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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/24 ガラテヤ(10)世にあって神に生きるために Bキリストが私のうちに生きておられる ガラテヤ2:19〜20
☆聖書箇所  ガラテヤ2:19〜20
19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。
20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

☆説教  ガラテヤ(10)この世にあって神に生きるために  Bキリストが私のうちに生きておられる

ガラテヤの講解説教を始めたのが、昨年の9月10月位でありました。間にクリスマスが入りましたので、色々飛んでいますけれども、今日はその10回目で、ガラテヤの2章の20節から「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」――この言葉に目を留めたいと思います。

これまで話して来たことは、「信じることによって私たちは義と認められる」(***ガラテヤ2:16)、あるいは「義とされる」「救われる」でありますが、
勿論その「信じる」ということは、はじめは福音を聞くことに始まります(***ローマ10:17)。
しかし、それ、「信じる」ことは、当然「信じたことを生きる」(***ガラテヤ2:19〜20)ことになるんだ、とお話しいたしました。
つまり、《キリストを信じるとは、キリストの十字架と復活に生きる信仰者になる》ことなんだ。

そこでパウロは、改めて表現を変えて、(ガラテヤ2章)19節にこうありますね。
19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。

そして3番目の今日は、「キリストが私のうちに生きておられるのです」
「神に生きるために」(19節)とここから始まるんですね。
  @律法に死ぬこと。それは律法的なものの考え方、信仰生涯のあり方に死ぬこと。律法主義的なメンタリティーに反応しない、それを遠ざける自分を作っていくこと。
  A先週お話ししました、問題のある私。私自身の問題性、これはなかなか分からないものでありますけれども、それをキリストと共に十字架につける、ということ。
  B20節の「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」

「キリストが私のうちに生きている」――これこそが、キリスト者の栄光であります。
(新約)聖書の内に、様々な形で説明されています。
イエスさまは、ヨハネの福音書で仰いました。
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。……わたしもその人にとどまっているのなら、その人は多くの実を結びます」
とヨハネの福音書の15章の4節〜5節で仰いました。

「キリストが私のうちに住んでおられる」というのは、私がキリストのうちにとどまり、キリストも私のうちにとどまることによって、その人は多くの実を結ぶ。
ガラテヤ人への手紙では、パウロはこの「内なるキリスト」のことを、5章から6章にかけて、集中して説明しています。それは聖霊のことであると。
「私たちは神の御霊を、キリストの御霊を内に宿し、御霊に導かれて進もうではありませんか」と、5章に何回も書いてあります。
その時、《御霊がその実を、私たちを通して現してくださる――私たちの人生を、人格を、キリストに似たものとして変えてくださる》。

《問題のある自分をキリストと共に十字架につけ、私たちのうちに聖霊が宿り、キリストの力、キリストの愛、キリストの平安を私たちのうちに宿していく》というテーマは、5章に入りましたら、じっくり一緒に学んでいきたいと思います。

今日は少し違う視点で、この聖書の箇所に心を留めていただきたいと思います。
「キリストが私のうちに住んでおられる」という事実は、少し違う視点から解説することができます。
それを3点ご紹介いたします。

1)人となられたキリスト
一昨年、ピリピ人への手紙を共に学びました。その2章に新約聖書がまだ成立する前にできた『キリスト賛歌』という箇所があると申し上げました。
ちょっと開いていただけますでしょうか。お見せしますね。
ピリピ人への手紙2章の5節から「キリスト・イエスにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」と言って、パウロは当時みんなが知っていた『キリスト賛歌』を引用いたします。
【画面:5節全部に青いペンで傍線、6節「神としてのあり方を〜考えず」に赤い傍線、さらに「捨てられないとは考えられず」に囲み】

<ピリピ2:6〜7>『キリスト賛歌』
6  キリストは、神の御姿であられるのに、
     神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7  ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
     人間と同じようになられました。
     人としての姿をもって現れ、

