☆聖書箇所 ガラテヤ2:15〜21 15私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。 16しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。 17しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。決してそんなことはありません。 18もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。 19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。 20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。 21私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
☆説教 ガラテヤ(8)この世にあって神に生きる @律法によって律法に死ぬ 昨年は、前半は(ハガイ書と)ゼカリヤ書、後半は秋からガラテヤ人への手紙を学んでいます。今日はその8回目になります。 2章の20節を元旦に開きました。ちょっと読みますね。 <ガラテヤ2:20> 20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
今日は、その1節前の、(ガラテヤ2章の)19節―― 19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。……
これを学んでみたいと思います。ちょっと画面を見てみてください。 元旦に2章の16節のみことばに目を留めました。 【※「人は律法を行うことによってではなく」「イエス・キリストを信じることによって」「キリストを信じることによって」にオレンジのハイライト。その間の文章が黄緑のハイライト。囲み:「信じることによって」「イエスを信じました」「キリストを信じることによって」の3か所と、「義と認められると」知って「義と認められる」ためです、「義と認められ」ないからです、の3か所】
<ガラテヤ2:16>(※読む) 16しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。
今日はもう触れません。この箇所を見ていただきますと、いいですか? 「キリストを信じる」という言葉が、(※指さしながら)一回、二回、そして三回出て来ますね。 同時に「義と認められる」というのが、(※指さしながら)一回、それから二回、そして三回出て来ますね。
「キリストを信じることによって義と認められる」という表現は、訳に色々な論争があるという話をいたしました。 「義と認められる」という法的な用語が果たして聖書に通用するのか、という課題もあります。 これが必ずしもギリシャ語の聖書訳ではない。ま、他の訳し方もあるわけですね。 「義とされる」という訳し方もありますし、「私たちの信じる信仰」という訳し方の他に、「キリストの真実によって義とされる」という訳も可能なんですね。
その論争は置いておきますが、前回元旦の時に注目いたしましたのは、 【※画面:オレンジ色のハイライト:19節「神に生きるために」20節「私が生きているの」ではなく、「キリストが私のうちに生きておられるのです」「生きているいのちは」 黄緑ハイライト:「私を愛し〜信仰によるのです」 囲み:19節・神に「生きる」ために、20節・私が「生きて」いる、「生きておられる」「生きている」「いのち」の五回】
16節からほどなくしたこの19節(〜20節)において、「信じる」という言葉の代わりに「生きる」という言葉が次々に出て来ます。 神に生きる、私が生きている、私のうちに生きておられるキリスト。肉において生きる、私のいのち――五回「生きる」という言葉が出てまいります。
詳しい分析は避けておきたいと思いますけれども、ひと言、「福音を信じる」あるいは「義とされる」「義と認められる」ということは、「罪が赦される」ということだけではないということをお話ししました。 キリストの福音を信じる時、私たちはキリストと一つに繋がります。《キリストの十字架と復活と一つとされます》。 これはロマ書の6章では、パウロは洗礼にたとえて話しています。 水に沈められるという『浸礼』という洗礼の方法で言うならば、水に沈められる時に私たちは《キリストの十字架と一つとされ、そして罪に対して死にます》。 洗礼の時に、水から起き上がる時に、今度は《キリストの復活と一つにされて、神に対して生きる者となります》。
