☆聖書箇所 イザヤ10:20〜23 20その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、【主】に真実をもって頼る。 21残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。 22たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。 23すでに定められた全滅を、万軍の【神】、主は、全地のただ中で起こそうとしておられる。
☆説教 「残りの者」を神は奮い立たせる 今年の元旦礼拝から、礼拝ではハガイ書を中心に学びを始め、そしてゼカリヤ書へと進んで来ました。 とても意義深い礼拝ができたと思っています。特にコロナが始まる前はそういう実感がありました。 ハガイ書とゼカリヤ書には特有な背景がありまして、もう一度おさらいをいたします。
イスラエルの人々は、神に背き、偶像に仕えるようになりました。そしてとうとうバビロンによって滅ぼされてしまいます。それは紀元前586年でありました。 人々はみな遠くバビロンに捕囚に捕られ、そして神殿は焼かれエルサレムの城壁は崩されてしまいます。そうして70年が過ぎ、今度はバビロンが滅びます。
ペルシャの帝国が支配するようになり、神さまはペルシャの帝国・王に働きかけ、ユダヤの人々の解放を命じます。エルサレムに帰還することができました。 しかし70年ぶりに故郷(エルサレム)に戻って来たのは、わずか5万人でありました。 彼らを解放したペルシャのキュロス王は、帰還を許しただけでなく、神殿の再建を命じました。 しかし人々は、神殿の土台は造れたものの、その内自分たちの日常に忙しく、神殿建設を諦めてしまいました。 そしていつの間にか、諦めてしまったことの敗北感というものが彼らを包んでいきます。
それは私たちの人生にたとえられるということで、この学びを始めました。 救いという、私たちの内に始まった神の働きは、つまり信仰生涯というものは、どこかで土台だけで終わってしまう傾向があります。 いつの間にか日常の働きに追われて、十数年もの間、神殿建設がほっぽらかしになっていたように、私たちも自分の心配事やあるいは関心事に埋もれてしまいます。
神さまはその時、預言者ハガイを立てて民に訴えます。「あなたがたの歩みをよく考えてみよ。……あなたがたがそれぞれ、自分の家のために走り回っている」という風に民に語り掛けられました。 そうして、神さまは大祭司ヨシュアと行政の長ゼルバベルを立てて、神殿建設の再開に向けて人々を励まします。 人々は18年の挫折から立ち上がり、再び神さまを第一とする生活(信仰)へと戻っていきました。
しかし、それは自分たちの力のゆえではない、聖霊の働きです。 それが、この年与えられた聖書の言葉でありました。 ハガイ書の1章14節をちょっと見ていただきたいと思います。 画面には映っているんですけれども(※と途中の文章を省くので断りを入れて)―― (※「【主】が」と「民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので」に黄緑のハイライト)
<ハガイ1:14> 14【主】が、(そしてこの固有名詞を飛ばし、と説明)……民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の【主】の宮に行き、仕事に取りかかった。
「【主】が民の残りの者すべての霊を奮い立たせた」(ハガイ1:14)というこのみことばが、2020年高津教会に与えられた聖句でありました。
このコロナの年に、神さまはインターネット配信に行くように私たちを導いてくださいました。 この形式の礼拝に未だ慣れていないという方もおられますし、また慣れるのにほんとに努力された方もおられますし、初めてスマートフォンやタブレットを使った方もおられますし、ま、それに至らず、T・Yさんが纏めてくださる礼拝の様子で、よく皆さんキリスト・イエスに留まってくださいました。 皆さんは教会から離れることなく、変わらずに教会を支えてくださり、置かれた場所で恵みのうちを生きて来られました。
しかし振り返ってみますと、それは私たちの努力のゆえではなく、主の霊が私たちを奮い立たせてくださった―― この言葉に年末の最後、改めて目を留めてみたいと思います。 「【主】が民の残りの者すべての霊を奮い立たせた」(ハガイ1:14) で、今日目を留めるのは、ずっとこの聖句に目を留めていながら、私(藤本牧師)は一度も詳しく皆さんに説明しませんでした「残りの者」という表現です。
