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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/7 ガラテヤ(13)十字架は私のため  ガラテヤ3:9〜14
☆聖書箇所  ガラテヤ3:9〜14
9ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。
10律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。
11律法によって神の前に義と認められるものが、誰もいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。
12律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。
13キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
14それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

☆説教 ガラテヤ(13)十字架は私のため 
今日はガラテヤ人への手紙の3章を見ていただきました。
ちょっと画面で聖書を見ていただきたいと思います。

【画面:緑のハイライト:ガラテヤ3章7節「信仰によって生きる人々こそ」9節「信仰によって生きる人々」
ピンクのハイライト:7節「アブラハムの子である」9節「信仰の人アブラハム〜受けるのです」】

先週、この(ガラテヤ3章)6節から、格別に例えば――
7節の「ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である」、
(9節の)「ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです」
という聖句に目を留めていただきました。
説教のタイトルは「信仰によって生きる私たちこそ」というタイトルをつけました。

「信仰によって生きる」というのは、言語で文字通り「信仰の人」です。
アブラハムもまた「信仰の人・アブラハム」というのが、彼のタイトルです。
「神の人・モーセ」「信仰の人・アブラハム」と言われる位、アブラハムは信仰の人でありました。

私たちは行いの人ではありません。
私たちの人生を貫いているのは、あの信仰一本であります。
「私たちが聖なる神の御前に立つことができるのは、信仰による以外にない」
という自覚が十分にありますし、
「私たちの罪を代わりに背負ってくださり、十字架にかかり、いのちを投げ打ってくださったイエス・キリストを信じる以外にない」
と、私たちはイエス・キリストの愛に深く身を委ね、それに基づいて生きている。
それが「信仰の人」という言葉の定義だということを話しました。

そういう人こそが「アブラハムの子」であり、7節で言えば。
あるいは9節で言えば、「アブラハムとともに祝福を受ける」。
ま、神の国の相続人です。

そのように祝福を受けるのは、その祝福を自分のためにだけ用いるのでなく、私たちを通して神の祝福が周囲に流れ出ることができるように、ということをお話ししました。

今日はその続きになります。

1)(ガラテヤ3章)10節をちょっとまた画面で見てください。

【画面:ガラテヤ3:10〜11・オレンジのハイライト:10節「律法の行いによる〜あります」11節「律法によって〜明らかです」】

10節「律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。」
少し今日は、あまり私たちの生活への適応を考えないで、そのまんま聖書をそのまんま(笑)説明してみたいと思います。
「律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります」(10節)というのは、《律法による人々はみな、律法の限界に突き当たります》と理解してくださればよく分かると思います。

そもそも旧約聖書で律法を与えてくださったのは、神です。
律法によって、民を呪いに追い込むことを神さまは考えておられたのではない。
神と契約関係にある民に祝福を与えるために、
異教の風習や不道徳に呑み込まれることがないように、
律法によって神の御心を実行する者として生きることができるように、神さまは律法をお与えになったんです。

そして神さまは律法だけを与えられたのではないです。
律法を守り切ることができない人のために、律法に逆らって罪を犯してしまった時に、その罪を贖う道として、祭司によるいけにえ、そして祭りも用意してくださいました。
ですから《契約関係にある民がどのようにして御心を生きることができるか》という律法と、《それに失敗した時に、罪から贖われる祭司によるまつりごと》も神さまは用意してくださいました。

ところが、この祭司による祭りごとの方が、いけにえにまつわる儀式が、だんだんと形骸化していきます。
祭司は行政のお抱えの祭司になっていきます。
自分たちの悪行を正当化するだけの礼拝に変わっていきます。
信仰もなく形式的な祭りだけが残っていく。
そして神殿について言えば、イエスさまが後に批判されますように「強盗の巣」(***マタイ21:13)のようになっていきます。

そこであのサムエルの叫び、
「聞き従うことはいけにえにまさり、神の律法に耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」というこの預言者の叫びは、
「あなたがたは信仰もなければ、みこころに従うこともなしに、もっぱらまつりごとを行うことによって、満足している」という、神さまからの強烈な批判でありました。
【※Tサムエル15:22は以下の通り
22サムエルは言った。
  「【主】は、全焼のささげ物やいけにえを、
  【主】の御声に聞き従うことほどに
  喜ばれるだろうか。
  見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
  耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。】