ですから、「信じる」ということはどこまでいっても、「神に対して生きる」ということ、「罪に対して死に、神に対して生きる」ということと切り離すことはできません。 私たちを愛し、私のためにご自身を与えてくださった神の御子を信じるなら、イエスさまの十字架と復活の世界の中に取り込まれていくようになる。
私たちは、20節二行目から、「今肉において生きているいのち」という表現――つまりこの世にあって生きているいのちが私たちにはあるわけですけれども、 それはもはや、以前のような世の原理に従う生き方ではない。 それは19節の頭にあるように、「神に生きる」、この世にあって、「神に生きる」ということを目指して、この世に生きているんだということをお話ししていきたいと思います。
「この世にあって神に生きる」ってどういうことなのか――今日はその第一番目をお話しします。次回、第二番目、そして第三番目、それから3章に進んでいきます。
「この世にあって神に生きる」ということの第一番目は「律法によって律法に死ぬ」ということです。 で、3つのポイントで、「律法によって律法に死ぬ」とはどういうことなのかを説明したいと思います。
1)律法によって律法に死ぬ
文字通り考えてもよくわかりません。禅問答のような形で(笑)、どういう意味なのか、私もよくわかりません。 でも恐らく重きは「律法に死ぬ」ということにあるんだろうと思います。 律法の世界に生きて来た者が、律法に対して反応しなくなる。律法的な心のありよう、律法的なメンタリティーを捨ててしまう。
19節に、「神に生きる」とは、「神に対して生きる」とも訳すことができるんですけれども、 そのためには、律法主義的な考え方を止めてしまう。それを捨ててしまう。そういう考え方に死んでしまうことが必要なんだ、ということをパウロは言いたいんですね。
このことはガラテヤ書を学び始めてすぐに、考えるようになりました。 当時の割礼派の人々は、「救われるためには十字架だけでは不十分。(※繰り返して強調して)十字架だけでは不十分。最終的には割礼を受けて、律法を守り、旧約聖書の民と繋がることが私たちを救うんだ」と教えていました。
私たちはあまり割礼とは関係ありません。私たちはそもそも旧約聖書の律法からも程遠い者たちであります。 でも彼らの考え方、つまり十字架だけでは不十分、という思いはいつでもどこからともなく、湧き上がって来ます。 この世の中が、努力、成果、結果、出来映えで人を判断する世の中だからです。 ですからいつの間にか信仰者も、キリストの十字架と復活だけでは十分でない――自分の信仰の出来栄え、自分の祈りの結果、自分の信仰生涯の評価を重んじるようになってしまいます。
そうなりますと、神学生になっても牧師になっても、一番気にするのは、「神学生として」の成績、「牧師として」の結果ということになってしまいます。 その成果を決めるために、私たちは基準を設けますよね。 たとえば、毎日聖書を読むとか、あるいは一年を通じて新約聖書3回、旧約聖書1回読むとか、祈りの努力だとか、伝道の成果だとか、奉仕の実績だとか、あれこれすべしというこの延々と規則ができ上がっていきます。
するとどういうことになるのか? これは律法と同じですね。 いつの間にか、キリスト者の信仰人生が、律法に縛られて生きていく、規則に縛られて生きていくようになってしまいます。
ちょっと3章の23節を見ていただきたいと思いますが、彼はこういう表現をしていますね。 【画面:「信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され」にハイライト】 <ガラテヤ3:23> 23信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。
こういう表現が律法主義のメンタリティー(心のありよう)には非常に特徴的です。 「信仰が現れる以前」というのは、福音を信じる前です。私たちは律法の下に「監視されていた」。 必ず監視する人がいる、ということは、それは周囲の目ですね。 規則で縛る生活というのは、すべてそうです。学校の規則、会社の規則、社会の規則。 そこには監視する人がいる。規則があって、監視員がいる。
