☆聖書箇所 ヨハネ4:27〜38 27そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。 28彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。 29「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」 30そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。 31その間、弟子たちはイエスに、「先生、食事をしてください」と勧めていた。 32ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」 33そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」 34イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。 35あなたがたは、『まだ四カ月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。 36すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。 37ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。 38わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」
☆説教 サマリア・ストーリーE 知らなかった食べ物 皆さん、おはようございます。会堂にいらっしゃる方々以上にオンラインを通して、多くの方々と共に礼拝をすることができる恵み、本当に心から感謝をしたいと思うんですね。 それと共に、今私たちには見えませんけれども、(※目線を上に見上げながら語る戸塚伝道師)天においてもう盛大な礼拝が繰り広げられていることを――想像することだにそれは無理なのかもしれませんけれども――少なくとも想像させていただきながら、「あ、私たちはこんなすごい群れと共に、イエスさまを礼拝する時間を今持っているんだ」、そんな意識をもって、このひと時を過ごすことができたら、どんなにすばらしいかと思うんですね。 今日も、なおもそのことを覚えながら、味わいながら、礼拝の時を過ごしていきたいと思います。
お読みいただきましたヨハネの福音書4章27節〜38節。 今日はここからサマリア・ストーリーの第6回目。 特に今日は32節のお言葉を見ていただきたいと思うんですけれども――
32ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」
とありますが、ここから、「知らなかった食べ物」と題して、今日のみことばを丁寧に読んでいきたいと思います。 そしてそこから恵みを共にお分かちしたいと思います。 3つの視点からみことばを読んでいきたいと思いますが、一つ目は――
1)弟子たちの視点 私(戸塚伝道師)は今までこのヨハネの福音書第4章を読む時に、弟子たちの視点に立って読んでなかったなぁと思うんですね。 サマリアの女性、そしてイエスさまとの出会いが中心となっていますけれども、今日は先ず最初にこの弟子たちの視点に立って、読んでみたいと思います。
この弟子たちというのは十二弟子かどうかは分かりません。 4章の2節を見ますと、「バプテスマを授けていたのは、イエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが」とあります。 この弟子たち、十二弟子とは書いていません。とにかくイエスさまに従ってイエスさまと共に行動していた人たちです。
ここでこの4章を見ますと、弟子たちのイエスさまに対する戸惑いが読み取れます。 弟子たちの感じたと思われる3つの戸惑い―― @先ず一つ目が、サマリアを通りたくなかったのに、そこを行くことになってしまった。なんでだろう?という戸惑いです。4章の3節4節を見ます。 <ヨハネ4:3〜4> 3ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。(***これイエスさまですね、と説明) 4しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
