☆聖書箇所――ヨハネ21:1〜13 1その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。 2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。 3シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。 4夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。 5イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「あありません。」 6イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。 7それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。 8一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。 9こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。 10イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 11シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。 12イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。 13イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
☆説教 イースター・聖餐式:イエスは食卓に招く さて、今日のテーマは食卓です。「イエスは食卓に招く」と題してお話をいたします。 聖書の中には、沢山の食卓が出て来ます。
一番有名なのは、詩篇23篇かもしれません。 「私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。」(5節) 人生、様々な敵を前にします。それが人であったり、病気であったり、あるいは出来事であったり、新しい挑戦であったり。 私たちは敵を前にして、怯み自信を失います。その心許ない私たちのために、神さまがまずしてくださることは、 食卓を整えてくださること。食卓に招いてくださる、ということです。
あるいはダビデが王さまになりました時に、自分の親友ヨナタンの子どもを探します。メフィボシェテでありました。(***Uサムエル9:1〜13) ダビデのいのちを狙っていたサウロの孫にあたりますから、本当は遠ざけておいた方がいいんです。
しかし、ダビデは足の不自由なメフィボシェテを王宮に呼び寄せ、「これから先、いつも王の食卓で、私と共に食事をしなさい」と彼にエルサレムに住む家を与えます。 聖書に何度も記されています。 ダビデはメフィボシェテに言いました。「私はあなたに恵みを施したい」 恵みを施したい――それがゆえに食卓が備えられるわけですね。
預言者エリヤはずっとバアルの預言者、それを操るイゼベルと戦って来ました。 (***T列王19:1〜8) とうとう戦いに勝った時に、彼は力尽きてしまいました。 所謂バーンアウト(***burnout燃え尽き症候群)ですね。 彼は荒野に逃げて、疲れて寝てしまいます。
すると天の使いが現れて、彼を起こし、言います。 「ほら食事だ」と。見ると、パンと水がありました。 神さまが荒野で彼のために用意してくださった食卓です。 エリヤは食べて寝て、また食べて寝て、それを繰り返して、いつもの自分を取り戻していきます。
食事、食卓というのは、聖書の中に沢山出てまいります。 そしてどれもが、非常に味わいがあります。
新約聖書に入りますと、イエスさまの食卓がいくつも出て来ます。 取税人レビが、マタイが弟子として召された時に、イエスさまは取税人たちと一緒にレビの家で食事をしておられます。 (***ルカ5:27〜32、マタイ9:9〜13、マルコ2:13〜17) 周囲から非難が飛びます。 「イエスは誰と一緒に食事をしているのか、分かっているのか」と。 主は仰いました。 「わたしは健康な人を招くためではなく、病める人を招くために、正しい人を招くためではなく罪人を招くために来た」と。
イエスさまの教えを聞きに、病を癒やしてもらうために、大勢の群衆が集まって来て、段々日が暮れていきました。 (***ヨハネ6:1〜13、ルカ9:10〜17、マタイ14:13〜21、マルコ6:30〜44) すると、イエスさまはたった5つのパンと2匹の魚で、1万人の腹を満たしておられます。 これもイエスさまの食卓です。
パリサイ人シモンの家で食事をされていたという記事もありますし、(***ルカ7:36〜50)
ベタニアのマリア・マルタ・ラザロの家には頻繁に呼ばれて食事をしておられたということがわかります。(***ヨハネ12:1〜8、ルカ10:38〜42)
孤独で罪に染まった取税人ザーカイに仰いました。(***ルカ19:1〜10) 「降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしている。」 初対面でありました。 明らかに泊まっただけではなく、イエスさまは食事を共にされました。
イエスさまの食卓、その最も意義深いものが「最後の晩餐」でありました。(***ヨハネ13章) 先週の木曜日にあたります。最後の晩餐。 それをもって主は十字架へと向かわれ、そして十字架そのものが、この最後の晩餐、今日共にあずかります、十字架の上で裂かれた肉であるパン、そして流された血潮であるぶどうジュースに象徴されています。
