☆聖書箇所 ヨハネ16:29〜33 29弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。 30あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」 31イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。 32見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。 33これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」
☆説教 3・11:勇気を出しなさい 皆さん、よく来てくださいました。今日はヨハネの福音書の16章の、格別に32節と33節に心を留めていただきたいと思います。 ちょっと聖書を画面に出しますね。32節と33節です。 【画面:ヨハネ16章32節「見なさい〜一人残します。」にピンクの傍線、「散らされて」に黒ペンで囲み。33節「世にあっては苦難があります」に黒ペンで傍線。「苦難」に囲み。「しかし〜勝ちました」に青ペンで傍線。「しかし」に青線の囲み。「勇気を出しなさい」にピンク線の囲み。】
32見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。 33これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。(※最後に、と付け加えて)世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」
「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」 あまりにも含蓄の深い聖書の箇所なんですけれども、私(藤本牧師)なりにと思いまして、幾つか話してまいります。 今週皆さんは多くの映像をご覧になり、様々なことをお考えになった一つとして、今日の説教を聞いていただければと思っています。
聖書の箇所は、先に申し上げますと、十字架を前にした主イエスの教えの最後になります。 この場面の最後の言葉が、33節の「世にあっては患難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」なんですね。 【※「患難」は苦難、「勝ったのです」は勝ちました。「 」内は第三版で語られる】
そう仰ってから、主イエスは、次の17章で弟子たちのために祈られます。 ということは、33節は13章から始まります最後の晩餐、長〜い教え、その一番最後の言葉が33節です。いいですか?
簡単に3つのポイントからお話しすることによって、この言葉33節の持っている言葉の意味合いというものを少し引き出してみたいと思います。
1)この33節の「勇気を出しなさい」ということが出て来た状況はいかなるものであったのか? それは一つ前の、画面に出しますね。 【※画面:ヨハネ16章32節「見なさい〜一人残します」にピンクの傍線。「散らされて」に黒ペンで囲み】
32見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。……
という、この十字架を前にした状況が、「勇気を出しなさい」という言葉の背景にあります。 これまで弟子たちは、主にしっかりついて来た、という自覚は十分にありました。 しかし最後の晩餐で、イエスさまはユダの裏切りについて話をされます。 彼は一人外に出て行きます。 緊張が走りました。 しかも32節にありますように、弟子たちもまたイエスのもとを去って行く、散り散りバラバラにあなたがたは自分の所に帰って行く、という十字架を前にした出来事の話をされます。
こうした十字架を前にした状況を包んでいる特徴的な言葉があります。二つあります。 @「悲しみ」です。 それはこの世の患難に遭っての悲しみでしょうし、またこの世の苦難をもたらした神のご計画が分からずに体験する、私たちの内側の悲しみだと思います。 ちょっと10節をお見せしますね。 10節にこうありますね。「義についてとは」という所ですね。 【※画面:10節「あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」にピンクの傍線】
10義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
「わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなる」という。 まだ正確には分かりませんけれども、弟子たちは悲しむ理由・雰囲気というものを体験したはずです。 今までとは違った状況が生まれて来る、イエスさまの告別の言葉。そしてその場は悲しみに包まれました。
