☆聖書箇所 出エジプト15:11〜18 11 【主】よ、神々のうちに、 だれがあなたのような方がいるでしょうか。 だれがあなたのように、聖であって輝き、 たたえられつつ恐れられ、 奇しいわざを行う方がいるでしょうか。 12 あなたが右の手を伸ばされると、 地は彼らを呑み込んだ。 13 あなたが贖われたこの民を、 あなたは恵みをもって導き、 御力をもって、 あなたの聖なる住まいに伴われた。 14 もろもろの民は聞いて震え、 ペリシテの住民も、もだえ苦しんだ。 15 そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、 モアブの有力者たちを震えが襲い、 カナンの住民の心はみな溶け去った。 16 恐怖と戦慄が彼らに臨み、 あなたの偉大な御腕により、 彼らは石のように黙った。 【主】よ、あなたの民が通り過ぎるまで。 あなたが買い取られた民が通り過ぎるまで。 17 あなたは彼らを導き、 あなたのゆずりの山に植えられる。 【主】よ、御住まいのために、 あなたがお造りになった場所に。 主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。 18 【主】はとこしえまでも統べ治められる。」
☆説教 あなたは恵みをもって導き 説教を、少し我が家のことから話をさせてください。 あんまり家族のことを話すのはよくないと思うんですけれども、ま、今回はお許しいただきたいと思います。
木曜日の朝に、父(藤本栄造先代牧師)が過ごしている施設から姉(戸塚祝さん)のところに連絡がありました。 「お父様が床に倒れられた」ということで、「直ぐベッドに戻しました」と。 朝5時半頃の電話で、姉が一番に行きまして、ベッドに戻された父を見守っていました。それが木曜日。 遡って月曜日、私(藤本牧師)が行きました時に、父が言うんですね。 「気がついたら床で寝ていた。あまりにも寒くて目覚めた」と。 「それって、立ち上がった時に心臓がストンと落ちて、そして本来止まってもよいはずが、寝ているうちに回復して目覚めたんだよ」(笑)という風に父に話しまして、父は、 「そうかぁ、記憶がないんだ」という風に――これが何回も続いてまいりました。 二人で、「そういう方法で天国に行けたらいいねぇ」ということで、共に話しお祈りをいたしました。
木曜日の朝、呼ばれて看守っていた姉から圭子(夫人)に連絡が入りまして、そして 「呼んでも起きない。起こそうとしても起きない」。 圭子(夫人)も言葉を選んで「昏睡状態にあるかもしれない」と。 それから施設の方から電話がかかって来まして、ま、このことはちょっと妹(大和高田教会・南場康子牧師)も私も、藤本一家はこの話で持ち切りになってしまったんですけれども、アメリカの愛香も「天に召された」ということを知らせて、大泣きしながら、この話をしたら爆笑していました。 姉には悪いんですけれども、「姉の功績を称える」という意味で(笑)ちょっとお話をさせてください。
施設から圭子に電話がありまして、「すぐに来ていただけませんでしょうか?お義姉さまは事態を受け止めることができない。呆然と椅子に座っておられる」(笑)と、そういうお電話だったんですね。 それで私たちも行きました。姉が「どうしよう。起きないんだよね。呼んでも起きない。朝ごはんも来てない。」 「じゃあ、胸に手を当てて、息をしているかどうか確認をしてみたらどうなの?亡くなっているかもしれないよ」と。すると姉が触って、 「ああ、息していない。少し温かいけど、もう冷たい」 しばらくしてお医者さんがいらっしゃいまして、死亡診断書を書いてくださいました。 姉は4時間も椅子に座って、気がつかなかった(笑)と言うんですね。 これが姉の実に大らかな所で(※楽しそうに語る藤本牧師)、この大らかさがあるから、姉はあれ程までに両親の面倒を看ることができたんだなということを実感いたしました。
