☆聖書箇所 ガラテヤ3:1〜6 1ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。 2これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。 3あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。 4あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。 5あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で、力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。 6「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。
☆説教 ガラテヤ(11)霊によって始まったことを肉によって完成させる愚かさ さて、今朝はガラテヤ人への手紙の11回目になります。 (今日は)3章の1節から見ていただきました。 (※前回を振り返って)聖書を開いていただきますと――ちょっと聖書を映しますね――2章の19節にこういう風に出てまいります。 で、私たちはこれに従って、一緒に見てまいりました。
【画面:オレンジ色のハイライト:19節「神に生きるために」、20節「私が生きているの」「キリストが私のうちに生きておられるのです」「生きているいのち」 黒ペンで囲み:19節「生きる」、20節「生きている」「生きておられる」「生きている」「いのち」 黄緑色のハイライト:20節「私を愛し~信仰によるのです」】
@19節を指さして、「しかし私は、神に生きるために」と、これが頭に来るんですね。律法によって、律法に死にました。これが一番目でした。律法に死ぬということ。 A番目が、キリストと共に、問題ある私を十字架につける。これが二番目でありました。 B番目が、もはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。私のうちにキリストが生きておられるんだという意味も込めて、私自身を大事にするということ。
そしてその後に来るのが、その3つを纏めた所の今年の私たちの聖句です。 20……今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ2:20)
今日から始まります、この3章はもう一度この「律法に死ぬ」ということを、パウロは説明しています。 重なるようになりますけれども、今日はまたちょっと違う角度からお話しいたしますので、しばらく付き合っていただきたいと思います。 「律法に死ぬ」というテーマでお話をしていきます。3つのポイントで。
先ず見ていただきたいのは、3章の1節にあります―― 1ああ、愚かなガラテヤ人。(***とこう始まりますし、そして、と説明)十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。(***と、で3節に、と続けて) 3あなたがたはそんなにも愚かなのですか。……
「愚か」という言葉が1節と3節に出てまいります。 どうしてそんなに道理が分からないんだ?と。どうしてそんなに物分かりが悪いんだ?と。 訳し方は色々でありますけれども、新改訳聖書は一貫して「愚かだ」という訳になっています。
1)私たちの一体どこが愚かなのか? ガラテヤの教会の人々は割礼派の人々によって、惑わされたんです。 勿論、そこには誘導的なものの言い方があったに違いない。 しかしずっと話して来ましたように、私たちは基本的に誰もが律法的なメンタリティーの中を生きている、生きているんですね。
社会が律法主義、成果主義、出来映え主義でできている限り、私たちは信仰者になった後でも、この律法主義的なメンタリティーはついて回るんですね。 2節にパウロは、基本的にこの質問を持って来ますね。 これが非常に大事な質問なんですけれども――
【画面:緑のハイライト:1節「十字架に〜描き出されたと」2節「信仰をもって聞いたから」3節「御霊によって〜完成させるというのですか」 黄色のハイライト:2節「あなたがたが御霊を~聞いたからですか」】
2これだけは、あなたがたに聞いておきたい。(***とこう始まりますでしょう、どれほど重要かわかりますね、と説明)あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