この「残りの者」という表現に目を留めるきっかけがありました。 年末にIAさんからメールをいただきました。 Iさんは、私の母(故・藤本幸子先代牧師)の葬儀(12/12)にインターネットで参加してくださいました。 葬儀が終わって、聖書を閉じようとした時に、挟んであった元旦礼拝のしおりに目が留まった。 それがこの「主が民の残りの者すべての霊を奮い立たせた」(※2020年元旦のみことばのしおり) ちょっとIさんのメールをそのまんま読ませてもらいます。Iさんには許可いただいているという思いでありますが――
(※読み始める) 「残りの者」のい意味が違うかもしれませんが、先生のお話の中にあったことと、この聖句がシンクロいたしました。 幸子先生は天に召されましたが、これまでの生き方、死に際の潔さ、信仰の貫き方などで、「残りの者」に勇気をお与えになったんだなぁと。 実は私、幸子先生にはお会いしたことがないと思います。しかし、このお別れ会にオンラインで参加することにより、私の心も奮い立ちました。 (※ここまでIさんのメール読み終わり)
という風に、Iさんが連絡をくださいました。 私(藤本牧師)はこの話に、父(藤本栄造先代牧師)は大いに励まされていると思います。 神さまは、「残された者」すなわち遺族を奮い立たせてくださる。
そういう意味で今年、主の霊に一番助けられたのは、私(藤本牧師)は教会のISさんだろうと思います。 ご主人が突然脳溢血になり、ICUでの面会も許されず、後遺症がひどく残るということで赤羽の病院に転院され、しかしその後遺症も深刻で、やがて天に召されました。 このコロナの年に、家族だけで葬儀をなさいました。
またYさんも思い起こします。5月に末期がんのお母さまを最後にご自分で世話をされて看取られました。 続けて9月にお父さんも同じがんで、末期の時期ご自宅でお看取りになり、そして葬儀をなさいました。 札幌にいらっしゃいました妹さん(Hさん)も協力してくださいました。
ISさんやYさんの力はどこから来たんだろうと思います。 それは主が「残りの者」を奮い立たせてくださったからでありましょう。 ですから、まさにIさんの言う通り、神さまは私たちは残されて行く、ま、サバイブして行くわけですね。サバイブして行く者たちの信仰を奮い立たせてくださる。
短く旧約聖書の後半に頻繁に出て来る、この「残りの者」という表現を説明させていただきます。
1)「残りの者」とは、今申し上げましたように、70年の捕囚を経て、そしてエルサレムを再建するために帰って来た最初の5万人という、僅かな残りの者です。少数の忠実な者たちです。
「残りの者」というのは、英語で(Remnant)レムナントと言います。 レムナントの対極にある表現というのは、散らされた者です。残らなかった者です。あるいは逃げて行った者です。バビロンから戻って来ることを拒んだ人々がいます。 アッシリアやバビロンが攻めて来るという脅威を前に難民となってエジプトやシリアに逃げて行った者たちもいます。 信仰を捨てたというわけではありませんけれども、自分たちが犯した罪を正面から受け止めることをせずに、生き延びることだけを考えて散っていった人々がいました。
それに対して「残りの者」というのは、全民族の罪を背負い、希望を抱きながら、神殿再建を苦労の内に成し遂げて行った者たちであります。 「残りの者」、残った者、つまり試練の中にあっても、残った者たちです。
2)「残りの者」は、真実な者であります。 それが今日開いていただきましたイザヤ書の10章の20節からの箇所です。 イザヤ書の10章の20節からの箇所、ちょっと映しますね。 (※画面は20節「【主】に真実をもって頼る。」21節「残りの者〜立ち返る」22節「その中の残りの者だけが帰って来る」にオレンジ色のハイライト)
<イザヤ10:20〜22> 20その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、【主】に真実をもって頼る。 21残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。 22たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。……
これはものすごく心に留まる聖書のみことばです。 つまり「残りの者」というのは、真実な者たちです。 @【主】に真実をもって頼る。(20節) A残りの者は神に立ち返る。――どんなに神から離れたところに生きていても、神を思い起こし、神に立ち返る。(21節) Bあなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。(22節)
