☆聖書箇所ガラテヤ3:6〜9 6「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。 7ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。 8聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。 9ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。
☆説教 ガラテヤ(12)信仰によって生きる私たちこそ ガラテヤ人への手紙の学びに戻りたいと思います。3章をご覧ください。 3章の今日が6節〜9節までを読んでいただきました。 もう一度ちょっとだけ読みます。
6「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。 7ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。 (飛びまして9節ですね、と藤本牧師) 9ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。
「信仰によって生きる人々こそ、私たちこそ、」と題して、ちょっと間が空きましたけれども、ぐっとガラテヤの手紙のメッセージを凝縮してみたいと思いますので、しばらく復習の時を持たせてください。
ガラテヤ人への手紙が、戦いの書簡であることは、繰り返し申し上げて来ました。 パウロは当時の割礼派と呼ばれる人々と戦ってまいりました。 割礼派の人々は十字架を単なる入り口としか考えず、そこからユダヤ教の割礼を受けて、ユダヤ教の律法を守って初めて神の民となる、ということを教えてまいりました。
これをパウロは「福音にあらざるもの」「他の福音」として糾弾いたしました。 同時にこの福音にあらざるものに、あっという間に足を取られてしまった彼らに、パウロは驚いています。
この書簡を今日私たちが学ぶ意義も、また繰り返し説明してまいりました。 割礼派ではありませんけれども、十字架を単なる入り口として、その後の信仰者生涯を、私たちの信仰者生涯としての出来映え、あるいは成果で、自分の信仰生涯を評価してしまう傾向が私たちにはあります。 注意していないと、あっという間に、私たちもまた足を取られてしまいます。
何故なら、律法主義ならぬ、出来映え主義でこの世が成り立っているからです。 それを、この出来栄え主義というものを信仰生活に当てはめて、自分で勝手に律法を作りだす傾向が私たちにはあります。 例えば礼拝全出席とか、十分の一献金とか、奉仕とか、ものすごくすばらしい祝福を自分としては律法に変えてしまうんですね。 それを満たすことに、それを満足させることに、守ることに必死になってしまって、守れない自分を非常にみじめに感じ、守っている自分を非常に誇り高く意識するというのは、紛れもなくパウロがここで戦っている所の割礼派と変わりはありません。 そして、律法から解放されたはずの私たちが自分自身で律法を作って、特に家族にあっては子どもに当てはめ、夫婦にあっては互いに当てはめ、キリスト者もまた縛られていく。それは紛れもなく、キリストにある自由を奪っていく行為だ、ということをずっと話してまいりました。
パウロはそういう傾向に対して、福音の神髄っていったい何だ、ということを語ってまいりました。 私たちが救われ、神の子どもとして生かされているのは、成績表で言えば、「よくできました」が沢山並んでいるがゆえではない。 キリストの十字架と復活を単純に信じているから、私たちは聖なる神の御前に立つことができるわけですよね? ただ単純に信じているというのは、なぜなら、それ以外に聖なる神の御前に立つ方法はないからです。・ キリストの恵みに依りすがるしかない。何年経っても、信仰生活どこまで行っても、キリストの恵みにただ単純に依りすがる以外に、聖なる神の御前に立つことはできないからです。
でも、そのようにキリストを信じている時、それはただ「福音を聞いた」ということにはとどまらない、という話をここしばらく申し上げてまいりました。 イエス・キリストに心を傾け、その上に自分の罪も自分の足りなさも愚かさも重ねていく時に、私たちは分かるようになります。 神は私を愛するがあまりに、御子イエス・キリストを遣わしてくださった。 またキリストが私を愛し、私の存在価値を限りなく尊んでおられるがために、私たちのためにいのちをお捨てになったということが分かるようになってきた。