つまり「あなたがたが洗礼を受けた時、あなたがたがキリスト者となった時に、それは律法を行ったからですか?それとも信仰をもって聞いたからですか?」という、こういう質問を一番最初に持って来るわけです。 そこから考えてみましょう。
勿論私たちが救われたのは、律法を行ったからではありません。 福音を聞いて信じたからですね。 その時私たちは、すべての行い主義、出来映え主義を脱ぎ捨て、神の御前の自分の罪深さ、無力さに心を打たれ、そして十字架を通して響いてくる神の愛、十字架で私たちのためにいのちを投げ出してくださった福音の物語を聞いた。 信仰をもって聞いたから、私たちは救いの恵みにあずかったんです。
しかししばらくしますと、信仰をもって聞くということに、そんな単純なことでいいんだろうか?という疑問は誰の頭の中にも出てまいります。 聞くだけでは不十分なんじゃないだろうか?――これは聖書を読んでみてもわかりますね。
●主の山上の説教の中で、イエスさまは仰いました。 「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」(***マタイ7:24) そうか、聞いて行うんだと。 ●マルコの福音書(***3:34〜35)では、イエスさまが周りに座ってじっと耳を傾けていた人々に仰いました。 「わたしの母。わたしの兄弟、わたしの姉妹です。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、またわたしの母なのです」という風に。 同じように、行うことの重要性を説いておられます。
ですから私たちはみことばを実行する人になるんです。それは当然のことで、ずっと話して来ましたよね? それは行動の伴わない「聞く」ということは、信仰をもって聞いたことにならない。 つまり聞くだけでは、確かに不十分ですね。 聞いたことを、知っていることを意識に下ろすということを、もうずっと話して来ましたよね。そのようにして、私たちは生きて行く。
でも福音を聞く、耳を傾ける、そこに飛び込むということの中に、私たちの救いがあるのであって、私たちの出来栄え、私たちの成果の中に、私たちの救いはないということだけは、よく知っていてほしい、とパウロは言うんですね。 (福音を)聞いて、その世界の中に生きていく時に、キリストの十字架と復活という大きな物語・キリストに始まった霊的な現実(終末的な現実)の中に、私たちは段々取り込まれて行く。 そしてキリストの十字架と復活を自分も生きるようになる。
しかし、そうした当然の信仰的な展開が、いつの間にか律法的になるという危険性はある、ということをずっと話してまいりました。 私たちはユダヤ人ではありませんから、ユダヤ教の律法を必ずしも守らないかもしれません。 でも自分で自分の小さな信仰規則を作って、その小さなことをやり遂げることに力を、全力を注ぎ出します、そこに満足を得るようになります。 信仰よりも、信仰から始まった成果、信仰から始まった実績を重んじるようになります。
パウロは、それを3節に見事に纏めて、こういう言葉にしています。 ちょっと見てくださいね。3節―― 【画面:ガラテヤ3:3、「御霊によって〜ですか」まで緑のハイライト】
3あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。
「肉によって完成する」というのは、信仰をもって聞いて、信仰で生きていたはずの自分が、いつの間にか肉を誇りとするようになっていってしまう。 信仰者としての自分の成果、自分の出来映えに心奪われるようになってしまうということです。
ガラテヤ人への手紙の学びの一番最初に、ドイツの神学者ヘルムート・ティリケーの言葉をお話しいたしました。 「悪魔は敬虔という巣の中に、自分のカッコウの卵を産み付ける」と。 敬虔なクリスチャンは、悪魔から来た所の律法主義という卵を、敬虔なあまりに一生懸命温めてかえしてしまう。
私たちが救われる時には、つまりキリストの十字架を信じてキリスト者になった時には、一旦行い主義を全部退けます。 自分の誇りもプライドも、行いと共に放棄します。ただキリストの十字架にすがって贖われます。 しかし、一旦放棄した「行い主義」がしばらくすると裏口から入って来て、そして《もう一度、出来映えで・人の評価で、自分の存在価値を計ろうとする》。 もう一度申し上げますね。《出来栄えで・人の評価で、自分の存在価値を計ろうとする》。
