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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   2/14 戸塚伝道師:サマリア・ストーリーD自分の水がめを置いたまま ヨハネ4:25〜29
☆聖書箇所 ヨハネ4:25〜29
25女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
26イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
 27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ 彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。
28彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。
29「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」

☆説教  サマリア・ストーリーD自分の水がめを置いたまま

今日は新約聖書、ヨハネの福音書の4章から「サマリア・ストーリー」――イエスさまに出会った一人のサマリアの女性の物語――その第5回目であります。

振り返りますと、第一回目は「疲れたイエスさまの出会い」と題しまして、サマリアの井戸の側に旅に疲れてイエスさまは腰を下ろしておられた。
そこにサマリアの一人の女性が来て、イエスさまの方からその女性に声をかけられました。
私たちと同じように、疲れを覚える人間となられたイエスさまの姿を見て来ました。
そしてイエスさまと女性との出会い。出会いの不思議さ。その背後にある恵みを思い巡らして来ました。

第二回目は、「その水を私にも下さい」。
イエスさまがこの女性に与えようとしていた水は、女性の考えていたものとは違っていました。
女性が考えていたものは、一度飲めば喉が渇くことがない。水を汲みに来なくてもいい水――「そういうなんか不思議な、便利な水が欲しいから、私に下さい」とイエスさまに求めていました。
動機が何であれ、「水が欲しい」という求めがこの女性に起こった。
イエスさまはそれ以上の水を――それとはまた違う水を――この女性に用意されていたんですけれども、教会に行く動機は人それぞれで、それがイエスさまとの出会いの入り口になる。
さらに「その水を私に下さい」とイエスさまに申し出た女性に対して、イエスさまは「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と突然そういう言葉を発せられ、「女性にとって触れられたくない話題」を、とっさにその女性は話題を変えて、そして「礼拝について」に話題を持っていったわけですね。

第三回目と第四回目は「まことの礼拝者たち」と題して、今度はこの「礼拝について」共に考えてまいりました。
イエスさまの語る「まことの礼拝者」とは、二つの側面がある。
「違いを乗り越えて許し合い、許され合い、恵みを感謝する人たち」。
それと共に、「御霊と真理によって礼拝する人たち」
あなたもそのような礼拝者になりませんか?と、そのサマリアの女性はまたしても問われてしまった。

そこで、今日はその続きなんですけれども、また話題を変えるわけですね、その女性は。
それが25節です。4章の25節にこうあります。

25女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

このようにこの女性はイエスさまにお話ししました。
すると、このユダヤ人の預言者のような男性――この女性から見るとそのように映った男性は――この女性に決定的なことを語るわけですね。
ここから今日のサマリア・ストーリーの第5回目が始まります。
その《決定的な言葉とは、26節》です。

26イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

《あなたと話しているこのわたしが、キリストと呼ばれるメシアです。》
この女性は、この26節のイエスさまの言葉を聞きました。
その途端、女性に変化が起こりました。その時《サマリアの女性に現れた3つの変化》を共に見ていきたいと思います。

1)この女性は突然今まで思っても見なかったことを、思い始めた。考え始めた。

《この目の前のユダヤ人の男性は、預言者ではない。キリストと呼ばれるメシアなんだろうか?この人はそう言っている。》
今日読みませんでしたけれども、21節にこう書いてあります。

<ヨハネ4:21>
21イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。……

何だか思わせぶりな言葉を言っているわけですね、ここでイエスさまは。
《自分は思わず、「その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださる」(25節)と、今自分は言ったけれど、そういえば、一切のことを、私に関係する一切のことを、全部私にこの人は話した。『私のしたこと』を全部私に話したではないか》
そのことを(サマリアの女性は)思い出したわけですね。

その『私のしたこと』とは何か、そのシーンが17節と18節に書いてあります。
16節にイエスさまから「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われた後に――
<ヨハネ4:17〜18>
17彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
18あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」

このことを、『私のしたこと』を全部話した。
この女性は今までの自分の歩みを、振り返るようにここで導かれたのかもしれません。
この女性の心の中の様々な《思い巡らし》みたいなものを想像したいと思うんですけれども――
《私はこれまで6人の男性と出会った。5人の男性と結婚して夫婦として共に生活した。でもどれも結婚生活はうまくいかなかった。
愛を求めていた私は何度も裏切られ、5人の夫に見捨てられ、私も見切りをつけて幸せな家庭を築くことができなかった。
6人目の男性は夫ではない。これ以上傷つきたくないから単に一緒に暮らしているだけ。》