律法という規則は、実に難しい問題をはらんでいて、律法をいかに落ち度なく守るかばかりに神経を集中させてしまいます。 すると、規則というものをより厳密に規定しなければいけないことになります。 ま、昔で言うならば、女子高の規則に「スカートは膝から上何センチ以上は駄目だ」と――センチで言わないと、短いスカートはと言うと、どれ位が短いんだと人によって違いますので、膝は隠れるようにとか――規則というのは、ますます厳密に規定されるようになってしまいます。 旧約聖書ですと、「安息日を尊ぶ」という十戒を守ろうとしたら、何をしたら軽んじることになってしまうのか、明確にしなければいけません。 それと旅をするなら、何メートル以内(笑)、料理をするなら、何キロ以内。 料理をする、ということは禁じられているんですけれども、金曜日に作った料理の鍋を運ぶということは労働に当たる。土曜日が安息日ですから、土曜日には干しイチジク一袋以上重いものを運んではダメだ、ということになってしまうんですよね。
とっても真面目なんです。でもとっても内向きです。 戒めを守ることで精一杯です。いや精一杯になって、どんなに精一杯になっても、その程度なんです(笑)。 それは、イエスさまの仰る『善かつ忠なるしもべ』(***マタイ25:14〜30)とは違います。 なぜなら、大胆さもない。犠牲もない。自分と規則の距離関係しかない。 それをもってして、自分と神さまとの関係を保っているかのように考えてしまいます。 そこで不自由な世界が生まれ、縛られて生きるわけですね。 このことはずっと話して来ました。
二番目は、そんなに話していないと思いますので、ちょっと聞いていただきたいと思うんですが―― 2)私たちは自分から律法主義のくびきを負いに行く傾向があります。
ある意味、自由では怖いんですね。 不思議と、自分から不自由な律法を背負う傾向があるのが、私たちであります。
私(藤本牧師)と圭子(夫人)は高津教会で牧師の奉仕をスタートして35年目になります、今年で。 最初は父のもとで副牧を私はしていました。それから牧師の仕事を半々にするようになりました。 礼拝の説教を基本的に全部担うようになったのは、1999年ですから、教会を責任をもって担うようになって、私は22年目になります。
父と交代した後に、日曜日の朝に同じ夢を見ることがしばしばありました。しばしば、不思議と全く同じ夢なんですね。 礼拝が始まろうとしている。そして奏楽の音が聞こえるんですね。私はまだ着替えていないんです。 一生懸命ネクタイをするんですが、最後クっとネクタイを上げる時点で(※ご自分の両手を使ってネクタイを締める動作をする)、急に手がしびれて、そして同時にネクタイがだらんと垂れ下がってしまうんですね。 何度かやるんですね。何度やってもダメ。 このしびれた感覚が、実際に味わうことができる程、リアルな夢なんですよ。 最後はもうネクタイなんかしなくていい、と思って礼拝堂に行きますと、講壇に父が立っていて、礼拝が始まっているわけですね。おまえに出番はないという……
この夢を私はもう100回以上見たんじゃないかと思いますね。父と交代をしてから、5年、7年ぐらい。 外の奉仕をする時は、その奉仕がどんなに大きな聖会であれ、特伝であれ、私は一度もそんな夢を見たことがないです。 外で奉仕をする時の方が、私は生き生きと奉仕をしていたと思います(大笑)。 でも高津教会で奉仕をするのは、やっぱり重いんですね。できるんだろうか? 皆さんは出来るだろうと思ってくださっていたと思うんです。 でも私(※ワ・タ・シと力を入れて)が思っている、できないんじゃないかと。私(※ワ・タ・シと力を入れて)が自信がないわけですね。
私の父(※先代藤本栄造牧師)はたたき上げの牧師でありました。 神学校を卒業して数年間、出身の日本伝道隊の京都の教会を牧会していました。 そこから再度インマヌエルに招かれて、福岡の教会を開拓しました。 ミカン箱を並べて、天幕伝道ですね、そうして教会ができ上がっていった、たたき上げの牧師です。
私は大学を卒業して、すぐアメリカの神学校に行き、神学教育は全部海外でありました。 果たして日本の教会を牧会できるんだろうか? しかもインマヌエルというガチガチの教会(笑)を牧会できるんだろうか?というのは、皆さんはそんなに疑っておられなかったと思いますが、私はもしかしたら、自分にはできないと不安に思っていたのではないかと思います。 そうなりますと、知らず知らずに出来映え主義で自分の働きを評価していく、というこの律法主義の基本的なパターンに自分を閉じ込めていきます。