施設がそう思っても――「お姉さまはお父さんの死を受け入れられない」と、そう思っても当然なんです。 この半年、いや一年半です、姉は献身的に施設に足を運び、特に母が召されてからは、父の面倒を姉が看て来ました。 あれだけ尽くして来た。それが突然のように息を引き取ったら、やっぱり受け止められなくても仕方がない、と思われたそうなんですけれども、 姉は事実をすぐ確認いたしまして、そしてすぐあっさり事実を受け止めていました。 私(藤本牧師)も妹(康子先生)も「どうして分からんかったかなぁ?」という風に、色々話しましたけれども、一生の語り草になるかなぁという風に思っています。 でも気がつかなかったというのは、別に姉を責めているわけでもなく、つまりそれほど安らかに父は眠るように天に召されていったので、それは気がつかなかった、ということなんですね。
オンラインの葬儀のことで、OさんとIさんにメールをしました。 Iさんからメールをいただき、こういう返事が返って来ました。 「安らかに眠っている間に召された感じなんですね。 目覚めたら景色が変わっていて、栄造先生が一番驚かれたことでしょう。 母もそうだったんですが――Iさんのお母さんですね(※2017年6月召天)――地上生涯を終える際、ほぼ苦しまずに済んだということが、親族にとってどれほどの慰めになるか」。 ああ、本当にそうだなぁ、という風に思いました。 で、今日は少しそのことを話させてください。
昨年12月に召された母の最期はこういう感じではありませんでした。 喉頭がんが皮膚の外側にまで現れていました。 痰の吸引があまりにも苦しい。水分を取っている限りは痰が増えていくということで、母は一日一本の点滴を断りました。 最後の聖餐と思って、圭子(夫人)と行きました時に、ま、パンは無理だろうと思いまして、ぶどうジュースにパンのかけらを浸して、母の口元に持っていきました。 そしてお祈りをしました。 終わってから圭子が、「身体中の細胞が水分を欲しているんだと思う」と。 ものすごい勢いで、母はぶどうジュースを吸い取っていたと。 ああ、そうだったなぁと思いまして、残して来た妹(康子先生)に私はすぐにメールをいたしました。 「末期の水って言うから、少し飲ませて上げたらいいよ」と。 すると、母は一気にペットボトル1本位飲んでしまいました。 そこからまた闘いが始まっていきました。 それはそれは苦しそうで、亡くなった時の身体は冬枯れの木の枝のようでありました。
私(藤本牧師)は91歳手前まで母が生きて来たことができたのですから、しかも60歳の時にくも膜下出血で生死をさまよい、その後もう30年生かされて来たのですから、もう十分だと思っていました。悲しむことは何もない。 本人が一番願っている天国に行くことができたんだからと。 自分なりに頭では十分に納得していました。
ところが数日後に、重た〜いものが心の中に沈んでいくような気がしました。 自分でもよく分かりませんでした。なぜそういう気持ちになったのか。 で、IYさんのメールを見て、はっと気がつきました。 そうか、「最後ほぼ苦しまずに済んだ」ということは、親族にとっても慰め。 逆に「苦しむ姿を目の当たりにして来た」ということは、家族にとっては重たいものなんだなぁということに、初めて実感を得て納得しました。 私はこれまで何十回と葬儀をしながら、ご遺族に残る心の痛みを、真実には理解してなかったのかもしれない、と大変反省をいたしました。
知り合いの牧師に、父の最期のことを告知しましたら、みことばをくださいました。 それが、今日開いた出エジプト記の15章の13節なんですね。 ちょっと映しますので、見ていただきたいと思います。 ほんとに善いみことば。私は何回も読んで来ましたけれども、ここまで心に響くことはありませんでした。13節――
【画面は13節全部にピンクのハイライト。14〜16節、数字の下に横に括るピンクの線。17節「あなたは彼らを導き〜あなたがお造りになった場所に」に黒インクの傍線】
13 あなたが贖われたこの民を、 あなたは恵みをもって導き、 御力をもって、 あなたの聖なる住まいに伴われた。
信仰者の人生そのものを描いています。 「あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われました。」 今日は、この聖書の箇所をちょっと一緒に見ていただきたいと思います。 3つのポイントで短く話をいたします。
この聖書の箇所というのは、聖書の中の一番最初に出て来る歌です。 つまり賛歌、賛美の歌として残っている一番初めの歌です。 イスラエルの人々に歌が与えられました。 エジプトに奴隷として捕らえられて、悲痛な叫びを上げた時に、神さまはモーセを指導者に立てて、イスラエルの人々をエジプトから脱出させます。 それが出エジプトです。