22節にこうありますよね。ちょっと開けさせてね。 【画面:ヨハネ16章22節「あなたがたも今は悲しんでいます」にピンクの傍線。23節に「その日には〜尋ねません」「わたしの名によって〜与えてくださいます」にピンクの傍線】
22あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。……
とあるように、ここにも「悲しみ」という言葉が出てまいります。 これイエスさまが、やがて十字架に直面する時の弟子たちの悲しみというものを説明されたわけですけれども、ちょっと戻って20節にも出て来ますよ。 【画面:ヨハネ16章20節「泣き、嘆き悲しむが」に黒とピンクの2重の傍線。「悲しみます」に黒の傍線】
20まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます ……
と書いてあるのは、それはこれから先、世にある困難を予告し、困難を予告されたばかりか、その時あなたがたは悲しむと。 愛する者を失い、自分自身が困窮し、あなたがたは悲しむということを、イエス・キリストは仰いました。 ですから、33節の最後の言葉、「あなたがたは世にあっては苦難があります」と仰った時には、それは多くの涙と悲しみということが付きまとって来るということですね。
もう一つの状況は、「悲しみ」だけでなくして、注目しなければいけないのは―― 【画面:ヨハネ16章32節「見なさい〜一人残します」にピンクの傍線。「散らされて」に黒ペンの囲み】 A32節にあります「あなたがたはそれぞれ散らされて……」というこの言葉です。 「散らされていく」――それがこの場面の状況なんですよ。 悲しむばかりではない。それぞれ散らされて行くというのは、まるで今週のようではありませんか? 先週、東日本大震災の状況を見ながら、この世にあっての困難を痛切に感じ、テレビの映像を見ながら悲しみを覚え、いや、悲しみばかりか患難を苦難を覚えられた私たちではないでしょうか? そして、今あるコロナの状況というのは、散り散りバラバラにさせられているようなものです。 インターネットの向こう側に200名以上の方々がおられ、そしてそれぞれが散らされて自分の所に帰っているわけです。
「礼拝をオンライン主体にしましょう」と申し上げたのは、昨年の2月の最後の日曜日、そして3月の第一の日曜日でありました。 3月の第二の日曜日、去年の今日ですね。オンラインを主体にするどころか、「全面的にオンラインにしましょう」という訴えを皆さんにいたしました。
日本の教会がクラスターを起こしたという悪い知らせは聞いていません。 でも海外にはいくらでもあります。 私たちは礼拝堂に集まっていないことを悲観してはいけない、ということをずっと共に考えて来ました。 むしろ《インターネットを通じて、いま現実に集まっている》ということを理解していただきたいと思うんです。
どうしてなのか?それが二番目のポイントです。 一番目のポイントは「勇気を出しなさい」と仰った、それを聞いた弟子たちが包まれている状況というのは「悲しみ」、それからやがて「散り散りバラバラになって行く」という、その状況の中で――これは一番目のポイントですね―― 二番目に、それを私たちに当てはめて言うならば、《インターネットを通じてあなたがたは集まることができる。》
2)なぜなら、私たちは「その日」を生きているからなんです。 「その日」というのは、(ヨハネ16章には)二回、ま、何回か出て来るんですけれども、ちょっとだけ見てみましょうよ。いいですか? 【画面:ヨハネ16章23節「その日には〜尋ねません」「わたしの名によって〜与えてくださいます」にピンクの傍線】 23節のここに出てまいりますでしょう。(※指を指して読む藤本牧師)
23その日には、あなたがたはわたしには何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。
「その日」わたしの名によって直接父に求めなさい。父なる神はあなたがたの祈りを聞いてくださいます――(という意味)ですね。
ここにもありますでしょう?(※26節を指さして読む) 【画面:ヨハネ16章26節「その日には」に水色の囲み。「あなたがたは〜求めます」に水色の傍線】 26その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。
わたしの名によって直接父に求めなさい。わたしが何もあなたの代わりになって、父なる神に求める必要がない、「その日」ってどういう日なんだろうか? それは7節(〜8節)を見ていただきますと、こういう日だということが書いてあります。 【画面:ヨハネ16章7節〜8節を読みながら説明する藤本牧師。 7節「わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします」8節「罪について〜明らかになさいます」にピンクの傍線】
7しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは(***イエスさまは去って行かれるんですよ。十字架、復活を越えて、イエスさまは弟子たちのもとを去って行くんです、でもそれは、と説明)、あなたがたの益になるのです。去っていかなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも(※去って、を加え)行けば、私はあなたがたのところに助け主を遣わします。(***これは聖霊ですね、キリストの霊、神の霊である聖霊です、と説明) 8その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
はっきりと、今まであやふやでぼやけてよく分からなかった神の存在、自分の罪深さ、神の力というものを、聖霊が私たちに諭してくださるようになるんですね。
13節見ていただきたいと思いますが、13節にこうありますね。 【画面:ヨハネ16章13節「真理の御霊が〜導いてくださいます」にピンクの傍線】 13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。
そして先程読みました23節ですね。(※画面はヨハネ16章23節。指さして説明) その日には、わたしの名によって直接求めなさいと。父は何でもあなたがたに与えてくださる。あなたがたの祈りを聞いてくださる。 (※26節を指さして)もはやわたしがあなたに変わって祈る必要はない。わたしの名によって直接あなたが父に祈りなさい、とイエスさまは仰いました。 これが《聖霊によるとりなし》です。
私たちの祈りには限界がある。私たちの先輩、仲間の信仰者にも、直接何かできるわけではない。 でも聖霊があなたの祈りをとりなして、あなたの祈りを直接に神のみもとに届けてくださる。 ここで描かれているのは、その日にやって来る、《聖霊による直接的な神さまとの関係》です。 私たちは既に、「その日」を生きています。 ペンテコステ以来、聖霊がこの世界に降って以来、直接に私たちは神さまとの関係を持っています。 人が一か所に集まるということも大切です。 特にキリスト教は教会という集まりを中心にしてまいりました。 共に賛美し、共に祈り、共に礼拝を奉げる。 今日も共に「主の祈り」を唱え、共に「使徒信条」を告白いたしました。 賛美もまた説教もみな共にしています。
でも聖霊がやって来る「その日」、私たちの「共に」ということは、もはや場所には限定されていないということですよね? 場所にも、人にも、限定されていない。 あなたの祈りはもっと直接的に神さまと繋がっているんですよと。 わたしを介して、わたしが代わりに父なる神に祈っているのではない。 あなたがわたしの名を使って祈るならば、つまり、あなたがわたしの十字架とわたしの愛と復活の力を信じて神に祈るならば、あなたの祈りは直接に神に届いているんですよ。 誰かに祈ってもらうことも大切です。 特に自分では自分のことを祈れないようなケースが多々あります。 祈りの援軍を用意しておきなさい。
しかし「その日」、聖霊が来る日に、わたしの名によって祈れば、それはわたしが父に祈っているのと同じように、あなたがたの祈りは直接に父なる神のもとに届くんですよと。
私(藤本牧師)はオンラインの礼拝がすべてだなんて、そんな愚かなことを考えているわけではないです。 でも聞いている皆さんも、よく理解しておられると思うのですね。 この場に座っていて、何か他のことで気を揉んでいるなら、《心ここにあらず》なんですよ。 私たちの礼拝の多くは、その反省を実は持っているんですね。 「この場にやって来た、今日も礼拝を守ることができた」ということで、私たちはある程度の満足を感じるのかもしれない。 でも礼拝、日頃1時間30分ですね、その間、私たちは何かと他のことを考えます。 そしていつの間にか、《心ここにあらず》という礼拝は、心だけではない、私たちの存在も、もはやここにはないわけです。 でもたとえそれが荒野の果てであれ、たとえそれが地の果てであったとしても、一人その場にあって礼拝を奉げるような事態にあっても、 心がここにある方、心がシオンへの大路に向いている方は、その礼拝ははるかにすばらしいということは、 別にオンラインの礼拝を始める前から、私たちはよく分かっていることですよね。
なぜなら、その日、つまり聖霊が来られる日を、私たちは今すでに生きていて、 その聖霊は場所を選ぶ方ではない。 聖霊は私たちの礼拝の姿勢をご覧になり、それを尊んでくださるお方ですね。
私たちは主イエスが仰ったように、「世にあっては苦難があります。」 時に悲しみに包まれ、時に一人一人散らされて礼拝を守ることもあります。 それはイエス・キリストが通られた受難であり、私たちがこの世に生きている限り体験する苦難です。 それが震災であれ、それがコロナのような大規模な感染症であれ、私自身の小さな病気であれ、個人的な様々な課題であれ、私たちは負けそうになります。 悲しみと孤独の中で、私たちは負けそうになります。
