☆聖書箇所 ルカ24:13〜35 13ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。 14彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。 15話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。 16しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。 17イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。 18そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」 19イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 20それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。 21私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、 22仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、 23イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエスさまが生きておられると告げた、と言うのです。 24それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 25そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。 26キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」 27それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。 28彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。 29彼らが、「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。 30そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。 31すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 32二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」 33二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、 34「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。 35そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。
☆説教 主イエスは共に歩いてくださる 読んでいただきました箇所は、割と長いエマオの途上の出来事であります。 昨年のイースターの時期にここを開きましたので、皆さんもよく知っておられる、という理解でお話しいたします。
先程賛美の奉仕をしていただきました。曲は、「夕闇の迫るとき」です。 『1.夕闇の迫るとき、頼りゆく身を支え、いつまでも離れずに、主よ、共にいてください』 というのが(教会福音讃美歌430番の)1節ですね。 英語では”Abide with me”です。必ず葬儀の時に歌われます。 この“Abide with me” 「主よ、共にいてください」というのは、今日読んでいただきましたルカの福音書のこの24章の29節ですね。(少し長く読んでいきますと28節から、と) 【画面:ルカ24章28節「先まで行きそうな様子であった」を@として、29節「一緒にお泊りください」をAとして、30節「イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに」〜31節「彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが」をBとして水色の傍線】
28彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。 29彼らが、「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため。中に入られた。
という風に、イエスさまに留まっていただくことをお願いしたんですね。
この讃美歌の作者は、ヘンリー・フランシス・ライトという英国国教会の牧師でありました。 彼は小さな漁村の教会の牧師として、死ぬまでの23年間、この教会に仕えました。 とても病気がちで喘息と結核に苦しんでいました。 彼の歌の多くは漁師や、また小さな子どもや、病人のために作られたと言われています。 病状が悪化し、彼は転地療養のためにその漁村を離れる、その前の聖日、這うようにして説教壇に登り、最後の説教をしました。 そしてその説教の直前に、この讃美歌が記された、という話が残っています。
賛美歌の歌詞は、「いのちの暮れが近づくとき、世の闇路が迫って来るときに、どうか私と共にいてください」。 (教会福音讃美歌の2節は)「地の栄え消え失せて、見えるもの朽ち果てるとき、いつまでも変わらずに、主よ、ともにいてください」。
今日はこの讃美歌を心に留めたいと思います――「主よ、共にいてください」