この「行かなければならなかった」というこの言葉の表現の中に、なぜサマリアの町を通らなければいけないのだろうか? 「歴史的な事情で、ユダヤとサマリアとの仲が良くない」ということは以前にもお話しいたしましたけれども、わざわざそのサマリアの町を通らなければならない。 挙句の果てに疲れ、空腹を味わい、喉が渇いてしまう。 そして井戸の傍らでぐったりしてしまわなければならない。 恐らく井戸のある所は辺鄙な所だったと思うんですよね。 8節を見ますと、「弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた」とありますが、町という言葉から、この井戸のある所は辺鄙な所だったと思います。
A二つ目の戸惑い、それは27節を読みますとこう書いてあります。 <ヨハネ4:27> 27そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。
弟子たちが食物を買って戻って来ますと、イエスさまは女の人と話しておられる。 別に驚くことでもないんでしょうけれども、当時女性の地位はかなり低い状態で、公の場で女性の人と、特に見知らぬ女性の人とお話しするということは、きわめて異例の出来事だったと言われています。 しかも、サマリアの女の人とイエスさまがお話しされている。 「弟子たちは見て驚いた」とありますが、本当に驚くべきことだったのでしょう。 当時ではあり得ないことだったのでしょう。 でも尋ねる弟子たちは誰もいなかった、と聖書に書かれています。
B三つ目の戸惑いが、31節です。 <ヨハネ4:31> 31その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。
イエスさまに買って来た食事を食べていただきたかったという思いで、弟子たちは勧めるわけですね。 でも、ねぎらいのひと言もありません、イエスさまから。 食べようともされないで、突然32節――
32ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」
弟子たちにしてみれば、自分たちも空腹を抱えながら町へわざわざ行って、折角食べ物をイエスさまのために買って来たのに、なんだろうか? なんでこんな反応をイエスさまはされるんだろうか? しかも33節、それに追い打ちをかけるように――
33そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」
こういう弟子たちの詮索が始まるわけです。 え〜?自分たちはイエスさまのために、町に買い物に出かけたのに、もう既に誰かが食べ物をイエスさまに渡してしまったのではないだろうか?いったい誰だろうか? もしかしたら、イエスさまと話しているこの女の人が既にイエスさまに食べ物をあげてしまったのではないだろうか? 弟子たちのイエスさまに対する不満――なんだかこうスッキリしない思い――これが弟子たちの視点から読み取る、ヨハネの福音書第4章の冒頭です。 ある意味では、ま、当然な感情なのかもしれませんね。
そのような思いを抱える一方で、二つ目の視点です。 2)イエスさまの視点 32節から書かれているわけですね。 <ヨハネ4:32> 32ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」
あなたがたが知らない食べ物。弟子たちには分からない食べ物。 もうそれでもう、わたしはお腹いっぱいなんです。もう大満足なんです。 もうこの食べ物を食べて、もう嬉しいんです。34節を見ますと―― <ヨハネ4:34> 34イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。
「わたしの食べ物」っていったい何だろうか?謎めいた表現をイエスさまはされます。 サマリアの女性に対しても、「わたしが与える水を飲む者は……」(***ヨハネ4:14)と、「わたしが与える水」という言葉で表現する《イエスさまの救いの恵み》ですけれども、でもイエスさまはそれを水にたとえて表現されました。 ここでも、「わたしの食べ物」「あなたがたの知らないわたしの食べ物」で、わたしはもうお腹がいっぱい。 「その食べ物」とは、ここでイエスさまは二つ述べられています。 @わたしを遣わされた方のみこころを行い、 Aそのわざを成し遂げること
@わたしを遣わされた方、天の父なる神さまのみこころを行うことが、「わたしの食べ物」なんだ。 この「みこころ」というのは、様々なことが考えられると思うんですけれども、 この文脈から読み取りますと、天の父なる神さまのみこころを行うというのは、そのみこころとは《救いの恵み》ではないかと思うんです。 人々がイエスさまを救い主、キリストと信じること――それが天の父なる神さまのみこころ。救い主イエスさまと出会うこと――それが「みこころ」。 「それ(みこころ)を行う」というのは、イエスさまを信じるように語り、導くこと。そのような働きをすること。 さらにその結果、沢山の方々が救いの恵みにあずかるようになること――それがわたしを遣わされた方、天の父なる神さまのみこころを行うことである――そう思うんですね。