「人間と同じようになられました」って一体どういうことなんだろうか?
イエスさまは公の生涯に立つ前に、荒野で40日40夜断食をされ、サタンの試練を受けました(***マタイ4:1〜11)。
サタンに「そんなに飢えているなら、そこら中に転がっている石をパンに変えたらどうだ」と誘惑されるほど、人間の肉体、それにつきまとう弱さをイエス・キリストは体験されました(***同4:3)。
サマリヤの井戸で、イエスさまは旅に疲れて、そして腰を下ろして座っておられました。それはもうぐったりと疲れておられるイエス・キリストですね(***ヨハネ4:6)。
親しくしていたラザロが死んだ時に、「イエスは涙した」と書いてあります(***ヨハネ11:35)。
十字架は人が受ける苦しみ・屈辱の中で最大のものでありました。
そこに至る過程で裏切られ、捨てられ、引き渡されたイエスは、十字架の上でぼそりと「我、渇く」と仰います(***ヨハネ19:28)。

神学的には受肉、英語ではincarnation(インカーネーション、顕現、托身)という言葉を使いますけれども、これは単にキリストが人となられたということだけに留まりません。
キリストは、この粗末な、弱い、罪深い私の内に入ってくださることができる。
しかもこの粗末な、弱い、罪深い私と気持ちを同じくしてくださる、という意味が受肉という言葉に含まれています。
まるで、マリアを母として生まれた幼子イエス・キリストが飼葉桶に寝かされたように、家畜小屋のような私たちの人生、飼葉桶のような私の心の中にキリストが住んでくださる、とどまってくださる、ということになります。

2)そうなると、先ほどのガラテヤの2章の20節の「今私が肉において生きているいのち」をキリストも共に生きてくださる、ということになります。

皆さんは、「今私が肉において生きているいのち」というものを、どういう風に捉えますでしょうか?
勿論元気な時であれば、バイタリティー溢れる喜々とした自分を感じますでしょう?
すばらしい光景を眺めれば、生きていてよかったと思いますでしょう?
でも本当に仕事に追われて、そして疲れ果ててしまう時、人間関係に悩みながら、なんでこんな人生を送らねばならないんだと。
風邪一つ、熱一つ、お腹を壊しても、私たちは自分の弱さを感じますよね?
最近よく言うではありませんか。生きづらいと。生きることは簡単ではないと。生きることが非常に辛い。

私(藤本牧師)位の年齢(60代半ば?)ですと、ポップシンガーの作詞家(詩人)でありました寺山修司(***1935〜1983)さんという人物がいます。
「時には母のない子のように」という詩が大変ヒットいたしました。
彼は20歳の時に、前から抱えていました一つの病気を直すために、輸血を受けます。
その時に肝炎のウィルスが侵入し、47歳という若さで亡くなります。
徐々に蝕まれて行く自分のいのちをよく知っていて、彼はこう言いました。
「私は不完全な死体となって生まれ、完全な死体となって終わる」と。

病と格闘しながら、多くの詩を残し、人々に歌われ、生き生きと感じたこともあったに違いない。
しかしその背後で20歳の頃からずっと肝臓を患っていて、そして実感したことは、
「私は不完全な死体となって生まれ、完全な死体となって終わる」。

病だけでなくても、何て言いますか、「今私が肉において生きているいのち」というものが、どんなにしんどいか、どんなにしんどいか、実感しない人はいないと思います。
で、私たちは往々にして口にしますでしょう?
「自分しかわからないのに、周りが騒ぐ」と。
周りは色んなアドバイスをくださいますけれども、しかしその苦しみは、実際自分しか分からない――それは現実だろうと思います。

しかしそこにもう一人、私が肉において生きているいのちの辛さを分かってくださる方がおられる。
それが、私のうちに生きておられるキリストだということですね。
この視点というのは、非常に興味深く捉えていただきたいと思うんです。
《もし、キリストが私のうちに住んでおられるなら、私が受けた屈辱、私が体験している苦悩、私の不安をキリストもまた感じ取ってくださる》ということですよね。

