☆聖書箇所 ヨハネ4:15〜24 15彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 16イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 17彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。 18あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」 19彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。 20私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが。あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 21イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。 22救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 23しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。 24神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
☆説教 サマリア・ストーリー Cまことの礼拝者たちU 〜御霊と真理によって〜
皆さんおはようございます。高津教会の礼拝によくお出でくださいました(※マスクを外す戸塚伝道師)。今日は1月31日ですね。もう2021年もあっという間に1か月間過ぎて行くことでございます。一日一日神さまが守り導き助けてくださっていることを感謝しながら、この朝の礼拝のひと時を過ごしていきたいと思います。
1月31日、中学受験生にとってはこれは何か特別な日だと思います。いよいよ明日というその前の日、何かすごい緊張の中にある人もいるかもしれません。応援しています。中学受験生頑張ってください。明日神さまが一緒にいてくださいますから、どうか神さまの力と助けによって、「合格してやるんだ!」という強気で、答案用紙に臨んでいってほしいと思います。
それでは早速この朝のみことばを心に留めていきたいと思いますが、今日はサマリア・ストーリーの第四回目になります。 前回、第三回目はいつだったかって言いますと、昨年の10月18日でした。あれから3か月余りも間が空いてしまいましたけれども、 サマリアの町にいらしたイエスさまと、そこに来た一人の女性との出会いから、この物語が始まっているわけでありますが、 イエスさまとサマリアの女性との井戸端での出会いのその話の成り行きは、礼拝談義へと続くことです。
そしてその語らいの中で、イエスさまは「まことの礼拝者たちが、父を礼拝する時が来ます」と言われました。 23節に――「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます」と。 この「父を礼拝する時が来ます」という言葉、これはもう一か所―― 21節にも出て来ます――「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます」 まことの礼拝者たちとはどういう人たちかということを、イエスさまはこの箇所で二つ示しておられます。
前回のパートT――21節、「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます」というこの言葉から、 お互いの違いを乗り越えて、許し合い、許され合い、神さまの恵みに生かされていることを感謝しながら、心を一つにして共に礼拝する人たちこそまことの礼拝者です、ということを見ていきました。
今日はその続きなんです。今日はそのパートUで、まことの礼拝者たちの二つの側面を23節と24節から見ていきたいと思います。 23節には、「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます」とありますが、今日は《御霊と真理によって礼拝する人たち――これがまことの礼拝者である》ということを聖書から見ていきたいと思います。 3つの視点で共に恵みを分かち合いたいと思いますが――
1)「まことの礼拝者たち」とは「御霊によって礼拝する人たち」。
御霊による礼拝――聖霊による礼拝ですね。 この聖霊による礼拝なんですけれども、まだイエスさまがこのヨハネの福音書の第4章の時点で、イエスさまがサマリアの女性と語り合っているこの時には、聖霊にはまだこの地上には来ておられませんでした。 勿論聖霊の働きというのは、旧約聖書にも所々見られますけれども、しかしペンテコステ(※聖霊降臨日)がまだ来ていませんので、聖霊はまだこの地上には来ておられない状況。 でも聖霊が与えられることを前提として、イエスさまはここで「御霊による礼拝」というのを語っていることがわかります。
