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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/17 ガラテヤ(9)この世にあって神に生きる Aキリストと共に十字架につけられる ガラテヤ2:19〜20
☆聖書箇所  ガラテヤ2:19〜20
19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。
20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

☆説教  ガラテヤ(9)この世にあって神に生きる  Aキリストとともに十字架につけられる  

さて今日はガラテヤ人への手紙の2章、タイトルは「キリストと共に十字架につけられる」であります。19節をお読みいたします。

19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。

「私はキリストとともに十字架につけられました」であります。今朝はこのみことばに絞りたいと思います。
元旦礼拝の時に注目いたしました。割礼ではなく、律法ではなく、キリストを信じる信仰によって、と言いながら、それは単に「信じる」という気持ちの問題ではなく「生きる」という、この世のいのち、私たちの生涯、日常生活の話と、パウロは「信じる」という言葉を重ねていたのだという話をしました。
つまり信仰とは、信じたように生きることなんだと。
信仰とは、キリストをもって始まった「神の国に生きる」ことなんだ、というお話をいたしました。

ですから今年のみことばを定めた時に、20節の最後、「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」というみことばを選びました。

パウロは、その「信仰によって生きる」という表現を、19節、ちょっと見ていただきます?

【※画面:オレンジ色のハイライト――19節「神に生きるために」20節「私が生きているの」ではなく、「キリストが私のうちに生きておられるのです」「生きているいのちは」
黄緑のハイライト――「私を愛し〜信仰によるのです」
囲み――19節・神に「生きる」ために、20節・私が「生きて」いる、「生きておられる」「生きている」「いのち」の5回】

19節で、一言でまとめています。――「しかし私は、神に生きるために」――これです。「神を信じる」とは、「神に対して生きる」ことなんだと。
そしてここに3つ(必要なことが)出てまいりますが、(※指でなぞりながら語る)
@一つは「律法によって律法に死ぬ」――これは先週お話ししました。
A今日は(2番目)「キリストとともに十字架につけられる」――今日お話しいたします。
Bそして3番目、「私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる」
この3つです。

「神に対して生きる」ためには、「律法によって律法に死ぬ」ということ、私は「キリストと共に十字架につけられる」ということ、そして「私のうちにキリストが生きておられる」――この3つは「ガラテヤ人への手紙」の中心メッセージだと言っても過言ではございません。

前回のその「律法に死ぬ」ということを、もう一回復習いたします。
私たち日本人は、所謂旧約聖書の律法とはあまり関わりはありません。しかしこの世界は律法主義で成り立っている、というそういう話をいたしました。
いつでも成果が求められ、出来映えが評価され、人は判断されていきます。
そうしますと、いつの間にか、信仰者もキリストの十字架と復活だけでは不十分であるかのように考えてしまう。
自分の信仰の出来栄え、自分の祈りの成果、自分の信仰生涯の評価を重んじるようになります。
そして祈りの努力、伝道の成果、奉仕の実質、あれこれすべしという課題に向かって邁進していく。
そして不思議と、不思議と、誰からともなく、自分から、自分自身から不自由な律法を背負いに行く――そういう傾向が人間にはある、という話をいたしました。
ラクダが砂漠で生き抜く特徴を持っているにもかかわらず、どういうわけか、動物園にいるというのと同じような形で、
私たちはキリストにある自由をふんだんに持っていながら、どういうわけか、自分自身で自分の考え方を狭くして、動物園に閉じ込めてしまう。
ですから、「律法に死ぬ」と言った時に、同時に「キリストにある自由を守る!」というものの考え方がとっても大切なんだ、という話をしました。

で、今日は2番目の「私をキリストと共に十字架につける」であります。いいですか。

以前ちょっと触れたことがあるんですが、イギリスの脳神経外科のオリバー・サックス(***1933〜2015)という医者が、『火星にいる人類学者』(An Anthoropologist on Mars)という本を書いています。
日本語に訳されているんじゃないかなと思いますが、オリバー・サックスの本は何冊か訳されています。
彼は脳科学者として臨床的に見て来た7つの興味深い症例を取り上げて、脳の不思議をその本の中で説明しています。