宗教改革者のマルチン・ルターは、宗教改革が始まってすぐに、自分の味方をずっとしてくれたザクセンの領主フリードリヒという人物が病気で倒れたことを、本に記しています。
その本の序文で、彼は次のように書いています。
私がこの本を記すのは、「閣下が(***閣下というのは、ま、日本語訳ですけれども、自分の地域のザクセンの一番偉い人物・城主のフリードリヒですね、と説明)重い病気に襲われる。また同時にキリストが閣下の中で病んでおられるのを知っているから」と書いているんですね。
フリードリヒが重い病気を患っているということは、ルターの頭の中では、同時にキリストがフリードリヒの中で病んでおられる、という理解を持つことができた。
イエスさまが私たちのうちに生きておられる、ということは、私たちの身の上に起こる所の辛いこと、悔しいこと、疲れること、それをイエスさまは共に味わっておられるということですね。
私たちが病むのなら、キリストも共に病み、私たちが苦しむのなら、屈辱を受けるのなら、キリストもまた共に苦しみ、屈辱を受ける。

さらにルターは、本を記した理由をこう続けます。
「閣下の骨肉から私に向かって『見よ、わたしはここで病んでいる』とキリストが呼びかける、『見よ、わたしはここで病んでいる』とキリストが語りかける、その御声が私に聞こえて来ます。
ですから、私は聞いて聞かぬふりはできません。ですからこの本を記します」と。
その本のタイトルは『労し、重荷を負う人々のための慰めについて』。
労する者、重荷を負う者についての慰めについて、彼は14章に亘る本を書いています。

私たちが労し、重荷を負う時に、キリストもまた苦しみ、重荷を負っていてくださる。
でもそれだけでなく、キリストは周囲に向けて、周囲の信仰者に向けて、
「見よ、わたしはここで病んでいる。見よ、わたしは苦しんでいる。重荷を負っている」
とその人物の骨肉から、イエス・キリストは叫んでいる、と言うんですね。

すると、三番目のポイントが見えて来ます。ちょっと言いますと、
二番目に申し上げたポイントというのは――今私が肉において生きているいのちは、時に大変辛く、苦しいものです。
そして「誰にも分からない、私しか分からない」と私たちは口にしますし、それは事実でありますが、
でも《キリストが私のうちに生きておられるなら、キリストは同じようにその辛さを分かっていてくださる》ということです。

3)それを越えて三番目に、ルターが言うように、キリストは私たちの骨肉を通して、周囲の信仰者に、その苦しみを、痛みを訴えておられる。

私が叫んでいるだけではない。実はキリストもまた叫んでおられる。
だとしたら、その声に耳を傾け、その人に思いを寄せ、もし自分にできることがあるならば、自分もまたその人のために何かをする、ということはイコール、キリストのために何かをすることに他ならないわけですね。
その人のために、その人の中に生きておられるキリストのために、私たちは何かをすることができるわけです。

「教会家族は苦しみの共同体」というのは非常に微妙ではありますけれども、いつも共に苦しみ、苦悩し、いつも共に喜び、感謝し、いつも共に祈り励まし合う。
一番原点的なところは、「いつも共に苦しみ」です。
なぜなら、その人の中に――「私のうちに生きているキリスト」も――その人のうちに生きておられる。いいですか。

さらに言うならば、イエスさまは仰いました。
「わたしがその人のうちに生きているのは、何もキリスト者だけではない。」
「わたしはこの世界の小さき者のうちに、皆等しく生きている」
とイエスさまは仰いました。

マタイの福音書の25章を開いて、そして終わりにしたいと思います。
(※正面の時計を遠く見て、)今11時15分なのですね。もしかしたらいつも目標としている11時半までに、今日は終えられるかもしれない(※嬉しそうな顔で語る藤本牧師)。
ちょっと頑張ってマタイの福音書を見ていただきたいと思います。25章です。今開きますね。皆さん、よく知っておられるところですね。
25章の35節からちょっと読んでいきますね。

【画面: 35節「空腹であったときに〜以降に」36節全部、40節「あなたがたが、〜したのです」に黄緑のハイライト、「わたしにしたのです」に黒のペンで囲み】

<マタイ25:35〜40>
35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

その小さな者たちの中に住んでおられるキリストにしたのです、とイエスさまは驚くばかりの言葉を発せられます。

インドのコルカタ――以前のカルカッタですね――マザーテレサの「神の愛の宣教者会」があります。
コルカタのスラム街で、死にゆく人々、誰にも大切にされずに、人間としての尊厳もなく死んでいく人々に対して、せめて最期だけでも人間らしい取り扱いをしてあげたいと、車に乗せて、「死を待つ人々の家」に連れて来ます。
そうして多くのボランティアの人々と共にお世話し、トイレに連れて行き、あるいは身体を洗ってあげ、痛いところを擦って、亡くなれば布にくるんで火葬いたします。