この女性は愛に飢え渇いていました――憎しみを持っていたかもしれない。心の傷を負っていたかもしれない。生きる喜びを忘れていた女性だったかもしれない。
人との関わりを避けていた孤独な女性でした――井戸に誰も汲みに来ない時間に、その時間を狙って、この女性は水を汲みにやって来る人でした。

それなのに、サマリアの女性は思いました。
≪この方は、そんな私の一切のことを、既にご存じだった。私の苦しみ、寂しさ、憎しみ、恨み、空しさ、人目を避けたい思い、一切のことをご存じで、私にこのことを知らせた。
私のことをすべてわかってくださり、丸ごと私を受け止めてくださった、咎めもせず評価もせず。
最初、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)と言われた時に、「ああ。私に対する嫌味なのかなぁ。責められるのかなぁ。叱られるのかなぁ」とそのように思っていた。
でもそれは違っていた。自分に気づきを促す取っ掛かりの第一声だったんじゃないだろうか?
何だかわからないけれど、キリスト・救い主だと言われるこの男の人と話していると、今までにない、何か癒されるような温もりを感じる。
あぁ、私は今までのことは全部受け入れられているんだ。許されているんだ。今このままの自分が愛されているんだ。》
そのことをこの女性は実感し始めました。

その愛は、これまでのすぐになくなるような恋愛感情とは別のものでした。
《ああ、私が求めていたのは、この温もりなんだ、この愛なんだ、この男の人が私に与えてくださっている無条件の愛なんだ。その愛に自分は今包まれている》
ということに気づいた瞬間、この女性の心に何かが起こりました。
それは、もしかしたら、(ヨハネ)4章15節のこの女性がイエスさまに言った求めの答えだったのかもしれません。

15彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

イエスさまは「もうあなたは愛に渇きませんよ。飲んでもすぐ渇くような水を汲みに来なくてもいいんですよ」――そのような思いだったのではないでしょうか?
その時、女性の心の奥底から、泉が湧いて来ました。生けるいのちの水が湧いて来るような、そんな経験をしていたのではないだろうかと思います。
女性は悔い改めの祈りは全然していません。
でもイエスさまが与える水を確かに飲んだのです。
イエスさまは仰いました。14節――

14しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことはありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

それはそれは確かな経験でした。
だから二つ目の変化がその結果起こりました。

2)女性は自分の水がめを置いたのです。28節――

28彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。

「自分の水がめを置いた」――この「自分の水がめ」とは、象徴的な言葉だと思うんですね。
自分の水がめ――井戸の水、イエスさまの言われたこの水、すぐ喉が渇いてしまうこの水を汲んで入れるための容器――自分の水がめ。
飲んでも飲んでも渇く水。満足できない、満たされない。
この女性は何に渇いていたのでしょうか?
喉は渇いていなかった。でも本当の愛に渇いていた。
女性はこの水を飲む人生を歩んでいました――満足できない結婚生活、何度も何度も結婚を繰り返す生活、そして6人目の男性との生活。
そんな自分の水がめをこの時置いたのです。

いつ置いたのか?26節にイエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです」と聞いて、その後に直ぐ置いたのか?
それとももうちょっと時間が経った後に置いたのか、それは分かりません。
女性の心の中から泉が湧きだしたから、居ても立っても居られないような状況。
もうこの水を汲んで溜めて置く水がめはもう要らない。
その水がめを置きました。ずっと座ったままのイエスさまの足もとに置いたのでしょう。
恐らくこの女性は、心の変化のすさまじさを実感するあまり、もうほとんど無意識の内に、その水がめを置いたんだろうと思います。

水がめの要らない人生のスタート。イエスさまの下さるいのちの水を飲んで、心から泉の湧き出る体験をしたこの女性。
生ける水は溢れて、流れて、言葉にならないような愛、喜び、平安、満足、希望のような、言葉では言い表せないようなものが、心の奥底から湧き上がって来たような、そういう経験――福音経験――をこの女性はしたのですね。
《丸ごと私を受け留め、私のしたことをすべて話したこの方、もしかしたらこの方は、私たちがひたすら待ち望んでいたキリストなのかもしれない》
女性はこのことを、もう居ても立ってもいられなくなるような状況で、《何とかして町の人にも知らせなくちゃいけない》――そういう思いに駆られて、水がめを置いたまま、水を汲みに来たことも忘れて町へ行くわけですよ。