A二つ目の「わたしの食べ物」とは、「そのわざを成し遂げること」とあります。 そのわざというのは、その《救いの恵みのわざ》ですけれども、イエスさまが「救いの恵みのわざを成し遂げる」とはどういうことか? それは、《すべての人が救いの恵みにあずかる道を完成させること》です。 この時点ではまだ成し遂げられていませんでした。 でも、これからイエスさまが向かう、その成し遂げるわざのプロセス、それは4つありました。 T)一つ目は十字架です。来週から受難週に入りますけれども、十字架。 このイエスさまの食べ物は、イエスさまにとって美味しい食べ物ではなかった。 避け難い杯に変わっていきました。
U)二つ目が復活です。4月4日イースターを迎えますが、死に対する勝利という救いの道すじ。 私たちもやがて復活し、驚くべき希望、それが待っている。いや、もうすでに始まっている。
V)三つ目が聖霊降臨・イエスさまが約束されたペンテコステ(今年は5月23日)の恵みです。 イエスさまが去った後も、聖霊を通していつもイエスさまと一緒、もう一人の助け主。 さらにそのことを通して、教会が誕生するという救いの道すじが備えられていました。
W)最後の救いの道すじは再臨ですね。天と地のすべてが新しくなる――神さまの国の到来です。 私たちはその国で、復活のからだで新しい生活が始まる――それはまだ私たちには実現していません。
でも、天の父なる神のみこころである「わたしの食べ物」、それを成し遂げるということは、このような救いの道すじを自分を通して成し遂げて行く――それがわたしが食べる食べ物なんだ。 このようにイエスさまは34節で弟子たちに語られているわけですけれども、当然弟子たちにはイエスさまの語られたことが何のことかわかりませんでした。 だから「あなたがたの知らない食べ物」――そのようにイエスさまが言われるのも無理はなかったのでしょう。
でも弟子たちには、「その食べ物」以外に知らないことがいっぱいありました。 スカルの井戸の側で疲れて休んでいたイエスさまの所に、サマリアの女性が水を汲みに来たことも知りませんでした。 弟子たちは、イエスさまとサマリアの女性との間にどんなやり取りがあったのか、買い物に出かけていて、それも知りませんでした。 またサマリアの女性がイエスさまを「キリストかも知れない」と気づいて、心を動かされたことも知りませんでした。 そして、サマリアの女性が自分の水がめを置いたまま、サマリアの町の人々に何をしに行ったのかも、弟子たちには分かりませんでした。
そのようなイエスさまと弟子たちとの関係だったんですけれども、さらに謎めいたわけの分からぬ言葉をイエスさまは発するわけです。それが35節です。
35あなたがたは、「まだ四か月あって、それから刈り入れだ」と言ってはいませんか。……
私たちには、確かに謎めいたことかも知れない。 でも弟子たちには、謎めいていなかったのではないかと私(戸塚伝道師)は思うんですね。 弟子たちはスカルの町へ食べ物を買いに行く、その道の途中で、サマリアの麦畑を眺めていたかも知れません。 そして、色々こう麦畑を見ながら、語り合ったと思うんですね。 「ああ、まだ穂が青いなぁ。今はまだ刈り入れの時期じゃないからねぇ」 「う〜ん、まだその時期までは、4か月位先にならないとだめかもねぇ。それから刈り入れだな」 なんて、語り合っていたと思うんです。 そしてイエスさまは、そのことを充分ご存じで、それでイエスさまは、35節―― 「あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか?」 と、そのように言葉を投げかけたのではないかと思いました。
35……しかし、あなたがたに言います(***ここからは弟子たちにとって謎めいていますね、と説明)。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
「え〜!あのサマリアの麦畑、まだ穂が青いまんまだったのに、刈り入れるばかりになっている?いったい何のことなんだろうか?」 分かりませんでした。でもイエスさまは仰いました。 「あなたがたに言います。色づいて、刈り入れるばかりになっています。 ほら、目を上げてご覧。畑を見てご覧。 四カ月待たなくたっていい。今、刈り入れるばかりになっているよ。 そら、今だよ。今だよ、ほら見てご覧。これがわたしの言いたかった《わたしの食べ物》だったんだよ」