私(藤本牧師)の息子が大学生の時に二回、夏休みにボランティアでここに行きました。
朝6時に始まるミサに出て、ミサのテーブルにかかっている布の字がわからないと。
で、私(藤本牧師)に――息子は逐一詳しい日記を毎日取っておりまして――その日記を見せてくれました。
高津教会の講壇にも、この(講壇)布と聖餐卓に布がかかっているわけですが、その布の文字がですね――
英語でUnto Meって書いてあるんですね。
「これって一体どういう意味なの?」という質問でありました。

「ほう、そういう言葉がかけてあったのか!それはイエスさまが、ここで仰った“You did it unto Me”だよ。」
聖書を見てください。【※画面:指で聖句をなぞって説明】
40節の最後、「それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」――これが英語で“You did it unto Me”なんです。
unto Meというのは、わたしに(※ゆっくりとわ・た・しに、と強調)したことなんだ。

イエスさまは空腹の者の中に、渇いている者の中に、旅人の中にも、裸の貧しい者の中にも、病気で苦しんでいる者の中にも、牢獄で耐えている者の中にも、スラムで到底人間とは思えないような生き方をして死んでいく者の中にも、コロナで苦しむ患者さんの中にも、孤独なお年寄りの中にも、コロナの患者さんを助けようとしているお医者さんの中にも、看護師さんの中にも、また高齢者をお世話するスタッフの中にも、みんなイエスさまは住んでおられる。

ですから、私たちは今この世にあって、「肉において生きているいのち」(ガラテヤ2:20)というこの「いのち」ね、
私たちが「この世にあって生きているいのち」というのは、ま、普通私たち会話で言いますよね――「あんまり長生きはしたくないと思います(笑)。そこそこで終わりにしたいと思います(笑)」。
しかしそんなことは絶対に、自分で決められることではありませんし、もしかしたら、私たちは、90、100ぐらいまで行って周囲のお世話になるかもしれませんし、こればかりは神さまのみが決められることで、私たちは決められないですね。

時に私たちはこの世におけるいのちが、肉におけるいのちが、一体何の役に立っているのだろうかと、どんな意義があるんだろうかという風に、非常に無価値に感じることだってあるわけです。
無駄に思える。この世の矛盾で、こんな努力が何になろうと思う位、私たちは疲れます。
「でも覚えておきなさい。キリストがあなたの内にも生きておられる。
覚えておきなさい。あなたが受けた苦しみは、わたしが受けた苦しみ。
わたしはあなたの人生の重荷をことごとく背負う。
わたしはあなたの人生を通して叫ぶ――『ここにわたしがいる。ここにわたしがいる』
『これらの小さき者たちにしたことは、わたしにしたのです』
無駄なことは一つもない。
愛の行いは報われなくてもよい。なぜなら、報いるのはわたしだから」
とイエスさまは仰いますよね。

「あなたが受けた苦しみは挫折が報いられないと感じることもあるかもしれない。
でもそう感じる必要はない。わたしが同じようにその挫折を味わったのだから、わたしはあなたに報いを与えよう」
とイエスさまは仰ってくださいます。

☆一言お祈りをして終わりに致します――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、この寒い日曜日、皆さんそれぞれご家庭で、また様々な地域で守っておられるその礼拝、それが一つとなってあなたの御前に捧げられたことを感謝いたします。共に歌いました賛美、また聴きました賛美、共に告白いたしました使徒信条、共に伺いましたみことば、それらはすべてあなたが今日私たちのために用意してくださったものであります。

これから始まります一週間に、私たちは様々な試練があり、この一週間もまた肉において生きるいのちの生きづらさを様々に味わうかもしれません。でもそれは決して自分だけの辛さではなく、あなたにしっかりと届いている辛さであり、あなたがしっかりと報いてくださる辛さであることを覚えることができますように。

またそのような声を周囲から聞くならば、それはキリストの声であり、キリストの呻きであり、私たちができることであるならば、どんな小さなことでも、水一杯差し上げることでも「それはわたしに(※強く強調して)したのだ」と評価されることを覚えておくことができるように助けてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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