☆聖書箇所 ヨハネ13:1〜9、14 1さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。 2夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。 3イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。 4イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 5それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。 6こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」 7イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」 8ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」 9シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」 14主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。
☆説教 足を洗ってもらう 日曜日連続して雨ですけれども、これはもう春でありますので、歓迎すべきことだろうなと思いますが、それでも会堂には新しい方も含めてほんとによく来てくださいました。 礼拝はいつでもやっております。それで実は来週のイースターを越えてからまた、名字がア行の方、カ行・サ行の方って分けて5週間に分けて、大体100名お迎えする予定でありましたが、ちょっとあまりにも人通りが多い。それを懸念して、一応今まで通りの形を継続することにいたしました。 でも教会はいつでも日曜日10:30から礼拝をやっています。つまり必ずしも「来るな」というメッセージを発しているわけではないです。インターネットで礼拝が守れる方はどうぞそちらにご判断ください。逆に「今日こそはいらっしゃりたい」という方はどうぞどんな聖日でもいらっしゃってください。勿論20人を超えないという限界がありますので、もし超えた場合は2階席に座っていただくということになると思いますけれども、決して遠慮せずに、しかししばらくはこの態勢でいくということを心に留めてください。
今日はヨハネの福音書の13章を見ていただきました。 聖書の言葉を見ていただきたいと思いますが、独特な展開なんです。 ヨハネの福音書というのは、13章から17章の5章――この13章の1節から始まります5章――つまり福音書全体の4分の1を費やして、最後の晩餐だけを描いています。
ですから弟子でありましたヨハネにとって、イエスさまと過ごした3年以上にこの一晩の出来事がどれほど印象的だったかということが分かります。 この一晩の出来事の一番最初の部分を、今日見ていただきますけれども、この一番最初のこの言葉というのは、一晩の出来事の集約ですね。 ちょっと聖書を映しますから見てください。(※指さしながら13:1を読む。) 【※画面:ヨハネ13章1節「過越の祭りの前のこと」と「最後まで愛された」に青いペンで囲み】
1さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、(※これですね、と説明)彼らを最後まで愛された。
以前の訳ですと、「惜しみなく愛を示された」ですね。 つまりこの最後の晩餐の出来事の中で、ヨハネは――ま、ようやくと言ってもなんですけれども――とうとう神の愛がいかなるものであるか、ということがよく分かったということです。 イエスさまは世の終わりまで、ご自分に属する者を守ってくださる、ということがヨハネにはよく分かりました。
最後の晩餐の教えから十字架、そしてやがて復活、天に昇られるイエスさまが描かれていきますけれども、それらの出来事を通して、ヨハネは何を悟ったのか? キリストの愛を悟った。 第一ヨハネの(手紙の)4章の9節に、こういう言葉がありますね。ちょっとこれは開いていただきますので、聖書を見てください。 第一ヨハネの手紙というのは、黙示録のちょっと手前なんですけれども、ずっと後ろの方ですね。 【※画面:Tヨハネ4章9節「神の愛が私たちに示されたのです。」に青ペンで囲み】
<Tヨハネ4:9> 9 神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって 私たちにいのちを得させてくださいました。 それによって 神の愛が私たちに示されたのです。
イエスさまは柔和で愛に富んだお方であるということはヨハネはよく分かっていました。 でも最終的に「神の愛がいかなるものか」ということは、それは「神がひとり子を世に遣わし、その方によって」ということは、その方の十字架によって、「私たちにいのちを得させてくださることによって」、ヨハネはようやく「神の愛がいかなるものか」分かったと記しています。