井戸の傍らで、喉の渇きを忘れ、空腹も忘れたイエスさま、にんまりと彼方をしっかりと見据えておられました。 そのイエスさまの視線の先を弟子たちも見ました。 (※急に声のトーンを上げて)驚くべき光景を見ました。何を見たのか?何を見たのか? 30節を見ました。
30そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。
「ほうら、見てごらん、見てごらん!来た、来た、来た、来た、来た、来た、来た〜!」(笑) 土埃を上げながら、こちらにやって来る人々の集団。なんとサマリア人の集団。 「あんたがメシアだってぇ?キリストだってぇ?あの水汲みの女性から聞いたよ〜」 「キリストかぁ。そうかぁ、おまえさんだったのかぁ、私たちが待ち望んでいたのは」 「そりゃあ、すげえや〜。あんたを信じよう」 「あんた、あの人の過去を全部言い当てたんだって? あんなにあの人変わっちまったよ〜」
町からやって来た大勢のサマリアの人たちが、イエスさまを取り囲みました。 その光景を目の当たりにした弟子たちは、やっとイエスさまの言われた意味が分かった。 「目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れるばかりになっている」 あのサマリア人が悔い改めた。 イエスさまを救い主だと、メシアだと、キリストだと信じた。 こんなに沢山。こんなに沢山。
今日はお読みしませんでしたけれども、39節にこういう言葉があります。 <ヨハネ4:39> 39さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。
多くのサマリア人がイエスさまを信じた。サマリア・リバイバルですよ(笑)。 恐らくピンポイントの聖霊の働き、まだペンテコステの前ですけれども、まだイエスさまが十字架に架かり復活される前ですけれども、確かにイエスさまのみわざ、成し遂げられてはいませんでしたけれども、救いの道すじはまだついていませんでしたけれども、 でも人となったイエスさまを救い主として、周りの人たちは受け入れたわけです。サマリアの人たちは。 ああ、このことだったのかぁ、弟子たちが知らなかった「イエスさまの食べ物」。まさかの食べ物。 人々が救い主と出会い、救われていく手ごたえ。その喜び。感動。満ち足りるような体験。 「わぁもうお腹いっぱい」。確かにイエスさまはお腹いっぱいでしょう、霊的に。 「あぁ、神さま、ごちそうさまです。こんなに沢山の人たちがわたしの所に来ました」 と、イエスさまはもうお腹いっぱいになっていた。
その時、すかさずイエスさまは弟子たちに言われました。弟子たちに―― 「あなたがたも、わたしの食べ物、一番美味しいところを上げるから食べてご覧」 36節からお読みします。
36すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。 37ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。 38わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」
イエスさまは仰った、弟子たちに。 「わたしはあなたがたを、このサマリアの町の刈り入れのために遣わしましたよ。(***いいとこ取りですよ、と説明) もしかしたら、その場で集まった沢山のサマリアの群衆たちに、 ――4章の2節の続き、「バプテスマを授けていたのは、イエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが」―― この弟子たちが、その場でバプテスマ、洗礼を授けていたかもしれない。 でも水がなかった。もしかしたら、あの水がめの中にあった水を使って、洗礼式をしたのかもしれない、滴礼で。 もしかしたら滴礼だったら、間に合うかもしれない。 ま、そんな概念、当時になかったのかもしれませんけれど、刈る者の報酬です。 麦の束、麦の実――《救いの恵みにあずかった人々》をこのように表現しています。 「永遠のいのちに至る実」と書いてあります。