「海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る」という、 イザヤ書の29章の13節をちょっと見ていただきたいと思うんですね。 ここに、こうありますね。 (※画面は13節「この民が口先でわたしに近づき〜離れているからだ」にオレンジのハイライト)
<イザヤ29:13> 13 主は言われた。 「それは、この民が口先でわたしに近づき、 唇でわたしを敬いながら、 その心がわたしから遠く離れているからだ。
この言葉はイエスさまが引用しておられます(***マタイ15:8)。 どういうことか?それは形だけの信仰です。 「口先では(唇では)ではわたしを敬いながら、その心がわたしから遠く離れている」という民は、海の砂のようにいると。 しかし真実に、心から神のもとに立ち返り帰って来るのは、「残りの者」だけだと。 イスラエルの民でも、キリスト者であったとしても、海の砂のような雑多な存在になってはいけないと思います。 自分にとって都合のいい生き方を信仰と呼び、面倒臭いことがありますと、一切興味を抱かない人もいます。 自分という存在を中心に考え、嫌なことや辛いことを「不幸」と考えてしまう信仰者もいるかもしれません
でも「残りの者」は、残された者はそういう者たちではないわけです。 今年コロナの最中に、溝口に住んでおられたIMさん、ご主人の仕事の関係で兵庫県の北の地域に転勤されました。そこから毎週礼拝を守っておられます。 海外のIAさんの奥さまも、また海外に住んでおられる方々も、忠実に高津教会の礼拝を守っておられます。 今年、私たちの教会家族でなく、よその方々もお招きし、また中にはこのインターネット礼拝を通じて、キリスト教の礼拝に加わるようになった、新しく生まれた高津教会の家族も沢山いらっしゃいます。 そういう意味で「残りの者」として皆さんが、この教会に、神のもとに再び帰って来た。 そういう者たちは海の砂のようではない。 真実に生き残ることを考えて神さまのもとに帰って来ました。 自分の都合で自分の人生の幸せ・不幸せを考えるのではなく、自分の生き方を神の御心に合わせて、そしてコロナの中のインターネット礼拝に真実な姿勢で向き合い、そこに信仰の活路を求めて、尽きない憐れみによって生かされて来た、ごく少数の「残りの者」たちを神さまは特別に祝してくださいます。
3)「残りの者」は希望に生きる。
神さまの働きは、「残りの者」からなされるということです。 いいですか?(※これまでの2つを整理する藤本牧師) 一番最初に申し上げたのは、「残りの者」というのは、散らされた者、逃げて行った者とは対極に、踏み止まることができた者たちですよね。 そしてその踏み止まる力も、自らの力ではなく、神の霊によって踏み止まることができたんですね。 二番目に申し上げたのは、「残りの者」というのは、真実に神のもとへ立ち返って来る。 それはたとえイスラエルが海の砂のようになったとしても、立ち返って来る真実な者はごく少数だ。 そして口だけ形だけの信仰ではない。心から神を信じている私たちのことを指しているんだ。
で、三番目に「残りの者」は希望に生きる、ですね。 「残りの者」はサバイバーです。そして信仰の生き残りです。 「残りの者」で有名なこのイザヤ書から、最後ここをきちっと押さえておきたいと思います。 イザヤ書の6章の13節をまず見てください。 クリスマスの後の礼拝ですから、格別に意味はあると思います。 画面映しますね。ここに出てまいります。6章の最後13節ですね。 (※画面はそこに「そこには〜焼き払われる」「それらの間に〜聖なる裔(すえ)」にオレンジ色のハイライト)
<イザヤ6:13> 13 そこには、なお十分の一が残るが、 それさえも焼き払われる。 しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、 それらの間に切り株が残る。 この切り株こそ、聖なる裔。」
というところがイエス・キリストに繋がるんですね。いいですか。 神によって選ばれたイスラエルの民族っていうのは、海の砂のようになるという約束を受けました。 でも海の砂のようになっていて、最終的に神の民としてとどまっているのは、ま、十分の一だと。いいですか? 13節に。しかし、その十分の一さえも焼き払われるんですよね? そしてその焼き払われた様子っていうのは、切り倒されたテレビン(***油に使うような、テレビンオイルができる木ですけれども、と説明)樫の木のように、倒されて焼かれたとしても、切り株が残っている。この切り株に望みがある。