聖霊の働きによって、私たちは神さまを父と呼ぶことができる。神さまを父と呼んで礼拝することができる。 さらには聖霊によって、私たちは新しく生まれた者となり、神さまの子どもとなって父なる神さまを礼拝する恵みにあずかることができる。 そういう意味で、その聖霊によって礼拝をするということの大切さを、イエスさまはここで語られているわけです。
私たちは、このことがもう実現している時代に生かされています。 聖霊が与えられて、聖霊の臨在の中で、聖霊の導きのうちに礼拝する恵みが与えられている――これが「聖霊による礼拝」です。 この瞬間も聖霊は働いておられます。会堂にも、そしてタブレットの前のお一人お一人のところにも聖霊は働いておられる。 あるいは日常生活の中にも、まさかここにイエスさまがいらっしゃるとは思えないというような状況の中でも、そこにも聖霊が働いておられ、そしていつでもどこでもその場が礼拝の場所になる――そういう恵みが与えられる、聖霊による礼拝です。
イエスさまは仰いました。(***マタイ18: 20) 「二人でも三人でも、わたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいますよ」と。 聖霊を通して今も、イエスさまは集まっているところにいらっしゃるお方です。
コロナの影響でなかなか教会には集まれない、そういう聖日が続いていますけれども。しかし集まれなくても、たとえ一人で部屋で礼拝をタブレットの前で奉げておられる一人ひとりの上にも、イエスさまは臨在しておられる。なぜか? それは共に礼拝している人たちが、この時間、同じ時間いるからです。 場所は離れていても、集まっていることには変わりない。 集まっているところに、イエスさまが聖霊を通して臨在している。 その臨在の中で、私たちは礼拝を奉げているわけです。
私たちが意識しなくても、聖霊がこの瞬間も働いておられ、 心の中に平安、癒やし、希望、様々な気づき、喜び、ぬくもり、愛、助け、満たし、言葉では言い表すことができない恵みが、 この瞬間、一人ひとりの心の中に神さまは与えようとしておられる、聖霊を通して――「聖霊による礼拝」です。
2)「御霊と真理によって」(23節)とありますが、「真理による礼拝」です。
ここで『真理』とは一体何なのか?色々な意味が考えられると思うんです。 真理とは?一つ目は真理という言葉を『まこと』という言葉で訳しているのが、前使っていた(新改訳)第3版の聖書でした。 ●『まこと』による礼拝――この『まこと』とは一体何なんだろうか? 『まこと』とは、誠心誠意の『誠』の漢字が充てられると思うんですけれども、この場合は。 相手のために尽くそうとする、純粋な気持――これが『誠』です。 相手のために尽くそうとする純粋な気持ち、その相手とは?神さま、イエスさまですね。 イエスさまのために尽くそうとする純粋な気持ちをもって礼拝をする。
●もう一つはこの『まこと』というのは、『イエスさまご自身』を表している言葉でもあります。 ヨハネの福音書14章6節には、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とイエスさまは語られました。 「わたしは真理です」と――イエスさまが真理である――『イエスさまご自身による礼拝』
私たちが礼拝することができるのも、イエスさまの十字架のゆえです。 イエスさまの十字架のゆえに――罪赦されて、神さまと和解し、神さまの子どもとなって、聖霊を心に宿す者と変えられ――そして父なる神さまを「アバ父」と呼ばせてくださる、そのような関係に入ることができた。 それはイエスさまの十字架によるんですね。
さらにはイエスさまの復活。復活をお祝いするひと時がこの礼拝のひと時です。 旧約時代は、安息日は土曜日でした。 しかし新約時代になって、イエスさまの復活を心から賛美し、お祝いする、復活した日曜日を礼拝の時とする、ということで、 私たちはこの日曜日の聖日を、復活をお祝いする礼拝として、喜びの日として迎えているわけです。 『イエスさまご自身による礼拝』――『イエスさまの十字架・復活による礼拝』。
●そしてもう一つ3つ目に『みことばによる礼拝』です。 この『真理』というのは、『みことば』です。 ヨハネの福音書8章の45節と46節を見ますと、「わたしが真理を話している」とありますが――イエスさまが話している真理とはみことばです。
みことばによる礼拝。カトリック教会では、聖餐式のない礼拝はあり得ない。 毎週礼拝ごとに、ミサ(※最後の晩餐に由来するカトリックの聖体拝領、プロテスタントの聖餐式)が捧げられて、ミサの時が持たれ、聖餐式にあずかる(※みことばもあり)。
プロテスタントの礼拝では、説教のない、みことばが開かれない礼拝はあり得ない。 みことばが語られている。礼拝はみことばが語られ、そのみことばを神さまの言葉として信じ、語りかけをいただき、霊的な上よりの糧をいただいて、新しい一週間をスタートする。 みことば、『みことばによる礼拝』ですね――これが『真理による礼拝』です。 《御霊による礼拝、真理による礼拝――これがまことの礼拝者たちの特徴である》 イエスさまはそのことを語りたく願っておられたのではないでしょうか?