こうして何度も背信行為を繰り返すイスラエルは、やがてバビロンによって滅ぼされ、神殿は焼かれ、民はバビロンに捕囚に捕られて行きます。
すると、今度は逆に反省から、律法を頑なまでに守ろうとするようになります。
勿論バビロンには、かつてエルサレムにあったような神殿もなければ、祭司という立場もありません。
みんな捕囚に捕られた奴隷ですから、代わりに律法の大切さが強調され、
そして捕囚からやがて70年後に帰って来た時に、エズラのような律法学者という役割が重んじられるようになります。

そこから400年経過しますと、今度は形骸化していったのは、形だけになっていったのは律法の方です。
そうして律法主義というものが生まれます。
最初形骸化したのは律法ではなくて、祭司・いけにえの儀式でありました。
そして捕囚の地で、一生懸命律法を守ろう、守ろうとして、律法学者が生まれていって、そして数百年しますと、この律法の方が形だけになっていきます。

ますます規則は細かくなります。
神の御心を歩んでいることを単に律法や規則を守っていることで納得し、自分にも人にもそれを求めるようになります。
心は神から遠く離れているにもかかわらず、箇条書きの規定を守って生きていれば、それで神の御前を生きているように錯覚してしまいます。これが律法主義ですね。

もう一度、(ガラテヤ3章)10節に戻っていただきたいと思うんですが、ちょっと映しますね。
10節にパウロは、申命記の言葉を引用します。ここです。(※画面:ガラテヤ3:10を指で押さえて読む)
10節後半「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と、(***申命記の27章の26節に、と付け加えて)書いてあります。
これはもう開きません。
【※申命記27:26は以下の通り
26「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。】 

「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」
パウロはあえてこの律法の厳しさを引用することによって、当時の人々に挑戦しているんですね。
「それほど律法で生きることができる、律法でやっていけると考えているのならば、その通りに努力してみたらどうだ」と。
「果たして一つ一つに至るまで、すべて完璧に守れるのか」と。
「律法に生きることで、本当に神に義とされているという確信が得られるなら、試してみたらどうだ」
という挑戦を突きつけるわけですね。

2)結論は無理だということです。
それはパウロ自身が体験いたしました。
彼は、ピリピの3章で、「自分は律法についてはパリサイ人であり、……律法による義については非難されるところがない者だ」という風に自分自身堂々と自分の過去を述べています。
【※ピリピ3:4〜6は以下の通り
4ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。
5私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、へブル人の中のへブル人、律法についてはパリサイ人、
6その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。】

しかしパウロには平安はありませんでした。なぜなら、この律法の原理のゆえですね。
それを彼が詳しく、ロマ書の7章で述べていますので、これは開いていただきたいと思うんですね。
ロマ書7章にこういう風にあります。7章の7節からちょっと読んでいきますね。ここですね。いいですか?
【※画面:ロマ書7章7節後半「律法によらなければ〜欲望を知らなかったでしょう」にオレンジのハイライト】
<ローマ7:7>
 7それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。
(***つまり、律法という基準があるから、私たちは、あ、私は貪りを感じている、私は傲慢なんだ、ということが分かる。律法があるから、私は自分の目標がいつの間にか野心となって、周囲の者に迷惑をかけているんだ、ということに気がつく。律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょうと、説明する藤本牧師)
実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。

実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と教えていなければ、私は欲望というものを悟ることはできなかったでしょう、と書いてあるわけですよね。
つまり律法が悪いんじゃないんです。律法は神の聖なる教えであって、
でもその律法というのは、私たちの内側に住んでいる罪の原理を明らかにします。
律法が「貪ってはならない」と言わなかったら、貪りというものが一体どのようなものなのか、私たちは知ることができない。

そうなりますと、律法を知れば知るほど、実行すれば実行するほど、私たちの罪が生き生きと描き出されて、そしてパウロは(ローマ)7章の10節でこう言いますね。
7章の10節で、最終的に――
【画面:ローマ7章10節全部にオレンジのハイライト】
10私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。

律法によって、私は生きるどころか、逆に死んでしまったと。
いのちに導くはずの戒めが、自分の内側にある罪を指摘するがゆえに、死に導くものであるということが分かりましたと。

