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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/6聖餐式 食卓に招かれる ルカ22:14〜23
☆聖書箇所        ルカ22:14〜23

 14さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
15イエスは言われた。「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
16あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。
17そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
18あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
19それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」
20食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
21しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。
22人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。」
23そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。

☆説教        食卓に招かれる

今朝私たちは聖餐式を行います。
カトリック教会では聖餐式は毎週ございます。イギリスの聖公会、国教会でも毎週あると思います。プロテスタントの教会で圧倒的に多いのは、月の第一の聖日は聖餐式。
私たちの教会は割と少ない方だと思います。回数が年に4回は。よく言われます。どうして年に4回なのかと。

私も納得があって、年に4回としているわけでは必ずしもありませんが、もちろん回数が少なければそれだけ価値が上がるというわけでもありません。
ウェスレーは一週間の中で、聖餐式に平均して3回から4回出席していましたので、彼は「絶えず聖餐にあずかることの恵み」という説教を残しています。
その中で、聖餐式の回数が多いとその価値が下がると誤解している人が多いと、ウェスレーは語っています。

俗的なものであれば、より多く回数を重ねることによって慣れてしまうということもあるでしょう。
でも聖なるものであれば回数を重ねるごとにその深さは増していくものだと語っています。

聖餐の恵みというのは、私たち日本の宣教地にありまして少し辛いものがあります。
それはイエス・キリストが洗礼を受けた者に定めた恵みでありまして、私たちの教会には求道中の方もたくさんいらっしゃいますので、聖餐はもし杯とパンが回ってきたら、それを受け取らずに、心の中で同じ恵みがありますようにとひたすら祈ります。
そして次回の聖餐式の時には、できるならばともに聖餐にあずかることができるように洗礼を受けてくださいとお勧めをいたします。
でも今日聖餐式であっても、礼拝にいらっしゃる、その恵みは変わりませんので、ぜひしばらく聖書のみことばを一緒に見ていただきたいと思います。

今日聖書を開いていただきましたのは、聖餐のもととなっている、最後の晩餐の記事であります。
14節に「さて、時間になって」というのは、イエスさまが弟子たちとともに(席に)着かれました過越の食事であります。
過越の食事というのは、旧約聖書に出てくるユダヤ三大祭りのひとつ、過越の祭りの一番大切な食事になります。

14さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
15イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。

最後の晩餐で、イエスさまは次の日に十字架にかかられます。
弟子たちはまだ事情がよく分かっていませんでした。でもイエスさまはあえてそれを意識して、この過越の食事に着かれました。
イエスさまご自身がこの食卓のホストでいらっしゃいました。食事を始められます。そしてこれが最後の晩餐になります。
短い記事でありますけれども、とっても奥深い意味があります。
今日はそれを簡単にお話したいと思います。

1)私たちは食卓に招かれている。

わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょにこの過越しの食事をすることをどんなに望んでいたことか(15節)――それはこれからご自身が十字架にかかり、その十字架で裂かれる肉を象徴してパンを裂き、十字架の上で流される血を象徴してぶどう酒を弟子たちの前に差し出し、ご自身を弟子たちの救いのため、ご自身のいのちを投げ出すことの象徴として、パンを裂き、また杯を渡し、この食事にあずかる者は永遠のいのちを得る、とイエスさまは聖餐を彼らの前に差し出されました。
十字架にかかられる前の晩(のことです)。

先日NHKで「終末期医療を巡って」という特集がありました。
何回かに分かれていたと思うのですが、私〈藤本牧師〉が観たのは、大阪の淀川キリスト教病院の取り組み方で、とっても興味がありました。

ホスピスの病棟ですから、緩和ケアの病棟ですから、だんだん食事も摂れなくなり、痛みどめの点滴だけでやせ細っていかれるのですね。治療もなく、やがて自分の人生の幕を引くというそういう瞬間に、淀川キリスト教病院はどういう取り組み方をしたかというと、「最後に人生を締めくくる食事をさせる」。
淀川キリスト教病院は私たちの教会では、松井姉のお父さんがその関係のお医者さんでいらっしゃいますが、クリスチャンの長老派系の病院です。

最後の食事をさせる――私が観たのは――男性ががんの末期で、食べたい食事はありますか、と看護婦さんがやって来られて一緒に話すのですね
彼が言うには、鯖寿司が食べたいと。若い頃ずっと工場勤めで、夏場の暑い日、身体がぼろぼろになり、そしてカロリーを失い、お金もあんまりない。よく帰りに鯖寿司を買って家で食べた。それがなつかしい。自分の人生で最後に食事をするとしたら、鯖寿司だ。
でも鯖寿司を食べるだけの力はない。淀川キリスト教病院は、ステロイドを大量に彼に投与するのです。点滴で。すると、やはりステロイドですから、しばらくすると、食欲が上がってくるのです。そして男性は確か鯖寿司一本を全部食べたのです。自分の人生最後の食事として、それを食べていた。