父にはなくても自分にはある、という自分の良さというのは沢山あるはずなんです。 また遣わしてくださったのはイエスさまですから、イエスさまがどこにあっても助けてくださるという信仰もあるんです。 皆さんはとても愛ある温かな方々ですから、評価してくださいますし、 でも私は皆さんの期待に応えることができるんだろうか?というプレッシャーをいつでも抱えていました。
どういうことなんだろうか? それは律法主義的なメンタリティー・律法主義というのは、人は知らず知らずのうちに、自分で自分の肩に荷う傾向があるんですね。(※そうかも、と頷きます) 自分にコンプレックスがあったり自信がないと、ますますそういう傾向ができ上がっていきます。 誰も律法主義的なメンタリティーをあなたに当てはめるわけではない。 自分から喜んでそこに飛び込んでいく傾向が(笑)、私たちにはあります。
私(藤本牧師)が高校生の頃に、一斉に都立の高校が私服になりました。 私学も私服になりました。15年ぐらい私服だったんだろうと思います。 やがて全部制服に戻っていきます。それは生徒、親からの要望で制服に戻っていきました。 理由は簡単で私服は難しい――朝になって何を着て行こうか、考えるだけで時間が経ってしまう。毎回毎回同じ制服の方がよっぽど簡単だ――というものの考え方っていうのは、これは信仰生活にも言えるんですね。
相談されて、「いや、そのことはあなたの自由ですよ。イエスさまと共に祈って、あなたが自分で考えなさい」と言われますと、一遍に難しくなってしまいますので、 ある程度教会の基準というものを出して――悪いことじゃないんです――でもその基準が段々事細かくなり、 そしてその基準を監視する人ができ、「あなたはこうすべきだ」と言った途端、 私たちの信仰は律法主義に陥っていきます、知らず知らずの内に。
ですから、「律法によって律法に死ぬ」ということの3番目には―― 3)ですから、自由を守れ!ということが入ってまいります。
2章の4節をちょっと画面で見ていただきたいと思いますが、2章の4節にこうありますね。これはだいぶ前に見ましたね、 【※「忍び込んだ偽兄弟たちが」「キリスト・イエスにあって〜忍び込んでいたのです」に緑のハイライト】 <ガラテヤ2:4> 4忍び込んだ偽兄弟たちがいたのに、強いられるということはありませんでした。(***エルサレム会議ですね、と説明)彼らは私たちを奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由を狙って、忍び込んでいたのです。
この言葉、これはどんな教会にも言えます。どんな信仰生活にも言えます。 サタンはキリスト・イエスにあって、私たちが持っている自由を狙って忍び込んで来る。 ガラテヤ人への手紙はまだまだ続きますので、この問題はもっと詳しく学んでいきたいと思いますが、 この世を生きる私たちの心理も、この世のあり方も、この自由を否定して、忍び込んで来ます。 この世界というものが律法的な仕組みを持っているのは仕方がない、というお話をしました。 やっぱりどこかで成果、結果、出来映えが生まれて来なければ仕方がありませんから。 しかし私たち信仰者は、それに飲み込まれてはいけない。 自分の価値、自分の存在意義、自分の生きがいを、この世界の評価に載せるのではなく、 キリストに愛され、キリストによって義とされ、キリストのいのちを生きる者とされているという霊的な事実の上に、自分の価値と自分の存在意義を載せていかなければいけない。 間違っても、この世の評価主義や出来映え主義を信仰生活の中に入れてはいけない。 キリスト・イエスにあって与えられた自由を、私たちは守らなければいけないんですね。
5章の1節をちょっと見ていただけます?また5章に入ったら詳しく学びたいと思いますが、5章の1節にこうありますね。 【※画面:1節全部にオレンジ色のハイライト】 <ガラテヤ5:1> 1キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。