十字架を仰ぐ時に、自分自身の罪深さという重荷をずっしりと感じます。 しかし同時に、イエスの声を聞きます。 「だれでも、疲れている人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげます。」(***マタイ11:28) イエスさまは仰いました。 「わたしがあなたの重荷を担う。 惨めで罪深く、哀れな自分という重荷を、あなたはわたしのもとに来て降ろしなさい。 これからは、あなたは輝く神の子どもだ。 わたしがあなたとともにいる。 重荷を降ろして、今日も明日も生き抜いていきなさい」と。
ある日、二人の修道士が田舎の道を歩いていました。 すると、行く先に川岸におばあさんがぼーっと立っているのが見えました。 おばあさんは、向こう岸に行かなければいけないんですけれども橋がありません。 橋があるところまではあまりにも遠い。 二人はおばあさんに助けを申し出ました。
「私たち二人がおばあさんをあちら側に連れて行って上げます。」
二人は騎馬戦のように、一人を前に、後ろの一人が肩に手をかけて、そしておばあさんをその上に乗せました。 渡り切った所で、おばあさんは「本当にありがとうございました」と、深々と頭を下げて、そして別の道に進んで行きます。
しばらく歩いていた二人、その一人が不服そうな顔で言いました。 「服がびしょびしょになっちゃった。 服が肌にくっついて歩きにくい。しかも足元は泥だらけだ。」 もう一人は、黙ってうなずいて、歩いていきます。
しばらくすると、さっきの一人がもう一度言いました。 「まったく、どうしてあんな所でおばあさんを助けることになったのか? 福は濡れて気持ち悪い。おまけに、背中が痛い。 絶対に僕らは無理をした。おばあさんは軽そうで重かった。 全く何ていうことだ。」 もう一人は黙って歩いていきます。
しばらくすると、さっきの一人がしゃがみ込んで言いました。 「最悪だ。あのおばあさんのおかげで腰まで痛くなってしまった。」
もう一人が今度は口を開いて言いました。 「あのな。ぼくと君の違いがわかるか? ぼくがどうしてぶつくさ言わないか、分かるか? ぼくは、川を渡った時点で、おばあさんを降ろして置いて来た。 でも君はまだおばあさんを背負ったままだよ。そのまんま歩いている。 もういい加減に、おばあさんを降ろしたらどうだ。」
私たちは失敗を引きずりますね。 嫌なことを、過ちを、自分の罪深さを背負う。昔のまんまに背負って行きます。 イエスさまは私たちに何時も仰いますね。 「重荷は降ろさないとダメです。十字架のもとに来て、その重たい重荷を降ろして、今日を明日を生きて、新しい人となって行きなさい。」
1)それが、今日の説教の第一番目のポイントです。
7節にも9節にも、「信仰によって生きる人々こそ」というのは、私たちのことなんですね。 それは私たちが聖なる神の御前に立つことができるのは、信仰による以外にない。 私たちの罪の身代わりとなって、それを背負って十字架に釘付けにしてくださった主イエスキリスト以外にない、というこの信仰をもって、私たちはキリストの愛に深く身を委ねている人間――それが信仰の人なんです。 だから重荷を降ろしなさい、ですね。
(ガラテヤ)2章の19節ちょっと見てください。 しばらく、この聖句を一緒に学んで来ましたよね。2章の19節の聖句を一緒に学んで来ました。 こちらですね。向きが違う?タブレットを回してみて、(※配信の方に向かって)オッケーですか?ありがとうございます。前回と同じ過ちですが、申し訳ないですね。では聖書をちょっと見てください。何度かこの聖句を見ていただきましたね。
【画面:ガラテヤ2章、オレンジ色のハイライト:19節「神に生きるために」、20節「私が生きている」「キリストが私のうちに生きておられるのです」「生きているいのちは」 黒のペンで囲み:19節「生きる」20節「生きている」「生きておられる」「生きている」」「いのち」 黄緑のハイライト:20節「私を愛し〜信仰によるのです」】
19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
@これが私が今お話しした一番目です。 「神に生きる」「信仰によって生きる人々」は私たちなんですね。 その私たちは「神に生きている」わけですから、「律法によって律法に死ぬ」ということは、 「重荷を降ろしなさい」というイエスさまの御前に来た私たちは、本当に重荷を降ろさなければいけない。 それをいつまでも担ぎながら――自分はあの時、自分はあそこで、自分はこういう人間だから――と言って、 「自分、自分に拘って先に進むことができないあなたは、本当にわたしのところに来て、人生の様々な、いや、あなた自身の様々な重荷を、わたしのもとに来て降ろしなさい」 と、イエスさまは仰いますね。