今日読んでいただいたところは、それから数週間後、復活した(イエスさまが)弟子たちの前に現れた聖書の箇所です。 3つのポイントでお話をしたいと思います。
1)12節に注目をしてください。イエスは食事を用意してくださる。 【画面:ヨハネ21章9節「そこには〜見えた」にピンクの傍線、12節「さあ、朝の食事をしなさい」にピンクのハイライトと黒の傍線。13節「イエスは来て〜同じようにされた」にピンクのハイライト】
12イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」……
ま、ひと言で言えば、「朝ご飯ですよ〜」という、そういう意味ですよね(笑)。 ガリラヤ湖の岸辺。エルサレムでの復活の出来事を弟子たちは知っていました。 そうとはいえ、これからどうしたらいいのか、わからない。 まして自分たちは、イエスを捨てて逃げて来ました。 「ガリラヤに戻りなさい」というのは、マタイの福音書を見ると、それはイエスさまがそう命じられたからですね。(***マタイ28:16)
この記事を見ますと、夜暗い内に、聖書を見ていただいて、この3節に時系列で記されていますね。 【画面:ヨハネ21章3節「私は漁に行く」に水色ペンの囲み。「その夜」にピンクのハイライト。4節「夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた」に赤の傍線と、「夜が明け始めていたころ」にピンクのハイライトも。「けれども弟子たちには〜分からなかった」に水色の傍線。5節「食べる物がありませんね」に水色の傍線と「厳しい現状」という書込。「ありません」に水色ペンで囲みと余白に↗「やせがまんしない」の書込。6節「舟の右側に網を打ち」に水色の囲み】
「その夜、そして夜が明け初めたころイエスは岸辺に立たれ、」という実に詩的な表現で記されています。
夜通し漁をして、4節に「夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。」 不漁でありました。 それは弟子たちの心に何の収穫もないまま、十字架と復活、そしてもはや共におられない主イエス、その気持ちを象徴するかのように不漁でありました。 力は入りません。
一晩中漁をしても、一匹も捕れないという現実に、ペテロはあまり気を留めていなかったかもしれません。 ペテロの心は、ガリラヤの湖から遠く離れたエルサレムにありました。 あの忌まわしい夜の出来事が忘れられません。
彼はイエスさまに背を向けて、一目散に逃げて行きました。 走って、走って、隠れました。身を潜めていました。
「たとい全部の者が躓いても、私は決して躓きません。」(***マタイ26:33) 「たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません。」(***同35) 確かに、そう豪語したんです。
自分の勇ましい口調が、何度も自分の記憶の中で響いて来ます。 真っ暗になって行きます。なぜ逃げたんだ? そこから始まりまして、大祭司の官邸の庭で、ペテロはイエスをさらに三度、「あんな奴は知らない」と皆の前で否みます。 ペテロは、その日以来、これから自分はどうしようか?というその悩みに深〜く沈んでいました。 主を見捨ててしまった自分です。
人は――ここがとっても大切です――往々にして、自分の失敗にこだわり、自分の人生のことに心が集中するものです。 どういうことかと言いますと、イエスさまの復活というのは、人間の常識を覆すほどの出来事でありました。 弟子たちにしてみたら、これほど信じられない、驚愕する出来事はありませんでした。 天地をひっくり返したような出来事に他なりません。 だとしたら、我を忘れて、神さまがなされたみわざを論じて、考えて、消化しようと聖書を学ぶのか?
いえいえいえ、そうでもないんですね。 もう神の国の福音なんかどうでもいいかのように、以前していた漁師の仕事に戻って行くペテロです。 人は天地をひっくり返すような出来事よりも、自分の人生の失敗、自分の人生のふがいなさの方が、心を満たすことになるわけです。
私たちは今朝、「キリストの復活ということが歴史の中心点にある」ということを共に祝い礼拝していますけれども、ともすると、 「その歴史の中心点にある出来事が、自分にとって何の意味をなすか?」を考えずに、今週控えている様々な心煩いに気を揉んで、聖書を開いているかもしれません。 先週の失敗で心が一いっぱいであるかもしれません。
そんな中、漁から上がって来た彼らに、イエスさまは食卓を用意されました。 9節を見ていただきたいと思います。ちょっとカメラで映しますね。 【画面:ヨハネ21章9節「そこには炭火が〜見えた」にピンクの傍線】
9こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、(***というのは、イエスさまが炭火を起こしたんですね、と説明)その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。
ということは、イエスさまは炭火の上に既にパン、そして魚を用意しておられました。
いつもの朝のスタートであるかのように、12節、「さあ、朝の食事をしなさい。」 「お早う。朝ごはんです」と主が用意してくださいます。 主婦の皆さん、たまには朝食を作らずに、外で食べることも考えてもいいと思いますし、 たまには、買ってきたもので済ませてしまうのもいいのではないでしょうか? でも毎朝、毎朝、主は私たちに食事を備えてくださる方である。ありがたい恵みですね。
ですから私たちは朝食だけでなく、それぞれの食事ごとにお祈りをする。 そして与えられているものに感謝をし、それを食べることができる自分に感謝をささげ、その食事を祝してくださるイエスさまを喜ぶわけですね。