私たちは喜んで奴隷のくびきを負いに行くんですよ。 その方が生きるのは楽だから、という面もあれば、周囲のプレッシャー、自分の自信の無さ、自分のコンプレックスがそうさせる場合もありますでしょう。
こんな話があります。 赤ちゃんラクダが、お母さんラクダに尋ねます。 「お母さん、どうして、ぼくのひづめは3つに割れているの?」 「それはね、砂漠の砂の上でもしっかりと立つことができるためなの」 しばらくして、赤ちゃんラクダがまた尋ねます。 「お母さん、どうしてぼくのまつげはこんなに長いの?」 「坊や、それはね、砂漠の砂嵐でも、砂が目の中に入らないためにあるのよ」 「ふ〜ん、そうなんだ」 「じゃあ、どうしてこんなにごつごつのこぶが、ぼくの背中の上にあるの?」 「坊や、見てご覧なさい。お母さんの背中にもあるでしょう。この中に水を溜めて、水を飲まなくても、砂漠をどこまでも歩いて行くことができるためなのよ」 坊やは怪訝そうに、お母さんラクダに尋ねます。 「じゃあ、お母さん。どうしてぼくたちは動物園にいるの?」(笑)
こういうことですよね(笑)。おかしいでしょと(※矛盾を楽しそうに説明する藤本牧師)。 信仰によってキリストの十字架を見上げます。 聖霊によって、神の愛をこの小さな心に注いでいただきます。 キリストの十字架と復活と一つとなって、新しく神の国に生きる者となります。
私たちが生きているこのいのちは、監督によって見張られているものではない。 規則と出来栄えにかかっているものではない。 いつも点数を付けられ、出来映えによって自分の存在価値を証明するという世界にはもはや生きていない。
私たちは砂漠の中でも、砂嵐の中でも生き抜ける、立派なひづめと長いまつげと背中のこぶ、すべて備えられているのに、 動物園のような不自由な世界に、自分を閉じ込めてはいけない。 クリスチャンの親であるならば、自分の子どもをそういう世界に閉じ込めてはいけない。 その教えを心に刻むために、私たちもまたパウロと同じように、自分に言い聞かせるんですね。 「律法にあって律法に死になさい」と、神に対して生きる者は――2章の19節。 神にあって生きる者は、律法主義的なメンタリティーに死ななければならない。 なぜなら、「今肉にあって生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自身を与えてくださった、神の御子を信じる信仰によるのです」(ガラテヤ2:20)と。
☆お祈りして終わりにいたしましょう――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、過去にあって、また今現在にあって、成果や結果がすべてだと思っているような私たちでありますが、でも実はイエス・キリストを信じ、神の子どもとされ、キリストの十字架と復活と一つになった時点から、全く違う原理に自分の人生を載せたんだということをついつい忘れて、自分の出来栄えに心を配るような者たちであります。
実は、私の存在意義は私の結果にあるのではない。イエスさま、あなたが私を愛してくださり、私のためにいのちを捨ててくださり、あなたに連なって天の御国へと真っ直ぐに歩むために、あなたはよき働きを私たちの内に始めてくださり、それを完成させてくださり、こんな私の内にもよいタラントを与えてくださり、それを自分のためではなく、神の国のために、隣人のために用いるように、あなたは私を遣わしてくださっているということを、どこかで忘れてひたすら世の原理に生きているような者たちであります。どうかパウロと共に「律法に対して死ぬ」ということを、よくよく心に刻んで考えていくことができるように私たちをお助けください。
一週間、まだまだ雪の深い中を過ごしておられる日本海側、あるいは北国の方々の上に、あなたが万全の守りを与えてください。もし停電があるならば、その復旧を早くさせてください。寒さの中で外に出ることのない知恵を与えてください。 また感染拡大がどんどん広がっていく中、みんな頑張っていますので、頑張る所の忍耐を与えてくださると共に、医療や介護の従事者を特別にお守りください。 受験生の家庭にあなたの御守りの祝福を与えてくださり、万全な状態で臨むことができるようによろしくお願いいたします。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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