわれみは尽きないがゆえに、今日いま私たちは生かされているのです。
そしてみことばはさらに続きます。 私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。 3)「それは朝ごとに新しい。」 《滅び失せなかった【主】の恵みと、尽きない主のあわれみが、朝ごとに新しい。》
藤本幸子先生の「天国へ行く」という確信は、とてもとてもはっきりしていました。 それは病気になられる前からです。 私たちは天国に行くんです。行くところはもう決まってるんです。 もうその熱い熱い心からの思いが、家庭集会に繋がったんです。 あの人にも天国に行ってもらいたい。この人にも天国へ行ってもらいたい。 家庭集会に導かれて、幸子先生を通して救いに導かれた人は何名いるんでしょうか? 私数えたことがないんですけれども、沢山おられるんじゃないかと思うんです あの方にも、この方にも、イエスさまを信じて救いにあずかって、天国へ行ってもらいたい。
幸子先生ご夫妻が、金婚式の時だったと思うんですけれども、「金婚式のお祝いに、ぜひ二人で聖地旅行に行かれたらどうでしょう?」――そういう風に言ってくださる方がおられました。 藤本(栄造)先生はその気になっておられたらしい(笑)。 藤本栄造先生はもう色々な所に行くのがお好きですから、出かけることが。 「あ、聖地旅行、行ってみたいなぁ。」 でも幸子先生は強硬に拒まれました。 「聖地旅行?ガリラヤ湖にイエスさま、いらっしゃるんですか?行ったって会えないんでしょう?会えないのに行ったってしょうがないじゃないの。聖地旅行に行くぐらいなら、私は天国に行きたいわ。」 天国、幸子先生の憧れの場所。 そして昨年共済病院に入院された時に、幸子先生は様々なメモを残されました。 「もう90歳ですから、死ぬのは怖くありません。」「もう大丈夫です。私はもう平気です。牧師ですから、大丈夫です。」 そのように幸子先生は天国へのあこがれ、ものすごく強い思いがありました。
しかし、幸子先生の様子を拝見していますと、そんな憧れの天国へいち早く行きたいのではなかったようです。 「ああ、喉頭がん?あ(※手を振って)、じゃもうさよなら〜」(笑)――そうじゃなかった。大事なのは、いま生かされていること。 《朝ごとに新しい、神さから与えられている恵みとあわれみ、そしていのち――それを精一杯生き切る、一日分を。》 今日一日を、神さまから与えられた一日を、大切にして生かされて生きる――そういう姿勢をいつも見せておられました。 まさに神さまに生かされているがままですね。神さまに生かされているがまま。 幸子先生、朝起きた時に思ったでしょうねぇ。 「ああ、今日も生かされた。今日も生かされた。あ、今日一日、神さまが生きなさいと仰っている。ああ、感謝します。生かされている。」
私たちは、どれほどこのような一日ごとの、朝ごとに新しい恵みを実感しているでしょうか? 朝目覚めた。あ、もうこんな時間になっちゃった。大変だ大変だ、とばたばたばたばた。 何か当たり前のように朝が来て、でも幸子先生はそうじゃなかった。 《朝ごとに新しい、主の恵みとあわれみ。朝ごとに新しい。》 ということは、昨日の主の恵みとあわれみでは、今日生きられないんですよ。 朝ごとにということは、今日必要な恵みとあわれみ、そしていのちが神さまによって与えられる。 幸子先生はそれを実感しておられたのです。明日のことは分からない。昨日の恵みでは間に合わない。でも今日生かされている。
そして幸子先生の口癖は、ケア・ホスピスでいつも仰っておられたことは、「今が一番幸せ。」 勿論天国に行ってからの方が幸せなのかもしれない。勿論ご自分の過去を振り返って、神さまに為された様々な恵み、あわれみを心から感謝して、「ああ、自分は幸せだった」と思っておられるかも知れない。 でも今が、神さまによって生かされている今が一番幸せなんだ。そしてすべてに感謝。 今が一番幸せ。すべてに感謝――そういう思いが心から溢れ出て来るんでしょうね。 それが幸子先生のあの笑顔に繋がりました――もうしょっちゅう笑顔が絶えない。
ケアホスピスでのスタッフの方々もあの笑顔を見たいと思って、わざわざ部屋にいらっしゃる方々もいたそうです。 中には、何か辛い思いを抱えておられるスタッフの方々がおられて、お話を聞いてもらいたいと言って、幸子先生の所に、勿論牧師だということをご存じの上で行かれている方々もおられたそうです。 あの笑顔で、満面の笑顔で、まさに「ほほえみながら、後の日を待ち望む」(※昨日の南場先生の説教)――そういう姿勢をいつも心しておられた先生だった。 作り笑いだったら、すぐ分かっちゃいますよ。でもそうじゃない。心の奥底から「今が一番幸せ。すべてに感謝。神さまありがとうございます」の日々を送っておられる先生から零れ出る笑顔というのは、人を癒やし、人を励まし、人を元気づけられておられた、そういう働きをされているそういう笑顔だった、本物の笑顔でした。 私もお見舞いに行く度に、なんかお見舞いに私が行ったんじゃなくて、私が逆にお見舞いされちゃって帰って行くような、そんな力強さをいただいた、そんな感じがいたしました。 朝ごとに新しい。主の恵みと主のあわれみ、そして与えられるいのち。