もう一つの例はすき焼きだった。実際にTVカメラが入って、その様子を全部見せてくれましたけれども、男性はほとんどすき焼きには手を付けることはなかった。
男性がなぜすき焼きを選んだかといいますとと、奥さんが(すき焼きが)好きなんです。
で最後の日に病院の一室で、食事をするのですけれども、亡くなっていく男性は奥様に何度も尋ねる。おいしい?おいしい?
奥さんは最後の晩餐ですから、ものすごくおいしいという力は残っていないですね。やがてご主人と別れなきゃいけないですから。
でも男性は自分が死んでいく最後に、あのすき焼きをおいしそうに食べる奥さんのその姿を見たかった。そしてそれを心に焼き付けて、三日の後に亡くなっていくのです。

イエス・キリストの最後の晩餐にも似たようなところがある。
イエス・キリストは次の日に十字架にかかられるという、その前の晩に、ちょうどタイミングでは過越の祭りの食事になりますけれども、その晩餐を通して、何か強烈なものを彼らに残したい。
と同時に、それを食する彼らの中に、「忘れることのできないある場面」を主が提供してくださった。

そしてまず第一に言える「忘れることのできない場面」というのは、「主が食卓を開いてくださった」ということ。
主が食卓を開いてくださったというのは、食べなさい、飲みなさいという招きですね。
イエスさまは天の御国を食卓にたとえておられます。今はルカの福音書(22章)ですが、ちょっと14章を開いて見ていただきたいと思います。
15節から少し交替で読んでいきたいと思いますが、天の御国を食卓にたとえているのですね。
ルカの福音書の14章15節から20節までちょっと交替で読んでいきましょう。

 15イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう」と言った。
16するとイエスはこう言われた。
  「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。
17宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もう  すっかり、用意ができましたから』と言わせた。
18ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうして  も見に出 かけなければなりません。すみませんが、お断りさせていただきます。』
19もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみ  ませんが、お断りさせていただきます。』
20また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』

要は神の国とはどういうものか。それは神さまが盛大な宴会を催し、大勢の人を招かれるのですね。
そして17節にありますように、宴会の時刻になり、さあおいでください。もうすっかり、全部用意万端整いましたと言ったときに、人々は次から次から断り始める。
イエス・キリストが十字架におかかりになり、「わたしを信じる者は永遠のいのちを得るのです」〈ヨハネ6:47)――全部すっかり用意ができていながら、実際はどうであったのか。次から次に断り始める。

その断っていく理由は、様々です。そして割とたわいもない理由です。――畑を買ったので、見に行く。牛を買ったので、試しに行く。結婚したので、行くことができない。
いや、そういうことは、他のいつの日にもできるではないですか。

よくいらっしゃいます。元気なうちは教会にはいきません(笑・と言われる方が)。ということは、死にそうになったら、教会にいらっしゃるのですか?って(笑)思わず聞きたいのですけれども、それはなかなか言えないですね。私の口からは。

あるいは今非常に順調なので、私は神さまを必要としていないので行かない。じゃ、順調でなくなったらいらっしゃるのですかって(聞きたいですね)。そういう時も必ず来ますけれども。
私たちは来ない人に特別な理由を尋ねることはできない。そんな人の心にずかずかと入っていくようなものの尋ね方はしません。
でも神さまが「すべて用意ができました。さぁ、盛大な宴会です」という、恵みの食卓を開いてくださったときに、割と人は断る。

21節に――(23節まで読んでいかれる)。

21しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。』
22しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
23主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。

わたしが用意したこの祝福の食卓に、どうしてもあずからせたいという思いです。
無理にでも探して来い。どんな人でもいい。もう町の大通りや路地で見つからなければ、街道や――街道っていうのは、町から離れた、遠路はるばるの街道ですね。垣根というのはよくわかりません。もしかしたら、「様々な果樹園で働いているような人でもいいから連れて来なさい」――というのは、この神の国の恵みに漏れる人が出てはいけない。
その誘いはすべての人に届かねばならない。

最後の晩餐の席上、イエスさまは招いた弟子たちを前にして、一日の疲れをいやすようにパンを裂き、取って食べなさい。そこには、神さまの思いが込められている――それは神さまは私たちを教えたい。導きたい。霊的な力を与えたい。あなたの罪を赦したい。私たちと神さまとの心を通じ合わせたい。私たちとともにいたい。私たちを神の国に招きたい。