許可をしたファラオは、心を翻して、戦車と兵士を出して追いかけて来ます。 (イスラエルの人々は)なんと紅海に面した平原に追い詰められてしまいました。 前には大海原、後からは追いかけて来る戦車の勢い。 神さまはモーセに言います。 「あなたが持っている杖を海に向かって差し上げなさい」 すると、海の真ん中に乾いた道ができ上がります。 イスラエルの人々は誰一人犠牲となることなく、アラビア半島の側にたどり着き、 途端にせり上がった海の水は元に戻り、そして追いかけて来たエジプト軍は全滅いたします。 それを背景にして歌われた讃美歌ですから、「海の歌」と呼ばれています。
1)まず最初に(出エジプト15章)13節を見てください。みことばに添って説明をいたします。
●「贖われたこの民」――これはエジプトで奴隷であった状態から、神さまによって買い取られたという意味です。 買い取られて、解放され、そして神さまのものとなったという意味です。 それは、私たちにしてみれば、罪と死の奴隷であったところを、イエス・キリストの十字架によって買い取られ、神のものとされた。 しかもここには、13節見てください。「民」と書いてあります。一人ではありません。 私たちは贖われた民です。 今日高津教会の礼拝に集っておられる方々は皆贖われた民です。 私たち一人一人、キリストによって買い取られ、一つの家族、一つの民とされました。
次に聖書のみことばを見てください。【画面は13節ハイライト部分を指さしながら】 ●「あなたは恵みをもって導き」――「導く」という動詞は聖書の至る所で出て来ます。 これは旧約聖書以来、羊飼いに導かれる羊のイメージです。 羊飼いに守られながら、私たちは時に緑の牧場、憩いの水のほとり、死の陰の谷、敵を前にして、と私たちは人生を辿って行きます。 試練の中でも祝福の中でも、いつも神さまはこの言葉ですね――「恵みをもって」と。 「恵み」というのは、神さまの真実です。契約に対する真実です。 決して私たちを捨てることなく、諦めることなく、私たちを導いてくださるのが、この恵み(ヘセド)という真実を表す言葉です。
●そして最後に、「御力をもって、聖なる住まいに伴ってくださる」。 この賛美を歌ったモーセは、この「聖なる住まい」という時に、約束の地カナンを思い浮かべたはずであります。 でも私たちにしてみれば、約束された父の家を思い浮かべます。 良き羊飼いであるイエス・キリストは、私たちを父の家へと伴ってくださる。
2)さて次に、2番目として(出エジプト15章の)14節と15節を見てください。 いいですか。【画面は同じページ、14〜16節の括ってあるところ】)
14 もろもろの民は聞いて震え、 ペリシテの住民も、もだえ苦しんだ。 15 そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、 モアブの有力者たちを震えが襲い、 カナンの住民の心はみな溶け去った。 16 恐怖と戦慄が彼らに臨み、
●「ペリシテの住民」「エドムの首長」「カナンの住民」「恐怖と戦慄」という風に、ま、特に14〜15節には、固有名詞が沢山出て来ますね。 これは私たちにしてみれば、人生の様々な戦い、障害です。 それが様々な固有名詞で表現できます。例えば出産、受験、就職、心臓の手術、子育ての苦労、老後の難しさ、施設での生活、癌。 病名でありましたら数限りなく、このペリシテ、モアブ、エドム、カナンのように、数限りなく固有名詞が出てまいります。 それがみな、恐怖であり戦慄(16節)なんですね。
16節、見てください。 ●「恐怖と戦慄が彼らに臨み」とありますように、私たちの上に臨みます。 でも「あなたの偉大な御腕により、彼らは――そうした戦慄、恐怖は――石のように黙った」。 ひと言で言えば、神さまの恵みによって贖われ、これ、荒野を旅して行く民を襲う様々な出来事を表現しています。 神に贖われ、恵みによって導かれながらも、私たちは荒野を旅して行く時に、様々な固有名詞で表現されるところの試練に出会って行きます。 当然のことながら、時にそれらが私たちの上に臨む時に、私たちは不安で寝られない時もあれば、また恐れを抱いておじ惑うことがある。 これがこの世の人生です。 神さまによって贖われ、恵みによって導かれていても、体験する様々な障害です。 でも私たちはそれを抜けて行きます。