さて、今日はこのところから3つのポイントに注目して、少し掘り下げてみたいと思います。 ヨハネの福音書の先程の13章に戻っていただいて、まずは第一番目のポイントは、ここですね。13章の8節です。 【※画面: ヨハネ13章8節「わたしがあなたを洗わなければ〜なります」に水色のペンで傍線。9節「主よ、足だけでなく〜洗ってください」に赤いペンで傍線】
1)8節、「もしわたしが洗わなければ……」
8ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」――このみことばをよく考えて、しばらく話を聞いていただきたいと思います。
受難週、過越の食事が始まる前に、列席の者たちは誰かによって、ま、一日歩いて来た足を洗ってもらう、というのが当時の習慣でありました。 そのためにはしもべがいるのが普通でありますけれども、その足を洗うしもべの役を果たす者がいません。 かと言って、弟子たちの一人だに、互いに足を洗う素振りも見せません。 そこで4節に、イエスさまは「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた」と聖書に書いてありますよね。 で5節に「それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた」とあります。 ということは、物語の流れは――誰も仕える姿を取らない、誰もしもべになろうとしない、イエスさまご自身がしもべとなって、弟子たちの足を洗ってくださった――という意味なんです。
しかしヨハネはさらに深い主の言葉を記しているわけです。 それが6節と7節に出てまいります。(※なぜか新共同訳で)
6シモン・ペテロのところに来ると、ペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 7イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
「わたしのしていることが」というのは、明らかにしもべの姿を取って、弟子たちの足を洗っているんですけれども、いやもっと深い意味がある。 「今、あなたには分かるまいが、後になって分かるようになる」――ということは、足が汚れているから、イエスさまが洗っているわけではない。 イエスさまが私たちの足を洗うということには、もっと深い霊的な意味がある、というのがヨハネの考えです。 「洗う」というのは、ヨハネにとって、大切なモティーフです。
福音書で最初にバプテスマのヨハネがイエスさまに初めてお会いした時に、 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(***ヨハネ1:29)と仰いました。 世の罪を洗いきよめる神の小羊ですね。
ヨハネの手紙第一の1章の7節には、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめます。」 この世界のすべての罪をきよめるために、洗い流すために、イエスさまの十字架があると、ヨハネの手紙第一の1章の7節には言っています。
つまりヨハネははっきりと見て取ったんですね。 この「足を洗う」という出来事が、これから始まる十字架の前奏曲なんだと。 足を洗ってくださったというのは、単に主イエス・キリストが仕える者の姿勢を取っただけでなく、十字架そのものを象徴していた。
つまりイエスさまは誰もができることを代わりになさったのではない。 ご自分にしかできないことをなさったんですね。 ご自分にしかできないこと――それは私たちの罪と汚れを洗ってくださることです。 主に洗っていただくには、私たちが最も躊躇する汚れた部分というものを意識しなければいけないのです。 主に洗っていただくためには、私たちが一体自分のどこが汚れているのだろうかということを意識しなければいけない。 ペテロは思わず、「決して私の足をお洗いにならないでください」と引っ込めてしまいました。 で、主が仰ったんですね。 「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしとは関係がありません」と。