4)最後に幸子先生の信仰にどうしてもあやかりたいと思いながら、幸子先生のその信仰の秘訣はいったい何なんだろうかと考えましたが、 それは神さまに対する信頼が生活の中で根づいておられたと、昨日、高田教会の南場良文先生が幸子先生のことをこのように評して仰っておられましたけれども、 《神さまに対する信頼が生活の中で根づいておられた》。 口では立派なことは言えるでしょう。 建前的に信仰をイメージして、こうなればいいなとか、自分はこういうような状態になりたいなとか祈っている――そういう状態――それは私にもあります。 でも神さまに対する信頼が生活の中に根づくというのは、これは並大抵のことではないと思うんです。 だから、幸子先生の信仰は強い。 信仰による開き直りって、私はそういう風に名づけたい位、幸子先生の信仰による開き直りっていうのは半端じゃありません。頑固なまでの開き直りですよ(笑)。あんなにスパッと割り切れるって、すっごいなぁと思います。 そして幸子先生の最期にそれが見られた。 「私はもう終わり」と筆談して、そしてガッツポーズして(※戸塚伝道師もそのポーズをやって見せる)、床の上でですよ、そしてピースサインをして(※ピースサインも右手で作って笑顔の戸塚伝道師)、「私はもう終わり。」 なぜそんなに、「終わり」って言うことができたのか?イエスさまが呼んでおられたんだと思うんです。 「私はもうイエスさまの所に行くの。じゃあね。」(笑) 天国に行くとは仰らなかった、最期は。 「もうイエスさまのところに行くの。もうそこにイエスさまがいらっしゃるからね、もうイエスさまのところに行くの、私は」 ああ、そんなにイエスさまが身近だったんだ。
昨日葬儀に来てくださった河村迪子(みちこ)先生、追憶の言葉を述べてくださいましたけれども、河村襄(のぼる)先生ご夫妻がいらっしゃった。 河村襄先生はそのことを聞いて、「ま、幸子先生とイエスさまはいつも一体だったんですね。天国に私は行く、というそういう証しを残されて召される方々は多いけれども、イエスさまのところへ行くの、と言って召された方々は、幸子先生が今日初めてでした」と、そのように仰っておられました。 それ程イエスさまと親密な関係だった。そして「イエスさまがすぐそこにおられるところに私は行くの」と、最後は笑ってそのように仰った。 もうそういう状況で家族を呼んで、ということになりまして、最後のお別れの時に行きました。 私(戸塚伝道師)は、最後駆けつけたんですけれども、幸子先生の手を握ったらば、幸子先生の方が強く握り返して、 「先生、先生の信仰を受け継ぎます。先生のようには、なれないかもしれない。どうか天国に行ってからも、私のために祈っていてください」こんなことを言っちゃいましたけれども、そうしたら、幸子先生は頷いて。 でもみんなを呼んでお別れしたい、とそういう風に仰ってからまだ二日も後に召されたのですけれども、そんな信仰にあやかることさえ、私はできないかもしれない。 でも《生活の中に神さまに対する信頼が根づく》という、そういう信仰の姿勢を、私たちにも、神さまによって与えていただきたいなと思います。 幸子先生が残してくださった数々のもの。それを振り返る。振り返ることによって、与えられる恵み、何かそれが今年の高津教会の、神さまからのクリスマスプレゼントかもしれません。 信仰の開き直り。100%委ね切る信仰の強さ。生活の中に根づく神さまへの信頼。それらを改めて振り返るひと時を、これからもじっくり過ごしていきたいと思います。 そして私たちも残る生涯、幸子先生との再会の日を待ち望みながら、天国を目指して、この恵みを、朝ごとに新しい恵みと主のあわれみを、いつも実感しながら今週も歩んでまいりたいと思います。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師 22 私たちが滅び失せなかったのは、【主】の恵みによる。 主のあわれみは尽きないからだ。 23それは朝ごとに新しい。…… (哀歌3:22〜23)
神さま、あなたは朝ごとに新しい恵みとあわれみをもって、藤本幸子先生のご生涯を祝福してくださいました。先生の残された、「信仰をもって歩む恵みの深さ、力強さが益々心に響き続けています。どうぞ神さま、今日も私たちをいよいよ祝福してくださいますように。そして幸子先生の信仰にあやかりながら、残る地上での私たちの歩みを導いてくださるようによろしくお願いいたします。 格別に藤本栄造先生を、あなたの御守りの内に支えてください。残るこの一年、救い主のご降誕を待ち望みながら、大晦日までの歩みを助け導いてくださいますように。すべてをお委ねいたします。聖霊のとりなしの内に、愛するイエスさまのお名前によって父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。
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