3)イエスさまのこの一連のお話の中で、サマリアの女性に対して一番伝えたかったことは一体何なのか?を考えてみました。
パートTでは「違いを超えて礼拝する、まことの礼拝者たち」 そして今回パートUでは、「御霊と真理による礼拝を奉げる、(まことの)礼拝者たち」 そのような礼拝者たちの中で、一番伝えたかったことが23節にあります。
<ヨハネ4:23後半> 23……今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
神さまは、そのようなまことの礼拝者たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるんだと。 その礼拝を奉げる人たち一人一人、私たちもそうだということです。 私たちも父なる神さまにそのような礼拝を奉げるように、求めておられるんだ。 そんなすばらしい恵みに溢れた礼拝をする時は、では一体いつだろうか? それは今だ、ということですね。「今がその時です」とあります。今がその時です。
イエスさまはサマリアの女性に対して、 「あなたもまことの礼拝者になれます。 あなたはまことの礼拝者に、今なっているでしょうか? あなたもそのような礼拝者になりませんか?」 そのように、語っているんですね。
サマリアの女性は思ったでしょうね。 イエスさまから「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われて、 触れられたくないのですぐに話題を変えて、 「サマリア人とユダヤ人の礼拝場所の違い」について話したのに、 いつの間にか「礼拝の話」になってしまって、 さらには今度は、「自分がまことの礼拝者かどうか?」を問われてしまう結果になってしまった。 そして、「その礼拝に自分も招かれている、ということに気づいた」わけですね。
しかしこの問いかけは、サマリアの女性に向けてなされただけではありません。 今この朝礼拝をしている私たち一人一人にも問われ、招かれていることです。 「私たちはまことの礼拝者になっているだろうか? 私たちはまことの礼拝者になりたいという気持ちでいるだろうか?」 というイエスさまからの問いかけです。 「違いを超えて赦し合い、赦され合い、神さまの恵みに生かされていることを感謝しながら礼拝を奉げているだろうか?」さらには、 「御霊と真理によって礼拝する者となりたい、という思いがあるだろうか?」 と、イエスさまが私たちに問いかけているのではないかと思うのです。
毎週のオンラインの礼拝、タブレットの前で、特に小さなスマホのタブレットの前で礼拝の時間を持つということは、なかなか集中力が要るのではないでしょうか? 「できるだけ説教を短くしなさい」と、藤本満先生から指導を受けました(笑)。 「オンラインで礼拝を奉げている人のために、長い説教は禁物。できるだけ無駄のない説教を目指してほしい」――ああ、そうだなぁと思います。 どんなに集中力がいるだろうか?そしてこの一年近く、その集中力を養い続けておられる方々は、これはすごいなぁと思います。 すごい力が育っておられるのではないだろうかと思います。 僅かのこの礼拝の時間。小さなタブレットの前で、一生懸命神さまのみことばを聞きながら、礼拝を奉げている。
私たちは礼拝を奉げます。恵まれるため――そうでしょう。 迎える一週間の霊の糧をいただくためです。 今週も様々なことが待っている。あのこともしなければならないし、あれはどうなるんだろうか?というような思いもあるし、あぁまたあの人と会わなければいけないとか、厄介な仕事が回って来たとか。 その一週間のスタート、この静まるひと時、神さまの前で何とかして恵みをいただいて、新しい一週間をスタートしたい。 しかしそれ以上に、私たちの神さま、私たちが信じている神さま、私たちを救ってくださったイエスさま、イエスさまが神さまであるがゆえに、神さまが神さまであるがゆえに、 そしてイエスさまがすべての人の救い主であるがゆえに、私たちは礼拝を奉げるわけです。
昨年の2020年の10月号の「天の窓」、「こんにちは!I家のニューフェイスです」という、あのIDさんご一家のあの写真。 私(戸塚伝道師)は(※声を大にして)何度も見ました。 なんといい写真だろうかと、何度も何度も、あの写真を見ました。 ママになったばっかりのNさんが、ほっとした表情で上を見上げている、「神さま、感謝します」といった表情(※語ってるご自身も幸せそうなお顔)。 そしてそのママを一生懸命見つめている、礼くんのあの小さな姿。 そしてその二人の向こうに、こちらを見上げているIDさんの(※また力を入れて)満面の喜びに満ち溢れた笑顔、何とも言えない喜びに満たされた、あの顔でこちらを見ている表情の写真。 もう(※再度大きな声で)何度も何度も見ても、ほほえましく感謝な気持ちが湧いて来て、その喜びが私たちにも伝わって来るかのようなすばらしい写真でした。