3)そして(出エジプト15章)17節、聖書を見てください。 【画面:17節「あなたは彼らを導き〜場所に」に傍線】
17 あなたは彼らを導き、 あなたのゆずりの山に植えられる。 【主】よ、御住まいのために、 あなたがお造りになった場所に。 …… 私たちは、やがて植えられるわけですね。 もちろんのことながら、モーセはカナンの地のことを考えていました。 カナンの地にやがて植えられるわけですね。 でも私たちは、やがて父の家に植えられるわけです。 ここにありますように、「ゆずりの山」とありますが、私たちが相続するように、神さまが特別に備えてくださった山です。 それは、主よ、あなたの御住まいであり、あなたがお造りになった場所に、私たちを植えてくださるという意味ですね。 私たちは教会員誰しも天国に送る度に、あるいは誰しも贖われる度に、私たちはこのことを覚えなければいけないですね。
御力によって、神は聖なる住まいに私たちを伴ってくださり、やがてそこにしっかりと植えてくださる――ということは―― そこに根を生やし、そこで成長し、そこで実をつけるようになる。 《そしてそれは天国において始まるのではなく、既に私たちは御住まいに植えられている。》 でも私たちの愛する者を天国に送る度に、この「聖なる住まい」に対する憧れを私たちは獲得し「われらの国籍は天にあり」(***ピリピ3:20)という確信を豊かに持つんですね。
戸塚先生の大好きな讃美歌。 ま、インマヌエルでは「子ども讃美歌」でありましたけれども、大好きな讃美歌 (※と言った後、突然楽しそうに一人で歌い出す藤本牧師に、自宅で視聴しながら歌詞を思い出して合わせていました)。
「♪間もなく彼方〜の 流れのそばで〜 楽しく会いましょ また友だちと〜 神さまのそば〜の きれいなきれいな川で (※お父様を思い浮かべてか、声も震え出すもしっかりと歌い続ける藤本牧師) みんなで集まる日〜の あ〜なつかしや」――ですよ。
この讃美歌を喜びとしない、慰めにしないキリスト者はいないですね。 《神さまによって贖われ》、《恵みによって導かれ》、《御力によって》この世の荒野を切り抜けて行き、やがて「聖なる御住まい」に私たちは植えられる。 その時、そのきれいなきれいな川のそばで、みんなで集まるその日を、私たちはみんな懐かしく――懐かしくっていう言葉は面白いですよね。まだ経験していないんですから。でも聖書にあります(***へブル11:13〜16)。 「私たちは天の御国を懐かしく思う」ってことは、まるで故郷に帰ったかのように、そこに行った時に、平安を見出し、喜びにあふれて、ああ帰って来たんだという実感を持つわけですね。
既に高津教会の多くの聖徒たちは天の御国に帰って、互いに天からこの地上の今日の礼拝を共に守っていることを覚えますと、 私たちは天に一人また一人帰って行く度に、心を強くして、 地上に出て来る様々な固有名詞に代表されるような試練を乗り切る力を、恵みと御力によって得ることができたら感謝であります。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、私たちはみな贖われた民です。恵みをもって導かれ、御力をもってあなたの聖なる住まいに伴われて行きます。やがての時に、ゆずりの山に植えられる者たちであります。
既に神の国に根を張っている私たちは、既に聖なる御住まいにあって、成長している者たちであります。平安に眠るように、周囲にいる者が気がつかない内に天に召されることもあれば、本当にいのちの一滴を絞り出すように苦しみながら、最後の門をくぐる者もいますでしょう。ISさんのご主人(※昨年12月1日・幸子先生と同じ日に召天)のように、このコロナ禍にあって、なかなか家族と会うこともできずに天国に召される者もいるに違いありません。
でも本人が一番驚く、天国で目覚めた時に本人が一番驚くほどの恵みが、懐かしさが、平安がその地に待っている、ということが私たちの最大の望みであるということを、また最大の慰めであるということを、絶対にこの心から奪わないで、私たちを励まし強めてくださいますようによろしくお願いいたします。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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