その一つに、幼くして視力を失ったヴァージルという男性がいます。
50歳の時に手術を受けて、視力を徐々に回復するようになっていきました。
最初は色や動きが分かるようになる。時間が経つと全体像を掴めるようになる。
ところが、いつまで経っても、彼の行動・そして彼の仕草は、目の見えない人のものであった、という観察なんですね。

で、オリバー・サックス先生の仰ることはこうです。
「目の見える人が生きるためには、目の見えない人が死ななければならない。」
神に対して生きている私たちが、本当に生きるようになるためには、自分に対して生きている自分が死ななければいけない――そういう視点で、3つのポイントからお話をいたします。

1)神に対して生きるためには、死ななければいけない自分がいる

これは非常に複雑ですので、最後の最後まで話を聞いていただかないと、今日はちょっと分からないと思います。
私たちは律法がどれほど私たちを追いつめ、縛って来たのかについて、共に学んで来ました。
しかし、本当の敵は、勿論律法ではないです。
本当の敵は、パウロの表現では肉ですね。あるいは罪深い16節「肉の欲望」、17節「肉の願うところ」、19節「肉の行い」――5章ではもっぱらそういう言い方をします。
(※2017版では16節は同じ、17節「肉が望むこと」19節「肉のわざ」)

そもそも律法というのは何のためにあったのだろうか?
それは紛れもなく、この「肉」を封じ込めるために、律法というものがあった。
律法は肉を封じ込めることができないわけです。
私たちも、それが一番の問題だということは分かっていますね。
自分の肉なる性質が一番の問題だ。律法ではない、ということは嫌という程分かっています。

アメリカのキリスト教雑誌にこういう話が載っていました。
車が2台、信号待ちをしています。
信号が青になって、しかし前の車はなかなか動こうとしない。
そして後ろの車がクラクションをパンと鳴らします。それでも気がつかずに動かない。
もっとパ〜ンと鳴らして、でも動かない。
ようやく信号が黄色になった頃に、前の車は気がついて、慌てて発信して何とか渡り切りました。

ところが、後ろにいた女性の運転手、彼女は結局出遅れて、もう一回待たされることになりました。
彼女は窓を開けて、思いっきり、去って行く前の車に向かって怒鳴りました。
そして車の中で、いきり立ってハンドルを叩いて、体を揺らして、(大笑)カンカンに怒っていました。相当気分の悪い1日だったんだろうと思います。

それを見ていたのが、彼女の車の後ろについていたパトカーでありました。
パトカーは赤色灯を照らして、スピーカーで彼女に車から降りるようにアナウンスします。

これには、この女性のドライバーも本当に頭に来て、警官に食って掛かりました。
あまりの剣幕で警官を侮辱して、侮辱罪で手錠をかけられて、パトカーに乗せられて、警察署に入れられてしまいます(大笑)。

勿論、しばらくして、釈放されますね。
カンカンに怒った疲れ切った女性に、警官は謝りました。
「いや、悪かったね。何も逮捕することはなかったと思う。でもゆっくり調べさせてもらったけど、あんたは白だな。」
彼女は言うんですね。
「白に決まっているでしょう。あの交差点で、私は馬鹿な車にはめられただけじゃないですか。私は何一つ悪いことはしてませんよ。」

すると警官が言いますね。
「そんなことはわかっているよ。俺が疑ったのは、そんなことじゃない。
君の車のバンパーには聖書の言葉のステッカーが2つも貼ってあったぞ。
よく見たら、車のトランクのところには、キリスト教の魚のマークも貼ってあった。
俺は単純に、あんたの様子を見て疑ったんだよ。
その車は君のものではない。その車は盗難車だろうと(大笑)。
それを疑ったんだ。だから車から降りてもらっただけだよ。」