A二番目に「信仰による私たち」というのは、この「私はキリストと共に十字架につけられました」(19節)というのは、この私というのは非常に問題のある性格で周囲に迷惑をかけ、また家族にも迷惑をかけ、かけてない人間はいないと思います。 でもどこかで聖霊の導きによって、自分の問題性に気がつくなら、私たちはそれをイエス・キリストの十字架と共に――ま、昔の言葉で言うと「磔殺(たくさつ)する」って言うんですけれども――聖霊に明け渡す。
Bそれと同時に、三番目にそうなりますと、「私が生きているのではなく、キリストがわたしのうちに生きておられるのです」(20節)というのは、人生の主導権をイエス・キリストに渡す。 人生の主導権をイエス・キリストに渡すっていうのは、私たち、ごめんなさい、しているようでしてないです。そりゃ、してないですよ。 自分の力で自分のアイデアで生きて、そして言うことはせいぜい「神さま、感謝いたします。あなたが知恵を与えてくださり、あなたが守ってくださいましたから、これを成し遂げることができました」と後々感謝するだけで、人生の主導権というものを、イエス・キリストに渡している人っていうのは(笑)、私(藤本牧師)は稀だなぁと。 ま、自分自身は少なくとも稀なことだなぁと思う位(笑)、ほんとに窮地に陥って何にもできなくなった時に、ようやく「神さま、よろしくお願いします」。 それまでは自分のベストを尽くしながら頑張るというのは、これはもう人間の傾向だと思いますね。 《でもあなたの失敗と、あなたの後悔をわたしのもとに来て降ろしなさい。 同時にあなたの問題性に聖霊が気づかせてくださるなら、それをイエス・キリストと共に十字架につけなさい。 そしてどこかで聖霊に主導権を渡すということを、学んでいきなさい》――これが「信仰によって生きる私たち」「信仰の人である私たち」の姿なんですね。
「重荷を降ろす」だけではない。「信仰によって生きる」ことが私たちに求められています。
2)二番目に、今日読んでいただいたこの3章の7節と9節を見てください。
【画面:緑のハイライト:7節「信仰によって生きる人々こそ」9節「信仰によって生きる人々が」。ピンクのハイライト7節「アブラハムの子で」9節「信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。」】
7ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、……。 (※も一回、と続けて読む藤本牧師) 9ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。
当然、このアブラハムの子、あるいはアブラハムの子孫、という表現は、イスラエルの人々を指します。 旧約聖書で、イスラエルの人々こそが、アブラハムに与えられた土地・アブラハムに与えられた子孫は空の星のようになり、海の砂のようになるという、この約束を受け継ぐ人々ですね。 ところがパウロはイエス・キリストのもとにおける新しい契約においては、この古いイスラエルではない、あなたがたこそが、アブラハムの子孫だと。 「神の国を受け継ぐ特権にあずかっているのは、あの旧約聖書のイスラエルの民ではない、あなたがたなんだ」という風に言い切っていますよね。
アブラハムという人物は信仰の人でありました。 神の約束が実現する前に、神の真実だけをひたすら信じて、信仰を持って神さまの約束に「アーメン」と言った人です。 彼こそが「信仰による人」でありました。
それと同じように、「信仰による人」それはあなたがたです、とパウロは言いたいのです。 もはや、肉的な、名ばかりのイスラエルではない。 霊的なイスラエル、あなたがたこそがアブラハムの子孫、信仰による人、神の国の相続人である、ということをパウロは言いたいんですね。
ですから私(藤本牧師)は現代のイスラエル国家を、あまり高く評価しません。 20世紀になってイスラエルが建国したということが、キリスト教の誇りであるとも、私は思っていません。 勿論どこかで旧約聖書の民には、様々な試練を通りながら神の約束にあずかる、と言っているパウロのローマ人への手紙の10章11章は私も同じように信じています。 しかし、今のイスラエルの行動というのは、おおよそ神の御心から離れていると私は思っています。 時にキリスト教会さえも、神の御心から離れているのですから、ま、それは私たちは自分自身も反省しなければいけないと思いますが。 パウロが「あなたがたこそ、アブラハムの子孫です」って言った時に、私たちはアブラハムを見倣って、神の国を受け継ぐ者としての認識に立たなければいけないと思います。