しばらく前に天に召されました高津教会の姉妹がおられました。 その方は、よその教会から高津に引っ越して来られて、3か月ぐらい経過して、月に一度礼拝の後に皆さんでお昼ご飯を食べるフェローシップがありました。 で、フェローシップの一連の出来事が終わって、私(藤本牧師)は新しいその方にマイクを向けました。 「ちょっとだけ自己紹介をしてください」 すると、その姉妹は単なる自己紹介だけではなく、救いの証しをなさいました。 僅か3分ぐらいだっただろうと思います。 その救いの証しが非常に直接的でありまして、何番目かのお子さんを中絶された時の苦しい思いを背負って、自分は教会の門を叩いたと仰っておられました。 やがて教会で十字架の話を聞き、そしてそのことを牧師に打ち明けて、イエス・キリストの救いの恵みにあずかったんですと。 ほぼ初対面の私たちに、その方はそういう証しをなさいました。 その方が仰ったんですね。 「洗礼を受ける時に、もしかしたらその事実が明るみになるんじゃないかと、顔から火が出るような思いで、胸が激しく鼓動した」と仰っていました。 でも洗礼を受ける時に、牧師先生は何も仰らずに洗礼を授けて、罪を洗いきよめてくださったと。
それはそれはぐ〜っと心に秘められていた、《汚れた足を神さまの御前に出す》というお話でありました。 新しい教会にあって、いともあっさりと証しされたのに、私たちは皆驚いてしまいましたけれども、 しかしその証しを聞いた途端、いきなりよく知らない方が、主にある親しい姉妹に変わりました。 なぜなのか?それは汚れた足の話をしてくださったからです。
私たちは人には少々見せない汚れた足というものを、誰でもが持っています。 でもそれだけじゃないんです。 それを主イエス・キリストによって洗っていただいたという体験も持っているんです。 私たちは皆同じ体験を持っています。 それは主イエス・キリストに汚れた足を洗っていただいたという体験なんですね。 私たちの罪深さは、主の十字架の血潮によって洗われる以外に、きよめられることはありません。 ですから、8節に、「もしわたしが洗わなければ、あなたとは関係がない」とイエスさまが仰ったわけですね。
2)その時、思わずペテロが興味深いことを言います。9節、ちょっと見せますね。
【※画面: ヨハネ13章8節『わたしがあなたを洗わなければ〜なります』に水色のペンで傍線。9節「主よ、足だけでなく〜洗ってください」に赤いペンで傍線。12節「彼らの足を洗うと」に青のペンで囲み】
9シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
これはもちろん、ペテロがなぜそんなことを言ったのか? 折角洗ってもらうんだから、「手も頭も」というものの言い方をしたのか、ま、気が動転して思わずそう言ったのか? でも私(藤本牧師)はむしろここに、ペテロのすばらしさがあると思っています。 手も頭も洗ってもらえれば、イエスさまとの関係がもっと深くなると(笑)ペテロは考えたのかもしれないですよね。
単純なところ、私に、「手も頭も洗ってください」という、つまりイエスさまとの関係をもっと深くしたいという願望があるのか?ということです。 これは考えなければいけないですね、受難週に。 守ってください、導いてください、助けてください、祝福してください、だけではない。 私たちが主イエス・キリストに願う祈りというのは、 「手も頭も洗ってください。 私の信仰をも、もっと洗ってください。 私はあなたとの関係を深めたい。 あなたの臨在をもっと実感したい。 あなたに私の悩みや苦悩を、もっと率直に委ね切る信仰者になりたい。 もっと感謝する者に、もっと賛美する者に、もっときよめられた者になりたい」と。
黙示録の3章をちょっと開きます。画面で見ていただければ十分です。 イエスさまはラオディキアの教会の人々にこんなことを仰いますね。 その「手も頭も洗ってください」とは逆の言葉ですね。 【※画面:黙示録3:17を指で押さえながら読む藤本牧師】
<黙示録3:17> 17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。
分かっていないから、自分では「富んでいる、豊かになった、足りないものは何一つない」とあなたは言うと。 もし私たちがそういう姿勢を取っているとしたら、ペテロのように「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください」とは言わない、と思いますね。 つまり私たちはいつの間にか、自分の本当の姿に目を瞑る傾向があるということです。 そして洗っていただく部分も、一生懸命に隠そうとする私たち。 足を引っ込めるだけではない。全部布で包んで隠してしまうんですね。
いいですか?(※これまでのおさらいをしてくださる藤本牧師) 一番最初に目を留めたポイントというのは―― 1)イエスさまが仰った。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係がありません」ですね。 二番目に目を留めていただいたところは―― 2)この「足だけでなく、手も頭も洗ってください」という言葉。 三番目に目を留めていただきたいのは、一つ飛んでいますけれども、ヨハネの福音書の13章の14節ですね。 【※画面:ヨハネ13章12節「彼らの足を洗うと」15節「模範」に青ペンで囲み】
14主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。