問題のある「私」って、一体どんな私なんだろうと思いますね。
時にそれが自己中心であり、あるいは野望だったり野心だったり、情欲だったり、金銭欲だったり、権力欲だったり、人を支配したい、自分の思い通りに事を運びたいという自分の欲であったり、プライドであったり、逆にコンプレックスであったり。
プライドも面倒臭いです。でもコンプレックスも面倒臭いですね。もうこの人と話していると、コンプレックスしか出て来ない、という場合もありますよね。
これは全部、問題のある自分なんです。

2)この自分の問題性を、イエスさまは非常に厳しく指摘されます。

マルコの福音書は、この問題ある自分を「自我」という観点から話しています。
自己中心性、そういう観点から話しています。何もそれだけではないんですけれども、自分が偉い。自分が認められたい。自分を優先したい。

それがマルコの福音書では、仲間内で「だれが一番偉いか」という論争になります(***マルコ9:34)。
あるいは同じように福音を宣教していながら、「私たちの仲間ではないので、彼らをやめさせました」(***マルコ9:38)というヨハネの傲慢さも記されています。
あるいはヨハネとヤコブという兄弟は、イエスさまのもとにやって来て願いました(***マルコ10:35)。
「あなたが御国の王座に着く時に、私たちの一人をあなたの右に、一人をあなたの左に座らせてください」(***同10:37)と。

この問題の「問題性」というものをイエスさまはよく分かっておられて、皆に仰いました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」(***マタイ16:24、マルコ8:34、ルカ9:23)

「自分の十字架を負い」というのは、また違った意味合いがありますが、「自分を捨て」というのは、「キリストと共に十字架につける」というのと表現は似ています。
ちょっとイエスさまが仰った言葉で、マルコの福音書の9章の42節を開きますので、聖書で見ていただきたいと思います。
ちょっと映しますね。読んでいきますね。ここですね。

【画面:42節「小さな者たちの一人」「大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。」43節「切り捨てなさい」45節「切り捨てなさい」47節「えぐり出しなさい」48「ゲヘナ」に黄緑のハイライト】

<マルコ9:42〜43>
42また、わたしを信じるこの小さな者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。

という恐ろしい言葉をイエスさまは仰います。でもそれは、わたしを信じるこの小さい者の一人をつまずかせる者は。
それからイエスさまは、43節でこう仰いますね。

43もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。(***捨てなさい、と繰り返し)両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。

その問題ある自分というのがあるならば、それを「切り捨ててしまいなさい。それを持ったまま天国には行けない。それを切り捨ててしまいなさい」とイエスさまは厳しく仰っています。
問題の問題性というのは、こういう風に「小さき者たちをつまずかせるという手を切り捨てる」、その先には「目をえぐり出す」という表現にもなっていますね。
非常な痛みや犠牲が伴うんですけれども、でも大事に抱えたまま、ゲヘナの地獄の火に投げ込まれるよりはましですよねと。
「石臼を首につけられ」とか、「ゲヘナの火に投げ込まれる」とか、なんとも問題の深刻さ――非常に深刻な問題なんだということを――イエスさまはここに示しておられます。

私たちはそうそう簡単に捨てられるものではないということは、これはよく分かっているんですね。
このマルコの福音書の箇所で、そうそう簡単に捨てられないという、9章に出てまいります。9章の50節ですね。ちょっと指さして読んでいきます。

【※画面:「自分自身のうちに塩気を保ち」に黄緑のハイライト】
<マルコ9:50>
50塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、(***というのは、切り捨てるべきもので一杯になってしまったら、と説明)あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。

塩気を保てない。互いに平和に過ごせない。じゃ何によってその塩気をつけるのでしょうか?という疑問。
どうしたら切り捨てることができるのでしょうか?どうしたら問題ある自分を十字架につけることができるのでしょうか?という質問ですよね。
これ、答えはですね、こういうところに出て来ます。49節ですね。
【※画面:49節「塩気を」に黄緑のハイライト】
<マルコ9:49>
49人はみな、火によって塩気をつけられます。