その時に勿論、旧約聖書の贖いの道が開かれているわけですね。
旧約聖書の世界でも、律法の果てにあるのが動物のいけにえによる贖いです。
ところが、後にへブル人への手紙の10章の11節にあるように――これもちょっと映しますね――へブル人への手紙というのは、《いかに罪ある人間の祭司による動物のいけにえというのが、不十分なものであるか》ということを教えているんですけれども、10章の11節にこうありますね。
【画面:ヘブル10章11節全部にオレンジのハイライト】
<へブル10:11>
 11さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、

人間の祭司、しかも罪ある祭司が動物のいけにえを何度繰り返したとしても、それは罪を除き去ることができないと。
律法を真剣に追求しつつ、結果的に律法によって罪に定められている、のろいの下にある打ちひしがれている自分というものを、パウロは感じたわけです。

ガラテヤ書に戻っていただいて――
3)その自分を贖うことができるのは、キリストの十字架以外にない、(とパウロは記しています。)

ということで、3章のページを捲っていただいて、3章の13節と14節のこの言葉に行き着きます。ちょっと読んでいきますね。
【画面:ガラテヤ3:13と14をまとめて上にオレンジの横線。13節「私たちのために〜くださいました」にオレンジのハイライト】

13キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられたものはみな、のろわれている」と書いてあるからです。

「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」ですね。
私たちクリスチャンはみな、キリストの十字架を誇りにします。
十字架こそが神のいつくしみの源であると確信し、十字架を教会に掲げ、十字架を賛美し、人によっては十字架を身に着け、また心に刻みますよね。
ところがこの十字架というのは、実際のところ、ローマ帝国が作り出した極刑です。
フランスが生み出したギロチン。アメリカが生み出した電気椅子。イギリスは断頭――斧で首をはねるという方法ですね。アッシリアは穴を掘って、槍を穴の中に突き立て、その穴の中に人を放り込むというのが極刑の方法でありました。

でもローマ帝国が生み出したのはこの十字架です。
十字架にかかる者は、これから自分が磔になる重い十字に括った木を背負わされます。
そして罵声の中、エルサレムの町を引き回されます。
やがて町の外、ゴルゴタの丘へと登りつめます。
裸にされ、地に横たえられた十字に組まれた木の上に寝かされ、押さえつけられ、手足に太い釘で木に打ちつけられます。

大きなハンマーが降り降ろされた瞬間、悲鳴が丘全体にこだまします。
そして十字架が地に立てられると、自分の身体の重みで手足が裂けます。
激痛のさらし刑ですね。
そうして息が絶えるまで、時間がかかります。
聖書の記述では、「通りがかりの者がイエス・キリストを罵った」と記されています。
「おまえが救い主であるならば、自分を救って十字架から降りて来たらどうか」とののしる。(***マルコ15:29〜30)

もっとも、この「木につけられる」という刑は旧約聖書にもあります。
十字架ではありませんけれども、旧約聖書の極刑は石打ちの刑です。
それは社会共同体が、責任をもって、みんなが石を投げ打つという処刑方法です。
隠れたところで処刑するということはいたしません。特定の執行人にこの刑を、この嫌な仕事を押しつけるということもしません。
皆が一斉に石を投げた。どれかの石が致命的になるのでしょう。
だけど石を投げるのは全員であり、社会全員がその犯罪者に刑を課したという印象が残るように全員です。

でも稀にその後、見せしめのために木に吊るすということがあったようです。
これが極刑中の極刑で、(ガラテヤ3章)13節にある「木にかけられた者はみな、のろわれている」――このカギカッコの印象は、旧約聖書の申命記の21章から来ます。
ちょっと申命記の21章を開けますね。
ごめんなさい。今日は聖書だけですけれども、パウロの論法をよく理解していただきたいとよくわかっている所ですけれども、もう一回整理いたしました。
この申命記の21章の22節から、いいですか?

【画面:申命記21章の22〜23節を一括りにするオレンジ色の横線。22節「木にかける場合」23節「その死体を〜埋葬しなければならない」「神にのろわれた者だからで」「土地を汚してはならない」にオレンジの傍線】

<申命記21:22〜23>
  22ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され(***これ石打ちの刑ですね、と説明)、あなたが彼を木にかける場合、
23その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない。

残虐な刑です。しかもそれを木に掛けてさらすわけです。
でもその遺体をその日のうちに埋葬しなさい。その遺体が可哀想だからではないですよね?
そのむごたらしい処刑された者を、神の麗しい相続地に次の日に亘るまで置いておいてはいけない。埋葬してしまいなさい。
それ程、いいですか?「木にかけられる」ということはむごたらしく、また私たちが直視するに堪えないですね。
勿論言うまでもなく、「あの家の息子さんが十字架にかかった」と言われれば、もう生きている日の限り、何代にも亘って、その家もまたのろわれるべき存在として見なされるわけでしょう?