これはとっても興味深いんですね。 倒される。「残りの者」でさえ、倒される。焼かれる。 【※それが、バビロンによって焼かれていくエルサレムです。 帰還の民が見たエルサレムの様子です。 生い茂った緑なんかありません。焼け野原に帰って来ました。 殺伐とした世界です。豊かさも力もありません。】 でも切り株が残る。そして「この切り株こそ、聖なる裔」(イザヤ6:13)とありますように、
イザヤ書の11章、クリスマスのこのみことばを見ていただきたいと思いますね。 11章の1節です。出て来るじゃないですか! ここに切り株がどうなるかが出て来るわけです。(※なんとキリストの誕生へと繋がっていきます。) (※画面は1節「新芽が生え」「若枝」に赤いペンで囲み、1節「エッサイの根株から新芽が生え」、2節「その上に【主】の霊がとどまる」に青いペンで傍線、「とどまる」と「【主】を恐れる、知識の霊である」に青いペンで囲み)
<イザヤ11:1〜2> 1 エッサイの根株から新芽が生え、 その根から若枝が出て実を結ぶ。 2 その上に主の霊がとどまる。 それは知恵と悟りの霊、 思慮と力の霊、 【主】を恐れる、知識の霊である。
この「エッサイの根株から」というのは、ダビデの子孫から、新芽が生え、 クリスマスの時に読まれますね。 その根から若枝が出て実を結ぶ。この若枝こそがイエス・キリストであり、そして結ばれていく実こそが私たちですね。 キリストと、キリストが実を結んだ私たちの上に、【主】の霊がとどまり、それは知恵と悟りの霊。思慮と力の霊であると。
「残りの者」でさえ、切り倒され、燃やされ、そして「残ったもの」でも、そのわずかに切り株だけが残るんですね。 私たちは、ま、皆さん、自分をほめなければいけないと思います。よく主の内に、教会の中にとどまることができたなと(笑)。 どんなに離れていても、一度も教会に来ることができなかったとしても、よく主の内にとどまることができたなと。 30年ぶりに、20年ぶりに、このコロナ禍において、教会に、信仰に戻って来られたのであれば、まさにあなたは「残りの者」であった。 「主の霊」が遠い国からあなたを奮い立たせて、主のもとに立ち返ることができた。
そしてそのように残った皆さんは、みな真実であります。 でも真実でありますけれども、私たちもまた切り倒され、焼き払われ、私たちの内に僅かな切り株が残るだけかもしれない。 でも神さまは、その切り株から新しい新芽を生え出させてくださる。 そしてその新芽がやがて大きくなり、やがて実を結ぶことができる。 今年生き残ったんです。ですから、来年も私たちは生き残ります。 今年生き残ることができたのは、私たちを奮い立たせてくださった主の霊による。 その主の霊は私たちを来年においても奮い立たせ――今週の金曜日においては元旦礼拝を迎えますし、来週3日(日)は初聖日になりますけれども――私たちはまた新芽として、主に繋がる切り株から出た新芽として、神の力に信頼してサバイブして行きたい。 どんなことがあっても、生き残って留まっていきたいと思います。
☆お祈りをいたします。――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、今日礼拝に来た一人ひとりを、あなたが両手を広げて迎えてくださいます。「今年一年間、よく頑張った。良くとどまってくれた」と私たち一人ひとりを励ましてくださいます。そして乏しい信仰でありますけれども、「あなたこそが真実な者であり、口やまた形式だけでわたしを崇めるのでなく、心からわたしを信頼している者たちである」と私たちをほめてくださることを、心から感謝いたします。
でもそんな私たちもまたボロボロかもしれません。倒されたかもしれません。でもそこに切り株であったとしても、根株であったとしても、あなたは新しいいのちを注いで、再び新芽を生え出させると約束してくださいました。どうか疲れていたとしても、貧しい中にあったとしても、悲しみの中にあったとしても、新しい年に向かうところの信仰を新しくさせてくださることをよろしくお願いいたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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