神さまというお方は、どこまでも私たちの信仰で、私たちの存在意義を計ってくださるお方であります。 その信仰の中には、自分自身は無価値である、ということを認めることも信仰の中に入っています。 「それはあなたがたには、できないことですが、神にはそうではありません。どんなことでも神にはできるのです」(***マタイ19:26、マルコ10:27、ルカ1:37) とイエスさまは仰いましたよね。 「それはあなたがたにはできないことです」――あ、自分にはできないことなんだなぁという認識――それが信仰の中には入っています。 でも段々自分にはできるんだ、という思いが前へ前へと出て行く傾向を、私たちは誰もが持っています。 信仰の世界もそうです。自分にはやって来た、自分にはできる、でもあの人にはできていない、あの人は無理だ、というような律法主義的なメンタリティ―が生まれて来ますと、自己満足や自己中心の思いが伴って来るという危険性がある、ということを話しました。
で、今日はそのポイントではなく、2番目に―― 2)3章では、この律法主義的なメンタリティーは、逆の方向にも作用するという。
つまり、御霊によって始まった私たちが、今、肉によって何かを完成させようとすると――いいですか? 傲慢やプライドとは違う、逆の方向の思いも自分の内側に生れて来る。 それは、もし、私たちが自分の信仰を忘れて、自分の行いを見つめていたら、当然その行いの足りなさ、また自分自身を見つめたら、信仰者としての存在価値の薄っぺらさにも心が留まるようになります。 で、また欠けを埋めようとして、躍起になっていきます。 同時に救いの喜びは、薄れていきます。 これもまた出来栄え主義なんだと。
成果や出来映えを誇ることも出来栄え主義ですよね? でも裏を返せば、自分を見つめれば見つめる程、自分の足りなさに目が行って、そして悲嘆していく。 そうしますと、出て来るのはウェスレーは「サタンの策略」と呼びましたけれども、ちょっと映しますので、私(藤本牧師)も読みますけれども、彼の説教を見てほしいと思いますね。 ウェスレーはこういう風に、ここまでですね。ここまで。【※と、その「 」の終わりの部分に手を置いて、自分が読むべき箇所を確認している様子の藤本牧師、(*** )内の説明を加えながら語り始める】
「サタンは、私たち自身の不道徳や罪深さや全く無価値なことなどを考えさせることにより、(***つまり自分がどれほど不道徳で、罪深く、無価値であるということをサタンは私たちに考えさせる。そのことによって、) 私たちの主にある喜びを衰退させようと真剣に努力します。(***自分がどれほど罪深く無価値であるということを、考えさせることによって、私たちの喜びを奪うということですね。)【画面:「喜びを」に黒ペンで囲み】
それに加えて、今よりもはるかに大きな変貌を遂げなければ、私たちは主を見ることができない、と考えさせることによっても、主にある喜びをくじこうとします。 (***ああ、イエスさまに届くためには、キリスト者としてまともになるためには、まだまだあんなに遠いのか、ということを考えさせることによって、私たちの主にある喜びを挫こうとする。)【画面:「できない」と「喜びをくじこう」に黒ペンで囲み】
……その陰険な敵は、まだ得ていないものを悪意に満ちて示し、しかもそれを得ることが絶対的に必要であることを示すことにより、 (***つまりまだ得ていないものが沢山ある。でもそれが絶対に必要である、ということを悪魔はわざわざ私たちに示してくる。その示された時に、)【※画面:「まだ得ていないものを」に黒ペンで下線】
私たちがすでに得たところのもので本来感じるべき喜びを、色あせたものとします。 (***まだ得ていないことが沢山あることを見せることによって、既に得たものを色あせたものに見せる、それがサタンの策略だ。)【画面:「私たちが既に得たところのもので」を( )、「本来感じるべき喜びを」に黒ペンで下線】
それで私たちは、与えられているもので喜ぶことができないのです。手にしていないものの方がはるかに多いという理由からです」 (***で、既に得ていることを喜ぶことができない。) ――ここまで読み終わり――