なのにもかかわらず、私たちキリスト者は十字架を慕いますよね?
いったいなぜなんだろう?
単純なまでに、十字架を首から下げ、十字架を手に握り、十字架を教会の正面に、十字架を教会のてっぺんに、どこを見ても教会は、十字架が刻まれているのが教会ですね。
それはすべて、ガラテヤ人への手紙のこの3章の13節のこの一行に尽きるわけです。
【画面:13節「私たちのために〜贖い出してくださいました」にハイライトを指で押さえて】
13キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。……

「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となった」
十字架は私たちのためです。
ギリシャ語では、「ヒュッペル」という言葉ですけれども、
これは「私たちの代わりに」という意味です。

それは、担ってくださったのは、イザヤ書53章の表現から言えば、私たちの罪を担ってくださった。
私たちの背きの罪を担ってくださった。私たちの人生のすべての負の遺産を担ってくださった。
小さな失敗も、取り返しのつかない過ちも、孤独も優柔不断さも、私たちのコンプレックスも、私たちの理解のなさも、私たちの性格的な歪みも。
私たちの身勝手な生き方も。私たちの頑固な心も。
もしそういうものを抱えていたならば、気がついたら、私たちはのろわれた世界に住んでいるんです。
神の臨在から遠く離れた、暗闇の世界に住んでいることになります。
それは木に吊るされた世界です。

でもイエス・キリストは私たちの代わりにのろわれた者となり、それらの負の遺産すべてを担ってくださり、その罪の裁きを十字架の上で受けてくださったと(パウロは言います)。
ある宗教では、イエス・キリストの十字架をイエスの生涯最大の失敗と解釈します。
しかし十字架は失敗どころではない、これこそが福音。
十字架こそが、救いを受ける私たちには神の力なんですね。(***Tコリント1:18)
ですから私たちは心から十字架を慕います。

教会福音賛美歌の118番に「丘に立てる荒削りの」(※と言って、歌い出す藤本牧師)
(※私たちも自宅で声を合わせて歌いました)
    ♪福118 丘に立てる荒削りの
1. 丘に立てる 荒削りの 十字架にかかりて
    救い主は 人のために 捨てませり命を
    (以下くりかえし)
    十字架にイエス君(きみ) われを贖(あがな)い給(たも)う
    十字架の悩みは わが罪のためなり

――1節を歌い終わって――
でしょう?そのまんまですよ(アーメン)。
十字架の苦しみ、悩みは、わが罪のために、
救い主は 人のために、私のために、捨てませりいのちを。
十字架にイエス君(きみ)、われを贖いたもう、
というのは――私たちの罪と永遠のいのちとそして2000年前の出来事と――そんなことではないですね。
今日私たちが、今抱えている悩みを、イエスは背負ってくださる。
この3月に私たちが直面しなければいけない様々な課題を、5年前の取り返しのつかない失敗も、私たちの将来に亘る悩める課題も、主はすべて担ってくださる。

ですから私たちは、十字架を仰ぎ、十字架につけられたイエス・キリストからすべての神の愛が私たちの内に注がれている(***ローマ5:5)という確信をいただき、私たちはいかなる場合もパウロと共に告白します。
パウロと共に告白します。
「いま私が、この世に生きているのは……」――今年の元旦の聖句ですね。

「いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
(※ここは、古い新改訳第二版で覚えておられるのか、第二版の言葉で語られました。)
これが「信仰による私たちこそ」「信仰によって生きる私たち」の姿であります。

(※ちなみに現在使用している新改訳2017版では――)
「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2:20)

☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、私たちのためにのろわれた者となって、十字架にかかってくださったあなたを見上げる時に、それがなんという悲惨であるのか、すなわち私たちの様々な問題がなんという問題であるのか、しかしそれをすべて代わりに担ってくださったあなたの愛の大きさを実感することができますように。何か事があれば十字架を見上げ、十字架を握りしめ、十字架を見つめ、十字架の賛美を歌い、十字架のもとで安らぐことができますようにお助けください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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