三番目に簡単に大切なことを話したいと思います。 3)肉的なイスラエルは、大きな錯覚に陥ってしまいました。
その錯覚というのが、選民意識です。 自分たちこそが神に選ばれた民、特選の民だ、という選民意識が彼らの生き方を変えてしまいました。 ちょっと出エジプト記の19章を開きますね。映しますね。19章の5節です。
【※画面:出エジプト19章5節全体〜6節の「国民となる」までを黒ペンで囲み】
<出エジプト記19:5〜6> 5今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、(***そこからですね、と説明)あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 6あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』……
というこの特別な、イスラエルの民としての祝福を独占的に考えて、私たちこそが神の宝となるように選ばれた者だ、という意識に立ちました。 これが彼らのつまずきとなっていきます。 確かにイスラエルも、また私たちも、神さまによって選ばれた者たちです。 神の招きに信仰をもって応えた民です。 ところがどこかで錯覚していきます。
イスラエルは諸国と交わることを避けました。 自分たちだけが神に祝福されていると信じ、ま、どちらかと言えば、内向きな生き方、内向きな振る舞いをしてしまうわけです。
そうではないんですね。神さまがイスラエルを選び祝福されたのは、目的がありました。 その目的というのは、そもそも神さまがアブラハムに最初に現れた時に明確にされています。 創世記の12章の2節ですね。ちょっと映したのを見ていただきます?一番最初ですね。 「わたしが示す地へ行きなさい」というのは、1節の最後です。2節――
【画面:ピンクのハイライト:創世記12章2節「あなたは祝福となりなさい」3節「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」
<創世記12:2〜3> 2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、 あなたの名を大いなるものとする。 あなたは、祝福となりなさい。 3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、 あなたを呪う者をのろう。 (***というのは、わたしはどこまでもあなたの味方だという意味ですね、と説明) 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。」
これが(指で押さえて)、この一番最後が、神さまがアブラハムを選んだ目的なんです。 あなたが私の招きに応じるなら、わたしはあなたを祝福する。 でもそれには目的があって、地のすべての民族があなたによって祝福されるというのが、最終的な目的なんだと、 それをイスラエルは忘れて、自分たちだけが豊かになればそれで良しとしたわけですね。 キリスト教会も気をつけませんと、私たちが祝されればそれで良しとする。 でも神さまはそうじゃない――あなたを用いて、世界を祝福すると。 この最後の目的を忘れてしまいますと、どこまでも私たちは内向きなキリスト者になってしまいます。 信仰者の人は自分がキリストの十字架を信じているだけではない。 自分によって周囲の者たちがまた祝福にあずかることができるようにです。
ごめんなさい。私は父の召天の出来事にとどまらないために、ガラテヤ書に戻りました。 で、昨日、夜遅く、糸井さん、小奈さんには申し訳なかったんですけれど、ちょっと疲れてガラテヤ書と決めていたんですけれど。聖句を開く余裕がなかったんですね。 ようやく夜の9時に聖句を開いたら、3章の6節から9節だったんですね。 これを語るのなら、また父の話をせねばならない、ということでちょっと我慢していただきたいと思います、短いんですが。