そこで3番目に、――これが最後のポイントです――イエスさまは仰いました。 3)勇気を出しなさい。
「勇敢でありなさい」「勇気を出しなさい」 気持ちが疲れて負けそうになる時に、「勇気を出しなさい」です。
さて、この最後のポイントは少し皆さん自身に当てはめて考えていただきたいと思います。 「勇敢でありなさい」という言葉は、新約聖書にあんまり出て来るわけではないです。 タルセオー(thalseo-)という言葉なんですけれども、例えばこんなところに出て来ます。 開きません。皆さんよく知っておられるから開きませんが、 <マルコの福音書の2章の9節>で―― 足の利かない中風という病に侵された人物が、友だちに床ごと抱えられて、イエスさまの所に連れて来られ、天井を壊して天井から吊り降ろされてイエスさまの所に現れますね。 するとイエスさまは仰いました。 「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は癒された」 この「しっかりしなさい」というのが、先ほど申しました「タルセオー」つまり「勇気を出しなさい」なんです。 しかもこの場合、「子よ」という言葉が入って来ますね。 彼の年齢は聖書に書いてないんですよ。彼が明らかに子どもではなかったことは確かです。 というのは、友人たちはみな大の大人でしたから、彼もそういう年齢でありましたでしょう。 でも、「子よ」と優しく呼びかけた上で、「しっかりしなさい」「勇気を出しなさい」と仰います。
これに続く<マタイの福音書の9章の22節>では―― 12年長血を患った女性がイエスさまに癒されます。 その女性にイエスさまは何と仰ったのか? この場合もそうですね、「娘よ」です。 初対面で、そしてこの女性――12年も同じ病に侵され、自分の持てる貯金をことごとく医療のために使い果たしてしまった女性は――決して若くはないと私(藤本牧師)は思っています。 でもこの女性に向かって、あたかも自分の娘であるかのように「娘よ」と言って、「しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」とイエスさまは仰いますね。 ここに出て来る「しっかりしなさい」も「タルセオー。娘よ、勇気を出しなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と。
<マタイの福音書の14章の28節>は一緒に見ましょうか。一つは。 ちょっと画面を見ていただけますでしょうか?これですね。 【画面:マタイ14章27節「しっかりしなさい〜恐れることはない」にピンクの傍線。28節「水の上を〜行かせてください」に水色の傍線。30節「主よ、助けてください」に水色の傍線。31節「イエスはすぐに手を伸ばし」に水色で囲み】
弟子たちが舟を漕いでガリラヤ湖を渡ろうとしていた。 ところが、向かい風に漕ぎあぐねて、全然前に進まない。夜中の出来事です。 イエスさまは湖の上を歩いて近づいて来られました。 でも彼らはイエスさまのことを幽霊だと思った。 その時、イエスさまが仰った言葉がこれです。 「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)と。 この「しっかりしなさい」が「勇気を出しなさい」です。 「わたしだ。恐れることはない」とイエスさまは仰いました。
病気で立場も力も失っている人に、イエスさまは「しっかりしなさい」と仰います。 そんなに大きなことではないかもしれませんけれども、自分の将来についての不安。 あるいは今置かれている自分の立場への不安。 言うなれば、卒業して新しい世界に出ていく時の不安。 「しっかりしなさい、勇気を出しなさい。わたしだ」とイエスさまは仰いますよね。
この言葉について、私(藤本牧師)は実は今週テレビの映像を見て、この言葉から皆さんにお話ししようと思いました。 水曜日だったと思うんですけれども、今週はずっと震災の特集がありましたね。 10年経った今、改めて随分沢山の津波の状況を、皆さんテレビ画面でご覧になったのではないでしょうか? しばらく前まで、あまり津波の映像は出さないようにしていたんだと思います。 被災された方々がショックを受けるから、なるべく映像としては津波のシーンは出さない期間がありましたよね。 でも10年経ちますと、沢山の津波の映像を観ることになりました。
もう一つ映像を見ながら、10年という区切りで非常に象徴的だなぁと思ったのは、 10年を経過した子どもたちの今でありました。 で、色んな子どもたちが出てまいりました。 私(藤本牧師)が観たのは、ほんの一つの例でありますので、これ普遍的に考えることはできませんけれども、こういうケースでした。