と言うのですね。これは考えさせられなければいけない。 まだきよめられていない。まだ十分ではない。まだ信仰者としてまともな生活のレベルにいっていない――ま、それはそうなのかもしれない。 でもそれを見つめれば見つめる程、既に達成して来たことに、喜びを感じなくなってしまったら、私たちは見事なまでにサタンの策略にはまってしまうんですね。 もっと勉強すれば、もっとできるようになるでしょう。もっと努力すれば、もっと活躍することになるでしょう。 でもそれを見つめる以上に、ここまで来ることができた神さまの恵みという。 ここまで――ようやくかもしれない――成し遂げることができた、神さまの助けというものに感謝することを私たちは忘れてしまうんですね。
このサタンの策略に乗っかってしまいますと、自分の足りなさを補うために、必死になって(行いに)精進します。 勿論私たちはまだ得ていない喜びを期待しますし、広い恵みの世界を求めて止みません。 でもサタンはそれを上手に利用して、未だそのレベルに達していない自分を責めろと、そういう声をサタンは私たちに投げかける、とウェスレーは言っています。
こうしてクリスチャンは、いつの間にか、神の御前を「自責の念」という十字架を背負いながら歩いて行くようになる。 「自責の念を背負う」ということは、神の御前を歩む意味では、みじめであるばかりか、《愚かだ》と――ここが大切ですね。パウロは―― 「それは道理に適っていない。 あなたがたは自責の念を背負うために十字架を信じたのではない。 自責の念から解放されるために、キリストにある自由を得るために、あなたがたは救われたということを、受け止めてほしい」(と叱るのです)。
3)だとすると、私たちは自分の存在価値をどこから得たらいいのだろうか? 人の目からではない。自分が自分を見る目ではない、と言うと、私たちは自分の価値をどこから得たらいいのだろうか? これは難しいようで簡単なんです。 なぜ簡単かと言いますと、それは私たちが洗礼を受ける時に、まさにしたことだから簡単なことなんです。 まだキリスト者として一歩も歩み出していない時に、私たちは悔い改めてイエス・キリストを信じた時に、既に私たちはその難しいことをやっているんです。 やっていたはずが、肉なる自分自身に目を向けた時に、段々それが難しくなって来る、ということを最後にお話しして終わりたいと思います。
信仰者の自己評価の拠り所は一つしかありません。それが(ガラテヤ)2章の20節で言いました、今年のみことばですね。 「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰」(※第3版で語られる) 「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰」(※2017版)
私の存在価値というのは、ここにしかない。 イエス・キリストは私を愛してくださっている。愛するがあまりに、ご自分をお捨てになった御子イエス・キリスト。 その御子イエス・キリストが、私自身をどう見ておられるか? それによって、私の存在価値は決まる、というんですね。
それが3章の1節で、ここにも出て来ますよね。ちょっと見ていただけます? 3章の1節にこうありますでしょう。 【画面:ガラテヤ3:1「十字架に〜描き出された」に緑のハイライト】
1ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。
かつて十字架につけられたイエス・キリストが目の前に描き出された。 「目の前に描き出された」というのは、ポスターのように前に掲げるという意味です。 それをいつの間にか、あなたがたは見なくなってしまったというのですね。
私たちの教会は住宅地の真ん中にありますから、狭い通りを通って前を行き過ぎる方々は、十字架を見るっていうのは実はほとんどないんですよ。 この教会にはちゃんと大きな十字架がついているんですが、この(教会の)前を歩く人には、十字架は見えないんですよ。 ですから、よくですねぇ、「あ、こんなところに教会があったんだ」って仰る方が沢山いらっしゃるんですよね。 狭い通りを歩いていると、前に、上にそびえる十字架は見えないですね。
高津区民を代表する有名人というのは、現代美術の有名な岡本太郎さんです。 岡本太郎さん、大阪の万博の時に、太陽の何とかというタワーを造りましたよね。 あの方はそこにあります大貫病院が実家なんです。生まれた所なんですよね。 ですから高津駅の改札を出た正面に高津という字が、あれは岡本太郎さんの芸術作品なんですね。 そんなことを知っている人はほとんどいないですよ(笑)。 みんなあの字を見ながら、なんて変な高津って字なんだろう!って。 私(藤本牧師)も毎回思いますもの(笑)。 でもあれは、高津区民が誇る岡本太郎さんの芸術作品なんですよね。