3)14節、あなたがたも「互いに足を洗い合わなければなりません。」
「互いに足を洗う」――私(藤本牧師)はこの話をする時に、もう25年ぐらい前の体験ですけれども、必ずこの話をします。よその教会でもこの話をします。 それはそこにおられる(※左手を伸ばして)WTさんが、確か(※と思い出すような顔で)50歳の時だったと思うんですよね。 勤続30年で休暇をもらいましたよね。祈祷会か日曜日の夜の伝道会で証しをされたんですよね。 その休暇を何に使おうか色々考えた。奥さまが介護の仕事をなさっておられましたので、「そうだ、介護の研修会に出席しよう」という風にお決めになって通われた。
その中の一コマを、ま、皆さんの前で証しをされました。 その日研修に行ってみますと、先生がたらいとお湯、タオルを用意して来られて、これから二人一組になって、皆さんで足を洗いましょう、というお話だったんですね。 講師の先生が仰るには、 「見知らぬお年寄りにいきなり近づいても、双方が心を開くなんてなかなか難しいです。 ですからこの『足を洗う』ということは、どこをお訪ねしても、きっと貴重な体験になると思いますよ。 でも全員で洗い合う時間はないので、二人一組になって一人が洗い、もう一人が洗ってもらう立場にしましょう」と。
で、Wさんはぐるっと見回して、全員の中で男性は自分一人だということに気がついたんですね。 で、隣におられた女性と組んだんですけれども、彼は一瞬そこで考えたと仰っていました。「相手は女性か」と。 女性の足を洗うのと、洗ってもらうのと、どっちが恥ずかしいんだろうと。 これはきっと洗ってもらう方が恥ずかしいに決まっている。 そこでWさんは自分から靴下を脱いで。十分にきれいにもしてない足を(笑)女性の前に差し出して、そして「あの、よろしくお願いします」(笑)と言って洗ってもらった、というお話だったんです。 そしてWさんは最後に、「それはそれは、気持ちよかったです」(笑)とお話をしておられました。
足を洗うだけでは、その気持ちよさは体験できない。 足を洗ってもらって初めて、それはそれは気持ちがいいもんだ、ということが分かる。 私(藤本牧師)はそれはもう25年ぐらい前の話なんですけれども、ず〜っとその話を忘れたことがないですね。
私たちクリスチャンは、割りと「何かをしてあげる」というのは得意です。 でも逆に「してもらう」というのは、不得意ですよね。 つまり「洗う」というのは得意であっても、「洗ってもらう」ということになると、やっぱり思わず足を引っ込める。 「与える」ということは積極的にしますけれども、「受け取る」ということはなかなかしない。 「教える」ということも積極的にしますけれども、「教えられる」という心を持ってない。 「祈って差し上げる」ことは自由にしますけれども、「祈ってもらう」という課題をそうそう人前には見せない。躊躇するかもしれない。
でもWさんが仰った。 「洗ってもらった時に、何とも気持ちのいい、清々しい思いを体験した。 それは洗っている人には味わうことのない経験であった」と。 それが私(藤本牧師)は柔和な姿勢だろうと思うんですね。
謙遜で柔和な姿勢というのは、洗う側にも求められています。 でも自分の問題課題、自分の恥ずかしい部分を人に洗ってもらうということも、非常に尊いですね。
イエスさまは私たちの足を洗ってくださいました。 「ですから、あなたがたもまた、互いに足を洗い合うべきです」と言われた時に、 いつも洗ってないで、たまには洗ってもらうといいです。 もしかしたら、皆さんの子どもが、洗ってくださるかもしれません。 もしかしたら、皆さんの後輩が、洗ってくださるかもしれません。 でもそのようにして、人の親切を受け取るということの尊さを心に留めておきたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、棕櫚の聖日に私たちを礼拝の場に招いてくださいましたことを心から感謝いたします。あなたが招いておられたのでなければ、私たちは礼拝に来ることができませんでした。ということは、あなたは私たちの心の内にある渇きをご覧になり、私たちの心の内にある悩みをご覧になり、またあなたが私たちの内にある霊的な飢え渇きをご覧になり、この礼拝の場へと導いてくださいました。
どうか、お一人お一人のその心の渇きを、不安を、悩みを、あなたが解決する糸口を与えてください。もっとあなたとの関係を深くしたいと願うことができますように。そしてそのためには、自分の汚れた部分をあなたに差し出す以外に方法はない。あなたに洗っていただく以外に、あなたとの距離を縮めることはできない、ということを心に留めることができるようによろしくお願いいたします。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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