以前、祈祷会で、また今もNoteというところにいって、聖書読解法でマルコの福音書をやりますと、この箇所が出てまいりますね。
「火によって塩気をつけられる」
「火によって」というのは、聖書によって「火によって」という時に、新約聖書では圧倒的に、ま、圧倒的でもないですね、「聖霊の火によって」という言い方が多いです。
例えば、「旧約聖書でも天からの火によって祭壇のものを焼き尽くすように、私の問題性を焼き尽くしてください、聖霊の火によって」という讃美歌もあります。

でも実は「火によって」というのは、「試練」が多いです。
その代表的な箇所を第一ペテロから、ちょっと開いて読んでいただきたいと思うんですね。

【※皆さん開いている間に、これでやるとこうやってスマホを立られるんですね。ま、どこにでも売っているんですけれども、こういうのを使うと、Zoomで自分のスマホを、あるいはタブレットをこの上に置いてやると楽ですよ、ごめんなさい。余計なことで、とちょっとしたツールを紹介する藤本牧師】

Tペテロの1章の7節ですね。
【※画面:7節「朽ちていく金よりも高価で」に黄色のハイライト】
<Tペテロ1:7>
7試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。

私たちは試練で試されなければいけないんですよね。
火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
火で精錬される。それは試練できよめられる。試練で不純物を示され、それをキリストと共に十字架につける。

イエスさまは私たちを十字架につけるという風に仰った時に、あなたは自分を捨てると言う時に、何もかも捨てるわけではないです。
私たちの個性もあり、特性もあり、性格もあり、私たちの過去もあり、私たちの将来もあり、捧げろと言われたものは捧げます。でもそれはすべてではないでしょう。
むしろあなたがたの問題はこれです、と聖霊は示してくださいます。
なかなか分からない場合もあるんですけれども。

でも試練の中で、必ず私たちの問題は浮き彫りになります。
日頃強がっていた割りに、試練に非常に弱く自分が不安に満ちている人間であったということが分かるようになる。
ウェスレーは、普段においては英国の国教会の司祭として堂々と振る舞っていましたけれども、アメリカのジョージアに宣教に行く途中で、嵐の中で自分が非常に死の不安に怯えた時に、自分は救われてないんじゃないかという風に彼は初めて疑うようになります。
試練の中で本来の自分の姿が見えて来るようになる。
自分はなぜこんなに攻撃的なんだろうか?
自分はなぜこんなに人を見下すんだろうか?
自分はなぜこんなに、自分を建て上げるということに一生懸命なのだろうか?
自分はなぜこんなに、自分の考え方にこだわるんだろうか?
ま、色んな問題が出てまいりますね。

さて、3番目に、そういう中にあって、最後、これが一番大切です
3)自分で自分はわからないです。(一人で神と向き合うだけではわからない)

自分で自分の問題はわからないですね。
ま、薄々気づいている部分もあるかもしれませんけれども、神さまが「これがあなたの問題だよ」って仰っているような問題はなかなか分からないものです。

私(藤本牧師)は、スコット・ぺックの話はよく引用いたします。
クリスチャンの精神科医で、ま、一番有名な人物ですね。
『平気でうそをつく人々』『愛と心理療法』(一般書店)
日本でも5冊位、本は翻訳されていますが、彼がある本の中でこう言っています。
ちょっとそのまんま読んでいきますね。よく聞いていてください。
後で説明しますが、非常に示唆に富んでいます。
【※本文中の(***  )内は藤本牧師の説明】

精神科医を訪れる人の多くは、いわゆる神経症か性格障害に悩まされている。簡単に言えば、この二つは責任感の障害です。つまり、神経症の人は責任をとりすぎる。
(***人の責任も自分の責任のように感じる。自分と誰かの間で問題が起こると、あ、自分が悪かったんじゃないか、と思うのは神経症のタイプの人だ、と説明し、片や、と続け)、性格障害はとらなさすぎる(笑)。
(***本当は自分が悪いのに、相手が悪いという風にものを考えてしまう。ですから、と続けて)
神経症の人は外界ともめると、自動的に自分が悪いと思う。性格障害の場合は、外界が誤っているとする。……
(『愛と心理療法』、創元社、二八〜二九頁)