高津教会がオンライン礼拝を始めて、14カ月になると先ほど申し上げました。 そもそも高津教会は、以前から教会籍に拘るような教会ではありませんでした。 「洗礼を受けてない方々も含めて、共に礼拝する方々はみな教会家族です」と何度も訴えてまいりました。 「皆さんの家族も皆さんの友人もまた、教会家族です」と申し上げてまいりました。
しかし、それでも共に礼拝する、という意味では、つまり「この場に来る」という枠がありました。(コロナ禍の今ではそれもありません)。
今まで一番大らかな教会の枠組みというのは、なんと教会の墓地管理規定でありました。 これはOTさんが作られました。 永代使用料が、わずか9万円。わずか9万円で永代使用料ですよ。 教会員の家族であっても、ご親族であっても、友人であっても、教会員の関わりであるならば、一言「入れてください」と仰った方は誰でもお迎えします、というのが私たちの教会墓地の緩やかな規定です。 私(藤本牧師)はこれほど緩やかな教会規定を持っている教会はないと思っています。
しかしその上を行くのが、このオンラインの礼拝です。 外に向かって開かれていて、私たちは真実にアピールいたします。 所属教会を捜しておられる方、あるいは所属教会を失った方、どうぞお出でください。 また皆さんの心の内に「主よ、私を離れずに共にいてください」という思いがあるなら、 コロナ禍の重苦しい雰囲気の中で、これまでの枠組みが崩れて、新しく神の愛を求めようとしておられるなら、ぜひお出でください。 あなたは高津教会の家族です。 これから先、いつも私たちは同時に礼拝をいたします。 今日もここに来ておられる方々と、そしてそちらにおられる方々と、これから先、教会の礼拝はいつも同時にそのようにして行っていきます。 やがて5G という電波が新たな3Dの礼拝をきっと作ってくれるに違いないと思います。 そういう礼拝が可能になる日がやって来るでしょう。
大切なのは、自分の人生の様々な出来事の中で、いつも主に訴えることですね。 「私と共にいてください。私を残して先に行かないでください。この夕刻に、日も傾いた時間に、私を一人にしないでください」です。
今朝はこの出来事から簡単に3つのことを学んでみたいと思います。
1)イエスさまの質問で、この出来事が始まっていきます。 よみがえったイエスさまが、クレオパともう一人の弟子に出会ったと記されています。 この二人は福音書に一度も登場したことがないに違いありません。 私たちが初めて聞く名前です。 名前も知られない、存在の薄い二人に、よみがえりの主が現れてくださいました。 しかも、15節にはこういう風に書いてあります。 ちょっと15節を見てくださいね。 【画面:ルカ24章15節「ご自身が近づいて来て〜始められた」に黒のペンで傍線】
15話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
二人が話し合ったり論じ合ったりしているうちに、イエスさまご自身が気がつかない内に近づいて来て、彼らと共に歩き始められた。 そしてこの質問です。19節。 【画面:ルカ24章19節「どんなことですか」に緑のハイライト】
19イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。……
「どんなことですか」と言われると、ということは、「わたしに話してみなさい。あなたがたが沈んだ顔で、二人で論じ合っているそのことをわたしに話してみなさい」。 イエスさまは、日常の場面で論じ合ったり、考えたり、悩んだりしている私たちの心を開いてくださいます。 「どんなことなんですか。わたしに話してみなさい」と。
私のこの暗い心のムードを変えようと思ったら、暗い心の内側を打ち明けなければなりません。 口に出して話すことは大切です。それをじっくりと聞いて上げることも大切です。 私たちはイエスさまに話すつもりで家族に話します。友人に打ち明けます。牧師に相談します。 私(藤本牧師)はそれでいいと思っています。 イエスさまに話すつもりで、夫婦で話し合い、親子で話し合い、また友人に打ち明ける。
でも同時に、私たちはそれをしている時にいつも、自分が本当に話している相手は主イエス・キリストなんだと。 知らない内に、私たちの歩みを後ろから近づいて来てくださり、共に歩いてくださる主イエス・キリストに、私は真実に話しているんだという思いを忘れないことですね。
2)イエスさまは聖書の言葉を説明してくださいます。 27節にこうありますね。 【画面ルカ24章27節「ご自分について〜説き明かされた」に緑のハイライト】
27それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
ま、全部を説き明かすということは難しかったと思います。 でもご自身について、聖書全体から色んなことを話してくださったということは、 「話してみなさい」と言った後で、主イエスは聖書の言葉を開いて、弟子たちに教えてくださった、ということです。
1番目に、私たちは主イエスに話すように祈る。 「祈ることが難しい。どういう言葉を見つけたらいいのか難しい」――なんてことはないです。イエスさまに話すように祈ればいいんです。 次に、みことばを開いて学んでみる。 主はみことばをもって、私たちに力を与えてくださいます。
私(藤本牧師)は先週のZoomの祈祷会で、エレミヤ哀歌というところを開きました。 ちょっと開いていただきたいと思うんです。 旧約聖書のちょうど真ん中ぐらい。聖書全体の真ん中位ですね、真ん中より少し後半。1407ページです。ここでは赤線を引っ張っておきましたので。 【画面:哀歌3章19節〜21節に数字の上に横に渡すピンクの線。21節「私はこれを心に思い返す」、22節「主のあわれみが尽きないからだ」、23節「それは朝ごとに新しい」にピンクのハイライト】