I礼くん、この「礼」という名前の由来。 名前にはご両親の切なる思いが込められている。 一人ひとりの名前、私も大切にして来ましたけれども、この「礼」という名前をどういう気持ちでつけたのか、そこに記事として出ていました。 礼義正しく誠実な人に、そういう人になってほしいというDさんとNさんの強い願い。教会を大切にする人になってほしい、というそういう意味も込められている。 しかし、一番目にその記事に出ていた名前の由来は、「礼拝を大切にする人になってほしい」と。 わが子が礼拝を大切にする人になってほしい――そういう思いで「礼」という漢字を使って名前をつけられた。 それはご両親の篤い篤い願いです。
奈良県大和高田市の愛敬(あいけい)幼稚園、ホームページご覧になりましたか? まだの方、ぜひ見てください。 もう可愛い園児の顔がもう大きく画面いっぱいに出て来る。 ブログは週三回更新されている。そして心温まる文章がついている。 もう見ているだけで癒やされます。ぜひ愛敬幼稚園のホームページ見てください。
愛敬幼稚園では毎朝10時から礼拝の時間が持たれている。 お礼拝という名前がついている。10時からお礼拝ですよ、と。 で、10時になると、ピアノが鳴って、条件反射的にみんな園児はこういう格好で(※両手を胸に交差してうつむいて見せる戸塚伝道師)目をつぶって、正座して、礼拝をするんです。 毎朝です。そして金曜日の朝は、年少、年中、年長合同で礼拝を奉げる。
週に一回、園長先生の聖書のお話がある。 園長の南場良文(なんば・よしぶみ)先生は、幸子先生のお別れ会でこの場でお話をしてくださいましたけれども、子どもたちに向かって話す南場良文園長先生のお話、私も聞いたことがあるんですけれども、ほんとに面白いし、ほんとに霊的だし、恵まれます。 しかも5分じゃないですね。20分間はお話しされるんです。 園児たちはその園長先生のお話を食い入るように見つめて、その聖書のお話を毎週楽しみにしているその時間の時を持つ。「お礼拝の時間」。
ミッションスクールで、礼拝のないミッションスクールはないでしょう。 毎日礼拝を奉げているミッションスクール。 こんなはずではなかったと、入学してから思われないように、うちでは毎日礼拝を捧げますよ、とそのことを了承した上で、保護者はお子さんをミッションスクールに預けるわけですね。 信頼して、ミッションスクールに預ける。 毎日礼拝を奉げるということの意味をご両親は理解してくださって、お子さんをミッションスクールに行かせるわけです。 生徒も最初は戸惑うでしょうね。毎日毎日礼拝がある。
玉川聖学院では、帰りにも礼拝がある。 (公立)小学校では「帰りの会」というのがあるんですけれども、日直が前に出て。 「今日よかったことは何ですか?」とか、そうやって一日を振り返る、5分ぐらいのひと時があるんですけれども、玉川聖学院ではそれが礼拝になっている。 しかも、日直のように当番が決められていて、そしてその子が自分で聖書の箇所も讃美歌も決めて、その聖書からお話までする。たった五分で。 毎日、礼拝二回ずつある。礼拝を大切にする。
私たちは毎週日曜日が来たから、「あぁ、礼拝の時間だ」と言って、何気なく礼拝を奉げてしまいがちかもしれない。 でもイエスさまは「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられます」(ヨハネ4:23)という父なる神さまの切なる願いと招きがここで語られている。 私たちはもう一度振り返って、ああ、私たちもまことの礼拝者とさせていただきたい。 礼拝を本当の意味で大切にしていきたい。 そして礼拝の恵みをじっくり味わう、そのようなまことの礼拝者として、今も父なる神さまを礼拝する者とさせていただきたいと思います。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師 イエスさま、感謝いたします。救い主イエスさまに出会い、救いの恵みにあずかり、あなたを礼拝する者とさせていただきました。神さまをほめたたえる喜びを知る者とさせていただきました。ありがとうございます。惰性ではなく、形式ではなく、私たちもまことの礼拝者とさせてください。違いを乗り越え、「御霊と真理によって礼拝する者」とさせてください。父なる神さまが求めておられるような「まことの礼拝者」として、これからも毎週あなたを礼拝し、その恵みを感謝し、しみじみ味わう者とさせてください。そしてその恵みを心にいただいて、また新しい一週間も私たち一人一人を助け、守り、導き、あなたと共に歩めますように。イエスさま、あなたのお名前によって父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。
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