ほかの人が蒔いた種の刈り取りを弟子たちがする。 じゃ蒔いた人って誰でしょうか?蒔いた人。 勿論サマリアの歴史を辿ると ――ま、色々な歴史があるでしょう、アブラハムにまで行き着くんでしょうけれども―― この4章の場面で蒔いた人って、なんとサマリアの女性なんですよ。 サマリアの女性が種蒔きをした。どんな種蒔きをしたのか? 「私がしたことをすべてあの方は話した。もしかしたらこの人はキリストかもしれません。みんな来て、確かめてみてください」 と、そう言っただけですよ。 複雑な教理も、何も話してない(笑)。「神、罪、救い」も何も話していない。 「もしかしたら、この人はキリストかもしれませんよ」とただ言っただけですよ。 それが種まきになった。 そしてサマリア・リバイバルが起きて、サマリアの人たちがイエスさまの所に押し寄せて来たわけです。 刈る者――弟子たちです。 「蒔いた人と刈る人がともに喜ぶ――これがわたしの食べ物なんだ」 ともに喜ぶ。サマリアの女性も喜んだでしょうね。イエスさまも喜んだでしょう。イエスさまの弟子たちも喜んだでしょう。 これが4章イエスさまの視点から読み取れることです。
最後に3つ目の視点―― 3)私たちの視点 この私も、私たちも、誰かが蒔いた結果、刈り入れられたのです。 誰かが蒔いた結果、刈り入れられた。救いに導いていただいた。イエスさまに出会わせてくださった。 誰かが種を蒔いてくださったから。それは教会の人かもしれません。教会学校の先生かもしれない。 父や母かも知れないし、結婚する相手かもしれない。友人や知人かも知れないし、牧師かもしれない。 まさに蒔かれたチラシから、それを手にしたのがきっかけだという方もいるかもしれない。 多くの方々に祈られて、声をかけられて、お便りをいただいたり、電話をかけていただいたり、ある場合には訪問されたり、 そのおかげでそれらが用いられて、イエスさまと出会う恵みが、私にも私たちにも与えられた。 蒔く者と刈る者が共に喜ぶ。 私が救われたということは、蒔いた人の喜び。私の喜びでもあり、蒔いた人の喜びでもある。
先程、TKさんが最初の礼拝のお祈りで、「イエスさまに出会ったことはほんとにすばらしいことだ。幸せだったんだ。イエスさまに出会わなかったらば、こんな幸せを味わうことができなかったんだ」というようなことを仰ってました。 もう言葉に言い表せないような喜びでしょうね。 でも蒔いた人も喜ぶんです。
私事ですけれども、2月27日、藤本栄造先生のお別れ会、その式辞に河村襄(かわむら・のぼる)先生が講壇に立ってくださった。 高校二年生の冬、私(戸塚伝道師)が富士見台教会の礼拝室で河村襄先生とイエスさまを信じるお祈りを共にさせていただきました。 まさかお別れ会の時に、同じ高津教会の講壇に立たせていただくなんて、あの高校二年生の私には、全く想像もできないことでした。 来年の1月9日で、あの日から50年。
でも50年前、あの礼拝の後の礼拝堂で、私の知らない食べ物を喜んで食べておられたのは、イエスさまと富士見台教会の方々と河村襄(のぼる)先生だったのかもしれない。 蒔く者と刈る者が共に喜ぶ。 恐らく蒔く者と刈る者、同じ河村襄先生だったんでしょう。
先程も詩篇126篇で読みましたけれども、 「涙とともに(種を)蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る」とありますが、 一人の人が救い主イエスさまに出会う。 一人のたましいが悔い改めて、救いの恵みにあずかる。 その喜びこそが、イエスさまの食べ物。弟子たちも私たちも知らなかった食べ物です。 一人の人が救われることはその人の喜び。だけれども、それは教会のみんなの喜び、みんなの満足。そしてイエスさまの大満足。イエスさまの食べ物。 私たちもそんな多くの方々の種まきとお祈りが実を結び、神さまの恵みのゆえに、刈り入れられたのです。 そしてイエスさまを礼拝する者とされ、今こうしてここにいます。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師 イエスさま、弟子たちへのあなたのお言葉をありがとうございます。サマリアの女性が、サマリアの町の人々が、そして私たちが、あなたを救い主と信じて救われました。その刈り入れの喜びを、あなたは食べ物のように味わい、満足されるお方です。 イエスさま、あなたに出会い、あなたを救い主と信じたサマリアの女性が、ありのままを証しし、多くのサマリアの人々が救われたように、私たちも救い主であるあなたを証しする者として、今週もあの場所へお遣わしください。 そして、私たちに関わる方々が、やがてあなたのもとに立ち返る光景を祈り待ち望みながら、それを私の食べ物とさせてください。イエスさま、あなたのお名前で父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。
|
|
113.150.176.120 - Mozilla/5.0 (Windows NT 6.3; Win64; x64; Trident/7.0; MALNJS; rv:11.0) like Gecko
|