神経症の人は自分と外側の世界の関係でもめると、必要以上に自分を責める。
自分を責める。何でも自分のせいにする。自分が足りなかった。自分の配慮が不足していた。嘆くタイプが多い。

逆に性格障害の人は、絶対に自分が悪いとは言わない。
ありとあらゆる理由をつけて、外の世界に責任をなすりつける。
時には親が悪かった。親の育て方の責任に問題を持っていく場合もある。
様々な障害に突き当たると、いつも悪いのは相手であり、環境であり、状況であり、自分ではないと考える。
このタイプの人は被害者意識に強い。責任ある行動を自分に要求する以前に周りを責めるタイプの人。
精神的に未熟なタイプ、自己主張の強いタイプの人に、この性格障害が当てはまるように思える。
それはどうでもいいとは言いませんけれども、それが今日の説教の観点じゃないんです。

スコット・ペックが言うには、人はどちらかのタイプだと言っているんではないんですよ。
人はその両方を抱えている、ということを彼は言いたいんですね。
つまり生活のある面においては、潰されんばかりに自分を責める、人は。
自分の犯した過ちや失敗を主の恵みに委ねることができずに、いつまで経っても自分のことを責める。
ところがそういう人に限って、他の面では自分の責任を取ろうとしない。
そして被害者意識で他人を責め、非常に批判的な環境の中で、自分を正当化しようとする。
本来自分が悪い環境の中で、自分を正当化しようとする。

スコット・ペックは精神科医としてカウンセラーをしていますから、だから人は誰でもカウンセラーを必要としているということを言いたいんですね。
自分で自分が分からない。
もう自分はいつも神経症だ。自分はいつも性格障害だというなら、これは分かりやすいですね。
だけど、人の内側には必ず両面が共存していて、責任を取るべきところを取らない。
責任を負わなくてもいいところを負ってしまうという傾向がある。
だから第三者と話をして、友だちにでも、あるいは夫婦でも話をして、「そこはあなたの責任なんじゃないの?」「そこはあなたの責任じゃないよね?」と言ってもらう必要がある、と言うのですね。

それを私たちに当てはめて考えるならば、私たちは第一に徹頭徹尾、自分をキリストと共に十字架につけるためには、「謙虚でなければいけない」ということです。
引き受ける必要のない責任があるならば、いつまでも自分でそれを背負うことなしに、主にゆだねるということを謙虚に学ばなきゃいけないですね。
親としてとか、夫としてとか、会社の上司としてとかいう言葉を使わずに、
もし自分が引き受けなくてもいい責任であるならば、主にゆだねるということを謙虚に学ばなければいけないですね。
逆に、「それは君の責任なんじゃないの?」って言われた時に、いやそれは親が悪い、上司が悪い、周りが悪いと言わずに、
「自分が悪いかも知れない」と謙虚に受け止める姿勢がなければ、私たちはキリストと共に自分を十字架につける、なんてことは絶対にできないですね。
「謙虚な心を与えてください」とお祈りしましょう。
そうして初めて、私たちは問題ある部分をキリストと共に十字架につけ、神に生きることができるのではないかと思います。

☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、実に愚かで、自分の責任範疇も責任所もどう振る舞うべきかも分からずに、自分自身を苦しめ、時に周りに迷惑をかけ、でも私の問題性をあなたは周囲の声を通して、様々な形で教えてくださいます。ところが、私たちは頑固な者で「おまえなんかに言われたくない」とあっさりと神の声を退けてしまうような者たちであります。

時に振り返って、自分自身を悔い改め、あなたの御前に、人に深く頭を下げ、そして自分自身を十字架につけるということを、自分の問題性をあなたに明け渡してしまうということを学ばさせてください(アーメン)。そのように進歩と成長のあるキリスト者とさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2021.01.17 - 23:26
LAST UPDATE: 2021.01.18 - 00:58

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