<哀歌3章19節〜23節> 19私の苦しみとさすらいの思い出は、にがよもぎと苦みだけ。 20私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。 21私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。 22【主】の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。23それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。
状況はこうなんですね。 バビロンの帝国がやって来て、エルサレムを滅ぼした。城壁を崩し、神殿を焼き払い、そして人々をバビロンへと捕囚に連れて行きました。 廃墟と化した町の中で、残された子どもたちの泣き声を聞きながら、エレミヤは自分の思いをこの言葉に集約いたします。19節―― (※哀歌3章19節〜23節を指で押さえながら説明)
19私の苦しみとさすらいの思い出は、にがよもぎと苦味だけ。
たましいも口の中も、この光景の悲惨さ、苦き思い出で一杯です。
20私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。
この数か月にあった出来事を考えれば考える程、私のたましいは沈んでいく。 ところが21節、一転いたします。 【※画面では再び哀歌3章の19〜23節。21節「私はこれを心に思い返す」、22節「主のあわれみが尽きないからだ」、23節「それは朝ごとに新しい」にピンクのハイライト】
21私はこれを心に思い返す。……
いいですか。この二つの言葉というのは対になっています。 20節の最後に「ただこれを思い出しては沈む」というのは、自分の人生に降りかかった辛い出来事を思い出しては沈むんですね。 ところが、次の行に「私はこれを心に思い返す」という言葉をもって、彼の人生は、彼の心は変えられていきます。
21(後半)……それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。 22【主】の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。 23それは朝ごとに新しい。
という「この尽きない神のあわれみ。その尽きない神のあわれみは、朝ごとに新しい」ということを「心に思い返す」んですね。 そうしてエレミヤの気持ちは変わっていきます。
時に、先程戸塚先生のお祈りにありました。新年度が始まりまして1週間。 特に学校が新しくなりました子どもたちにとっては、目まぐるしい一週間でありました。 教会員の中には、働き場が変わった方もいらっしゃいますし、部署が変わった方もいらっしゃいます。 そういう方々にとりましては、4月1日から忙しさの連続でありました。 そういう中で、何とはなしに疲れを覚えておられる方もお出でになると思います。 色んなことを思い出して、苦い思い出で心が一杯になることもあるかもしれません。 でも「これを思い返して」、私たちの心は変わっていく――それは、「主のあわれみは尽きない。それは朝ごとに新しい」
自分自身の失敗や、自分自身の回りで起こっている様々な暗い出来事を思い返して、確かに心は沈みます。 でもどこかで私たちは神さまを待ち望みます。 なぜなら、「この方のあわれみは尽きず、この方のあわれみは日々毎朝新しく、私たちの上に臨んで来る」という。
歌われている状況はエマオの途上の弟子たちと同じです。私たちと重なります。 二人の弟子たちは、自分たちが希望をかけていた主イエス・キリストが十字架で息を絶え、墓に納められ、逃げるようにしてエルサレムを後にして来ました。 失望して、顔つきは暗く、言葉もなく、道を歩いていると、よみがえりの主が近づいて話しかけて来られました。 二人の弟子たちは、まだそれがイエスだとは分かりませんでした。 ただ聖書が説明されている内に、彼らは言いますね。力強い慰めを得ていきます。 先程のルカの福音書24章に戻っていただきますと、こう書いてあります。32節の最後ですね。 【※画面:ルカ24章32節「道々〜燃えていたではないか」に黒のペンで傍線】
<ルカ24章32節> 32二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
あれ程暗く沈んでいたその心が、聖書の説き明かしを聞いている内に、徐々に心は内で燃えていたと。 ルカの福音書の24章の32節にこう書いてあります。
新しい環境に慣れずに、また様々なことを思い出して、老い迫る所の夕闇ならぬ、追い迫る所の現状に直面して、心は苦き思いで一杯になります。 でもそんな私たちに、知らず知らずの内に主は近づいてくださり、「あなたの心の内にあることをわたしに話してみなさい」と私たちに語り掛け、私たちは思わず人に話すように、主イエス・キリストに話します。 すると主はみことばを開いて、私たちの心を劇的に変えるような聖書のみことばをもって、励ましてくださいます。 「あなたはこれを思い返せ」と――「神のあわれみは尽きない。それは朝ごとに新しい」ということを。 すると、私たちの心は変えられていきます。
一番最初に話したポイントは――(※ここまでのおさらいをする藤本牧師) 1)主は近づいて来て、私たちの心を開くかのように、「あなたの心にある、その問題を話しなさい」と語りかけてくださる。 2)二番目に――主イエスは聖書を開いて、私たちの心の転換を、みことばの力をもって成してくださる。 3)そして三番目に――改めて「共に歩いてくださるイエス・キリスト」という言葉を心に留めていただきたいと思います。
3)共に歩いてくださる主イエス・キリストです。