その神さまの情熱が聖書の中にびっしり詰まっているのですが、私たちは割と簡単な理由で、ちょっと体調がすぐれないということもあるでしょうし、他に用件がある。でも用件のない日も有るのだから、どうして礼拝に来ないのかなぁと(残念に思いますね)。

この晩と同じように、親しみある眼差しで、主は今朝、私たちを招いてくださいます。
食卓にあずかりなさいというのは、罪の赦しにあずかり、霊的な力と永遠のいのちを自分のものにしなさい(と言っておられるのです)。

2)聖餐は十字架の食卓、ということをあらためて心に留めておきたいと思います。

19節、先ほどの22章に戻っていただいて、

19それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」
20食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

先ほどこれが過越の食事だと申し上げました。それは15節に記されています。過越の食事。
当時の暦からいえば、ユダヤ教の過越の祭りでありました。
過越の食事というときに、何が過越していくのかというのがこれですね。その食事を食べる時にいったい何が過越していったのか。それは、死です。

昔イスラエルの人々がエジプトで奴隷だったころ、神さまは彼らを解放しようと、モーセを遣わします。しかしエジプトのファラオ、王さまはかたくなでありました。
解放すると約束しておきながら、いつも心変わりでやっぱり止めたと全然解放しない。
そのようにして、エジプトに下った最後のさばきは死でありました。死の黒い雲は、降りて来てエジプトの町々を包んでいきます。

しかしエジプトに住んでいたイスラエルの人々の家に、もしその家のかもいに子羊の血が塗ってあれば、その上を死のさばきが通り過ぎていく、過越していくということを神さまは約束してくださいました。
それ以来、千数百年間、イスラエルの人々はひたすらこの祭りを守って来ました。

イエスさまはご自身の十字架の意味を旧約聖書の観点から、説明されました。
わたしは過越の子羊として、明日、十字架の上で血を流す。いのちを投げ打つ。
ですから、20節の「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」というのはどういうことか?

それは旧約聖書の古い契約では、子羊のいけにえによって、人の罪が赦される。
新しい契約では、イエス・キリストの十字架の血によって、私たちの罪が赦され、死のさばきが私たちの上を過越していくのです。

この食事は強烈なインパクトを持った最後の晩餐、そしてイエスさまとしてはどうしても、この食卓にともに集い、霊的な祝福を得てほしいという思いが込められた食卓であったというのが、1番目のポイントでありますけれども、同時にこれは十字架の食卓であり、イエスさまが「これを記念して、覚えてこれを行いなさい」(ルカ22:19)と仰った時に、この食卓にあずかるときに、あなたの罪は赦され、新しい契約にあずかる。死のさばきは私たちの上を過越していくということを覚えておきなさい。

岡林姉に聖餐の恵みを届けたのはもう3か月ぐらい前でした。一番最初の入院の日でした。
できたら今日、もう一回姉妹の病床に行って、そして聖餐の恵みを共に受けたいと私たちは願っております。
その時姉妹に申し上げることはひとつです。――イエス・キリストの血がすべての罪よりあなたをきよめる〈Tヨハネ1:7)。そしてこれが地上における最後の聖餐式で、次の聖餐式は天国の晩餐ですね。

私たちが死を迎える時に、必ず皆さんのケアをしてくださる牧師が病床に来て、聖餐の恵みを提供してくださいます。
その時、私たちは改めて自分の人生で数多く受けてきた、聖餐の恵みの本当に意味に多分気が付くのだろうと思います。
それはこの恵みを受ける時に、新しい契約につながっているものであって、私たちの罪は常にキリストの十字架の血潮によって洗いきよめられ、そして次受ける聖餐式は天の御国の晩餐であるということを私たちは覚えています。

3)聖餐において、覚えられる。

聖餐において、私たちにイエスさまは「覚えなさい。わたしを覚えなさい」とおっしゃいました。19節の最後に、「わたしを覚えてこれを行いなさい。」

今日の最後のポイントは、その逆もしかりです。――聖餐の卓に集う者を、主はまた覚えていてくださる。

私たちの聖餐式のテーブルは割とシンプルです。もう少し高価なテーブルを買いますと、大体彫刻が施してある。例えばそれがぶどうの木であったり、ぶどうの実であったり。
もっと複雑なものですと、最後の晩餐の風景がテーブルの前面に施してあるのです。
いつかそういうテーブルを買おうかと思いますが(笑)、そういうテーブルを買って、さぁステージを使いますので外に出すというのは、ちょっと気が引けますよね。
そういうテーブルは動かしてはいけないです。