震災の時に9歳であった男の子が、津波で両親を亡くし、弟と残され、そしてお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが育てるようになります。 何となく年齢が、私の孫と重なりましたので、夫婦で惹き込まれるように観てしまいました。 つるんとしたハンサムな感じの顔立ちの男の子で、でも表情がないんですね。 震災まもなくの映像には表情がない。 震災後も普通に生活はしているんですけれども、映像に残っているものは何を尋ねても、何を話しかけても、表情も言葉も出ない彼でありました。 やがて中学に入って、勉強が遅れがちになり、そして何をしても気力が出ない。
そこで彼は塾に行くようになります。 塾の先生がインタビューに出ておられました。 塾の先生は彼を一目見て、これはまずいと思ったと。 先生の表現では、目が定まらないと。目の焦点がどこを向いているのか分からないと。 これは二人の親を9歳にして津波で亡くしてしまったわけですから、この悲劇に耐えられる方がおかしいです。 表情を失くして当然ですね。 その涙も苦しみも全部自分の中にしまい込んで、そして無表情になってしまった。
でも先生は、この時思ったんですね。このままではいけない。 このままではこの子の将来のためにならない。 先生は勇気を出して、この子に現実を受け止めて生きるように、何度も話したそうです。 「君がどんなに悲しんでも、お父さんお母さんは帰って来ないよ。 弟は君を頼りにしている。 そして君の周りには、お祖父ちゃんお祖母ちゃんが温かく手を差し伸べて、君を励ましている。 きみは過去の出来事を受け止めて、そして前を向いて生きて行くんだ」と。 それはそれは見事でありました。 彼は塾の先生の仰ったことをきちんと受け止めて、変わって行きます。 塾の先生が仰ったのは、「ある日を境に、彼の眼つきが変わった」と。
やがて中学を卒業し、高校を卒業し、卒業式の後、今は行っていない塾の先生に真っ先に卒業の報告に行って、感謝をしていました。 その頃の最近のインタビューが出ていました。 「振り返ってみると、最初の二年、三年は泣いてばかりだった。 何をしても力が出なかった。 でも先生のおかげで、ぼくは現実を受け留め、前を向くことができた。」
私(藤本牧師)はね、その映像を観ながら、イエスさまと弟子たちのこの場面を思い出したんです。 つまり、もしかしたらこの場にいる弟子たちの目は虚ろだったのではないかと。 何しろこれからエルサレムに行って、皆と一緒に神の国を打ち立てるという勢いがあった中、イエスさまを一人が裏切る。 あなたがたは散り散りバラバラになって行く、わたしはあなたがたのもとを去って行くという時に、その悲しみ、先の悲しみをもイエスさまは予告されるわけですよね。 「悲しみ」という言葉の連続、あるいは「去って行く」という言葉の連続、「散り散りバラバラになって行く」という言葉の連続の中で、 彼らの目はもはや焦点を絞ることはできなかったんだろうと思います。 あなたがたはそれぞれ力を失っていきます。 あなたがたの目は焦点が定まらないと思います。 でもわたしはこれから起こることをあなたに話しました。
で、私たちに対しては、「もう既に起っているのです」とイエスさまは今朝語りかけてくださる。 聖霊はあなたがたのすぐ側に、あなたがたの内に、あなたの助け主として、聖霊はおられます。 「しっかりしなさい」「勇気を出しなさい」 「あなたはわたしについて来ます。 勝利者であるわたしに、あなたはついて来ます。 虚ろな目をしないで、しっかりしなさい。 あなたは十字架を越えて復活し、勝利の凱旋の行進をわたしと共に生きている、ということを忘れてはいけない。」 イエスさまのこの強い言葉を受けて、私たちは正気に戻るんですね。 つまりその日を生きる者として、「その日を生きている」「聖霊という助け主」と共に生きている者として、私たちは勇気を得る。 祈りは「どうぞキリストの霊である聖霊さま、あなたがすぐ側におられることを実感させてください。そして、私たちの目に、私たちの心に力を与えてください」ということだろうと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 33……あなたがたは、世にあって患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。 (※第三版、ヨハネ16章33節後半) 恵み深い天の父なる神さま、様々なことが移り変わる中、時に耐えられない程の大きな苦悩、悲しみを味わう中、私たちはどこまでもそれを乗り越えて生きる力が、神によって与えられるということに希望を持つことができますように。決してずぶずぶと不安や、また恐れの中に沈んでいくのではなく、ふっと気がつき、希望を持って生きる力があなたから与えられていることに心することができますように助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
※お詫び 途中動画が途切れてしまったので(夕方、修正のビデオがもう一つアップされましたが)この後の部分は少しですが、視聴できませんでしたことをお詫びします。
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