この箇所の出来事を、クリスチャンはとても象徴的に捉えて来ました。 つまり私たちの人生はいつもエマオの途上にある。様々な事柄で心を暗くするエマオの途上。 暗い顔つきになって、そして孤独に歩いて来て、夕闇の不安を持ち、何度となく夕暮れを体験するエマオの途上。 しかし知らない内に、主イエスは近づいて来て、共に歩いてくださる。 ですから《一歩一歩、主イエスと共に歩いて行く》なんですね。
ちょっと私(藤本牧師)の個人的なことを話すんですけれども、実はいつもの健診に一か月位前に行きました。 まず最初に血圧を計るんですけれども、計ったらいつもより30位高かったんですね。 看護師さんにも、「あら、藤本さん、今日は高いじゃない」と言われて、 「え、そうなんだ。そんな高いことないのにな」と言った時に、私は思わず看護師さんに 「この三か月の間に両親を亡くしまして、きっとそのせいじゃないかと思います」と、 もしかしたら、そのせいじゃないかもしれませんけれども(※笑いながら)、思わず、自分の事情というものをその看護師さんにお話ししたんですね。 そしてちょっとよく寝られないという日が続きまして、お医者さんに「少し寝られるような薬を出してもらえませんでしょうか」という風にお話ししたんですね。
私はね、その時の会話が、非常にエマオの途上と重なってしまったんです。 つまり自分は全く意識していないのに、看護師さんは「あら、ちょっと血圧高いんじゃないですか、藤本さん」というところから始まって、 二人の看護師さんと妙に親しく会話し、そして自分の生活の事情をなんと話をして、「ものすごく忙しかったんです」と。
それからしばらくして、もう一つのお医者さんに行ったんですね。 そして、それは喉のお医者さんなんですけれども、「妙に前回よりも声がガラガラしていると。それは胃酸が上がって来ている証拠ですね」という話で、 「声帯の状況はいいんですけれども、多分声が割れているというのは、胃酸が上がってきているんです」って言われたんですね。
それは3月に入って、昨年Zoom で休みになりました、所謂私が外で呼ばれている仕事が、一斉に6つドバッと入って来たんですね。 それは入ってたんです。カレンダー上では。 でも2か月、1か月先のカレンダーを見る余裕がなかった。 それは4月5月に6つ入っているんですけれども、3月のカレンダーを見てようやく、「あ、こんなにあるんだ」と思った瞬間に、「これって準備できるんだろうか?」 そのほとんどがZoom ですから、どういう風にそのZoom の講演を用意したらいいんだろうか? そして大学や神学校が始まりましたので、一気にその無理難題が自分の内に押し寄せて来たんですね。
で、私は先程開きましたエレミヤ哀歌の「主のあわれみは尽きない。それは朝ごとに新しい」というこの言葉は、「両親の葬儀のために」と言って妹(※奈良県、高田教会の南場康子先生)が手書きで白いプレートに花の絵を描き、そのみことばを英語で書いて焼いた、そして上にリボンを結んだオーナメントを皆さんにお配りしました。 勿論葬儀はオンラインでしたので、後に送らせていただきました。
あのオーナメントの味わいというのは、妹が言わなければ私共気がつかないんですけれども、母の葬儀の聖句と父の葬儀の聖句、聖書のみことばが対句になっている。 「主のあわれみは尽きない」という聖書の言葉と「それは朝ごとに新しい」という聖書の言葉は対になっているという意味で、妹はそれを別々に二種類のオーナメントで用意したんですね。
私はそれを思い出しまして、あ、「朝ごとに新しい」と言うなら、この山のように積み上がった課題も一歩一歩だなと。 それから何回も自分の心に言い聞かせるように、この約一か月半、過ごしてまいりました。一歩一歩。毎日やるべきことを一週間分書いて、一歩一歩。一つ一つ。 全部一気にはできない。でも一歩一歩やっていく時に、共にいてくださる主は、私たちの心を励ましてくださり、私たちに力を与えてくださる。 主が共に歩いてくださる。
その方は、「何があったのか話しなさい」と気軽に声をかけ、私たちの日常を話す機会を与えてくださる。 この方は聖書のみことばをもって、私たちの心を力づけてくださる。 この方は「一歩一歩でいい。今日の一日わたしと共に歩んで行こう」と、私の手を引いてくださる。 ひと言お祈りをして終わりにいたします。
☆お祈り――藤本牧師 15話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。(ルカ24:15)
恵み深い天の父なる神さま、あなたは御子イエス・キリストを十字架にかけ、よみがえらせ、そのよみがえりの主が私たちと共に一体いつ頃から歩くようになられたのでしょうか?きっともう長〜い間、私の人生と共に歩いていてくださっているのに、私たちは知らずに自分の問題課題を自分の内側に閉じ込め、苦き思いで一杯になっているような人生であります。
でも「これを思い返しなさい」(哀歌3:24)とみことばを開いてくださり、「神のあわれみは尽きない。それは日ごとに新しい」(同3:22、23)わたしはいつもあなたの先を行くことはしない。あなたが「とどまってくださいと願う」(ルカ24:29)なら、わたしはいつでもあなたのところに腰を下ろして、寝食を共にするためにあなたのところにとどまろう、と仰ってくださいます。どうかあなたが共にいてくださる、共に歩いていてくださるということを実感して、新しい一週間を始めることができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
|
|
113.150.176.120 - Mozilla/5.0 (Windows NT 6.3; Win64; x64; Trident/7.0; MALNJS; rv:11.0) like Gecko
|