2)この食卓で、ペテロとほかの弟子たちは回復されます。この食卓で。
イエスさまは、彼らを責める言葉はひと言も発することはありませんでした。 あの時何を考えていた?とも、いま何をしている?とも仰いませんでした。 いま何をしているか、状況は三年半前と同じです。 その朝も彼らは夜の漁を終えて帰って来ました。 一匹も捕れなくて、ただ網を洗っていました。
そこへイエスさまが来られて、 「あなたがたの舟を貸してくれ。わたしは湖から岸辺の群衆に語りかける。」 ペテロはイエスさまを乗せて、舟を出しました。 船の上から群衆に話をされ、終わったところで、イエスさまは妙なことを仰いました。 「深みにこぎ出して、網を下ろしなさい」(***ルカ5:4、ヨハネ21:6) 三年半前のあの日、ペテロはイエスさまの言葉に人生をかけたのです。 その時に網は破れる程いっぱいになりました。 そこで初めてペテロはイエスさまを信じたのです。
まさしくその現場に戻って来ました。 三年半の月日を経て。同じ湖、もしかしたら同じ舟、同じ湖の場所であったかもしれません。 頭から焼き付いて離れない、あの忌まわしいエルサレムの晩の出来事、そして自分の醜態。 同時に、このガリラヤの湖に立つ度に、信仰の原点に帰ったような、不思議な温かさを感じたんだろうと思います。 ガリラヤの岸辺にイエスさまが来てくださったということは、ペテロは主を裏切ったのに、主は彼のところに来てくださった、ということです。 それは再出発でありました。
今週、皆さんは再出発を切って行かれるんです。 再出発は原点からの再出発で、自分が受けた洗礼、自分が抱いた最初の信仰と、何ら変わりのない、新鮮な十字架における罪の赦しを味わいながら、 「主が共におられる」「主が私の人生を変えてくださり」「私を神の子どもとしてくださった」という現実を受け止めながら、新しい出発を切るわけですね。
3)三番目に短く――彼らはそこから派遣されて行きます。 13節をちょっと見ていただきたいと思います。 【画面:ヨハネ21章12節「さあ、朝の食事をしなさい」にピンクのハイライトと黒ペンの傍線。13節「パンを取り〜同じようにされた」にピンクのハイライト】
13イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また魚も同じようにされた。
イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになる。魚も同じように取り、彼らにお与えになる。(※と言い換えて説明を始められる) ま、パンと魚という意味では5千人の給食に似ているかもしれません。 でも一番近いところで、彼らは思い出したのは、あの最後の晩餐の出来事でありました。 主はパンを裂き、彼らに与え、主は杯を彼らに与えて、飲ませてくださいました。 聖餐の恵みですね。
12節からページをめくりますと、この言葉が出て来ます。 ペテロに格別に声をかけてイエスさまは仰いました。15節―― 【画面:ヨハネ21章15節と16節の「ヨハネの子シモン」に赤ペンで囲み。15節「わたしを愛していますか」にピンクのハイライト。16節「愛していますか」「愛している(ことはあなたがご存じです)」に赤ペンで傍線」】
15……「ヨハネの子シモン、あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」
「わたしを愛しますか」という言葉で表されているのは、「わたしはあなたを愛している」という意味ですよね。 「ヨハネの子シモン、わたしはあなたを愛している。あなたはわたしを愛しますか?」――これだけです。 でもここから、すべてが始まっていきます。 私たちにとっての新しい年度も、新しい世界も、ここから始まります。
もう一回繰り返しますと、顔を上げられないような失敗、言葉にできないような不安、闇に閉ざされた自分の人生、先が見えない重苦しい課題――主は、私たちを食卓に招いてくださいます。 いつものように招いてくださいます。 その食卓が私たちの信仰の原点です。 この方について行って、幾度も試練をこれまで乗り越えて来ました。 そしてこの方を愛して、守られて来たのが私たちの人生です。 黙って座りながら、ペテロには分かったはずです。 この方が、私の罪を担って十字架にかかってくださった、ということが分かったはずです。 この方が両手を広げて食卓で招いていてくださる、という事実をペテロは分かったはずです。 この方が復活の力をもって、私たちの人生を守り導いていてくださることを、ペテロは分かったはずです。 何も言わずにパンを食しながら、この方を愛する自分を、ペテロも私たちも実感することができますように。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 12イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」…… (ヨハネ21:12) 恵み深い天の父なる神さま、あなたは今朝よみがえりのイエスを通して、聖餐の食卓を招いていてくださいます。これから共にあずかる私たちを一つにし、またこの聖餐を自分自身の人生のために受けることができますように。 あれ程の失敗をしたペテロは、この聖餐によって、回復され、新しく力を得、そして派遣されて行きました。 私たちは今朝、十字架の恵みの聖餐にあずかる時に、復活の主が私たちを赦してくださり、受け入れてくださり、回復してくださり、派遣してくださる、ということを心に留めることができますように祝福してください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖餐式
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