サマリアの女性の心の変化の3つ目。
3)それは、キリストとの出会いを伝え、証しする人になりました。

サマリア・ストーリーのテーマソングとも言うべき讃美歌、(福)369番、あなたに知らせたい、今日も礼拝の最後に歌います。
まるでこの歌詞を読みますと、このサマリアの女性の証しのように見えてくる。
♪あなたに語り知らせたい 主イエスに出会ったことを 主はまことの友となって、人生を変えてくれた
(くりかえし)私の罪を赦し 親しい友となり 誰より心 配られた 私のために

28彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。
29「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」

「あなたに語り知らせたい 主イエスに出会ったことを」(福369 1節)
考えてみれば、この心の変化はあまりにも急激ですね。
いつものように水を汲みに来て、たまたまそこにいたユダヤ人の男性に声をかけられて、いのちの水のことを聞いて、突然「夫を呼んで来なさい」と言われて、礼拝談議をして、「わたしはキリストだ」と知らされて、そして心が変えられて、いのちの水が湧き出した途端、キリストとの出会いの証し人になった。

これ、弟子たちが町に買い物に行っていた時間に起きた出来事ですね?
8節に「弟子たちは町に買い物に出かけていた」とあります。そして27節「その時、弟子たちが戻って来て」とあります。
買い物ですからどんなに長くかかっても、1時間ほどでしょう。
僅か1時間ほどで、この女性の心の変化。凄まじい変化でした。
人目を、人々を避けていたこの女性が、汲んだ水がめを置いたまま町へ行き、人々に語りました。
「来て、見てください。来て、見てください。私のしたことを何から何まで話した人がいるんですよ。
もしかしたら、この人は預言者じゃなくて、もしかしたらこの人は私たちが待ち望んでいたキリスト、救い主、メシアなのかもしれません。もしかしたらそうなんでしょうか?
皆さん、どうでしょうか、ちょっと来て、見て、確かめてくださいよ。」

サマリアの女性の過去が証しのもとになった。ある意味では、罪と恥にまみれた過去が、証しのもとになった。
それを証しして堂々と町の人に証しするような、そういう人に、あっという間に変えられてしまったんです、心の中から泉が湧いてから。

進藤龍也(しんどう・たつや1970〜)さんという人がいます。この方は牧師先生です。「罪人の友、主イエス・キリスト教会」という教会の先生。
埼玉県の川口市にある教会ですけれども、その先生、元ヤクザです。
前科7犯、逮捕歴15回。その証しが本になって出版されました。もうすでに5冊以上。
自分で出したいと思ったんじゃなくて、「私の会社で出版したいんです」と言うオファーが次から次から現れて、出版したものです。
その5冊目の本に、「あなたにもある逆転人生」という本がありますが、その中に進藤先生がこんな証しを載せています。

「20歳で初めて結婚した妻とは、一度目の逮捕がきっかけで別れ、二番目の妻とは二回目の逮捕で別れ、その後復縁しましたが、三回目の逮捕でまた離婚目前になっていました。
妻に逃げられ、組からは追放された私は、「この後の人生、どうしようかな」とヤクザなりに(笑)行く末を案じていました。

同じようなことをぐるぐる考えている内に、私はある元ヤクザの牧師のことを思い出しました。鈴木啓之(***すずきひろゆき1955〜)さんというその牧師が書いた本を、私は二回目の服役中に刑務所の中で読んだことがありました。三度目の刑務所の中で行き詰っている時に、その鈴木さんのことを思い出し、藁をもつかむ思いで鈴木さんに手紙を書き、「減刑嘆願書を書いてほしい」という実に虫のいいお願いをしていました(笑)。ダメもとで書いた手紙でしたが、鈴木さんは本当に代理人を通じて減刑嘆願書を書いてくれたのです。
そこで私はお礼の意味も込めて、「聖書を読んで感想文でも送ってみるか」という気になり、離婚目前の妻に「聖書を差し入れてくれ。そしたら別れてやるから」と頼みました。

堅気になる自信もなく、ヤクザさえまともにできず(笑)、妻子にも捨てられてもう後がない状況の中で、私は聖書と向き合いました、そしてこれを全部読み切るまでの間に、もし神さまに出会えるなら、それに懸けてみようと思いました。出会えなかったら、法華経でも試してみるかななどと考えながら、聖書の一番最初のページから読み始めました。
そして聖書の66巻ある書の内、26番目の書であるエゼキエル書まで来た時、その後の人生を180度変えてしまう言葉に出会ったのです。そこにはこう書いてありました。
「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル33:11新共同訳)