私たちクリスチャンは、高津教会の方々は教会にいらっしゃるでしょう。でもいらっしゃる時、駅からの方向で十字架は見えないんですよ。 改めて上を見上げない限り十字架は見えない。 私たちのキリスト者の生活で本当に十字架を仰いで生きているかと言うと、ほとんどそういうことないですね。 もっぱら自分の日常で背一杯で、自分の存在価値を自分の日常で見出そうと、私たちは躍起になってしまうんですね。 社会が下す評価が、私たちの真の評価になってしまう。 自分が自分を見る目で、自分を判断してしまう。
アリスター・マクグラス(***1953〜北アイルランド出身、聖公会執事)という英国の神学者がこんなことを言っています。
ある女性が国際的な犯罪組織に誘拐されて身代金を要求された。 ま、一般的には身代金には答えない――それは当然なんですけれども、これはたとえ話ですね。 その要求額は莫大で、捕らえられた女性は、最初の内は(その金額が)なんとか集められるだろうと信じていますけれども、 山の中を転々と引きずり回され、世界から隔絶されている内に、段々考えるようになるんですね。 「そんなお金は絶対ない。親戚中を回ってもそんなお金は絶対集まらない。諦めるしかない。」
しかし、彼女が知らない所で、友人たちは、ま、世界で訴えて、知り合いを全部回って、必要な金額が集まった。身代金が払われて、彼女は解放されます。 どういうことか?マグラスが言いたいことは、彼女の価値は、自分が自分を見る目では測ることができなかったということですね。 世界に独りしかいない、この彼女の価値を本当に見ていたのは友人だった、という話をずいぶん前の本の中で書いています。
「私なんか、この捕らわれの身で死んでも仕方がない。価値のない人間で見捨てられてもおかしくない」――自分で自分を見たら、どこまでもそうしか考えられません。 「こんなつまらない人生に、いったい何の価値があるのか?ましてや世の中は、私をどのように見ているのか?」 いやいや、キリストの十字架、神の御子イエス・キリストのいのちを見ればよくわかる。 それは、あなたが罪のために売られていた、罪に捕らわれていた、そのあなたを解放するために支払われた、贖いの代価――それがイエス・キリストだ。 世界にたった一人、あなたしかいなかったとしても、キリストはその代価を払ってでも、あなたを罪の捕らわれから解放してくださった。 それ程あなたは神の御前に価値ある存在なんだ、ということは、どんなに学んでも納得できない。
だから驚くべき愛なんですよね。(※力を込めて、しかし嬉しそうに)簡単に納得できるんでしたら、そんなに驚く必要はないですよ。 もしかしたら、その驚きを納得を得るのは、私たちがやがて死ぬ時かもしれないですね。 「ああ、こんな自分が天の御国に迎えられるんだ」と思った時に、本当の意味で、イエス・キリストの十字架のありがたさを身に沁みて感じるんだろうと思います。 でも気をつけておかなければいけないですね。 自責の念に駆られて惨めな思いに浸るということは愚かなことだと。 そもそもあなたがどんな立派な人でも、その立派さのゆえに救われるということはあり得ない。 あなたが本当の意味で「それは自分にはできないことです」と考えた時に、あなたは主の十字架にすがることができるんだ。
☆お祈りをいたしましょう。――藤本牧師 3あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。 (ガラテヤ3:3) いえいえ、神さま、絶対にそんなことはあり得ません。私たちが完成するとしたら、徹頭徹尾、キリストの十字架のゆえです。私たちが健全な意味で福音を聞いて信じたことが、やがてキリストの霊的な現実の中に取り込まれて、キリストの十字架と復活を生きる者とさせてください。 でも絶対に自分自身の存在価値を、世の評価や自分の評価に置くことではなく、どこまでもキリストの十字架という恵みの中に自分の存在価値を見い出す者とさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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