なかなかテーブルというのは、難しくて、この前ある教会で新築になりました。
ある教会が聖餐式のテーブルを新しくプレゼントしたのです。そうしたら、受け取った教会は、それがちょっと大きく感じました。会員の方が切っちゃいました(驚・大笑)。
プレゼントした教会がとってもショックを受けました。
それは普通のテーブルじゃない。主の聖餐のテーブルなのに、切って、もう一回足をつけて、ペイントするっていう種類のことではない。
私たちももう少し自覚しないといけないと思いますが(笑)。

立派な彫刻を施された木の聖餐卓には、だいたいこのみことばが彫ってあります。
海外からそれを買う以外にないのですから、そうしますと、in remembrance of me:わたしを覚えて。
 
申し上げましたように、食卓に招かれる度に、私たちは十字架を覚えます。
十字架の上で私の罪のために、裂かれた主のからだ、流された主の血潮。
すべてが私たちの罪のために身代わりとして注ぎ出された主のいのちです。

でもそれだけじゃないんじゃないかなぁと、今年のある出来事から考えされましたので、そのことを皆さんにお分かちして終わりにしたいと思います。

森廣姉のご主人が天国に召されて、今年の4月で10年であります。
ご家族の方々や友人たちが集まって、多磨霊園で記念会がありました。
記念会の会場はご主人の納骨式と同じ会場でありまして、10年の歳月というものを、深く考えさせられました。
森廣姉のご主人が亡くなった時、上のお嬢さんは大学二年生でした、そして下のお嬢さんは高校3年生でした。
それが今は立派に成長され、社会にあって活躍している姿を見て、集まった一同はなんとも嬉しいものよと思いました。
10年間ご家族は支え合い、明日を生きていく勇気と慰めを得たのだろうと思います。
職場のテニスの仲間が、毎年、森廣さんを偲ぶテニスをしておられる、という話がありまして、記念会には、ご主人の遺影が飾られていました。

ご主人の遺影は57歳で、今の私と同じ年齢でありますので、改めて天に召されたのが早かったなぁと思います。
みんなひと言、森廣さんのご主人の思い出をひとこと語っておられました。
お嬢さんは小さい頃の思い出を。職場の仲間は職場の思い出をひとことずつ語っておられました。

みんなが、天に召された故人を思い出し、偲んでいる会だから記念会、あるいは偲ぶ会だろうと思います。
でもそこに座っておられる皆さんを見て、いつの間にか違う雰囲気を感じました。
会を包んでいるのは、集った家族や友人が森廣さんのご主人を覚えている、という以上に、もしかしたら先に天に召された彼が、家族や友人をしっかりと祈りのうちに覚えてきたから、この十年があったのかなぁと、そんな雰囲気を私は実感しました。

するとイエスさまが、「わたしを覚えて、これを行いなさい」とおっしゃったときに、それは単純に、「わたしはあなたの罪のために十字架にかかった。だからわたしの愛とわたしの犠牲を思い出しなさい」というだけでなくして、食卓に招いて下さる主は、今日の私たちに語りかけてくださる。
    
実は、もしかしたら、私たちが主のことを覚えている以上に、イエス・キリストは私たちのことを覚えていてくださり、折りにかなった助けを私たちに与えるために、今日の食卓を開いてくださる。
疲れていたら元気を出せ、心も身体も弱くなっていたら力をつけよ、様々な不安な思いが自分の生活を駆け巡っていたならば、少し安らいで、わたしのもとで憩いなさいと。
「わたしは、いつもあなたのことを覚えているんだよ」ということを、イエスさまの方でもう一度私たちの心の奥深いところに届くように、今日の食卓を招いてくださるのかなぁと考えさせられました。

☆お祈り

「わたしを覚えてこれを行いなさい」(ルカ22:19)と、私たちはあなたを覚えているつもりですが、逆にあなたに深〜く覚えられている自分自身を自覚することができますように、この聖餐式を祝福してください。
まだ洗礼を受けずに、直接このパンとぶどうジュースに触れることのできない方々は、次回の聖餐式には、それができますように心から祈っています。
またそれだけでなく、心の中でそれにあずかるときに、十字架を見上げますので、聖餐に直接あずかる者と全く同じ恵みを、その心のうちに届けてくださり、イエスさま、あなたの十字架の祝福、そして霊的な力、折りにかなった助けを、今日受けることができますように導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆聖餐式

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DATE: 2013.10.07 - 20:04
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