この言葉を読んだ、というよりも、出くわしたと言った方がいい程の衝撃を私に与えました。本を読んだつもりが突然、神さまに襟首をつかまれて、顔と顔とを近づけて直接この言葉を言われたような感じでした。あ、大丈夫だ。やり直せるんだ。やり直そう――そう思いました。しばらくの間、その箇所から離れることができなくなり、何度も何度も読み返している内に、生まれて初めて味わう程の幸福感が押し寄せて来ました。独居房の中で、「やったぁ!やったぁ!」と万歳をしながら飛び跳ねて、看守に注意された程です。

それから私は聖書に熱中し、貪るように読み始めました。鈴木先生やその後にお世話になった先生たちに助けられながら過ごした刑務所生活は、まるで神学校への予備校のようでした。というのも、私はなんと神さまを信じた瞬間から、将来はこの神さまを伝える伝道者になりたいと、大それた決心をしていたからです。ヤクザからクリスチャンになった者がいきなり伝道者を目指すなんて、と驚かれるかもしれませんが、私にとって神さまとの出会いはそれほどインパクトの大きいものでした。まさに人生を180度変えるような出来事だったんです。(※ここまで読み終わり)

進藤先生も、神さまの愛に出会いました。イエスさまが与えるいのちの水を飲みました。そして牧師になりました。
サマリアの女性の人生も、新藤先生の人生においても、キリスト・救い主イエスさまとの出会いはこんなに大きな変化をもたらすものでした。
私たちはこれほどすごい心の変化を経験していないかもしれません。
特にキリスト者の家庭で育った方たちは、物心がついた頃から、もう神さまがいるのが当たり前、言われるままに洗礼を受けたという人ももしかしたらいるかもしれません。
いつの間にか信じていたという人がいるかもしれません。
ま、イエスさまとの出会い方は、人によって様々です。でも今こうして私たちが共に礼拝を奉げている、
共に礼拝を私たちが奉げているということは、どこかで、確かにイエスさまと出会った。だから礼拝したいという思いがあるんです。

もしかしたら、今日初めてこの礼拝に参加してくださった方々、今日がイエスさまが出会ってくださった日になるかもしれません。
イエスさまと出会ったということは、私も自分の水がめを置いたということです。
その時に水がめ人生から水がめなしの人生へと方向転換をしたんです。
水がめ人生――人目を避けて、井戸の水を汲んで、水がめに入れて飲む。飲んでまた直ぐ渇くような満たされない人生。
水がめなしの人生――それはイエスさまの下さる水を飲んで、心に泉が湧き出る、いつまでも喉が渇かない、満たされた人生。
それは決してきれいごとではない。確かに色々ある日常生活の中。でも満たされている。
神さまが共におられる。何とかなる。大丈夫――そういう思いです。

この朝私たちは礼拝に来て、一週間、様々なもしかしたら水がめを抱えて、抱えさせられて、今この礼拝の時間に置きに来た、という人がいるかもしれません。
「罪」という水がめかもしれないし、「病」や「様々な弱さ」という水がめかもしれないし、「思い煩い」という水がめかもしれないし、「恐れ」や「不安」という水がめ、自分ではどうすることもできないという様々な「葛藤」かも知れない。

様々な水がめを、私たちは今ここで置きたいと思うんですね。置いて――また担いで、また家に帰らないで(笑)――イエスさまの足元に置いて、身軽になりたいと思います。
礼拝に来て、水ガメを置いて、もう一度満たされた人生をイエスさまから与えられていることを確認して、その水がめを、自分の水がめを置いたまま、手ぶらで救い主イエスさまに出会った喜び、心のようにこんこんと湧き上がって止まないイエスさまの思いを胸に、私たちはまたサマリアの女性と共に町へ行きたいと思います。
そこは学校かも知れない。職場かも知れない。私たちを必要としている人たちの所かも知れない。
イエスさまの恵みを証しする、それぞれの場所へ、今週も私たちは遣わされて行きます。

☆お祈りいたします――戸塚伝道師
救い主イエスさま、私たちが渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。サマリアの女性が自分の水がめを置いたまま、人々に語らざるを得なくなるほどの、泉のように湧き上がる恵みの水を、永遠のいのちへの水を私に下さい。あなたのお名前で父なる神さまに祈ります。アーメン。

☆祝祷――戸塚伝道師(※右手を挙げて)
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、新しい一週間を踏み出だします私たち一人一人と共に、今も明日もとこしえまで豊かにありますように。アーメン。

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DATE: 2021.02.14 - 21:44

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