父は、いつも一つのみことばにこだわって家族と共に生きて来ました。 それが姉の誕生の際に、蔦田二雄先生から与えられた詩篇115篇の13節―― 「【主】を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も 大いなる者も」ですね。 このみことばにものすごくこだわったんです。
文語訳ですと、「小さな者も大いなる者も、エホバを恐れる者を祝(めぐみ)たまわん」 「めぐみたまわん」という時に、漢字は祝福の祝、しかしフリガナは「めぐみ」となっている。 そこで姉の「めぐみ」というのを、祝福の漢字一字にして「めぐみ」と呼ばせるようにしてくださいという風に、蔦田二雄先生は名前をくださったわけですね。
父が非常にこだわっていたのは、この最初の「小さな者も大いなる者も」なんです。 「小さな者も大いなる者も」――それは献身して結婚して、牧師の働きを始めて一年目なんです。も〜のすごく貧しかったですね。 父はインマヌエルではない、伝道隊のホーア先生によって導かれ、イギリス人の女性の宣教師ですね、 母は美濃ミッションで信仰を持ち――つまり両方ともインマヌエルで救われた人間ではないわけです。 ですから、これから日本伝道隊の京都の天授ヶ岡(てんじゅがおか)の教会に戻るわけですけれども、 神学校は本田弘慈(ほんだ・こうじ)先生が校長であった神戸中央神学校ではない。 神学校はインマヌエルに行ってしまった。 しかもインマヌエルではないお嫁さんをもらい、全然違う京都の出身教会に戻って行った自分たちはこれからどうなるんだろうか?と不安を抱いた中、 蔦田二雄先生が「恐れることはないよ」と、「神さまさえ恐れて第一にすれば、神さまは大いなる者だけではない、神さまは小さな者も祝福してくださる」という。 この言葉に父も母も感動を覚えて、これをモットーとしたわけです。
でも、徐々に父がこの箇所と一緒に蔦田二雄先生からいただいた、もう一つのここです、ここです。(※画面:アブラハムの旅立ちの場面、創世記12章2節〜3節を指さす) ここのアブラハム的な祝福に、帰って行きました。 蔦田先生は、詩篇の115篇だけでなく、創世記の12章の2節と3節もお手紙の中で上げてくださったんですね。 それはここもまた、祝福するという時に、めぐみたもう、「めぐむ」というそのフリガナになっているわけです。 で、蔦田先生は仰いました。「神を第一とするならば、小さなあなたの家庭であっても祝福してくださる。でもそこから始まって、あなたの小さな家庭が伝道の働きに用いられ、そして神さまの栄光を現すように、愛溢れる家庭となり――別に牧師という職に就かなくてもいい――でも家族皆がそれぞれ置かれた立ち場で、主の祝福を周囲に溢れ流すことができるような存在になってほしい」
それはもちろん、高津教会の方々すべて、今日の礼拝に集っておられるお一人お一人に及ぶ願いですよね(笑)。 その願いを前に怯まざるを得ないです(笑)。 ですから私(藤本牧師)は昨日のお別れ会の挨拶で、こんな大それた願いを受け取れるか!と思いました。 ですから、「甚だ心もとない決意ですが(笑)、もし皆さんの支えと交わりと祈りがあるならば、私たち残された者もまた神の祝福の源となることができると思います」と(申し上げました。) 私たちこそがアブラハムの子孫であり、信仰の人であるというのは、まさに私たちによって今度は、神の祝福が周囲に流れ出る者となる、という意味であります。
☆お祈りをいたします。――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、私たちはみな重荷を背負って生きています。その重荷は現在の重荷であるばかり、過去の時点でああすればよかった、こうすればよかったとそれをいつまでも背負ったまま、「キリストにあって新たに造られましたという、日々新たな者である」(***Uコリント5:17)という現実を、私たちはなかなか生きることができずに、重荷を背負って不平を述べているばかりです。どうか、「律法に対して律法に死ぬ」(***ガラテヤ2:19)ように、過去の自分に死ぬことができますように。そして信仰によって生きる私たちは、ただイエス・キリストの憐れみに依りすがり、キリストの主導によって生きることを学び、なおかつ恵みを受けつつ、その恵みが自分自身から、家庭から、周囲に流れ出る者となることができるように、互いを霊的な交わりの中で生かしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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